日本史をつまみ食いして旅する(旅人は721列車)

日本史をつまみ食いして旅する(旅人は721列車)

中央公論の「日本の歴史」を読んで、歴史が起こった現場に行ってみたいと思い、実際にその場所に行ってみた記録です。本当は通史で行くべきでしょうけど、いろんな都合で時代はバラバラです。

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中央公論の「日本の歴史1神話から歴史へ」には、古事記の成立について書かれているが、それによると、天武天皇が稗田阿礼に「帝皇日継(すめらみことのひつぎ)」と「先代旧辞(さきつよのふること)」を暗記させたことから始まっている。





月日がたって、元明天皇の時代になった時に、太安万侶に命じて、稗田阿礼の暗唱したことを文章にした。


時に712年。


平城京に遷都して2年目のことであった。





長らく、太安万侶は実在していたのかどうか謎であったが、奈良の山中の茶畑で太安万侶の墓が発見されたのだ。


日本で最初の歴史書を書いた人物が実在していたのは、その本の内容に信憑性が高まってくるようだが、実は天武天皇が壬申の乱の後、自分が正当な天皇であるということを証明するために書いたのだといわれていて、私もその説に与しているのだけど、そんな政治的だと思われる事情は抜きにして、ここはひとつ、太安万侶に敬意を表して墓参りも兼ねて行ってみることにしようと思った。





ところが、公共交通機関で行ってみようにも、奈良市内でありながら、バスの便が少なくて、どうやって行こうかと、結構悩んだ。


結局、近鉄奈良駅を10時25分に発車する奈良交通の北野行きに乗るよりほかに、満足する案はなかった。





2012年の9月1日に、近鉄奈良駅のバス停にやってきた。


時刻は10時10分。





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バス停で案内をしていた係員さんに、「日笠に行くバスの乗り場は?」と言いかけたら、「道路の向こうの4番乗り場!」とだけ言った。




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そこで待っていたら、大勢の人がやってきた。数えたら50人もいた。


みなさん、同じバスの客かなと思っていたら、ほかの行先に行く人ばかりで、私と同じ10時25分発の北野行きのバスに乗ったのは5人だった。







それも奈良市街で、ほかのバスとコースが重なっている部分で降りた人が多く、市街地を抜けて山の中にバスが分け入った時、私ともう一人と、バスの運転士さんだけになった。


途中で時間調整しながら走るバスは、時刻表通りの10時58分に日笠のバス停に着いた。


降りたのは私だけだった。





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太安万侶に会いに行かなかったら、こんなところに降り立つことはなかっただろう。





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ところで、太安万侶は奈良時代の人物で、古事記が完成したのも奈良時代だから、この話は奈良時代のカテゴリーに入れるべきなのだけど、古事記という偉大な歴史書に太安万侶を包括したいので、神話時代に入れた。





日笠のバス停から、太安万侶の墓までは歩いておおよそ20分くらいと思われる。


途中、草刈りをしていた夫婦に、「こんにちは」と声をかけて、「太安万侶の墓はこっちですよね?」と聞いたら二人とも笑顔で「歩いて10分くらい」と教えてくれた。





道すがら、いろんな史跡があるのだけど、そういうのは全く無視してひたすら太安万侶の墓を目指したが、暑い。


持ってきたペットボトルのお茶を飲みながら歩いていたが、人とすれ違わなかった。その代り、大小いろんな蛇と遭遇した。


あまり気持ちのいい道ではなかったが、それでも道案内に従って行くと、日笠のバス停から10分くらいで太安万侶の墓の下までやってきた。





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見上げても、かなり急な斜面の茶畑で、しかも誰もいなかったから、一人で坂を登っていった。





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しかし、なぜこんな場所に太安万侶は埋葬されたのだろう?


このあたりに所領をもっていたのだろうか?




太安万侶にお参りすれば、私の文章もうまくなるだろうか?


