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日本史をつまみ食いして旅する(旅人は721列車)

中央公論の「日本の歴史」を読んで、歴史が起こった現場に行ってみたいと思い、実際にその場所に行ってみた記録です。本当は通史で行くべきでしょうけど、いろんな都合で時代はバラバラです。

今年は、古事記が献上された和銅5年(712年)から、ちょうど1300年目になる。


古事記の成立については、天武天皇が稗田阿礼に暗唱させたものを、元明天皇が太安万侶に命じて文章にしたということになっている。

稗田阿礼は一説によると、一度見聞きしたことは忘れないという特別な才能の持ち主だったが、反面文盲であったとも言われている。

天皇のそばにつめていた舎人であったのに、文字の読み書きができない人物だったらしい。


それに、私が今から20年前の大学生だったころに読んだ古事記の解説書の著者であった梅原猛氏は、稗田阿礼が藤原不比等ではないかという説を唱えている。

また、稗田阿礼は女性だったという説もある。


つまり、稗田阿礼は謎の多い人物なのだ。

日本最古の歴史書を暗唱していた人物が、そんな謎の多い人物であるのは、古事記の信憑性に関わってくるので、私が大学時代、周りの人間の中にも、古事記は奈良時代の歴史観であって、天武天皇系列の正当性を主張するモノだから、あてにならないという者が多数いた。


確かに、現在の歴史学の観点から見たら、古事記の内容は矛盾があったりもするのだが、そもそも天武天皇は、帝紀と旧辞、つまり天皇の系譜と古くからの言い伝えが散逸したり間違って伝わったりするのがよくないからということで、稗田阿礼に暗唱させたということになっている。


いろんな意見はあるけども、結局のところ古事記は天武天皇が正統な天皇だということを証明することがメインテーマだったのだというのが正しいようだ。
私もそう主張したいが、内容が推古天皇までしか及んでいないから、もうちょっと確実な裏付けが欲しい。


古事記で旅に出ようとすれば、まず思い浮かぶのが「おのころ島」なのだけど、少し古事記を知っている人に言わせたら、淡路島や沼島がおのころ島だという。

しかし、私は国生みの話を読むにつけて、どうも火山活動の様子のような気がしてならない。

結局おのころ島はどこなのかわからないから、行くことができない。

だから、古事記を暗唱していた謎の多い稗田阿礼をめぐる旅に出ようと思う。

いつもながら、結論のつけ方がめちゃくちゃなのだけど、とにかくどこかに行きたい。



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山陽本線の網干駅で電車を降りた。

ここから稗田神社まではおおよそ3.5キロ。おおよそ40分くらいである。

グーグルマップで網干駅から稗田神社のルートを検索し、歩き始めた。

ちょっと暑い日であった。




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網干駅といえば、JRの電車の工場や車庫があったりして、京都でも米原でも網干行きの電車が走っているので、どんな街かと思っていたら、駅から5分も歩いたら、写真のような住宅街になった。

もっとも、網干なんて集落は、太子町の中心から外れた場所にあるのだ。

だからJRが大きな電車の車庫を作ることができたともいえる。



この住宅街を抜けたら、大きな道路に出た。

県道27号線、旧出雲街道である。




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途中で旧道に入ってしばらく行けば、新幹線の高架下をくぐる。


新幹線は一直線に走っているようで、あちらこちらで歴史的な遺物のそばを通る。




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さらに稗田神社の方向へ歩くと、国道179号線の交差点に行きつく。

この交差点には、「鵤」と書いてある。「いかるが」と読む。

太子町の中心だから「いかるが」なのかなと思ったが、斑鳩ではなく鵤なのだ。

それにしても、奈良時代の人物を祀った神社が、飛鳥時代を思わせる地名の中にあるのはどうしたことか・・・


歩道が狭く歩きにくい道を、交通量が多いから、クルマを避けないと歩けない。



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網干駅から30分も歩いたら、マックスバリュにたどり着く。