奈良時代の天才的な官僚だった人だから、それなりに墓参りをしたらご利益がありそうだ。





そんな下心をもって、墓の前に立って手を合わせた。








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振り返ると、目の前は茶畑で、その向こうは田んぼである。


長閑な風景である。


1300年近く経っても穏やかな場所に埋葬されて、太安万侶は幸せだと思った。





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偉大な人物の墓の前で一人、いろんな想いに浸っていたら、いつの間にやら茶畑の下から何人か、人が登ってきた。


この人たちも私と同様、太安万侶の墓にお参りにきたのだ。





聞けば、近所で古事記と太安万侶についての講演があったようで、そのあとに墓までやってきたそうだ。


しばらく、太安万侶の墓の前で古事記の話をしていたが、これは太安万侶がめぐり合わせてくれたと思いたい。





そのうち、ご夫婦が私を近鉄奈良駅までクルマで送ってくれた。


その車中でも古事記について話をした。


短い時間だったが、非常に楽しい時間だった。





そのあと、近鉄奈良駅から飛鳥駅に向かい、飛鳥浄御原宮の跡に行った。


その途中、近鉄電車の窓から、平城宮の大極殿を撮影した。


712年、太安万侶はあの大極殿で古事記を元明天皇に献上したのだ。





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古事記の国生みを読んだら、伊邪那岐と伊邪那美は、日本列島を作った後に、島を作っている。

ただし、古事記ができた712年の政権の及ぶ範囲だと思われる西日本でも、特に瀬戸内海を中心にして特定できる島といえば、淡路島、小豆島、吉備児島であろう。

そのほか、大島とか女島が周防大島と姫島だと特定できるかもしれないけど、そのほかの知訶島や両児島はどの島かわからない。


私は特定できるあるいは特定できそうな島が、かつての関西汽船のあいぼり丸とかこばると丸といった客船の航路や寄港地に似通っていたりして、ちょっと興奮した。別府港から高松港まで大学時代に何度も乗ったので、思い入れが深い。

ちょっとハロー効果が強いかもしれない。

だから、国生みというのは、当時の政治の中心であった平城京から筑紫の大宰府への、あるいは九州のほかの重要な地点へ行くための航路の説明なのかな?と思った。


そんなことを考えつつ、岡山駅で高松駅行きのマリンライナーを待っていたが、運の悪いことに、当日は瀬戸大橋線で踏切事故が発生して、岡山駅は到着しないマリンライナーを待つ人々で混乱していた。

結局、マリンライナーは40分遅れて岡山駅を発車した。


本来なら、高松港から草壁港にフェリーで渡って、寒霞渓に行き、そのあと池田港に行って大野手比売を祀ってある島玉神に行く予定であった。

もう間に合わないから、予定の変更を考えた。

ちょうど茶屋町駅を過ぎて、児島半島に差し掛かったころだった。


高松港から四国フェリーで土庄港に渡り、バスで池田港に行って島玉神へ、その後寒霞渓へ行くことにした。

マリンライナーが高松駅に着いたのが、フェリーの発時刻の5分前だった。

サンポートを走り抜けて、四国フェリーに乗り込むと同時に、船内には四国フェリーの社歌が流れて高松港を離れた。

そういえば、高松港は古事記の中では伊予之二名島の飯依比古の範疇なのだ。

大野手比売に会いに行くのに、吉備児島の建日方別と伊予之二名島の飯依比古を通り過ぎてしまった。


当日は海上は風が強く、フェリーも大きく揺れた。

ちょっと疲れを感じたので、無理やりでも寝ることにした。



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フェリーが揺れたときにちょっと窓から小豆島を見たら、雲がかかっていて不安を感じた。

今回は出始めからトラブったから、無事に行けるかどうか不安になった。


そんなことはどうでもいいよと言わんばかりに、私を乗せた四国フェリーの第7しょうどしま丸は、時々思い出したように大きく揺れても安全に、かつ淡々と海を渡り、無事に、時刻通り小豆島の土庄港まで私を運んでくれた。