このスーパーの前の交差点を左に入ったら、200メートル先に鳥居が見える。

その鳥居が目指す稗田神社の鳥居なのだ。



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立派な神社の入り口の脇には由緒書きがあって、「古事記」と「稗田阿礼」の文字がある。

ここが稗田阿礼と縁のある神社なのだ。


しかし、どこにも古事記1300年を感じるものがない。


境内に入ってみる。



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本殿の横でたき火をしているおじさんがいた。


私が境内をウロウロしていたら、たき火のおじさんが寄ってきて、何しに来たというから、

「今年は2012年で、古事記ができて1300年目で・・・」

と話し始めたら、おじさんは硬い表情から笑顔になって、古事記をテーマにした歴史の話を私を相手にしゃべり始めた。


どうやらこのおじさんは、稗田神社の神主さんかもしれない。

その神主さんかもしれないおじさんに向かって、「おのころ島はどこですか?」と聞いたら、「淡路島」という答えが返ってきた。

ただし、この方は、ご自分でキチンとした理論を持っていて、つまり、なぜ淡路島がおのころ島なのかを説明できるので、反論のしようがない。

国生みが火山活動だなんて言ったら猛反対されるに違いないと思ったから、自説は伏せておいた。



そのあと、また網干駅まで40分ほど歩いてもどり、新快速電車で大阪に出て、大和路快速で郡山で降り、賣太神社に行った。

大学の考古学の講義で、初めて黒曜石を見た。


それは大分県姫島の黒曜石だった。


姫島の黒曜石は、他の地域の黒曜石とは明らかに違う特徴がある。
他の地域の黒曜石は、読んで字のごとく、黒光りする石なのだ。しかし、姫島の黒曜石は、灰色や白っぽい紋様や斑点が入っている。
だから、姫島の黒曜石は素人でも区別できるのだ。

私は、黒曜石といえば黒光りする石ではなく、姫島の黒曜石のような石だと思っていた。
大きなまちがいであった。


姫島の黒曜石の産地は、海岸に露出しているので、カンタンに見物することができる。
ちょっと行ってみたくなった。

そこで私は、大分に用事があったついでに国東半島の伊美港から姫島丸というフェリーに乗って見に行くことにした。


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運が悪いことに、台風の余波で姫島丸は大きく揺れた。しかし、怖がっているのは私だけだった。


ちょっとスリリングな20分の船旅が終わって、ゆれない島の土地に安心しつつ、一目散に姫島のレンタサイクル屋さんに駆け込んで、自転車を一台借りた。



フェリー乗り場の姫島観光案内図によると、黒曜石の産地は観音崎にある

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人影まばらな姫島を南北に横断して、観音崎の入り口に着いた。



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レンタサイクルを置いて急な階段の遊歩道を観音崎に向かって歩いて行った。

途中に幕末の歴史に関する案内があったが、今回は無視して、岬の突端にある千人堂にたどり着いた。




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小さなお堂が立っているが、このお堂は大晦日に悪人から逃れる人を千人収容することができるという伝説のお堂で、千人堂という。
その千人堂の立っている岬全体が黒曜石でできている。



ここが姫島の黒曜石産地である。



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辺りを見回してみたら、こんな感じで、あちらこちらに黒曜石が露出していた。

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西日本各地で出土した姫島の黒曜石はほとんどここから産出されたのだ。
それに、この写真の場所は縄文時代の特殊な黒曜石というレアメタルの産地だったのだ。

今でもこれだけ露出していると、採掘して何かに使えないかと想いを巡らしてみたくなるが、国指定の天然記念物だから不可能だし、それよりも腹が減っていたから、フェリーの港に引き返して、車エビの塩焼き定食を食べて姫島を後にした。




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姫島の黒曜石がどこまで流通していたのかと調べてみたら、岡山県の津雲貝塚や広島県の帝釈観音堂洞窟遺跡あたりが最遠であるらしい。
よくぞこんな遠くまで流通したなと思うと同時に、津雲貝塚はサヌカイトという石器の産地である五色台に近いし、帝釈観音堂洞窟遺跡は山の中だから、瀬戸内海の離島である姫島の黒曜石が縄文時代にそこまで流通していたとは信じ難い気がする。