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当たり前のことでも、ちょっと感動を感じる。

古事記の国生みが航海の指南だとすれば、近畿地方から九州にたどりついた人たちは、その時の私以上の感動を覚えたであろう。


土庄港から池田港まで、バスで移動した。

私と運転手さん以外は、女性だった。

それもリゾートに行くといった感じの女性ばかりで、私は場違いな感じだった。


とにかく、池田港まで行ったが、目指す島玉神がどこにあるのかわからない。

実は、土庄で観光案内に行って、島玉神がどこにあるのか聞いたが、島玉神の存在自体を知らなかった。挙句の果てに、池田の集落で聞いてくださいと言われた。

建日方別と飯依比古に邪魔されたのかもしれない。

唯一の手がかりは、孔雀園跡のそばにあるということ。

私は、池田港のフェリー乗り場に行って、切符を売っていた女性に島玉神について聞いてみた。

彼女は、島玉神など知らないという。

孔雀園といえば、「今はもう閉園しています」という。

埒が明かないから、孔雀園に行きますといって、クソ暑い道を歩いた。


池田港から孔雀園までは、歩いて10分くらいだった。

閉園しているのに、道路には看板が出ていた。



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孔雀園の前までやってきて、さて、目指す島玉神がどこにあるのかなと見回したら、山の中に続く道があった。



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何も目印などないし、行くあてもないから、とにかくその道を登って行ったら、すぐに島玉神の祠にたどり着いた。

あっけなかったが、ここが大野手比売を祀る場所だといわれても、ちょっと扱いが雑だと思った。



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小豆島の中で大野手比売を祀っている島玉神は、貴重な場所であることには違いないのだけど、地元の人でも知らない場所にたどり着くのはちょっとした快感を感じることもある。


池田港のフェリー乗り場に行って、件の切符売りの女性に、島玉神に行けたことでお礼を申し上げても、彼女は何のことかと不審そうであった。


ちょうど昼時だったから、フェリー乗り場の売店でカップのそうめんを食べた。


小豆島には大鐸(おおぬで)さんという苗字が多いらしいが、大野手(おおので、あるいはおおぬで)が元であることは間違いない。

ということは、大野手比売の名前が1300年を経た今も、小豆島に残っているという証拠だということは否定できないけど、土庄や池田では大野手比売はもう、忘れ去られているようだった。

少なくとも、私が接した人々は生活していく上で関係ない様子だった。

しかし、そんなことはどうでもいい。


カップのそうめんを食べた後、草壁港までバスで移動したが、当日は海上の風が強く、小豆島から高松へ行く船に欠航が出始めたので、寒霞渓に行くことを諦め、私はフェリーで高松にもどった。



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あの山の中に、大野手比売を祀っているらしいけど、もう行く気がなくなった。

風が一段と強くなったから、フェリーが欠航するのではないかという気持ちのほうが強かったから、その時の私は、乗っているフェリーに早く高松にたどり着いてほしかった。





原始時代の原人が生活するのに最適な環境といえば、石灰岩の地形にできた洞穴、つまり「ほらあな」が一番に思いつく。

地理学の分野に立ち入るが、石灰岩の地形は長い間雨水などに浸食されて、鍾乳洞などのカルスト地形を形成するのだ。

当然、鍾乳洞には飲み水に困ることがないであろうし、洞穴はそれなりに安定した構造なので、大した道具を持たない原人が住居とするには、最適な環境であるに違いない。


北京原人なども、洞穴の中から発見されているのだ。


洞穴の入り口付近で日常生活をし、その奥に食料などを貯蔵するスペースを作るのが典型的な利用方法で、大きな洞穴なら、最深部に家族を埋葬したりすることもあるようで、原人の骨は、洞穴の奥の方で発見されることが多いようだ。


しかし、洞穴の奥で人間の骨が発見されたからといって、それが必ず原人であるかといえば、そうでもなく、たまたま北京原人などがそのような発見の経緯をたどっているだけであって、これより先、もっともっと原人が発見される事例を積み重ねていかなければならない。


日本の場合、ローム層という赤土がある程度の指標となる。

石灰岩の岩の中に、赤土が詰まっていたら、その中を発掘すれば原人の骨と思われるものが見つかるという例があったらしい。

しかし、この例も確実なものではない。

原人はまだ未確定な要素が多いのも事実なのだ。



三ヶ日人に会いにいった夜は、浜松の駅前に泊まり、翌日の朝、東海道本線の電車で豊橋駅に向かった。


電車の中で、冒頭に書いたようなことを思いだし、ボンヤリ浜名湖を眺めて過ごした。


豊橋の駅前から、路面電車で終点の赤岩口駅まで乗った。




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実は、赤岩口の近くに牛川人の発掘地があるのだが、私のような考古学を途中で投げ出した人間にしてみたら、この駅名がひっかかるのだ。

というのも、この地名が、石灰岩の間に、赤土がでていたようなイメージがするからなのだ。

これは私の勝手な思い込みなのだが・・・

しかし、牛川人は石灰岩の採掘現場で発見されている。


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赤岩口の停留所の手前に「牛川人骨出土地」の標識がある。
いまでは、原人ではないのに丁寧な扱いである。






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赤岩口の停留所から、ちょっときつい坂を登っていくことになった。





ちょうど朝の通勤通学時間帯で、前から自転車に乗った高校生が何人も坂道をくだってやってきた。
男子高校生は、車道を走るから、私とぶつかることはないが、女子高校生は例外なく歩道を走って坂道を下ってきた。
当然、自転車はスピードが出ているから、止まることができない。
何人かは、私を見てもブレーキをかけることもなく、すれすれを走る。
そのうち一人と接触したが、彼女は何もなかったかのように走り去った。

私は女子高生が前からやってくるたびに道の端の方に避難してやり過ごした。


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そんな危なっかしい坂道を10分も登って行けば、団地の入り口の反対側に、牛川人骨出土地の看板があった。


朝も早くから、住宅街のなかを歩くのは不審者のようで気が引けるのだが、なぜか私をみても誰もなにも言わない。
こどもがすれ違っても、あいさつもない。
私も気にせず、住宅街の一段と急になった坂道を歩いた。







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牛川人が発見されたとき、この辺りは石灰岩の採掘場だったはずである。
何回も同じことを繰り返すが、私のような人間が歴史歴史と目の色を変えて日本全国を旅してまわっても、地元の方々はそんなことは関係なしに生活をされているのだ。

私はただ、案内看板に従って牛川人に会いに行くだけなのだ。


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最後の曲がり路を曲がったら、突き当りに公園が見える。
ただの団地の中の小公園としか見えないが、あの中に牛川人骨の出土地があるのだ。

なんでも、身長150センチほどの女性の人骨だといわれていた。

しかし、牛川人は人骨ではなかったらしい。
ナウマン象のすねの骨ではないかと言われている。
浜名湖周辺の旧石器時代の人骨には、鈴木尚氏が大きく関わっている。

牛川人も科学的に人骨とされたわけではなく、発見された状態が、原人とされた人骨の発見の例に似ているからということだったらしい。

科学の発展には、間違いがつきものなので、決して発見された人を責めることはできない。
少なくとも、私のようなモノ好きは、こうして牛川人に会いに行こうという気になるのだから、今の評価がどうであれ、旅に出るキッカケにはなる。
もっとも、歴史をたどるという趣旨からは外れているが・・・




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三ヶ日人とならんで、牛川人も私のような40代の人間にとって重要な歴史用語だった。
ここに来るまでに、明石原人や、聖嶽人、それに三ヶ日人に会いにいった。
明石原人は、看板一枚だけだったし、聖嶽人は昔よりも荒れていたし、三ヶ日人もそばに近寄れない状態になっていた。

それに対して牛川人は、立派な公園に鎮座している。
しばらく、柵の外から眺めて、いろんなことを思い出した。

どれだけ時間がたったかわからないけど、とにかく公園のなかに入った。


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ナウマン象の出土地にしては立派だなと皮肉っぽく見てしまった。
住宅団地の中だから、割合きれいに手入れされていた。
桜の名所なのだろうか?