津雲貝塚は、姫島産の黒曜石が出土したということよりも、多量の屈葬された人骨が発見されたことで有名な遺跡で、私のように、黒曜石目当てで行く人間はいないだろう。

地図を頼りに、クルマを走らせたら道路脇に案内看板があったので、路上駐車して津雲貝塚に行った。

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案内看板には姫島の文字はなかったが、津雲貝塚からも姫島の黒曜石が発掘されたのは事実である。


津雲貝塚は道路から坂道を50メートル駆け上がった民有地の中の畑にあるので、近所の人に断りをしようかと思っていたが、誰もいないので、悪いと思いながらも不法侵入した。

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遺跡の中から来た方向に振り返ったら、今は田んぼだったりするけども、縄文時代はすぐ目の前は瀬戸内海の波打ち際だったのだ。

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津雲貝塚にやって来て疑問に思うのは、すぐ近くに五色台というサヌカイトの産地があるのに、なぜわざわざ遠い姫島の黒曜石が発掘されたのかということだ。

当然、五色台のサヌカイトを使った石器も出土している。

使用目的が違うのか、それとも西から東へ行く部族と南から北へ行く部族がそれぞれ黒曜石やサヌカイトを持っていて、津雲貝塚あたりで仲良く共同生活でもしていたのかなどなど、考えても結論が出ない。



津雲貝塚は海のそばだけど、姫島の黒曜石は山の中の遺跡からも発掘されている。

その中で最遠方なのは、広島県の帝釈観音堂洞窟遺跡である。


帝釈観音堂洞窟遺跡に行くために、広島県の神石高原町役場に行った。
山の中だから、クルマで行けるかどうかを聞きたかったのだ。
しかし、役場の窓口カウンターで、来意を告げたら、「勝手に行けばいい」というような対応だった。
当時の神石高原町では不審火が相次いでいたから、あまり他所者を歓迎しない風潮だった。役場が悪いわけではない。

でも、こちらに落ち度はないのに対応が面白くなかったから旧東城町の役場に行って、帝釈観音堂洞窟遺跡について訪ねたら、わざわざ詳しい地図と帝釈峡のパンフレットを出して来た上に、「帝釈観音堂洞窟遺跡近くの観光地にぜひ立ち寄ってください。」と熱心な対応だった。
ちょうど紅葉の時期だったから、、クルマで行けば、帝釈峡を通って帝釈観音堂洞窟遺跡に行かなければならない。
せっかくだから、ちょっと紅葉狩りをすることにした。

帝釈峡から細道をクルマでおよそ20分も走った。

道が細いのに、いくつか集落があったが人がいなかった。
家屋は石州瓦を載せた農家が多い。
廃校になった小学校もあった。
なぜか、郵便局だけが真新しい建物で存在していた。

そんな集落をいくつか抜けて山道を走って行けば、寂しい村はずれの陽のあたらない山影に帝釈観音堂洞窟遺跡があった。

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夕方の3時過ぎだったが、遺跡の前に、何台もクルマが停まっていた。
まさか、私と同じように歴史探訪をしているのかと思ってその中の一人に「何をしているんですか?」と訪ねたら、「ロッククライミングをやってます」と答えた。
遺跡の部分は天然記念物なので、クライミングは禁止されているが、その周辺は、わざわざ名古屋辺りからやってくるほど有名なクライミングスポットだと言う。

彼らは、私の格好を見て「何をしに来たのか」と言うから、簡単に黒曜石の話しをした。
彼らの中のひとりから「我々のやることは理解してもらえないけども、あんたも変わっているな」と言われて、お互い爆笑した。

陰気な洞窟が明るい雰囲気になったような気がした。

しばらくして、彼らが引きあげたから、一人でじっくりと洞窟や遺跡の案内看板を見た。
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帝釈観音堂洞窟遺跡の案内看板には、姫島の文字があった。
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この「姫島」の文字を見ただけで、ひとり興奮してしまった。
それに、ここに来て初めて気がついたけど、産地が観音崎で、出土地が観音堂という具合に、「観音」という共通した文字がある。
多分偶然だろうけど、何かをあらわす符合なのかと疑ってしまう。
もし誰か他に人がいたら、絶対に不審な人にしか見えなかったと思うが、わかる人にはわかる興奮だと思う。


この前見た姫島の産地から、こんなに遠くまで黒曜石が流通していることが不思議なのだけど、縄文時代には黒曜石が重宝されていたのだし、そのことは遺跡から出土することからもハッキリしている。

今は何の役にもたたない石ころなのに、その石ころを追っかけて行く私も相当な変人だ!
しかし、こういう理解不能な旅の記録がこのブログの本来の目的のような気がする。


もし私が縄文時代にタイムマシーンで行けたら、帝釈観音堂洞窟遺跡で黒曜石を使っている縄文人に、「その石の産地の姫島を知っているか?」と聞いてみたい。


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身近に、広島県の新市出身者がいたから、「桜山茲俊(さくらやまこれとし)を知っているか?」と聞いてみた。
「いや、知らない」と言うから、「私は備後国の楠木正成だと思っているよ」などと説明したら、「そんな人間知らないな~」と半信半疑なのだ。
「備後国吉備津神社に桜山神社というのがあって・・・」と言っても、「そんなモンないよ」と相手にしてくれない。

文書には、桜山四郎入道と書き記されている。

鎌倉幕府から見たら、悪党であった。つまり、時の政権に反抗する勢力であったのだ。



JR福塩線の新市駅で電車を降りて、駅前の案内板を見たら、備後国吉備津神社のそばに、桜山城がある。

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桜山茲俊はここで楠木正成からの誘いを受けて、挙兵した。

一時は備後半分を制圧して、周辺の幕府の守護などからも恐れられていたが、陶山義高らが笠置山に攻め込んで、後醍醐天皇を捕らえ、さらに楠木正成が赤坂城で敗戦したという情報が入ったとたんに、味方していた国人らが桜山茲俊から離れていった。

更に周辺の御家人などに攻め込まれ、備後国吉備津神社で一族郎党を皆殺しにし、神社を焼き討ちにして自害したのだ。


鎌倉幕府にとって、地方から後醍醐天皇に見方してクーデターを起されるのは想定外だったに違いない。

桜山茲俊はその隙をついて勢力を伸ばしていったが、所詮田舎の悪党だったので、情勢を的確に判断できず、たまたま運がよかっただけかもしれないのに、調子に乗りすぎて自制力がなくなって自滅してしまった一発屋というところだろうか?

ある程度の成果を収めたら、あとはじっと情勢を見てずっと生き残っていたら、ひょっとしたら建武の新政で備後守になっていたかもしれない。

だから、私は桜山茲俊のことを「備後の楠木正成」だと評価しているのだ。


新市駅から備後国吉備津神社まで歩いて行った。

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備後国と前置きしているのは、岡山県内にも吉備津神社があるから、区別するためにつけている。


結構交通量が多く、その割には歩道があまり整備されていないので歩きにくい箇所もあった。
そんな県道を15分歩いて、備後国吉備津神社の前の池までやって来た。

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この池は御池という。

御池のそばの備後国吉備津神社の全体図を見たら、桜山神社は、入ってすぐ右側にあることがわかった。
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狭い参道を歩いて鳥居をくぐって、境内を見渡した。
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桜山神社は、なぜか桃太郎の足下にあった。
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しかし、案外立派な石碑などがある。

これで地元の方々は桜山神社に気がつかなかったのだろうか?