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考古学で挫折した私としては、今現在研究されている方々に頑張ってもらって、これから先、原人の発掘事例を重ねていって、もう少し確実な学説が出てきてほしいと思う。
それに、骨の形状や発見された状態が似ているからという理由だけで原人だと結論をつけるようなことはやめてほしい。
いずれにせよ、もっともっと発掘の実績を重ねていけないと、確実なことはいえないのだから、断定的なことは何も言えないのだ。

しかし、冒頭で赤岩口の地名について、私の思いだけでいろんなことを書き連ねたが、そんなことはもうどうでもよくなった。

私はただ、何枚か写真を撮影したら、来た道を豊橋駅に引き返した。

この後、本土唯一の原人と言われている浜北人に会いに行った。

私のような40代にとって、三ヶ日人というのは、必ず覚えておくべき歴史用語であった。

今では評価が変わっているのだけど、三ヶ日人は旧石器時代の人骨として認識されていたのだ。

高校2年の1学期の日本史の中間テストでは、三ヶ日人を解答する問題が出題されたのだが、私は三ヶ日人のために、日本史の中間テストで100点満点をとることができなかった。


そんな雑念を抱いて、新所原駅から天竜浜名湖鉄道の列車に乗った。

14時22分の掛川行である。

1両編成の列車は、数人の乗客を載せて浜名湖の北西をのんびり走った。


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途中の駅で、団体の列車と行き違った。

鉄道線路のそばに桜が咲いていて、右を見たら浜名湖、左を見たら桜という、ゼイタクな眺めを楽しんで、ちょうど20分で三ヶ日駅に到着した。

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この路線に乗るのは2回目である。

三ヶ日駅に降り立つのは初めてである。

数人の乗客の中で、三ヶ日駅に降りたのは、私だけであった。


ちょうどホームの向こうに、なんという桜なのかわからないけど、列車と駅ホームと絡めて、雰囲気のいい絵だと思ったので、写真に残した。


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乗ってきた列車が掛川に行ってしまったら、駅員さんがやってきて、「写真を撮るのですか?」と聞いてきたから、「いえ、三ヶ日人に会いに行きます」と言ったら、別段変な顔もせず、駅から歩いて一時間くらいですと言って、案内板で行き方を説明してくれた。


ちょっと大変な行程になりそうだ。


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とりあえず、駅を出て三ヶ日人の出土地に行くことにした。

出土地は、只木遺跡という。

時刻は14時50分ごろ。

往復2時間で行けそうな気がする。




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18時前に三ヶ日駅にもどってくる予定で歩き始めた。

持っていたiPadで、グーグルマップを表示して、三ヶ日の街中を歩いた。


ところで、三ヶ日人であるが、

昭和32年に三ヶ日の石灰岩採掘場で発見された人骨が、旧石器時代の人骨ということでもてはやされ、その後数年にわたっていくつかの骨が発見された。

私のような人間にしてみれば、高校の定期試験にも出題されるような歴史的に重要な発見であったにも関わらず、

平成12年に、旧石器時代の人骨ではないという鑑定結果が出たのだ。

どうも、三ヶ日人は縄文人であるということらしい。

同時に、トラやオオツノジカ、オオカミなどの骨といっしょに発見されて、それらの動物が、洪積世に生息していたから、三ヶ日人も洪積世の人骨だと推定されていたようだ。


三ヶ日人に限らず、浜名湖周辺の旧石器人の発見には、鈴木尚氏が大きく関与している。


ちなみに、三ヶ日人は、頭蓋骨5片と腰部の寛骨片、それに大腿骨の7つの骨が発見された。


もうひとつ、

私は三ヶ日人を、「三日美人」と解答してしまい、日本史の中間考査で満点を逃した。


ちょっと街を外れたあたりで、只木遺跡まで、3キロの標識があった。

あと30~40分も歩いたら、行けそうである。


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なのに20分、1.5キロほど歩いたら、只木遺跡まで3.5キロという案内板があった。

歩く距離が増えた。ガッカリである。

ちょっとチカラが抜けた。

行くのやめようかと思ったが、25年前の中間考査の恨みも後押しして、とりあえず行くことにした。

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ちょうど高速道路の、三ヶ日インターチェンジの近くで、三ヶ日みかんの産地でもあるから、見渡す限りみかん畑で、のどかな風景である。