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桜山茲俊は、太平記の中にもあまり出てこない。中央公論の「日本の歴史」の中にもほんの数行しか記述がない。
それに、私が聞いた範囲では、地元でもあまり認知されていない。

桜山神社も、最小限の拝殿と本殿しかない。
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どうでもいいことを、自分勝手に解明したくなるのが私の悪い性癖なのだけど、文献で調べた桜山茲俊と、実際に現地で見た桜山茲俊を比較し、いったい何者だったのか知りたくなったので、一度備後国吉備津神社に参拝して、社務所に行って聞いてみることにした。


ちょうど紅葉の頃だったから、境内はあちこちでカエデが赤くなっていた。

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社務所で「すいません」と切り出した私に、権禰宜さんが対応してくれた。

私の来意と桜山茲俊とは何者なのかと聞いたところ、権禰宜さんは長時間にわたっていろいろ説明してくれた。

権禰宜さんは、尾多賀晴悟さんとおっしゃる方で、以前は教育委員会にお勤めされていたそうで、帰ってから新市出身の方に聞いたら、尾多賀さんは、学校や博物館などで講演会をされるほどの有名人で、そういう偉い学者さんからタダでお話しを聞けるのは幸運だと思う。


尾多賀さんは、備後国吉備津神社には、鎌倉末期の焦土層があるから、桜山茲俊が神社を焼き討ちしたのは間違いないとおっしゃった。

肝心の桜山茲俊は何者かという質問には、「シャーマン的な存在だった」という答えが返ってきた。

一応、備後国吉備津神社には宮氏という一族が戦国時代まで社家(神社の職を世襲した家)であって、桜山茲俊は宮氏の一族だったので、私なりに備後国吉備津神社の威光を背景に挙兵したのだと理解できた。


また、尾多賀さんは桜山城は神社裏の山のことではなく、備後国吉備津神社全体のことだとおっしゃるではないか!

でも、そう考えたら、神社を焼き討ちした理由もわかる気がする。

尾多賀さんは、神社の絵図面をコピーして周りの地形と合わせて考えたら、備後国吉備津神社が要塞になりうることを説明してくれた。


三方向を山に囲まれ、一方向のみが開けていて、御池を掘りに見立てたら、方位は違うが、鎌倉の街の地形に類似している。


やはり私と違って、専門家は違うなと勉強不足や史料の読み込みが足りないことを痛感したが、私のような人間を相手に、いろいろご教示くださったことを感謝しなければならない。

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楽しい時間はあっという間に過ぎたので、私は備後国吉備津神社を後にして、JR福塩線の新市駅に向かった。



桜山茲俊は大変な人物であり、中世の武将であり、歴史に名前を残した悪党であるけども、それに反比例するかのように「一宮(桜山茲俊挙兵伝説地)」とカッコ書きで軽く扱われているくらいの人物なのだ。

私が読んだ広島県の歴史などという本の中には出てこない。福山市などの局地的な歴史の本の中には出てくるが、それでも挙兵してからどうやって備後半分を制圧したのかハッキリしない。

わかっているのは、備後国吉備津神社を焼き討ちして一族を道連れに自害したことくらいである。

鎌倉時代末期の悪党のままで生涯を終えている。


楠木正成は皇居の前に銅像が建っている。
悪党から忠臣へと出世したのだ。


桜山茲俊は地元出身者でも知っている人がいない。
神社に名前を残すだけの人物で、その他のことはよくわからない。

それに、桜山茲俊を知らない新市出身者は、「なんで備後国吉備津神社を焼いた罰当りが境内で神になっているんだ?」と不審げである。

でも、私は桜山茲俊の存在がその後の歴史の中で、どれくらい重要であったかなど、特に、建武の新政まで生き残っていたら、備後守になれた悪党で、楠木正成と同等かちょっと落ちるくらいの人物だと評価している。

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広島県の福山市に、「日本のボンベイ」とか、「消滅した中世の市場」と言われる遺構がある。

国道2号線を福山の街中から西へ走って芦田川を渡る時に、左側を見たら、今は何の変哲もない河川敷だけど、実はこの川底に、中世に栄えた集落跡がある。



しかし、集落跡は発掘された後に掘り返されて、今ではここにあったのだと言われても、ホントかな?と疑いたくなる。



その集落は、草戸千軒という。

鎌倉時代にすぐそばにある明王院の門前町として成立した後、水運を担ったことと、税が課せられない町として、商工業を中心に発展した集落だった。

中世の地方集落は農業を中心に発展したものが多いのに、草戸千軒は商工業中心に発展したのだ。



草戸千軒の全体を見るために、草戸稲荷に行った。

写真の建物の最上階まで行って、草戸千軒の跡を見渡した。

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画像は川下(南側)から川上(北側)の草戸千軒の全貌である

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すでにしゅんせつされているから、川の中州のカタチから、草戸千軒の跡を想像することしかできない。



草戸千軒は、室町時代に洪水で生滅した様に思われているが、室町時代以後に徐々に衰退し、江戸時代まで存在していた。

福山藩の記録に消滅したことが記録されているが、江戸時代の草戸千軒は、福山の町はずれにあったらしく、ほとんど無視された集落だったようだ。





草戸稲荷そばの法音寺橋から草戸千軒を見た。

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途中で川下の方向を見たら、中州が残っている。

この中州が草戸千軒の外縁部分なのだろうか?

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法音寺橋の中間に、草戸千軒の説明板があった。

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説明板の写真で草戸千軒の全貌がわかりそうだ。

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この写真は、発掘する時の状態なのだ。

交通量の多い橋に、遺跡が存在していたことをアピールするモノがあるのは素晴らしいことだと思う。

でも、私が感心して法音寺橋に1時間ほど滞在したが、クルマの通行は多いけど、歩行者には会わなかった。
クルマも草戸千軒など関係ないというかのように、車道を走り抜けていた。





草戸千軒のあった場所から、福山城のそばにある広島県立歴史博物館に行った。

JR福山駅にも近い。

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広島県立歴史博物館は、草戸千軒のためにあるといっても過言ではないと言い切れる。

この博物館には、草戸千軒の一画を再現した学校の体育館ほどの大きさの展示室があるのだ。

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展示室の一角には、どこにでもあるようなジオラマもある。


60分の1スケールで草戸千軒を再現している。

これだけでもすばらしいと思う。


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しかし、展示室ののスペースの大部分には、本当に実物大の草戸千軒を再現しているのだ。

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ここは歴史的に考証されていることは言うまでもないけど、それ以上に設定が徹底しているので、ホンモノの草戸千軒の一部をそのまま持って来たのだと言われても疑いようがないくらいの作りである。

先ほど行った場所に、こんな町があったのかと感心してしまう。



説明するよりも、画像を見て欲しい。

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設定は、


時代は南北朝を中心とする室町時代。

場面は海岸から掘割で少し入った地点の草戸千軒の一画。

季節は初夏。

時刻は黄昏時・・・夕方6時ごろ


というワンシーンのみで、あれもこれもと欲張らず、最低限の部分を再現している。






リアルだなと思ったのは、町中だけでなく、家屋にも入れるので、その家屋の中も生活しているかのような再現を施してあった。


私は一人で、鍛冶屋を再現した家屋に入ってみた。


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ほかに、塗師、それに下駄職人の住居を再現している。



カップルで博物館に来て、どれか建物に入ってみたら、二人で楽しむこともできるだろう。



私が一人で鍛冶屋に入り浸っていたら、おじさんとおばさんがやって来て、私と同じ様に塗師の家の中に入り込んで、まるで二人で生活している様な雰囲気になった。







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太平記には、笠置山にいた後醍醐天皇を夜陰に紛れて急襲したのは、陶山義高(すやまよしたか)とその一族郎党であると書き記されている。

陶山義高の一族郎党は、備中の西の端、岡山県笠岡市と井原市に勢力を持っていた鎌倉幕府の御家人であった。

笠岡市と井原市の境に、陶山という集落がある。

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この辺りが陶山一族の本拠地かといえばそうでもないようで、一応領地ではあったが、どのような関係なのかわからない。