こんなロケーションだと、旧石器人はどうやって生活していたのだろうかと思ってみたりして、アップダウンの激しい道を、重たい足で歩いた。

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時刻は15時40分ごろ。

三ヶ日駅から50分歩いたら、あと0.4キロの場所までやってきた。



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やっとここまでやってきたと思って、矢印に従って行ったら、2~3分で只木遺跡の入り口にたどり着い


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ここから、山を登って行かないといけないのかなと思いながらちょっと駆け上がると、民家の裏庭といった感じの位置に、只木遺跡の案内板があった。

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まわりは公園風に整備されていたが、肝心の三ヶ日人出土地は、立ち入り禁止であった。

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とにかく、三ヶ日人骨出土地までやってきた。

中間考査で「三日美人」と書き込んだことなどどうでもよくなったが、美人は三日で飽きるとしても、三ヶ日人は25年も思い続けたのだから、執念深い。ストーカーである。


だけど、そんな思いとは裏腹に、写真を撮影したらすぐに遺跡を離れた。


歩いてくる途中で、所々にバス停があったので、なんだろうと思ってみたら、三ヶ日町内を循環するバスだった。

只木遺跡の近くのバス停を通るので、バスで三ヶ日駅にもどることにした。

もう、歩くのは疲れたのだ。


どこかで三ヶ日人に拒否されたのかもしれない。

いや、単にバスの到着時刻が近かったから、乗り遅れたくなかったのだ。


件の、只木遺跡まで0.4キロの案内板の近くの白谷入口というバス停で待っていたら、そばで工事現場を警備していたガードマンさんが話しかけてきた。

彼が一言、「どのくらい山を掘ったら人骨が出てくるんですか?」と聞いてきた。

今までそんなことは考えたことはなかったが「採石場だから、山ひとつ掘ったら出てくるのでは?」と曖昧に答えた。

三ヶ日人が、「勉強不足だ!」とからかったのかもしれない。

確かに、遺跡の発掘調査報告を見たらわかるけど、私が関わった遺跡以外は、見たことがない。


バスに乗り込んで30分ほど、三ヶ日の街をドライブし、駅にはいかないから、三ヶ日農協前で降りた。

運賃は200円で、私以外は途中まで一緒だったおばさん以外にいなかった。

三ヶ日駅に駆け込んだらすぐに新所原行きの列車に乗れた。

16時41分発の列車である。

予定より1時間20分も早い。

それだけその日に泊まる浜松の夜が長くなる。


明日は牛川人と浜北人に会いに行く。

だけど歩き疲れて行くのやめようかという気になった。



三ヶ日人が「三日美人」と成り果ててしまった。


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以前、平城京の羅城門の址にやってきたときに、郡山駅で降りた。

まさか再び、郡山駅で電車を降りるなんて思ってもいなかった。

奈良とか京都とか、そういった駅なら何回も行きそうな気がするけども、実際はそうでもない。


大阪駅からの大和路快速を降りて、以前も見た改札前の駅周辺案内で、これから行く賣太神社を探した。

賣太は、「めた」と読む。



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羅城門にやってきたときは、賣太神社など意識していなかった。

もう、あれから2年近くも経っているのに、郡山駅は変わっていないようだ。


これもタイムスリップのひとつかなと思いながら、歩いて賣太神社に行くことにした。


日本史をつまみ食いして旅する(旅人は721列車)

羅城門に行ったときは、左に曲がったのだけど、今回は右に曲がった。

振り返ると、羅城門に行った時と同じような風景に見えた。


右に曲がってすぐに、左に曲がった。


日本史をつまみ食いして旅する(旅人は721列車)











































細い道なのに、歩道がないし、結構な交通量があるから歩きにくい。



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郡山駅から5分も歩いたら、佐保川にかかる橋を渡る。


ちょっと奈良の方角、つまり、羅城門の方向を見た。



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2本目の薄緑の橋のそばに、羅城門の址がある。



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写真を撮った場所から羅城門まで、距離にして1キロくらいだろうか?