陶山氏が鎌倉幕府から安堵されていたのは、小田郡の西浜、魚諸、甲弩など、ほぼ今の笠岡市の本土部分と思われる。
しかも、どうやら陶山氏は土着の武士ではなく、近畿あたりからやってきたらしい。
源平合戦の頃の陶山氏は平氏の武将だったようだ。
笠岡の地には、「ひったか」や「おしぐらんご」という独特の盆踊りがあるが、これは源平合戦の頃の陶山氏の源氏撃退の功績を讃えたのが起源なのだ。

しかし、鎌倉幕府の成立で陶山氏はいったん没落しかけるが、なんとか北条時頼に取り入って、弘安の役のときに領地を安堵されて、陶山城に入ったとされている。



そんなことより、この辺りに行ったのは、まだ寒い時期だった。

陶山の集落から陶山城に向かうのに、ちょうどお昼前だったから、一軒のラーメン屋に入った。

出てきたラーメンは見た目は何の変哲もない普通のラーメンだが、味はよかった。

笠岡ラーメンというらしい。



陶山氏の領地には、素晴らしいラーメンがある。



満足して、陶山城に向かう。

この山城は、山陽本線を笠岡から西に行く電車に乗って、ひとつ目のトンネルを抜けた右窓に見える。



しかし、案内などないから、よくわからないかもしれない。

笠岡の人が金浦という集落の北側の山の上にある。





下の写真の真ん中あたりの丸く盛り上がったあたりに陶山城は存在した。


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西側から近寄ってみたが、行く道がない。

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北側から行ってみることにしたが、なんとそこには水道の施設があった。


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中世、鎌倉から室町時代の備中備後の山城は、必ず水源の近くにある。


なぜかといえば、山城はその地域を統治する武士の居館なのだ。


武士は農民を支配するために、水が出る場所に本拠地を置いている。


つまり、中世の農民を支配するには、地域の水を支配することが絶対条件なのだ。


なかには、一級河川高梁川の支流の小田川の水源が、梨迫城の傍にあるという事例もある。

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陶山城も例外ではないようだ。
今では、工業用水として利用されているが、山城築城の条件である水源がある。

もしかしたら、日本全国共通なのかもしれない。
山城を研究するときは、水源を探せばいいのかも・・・

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許可をもらって陶山城まで行ってみたいけども、面倒なのも嫌なので、ここで引き返すことにした。

陶山義高は、陶山城を出て、竜王山に笠岡山城を作った。
この城の下に広がる街が、現在の笠岡の中心市街地となった。
竜王山に行ってみたら、大きな霊園と寺があった。
霊園の駐車場にクルマを停めて、山を登った。
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笠岡山城の位置には諸説あるが、私は竜王山の山頂のことだろうと解釈した。
霊園のあたりは、「おしろば」というらしい。
しかし、お寺さんの方から聞いたら、城の存在を知らないと言う。

それでもどこかに行かなければならないと思って、竜王山を登った。
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頂上には、お堂があるだけで、周りには雑木が生い茂っているので眺望はよくない。
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どうも面白くないから、竜王山を下って、笠岡の街中にある古城山公園に行った。
なぜか展望台の傍には檻に入れられた動物がいた。
そんな動物たちを横目に展望台の最上階まで行って、陶山城があった辺りと竜王山を見た。

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(この画像はiPadで加工したもの
今後はこういった写真も増やして、内容を充実させたい)


陶山義高は、笠岡を支配しつつ、鎌倉幕府への奉公として、六波羅探題にいた。
そして後醍醐天皇が笠置山に籠った時に夜陰に紛れて天皇の陣を急襲した。
要するに、抜け駆けをしたのだが、それが見事に成功したからよかったけども、失敗したら笠置山で陶山一族は終わったかもしれない。

笠置山の後醍醐天皇を襲撃した後は、番場の蓮花寺で六波羅探題の北条仲時と一緒に切腹したとされている。
だが、地元笠岡の言い伝えによると、陶山義高は足利軍と戦って、陶山城と陶山地区の中間にある陶山神社で自害したことになっている。
陶山神社は、福山合戦で取り上げる予定である。

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