郡山駅から写真をと撮った場所まで5分ちょっと。

今回のルートをとれば、郡山駅から羅城門の址まで20分くらいで行ける。

以前は、クソ暑い中、1時間もかけて歩いたのに・・・



羅城門にこだわるには、わけがある。

別に前回、時間をかけて行ったからではない。


この橋からすぐの交差点を右に行けば賣太神社に行ける。



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左に曲がれば羅城門の方向である。



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つまり、私が言いたいのは、この賣太神社への道は平城京の朱雀大路からまっすぐに伸びてきた道だということである。

羅城門は朱雀大路の上に作られているから、当然、朱雀大路から続いた道なのだ。

今は住宅街の中の平凡な道のようにしか見えないけど、奈良時代だったら平城宮の朱雀門からまっすぐにここまでやってこれたのだ。


私は地形図で定規をあてて確認し、そのあと藤原京のことを調べていくうちにこの道のことが出ていたので、気にかかっていた。

現地に来てみたら、この道が奈良時代から残っている道ですよという表示などどこにもない。

それに反対側、羅城門の方向は、住宅で道がふさがっていて、まっすぐにいけなくなっている。

この道は下ツ道という。

平城京から藤原京へとまっすぐに伸びていた、奈良時代の最重要幹線道路だったのだ。


歴史の中でも重要なモノでも、現代人の生活のなかで検証ができなくなってしまうことはよくあることだ。

私が目の色を変えて歴史歴史といっても、現地にいる人には生活の場であって、私のような人間は、邪魔な侵入者でしかないのだ。

住宅街を10分も歩いたら、田んぼの中の道になったが、すぐ目の前に離れ小島のような集落があった。


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これは道の左側の集落である。



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持って行ったカメラにパノラマの機能がなかったので、ちょっと見にくいが、この集落の反対側に賣太神社がある。



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入り口に、稗田環濠集落の案内がある。

言うまでもなく、堀に囲まれた集落だが、実はここは室町時代の武装集落であって、堀は言うまでもなく、城の堀と同じ役割を持っている。



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突き当りの森が、賣太神社である。


あまり大きくない集落だが、この集落は稗田阿礼とは関係がない。

実際、賣太神社も元あった場所から移動しているらしい。


繰り返しになるが、この道が朱雀大路から続く下ツ道のなれの果てなのだ。



日本史をつまみ食いして旅する(旅人は721列車)












































集落の反対側には、赤地に白文字で、「古事記上撰千三百年」の幟があった。



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その幟の反対側に、賣太神社があった。



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稗田阿礼と一緒に、猿田毘古神や天宇受売命も祀られているのに、猿田彦神や天鈿女命と日本書紀の記述なのが気になる。

稗田阿礼は日本書紀には関わっていないはずなのだけど・・・


そんなことはさておき、せっかくやってきたのだから、さっそく鳥居をくぐって境内に入ってみた。

参拝したら、最近物忘れが激しくなった私も少しはアタマがよくなるだろうと思った。



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社務所では、古事記論読会をやっていた。

ちょっと声をかけたが誰も出てこなかった。

勉強の邪魔をしたら、稗田阿礼が怒るかもしれない。




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本殿まで行ってみる。


誰もいなかった。


境内は古事記に関する案内看板が多数あった。



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同じ日に行った稗田神社とは大違いである。


その中でひとつ、違った案内があった。


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賣太神社を含む稗田環濠集落の航空写真であった。


せっかくだから、環濠集落を一周してから郡山駅に戻ることにした。

集落そのものは室町時代の遺構だから、古事記や稗田阿礼とは関係ないが、散歩がてらまわるのも悪くない。

天気もよかったし・・・



日本史をつまみ食いして旅する(旅人は721列車)


日本史をつまみ食いして旅する(旅人は721列車)


日本史をつまみ食いして旅する(旅人は721列車)



日本史をつまみ食いして旅する(旅人は721列車)



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日本史をつまみ食いして旅する(旅人は721列車)


集落を一周していたら、あちらこちらでカメを見かけた。


日本史をつまみ食いして旅する(旅人は721列車)