浜名湖周辺の原人たち~牛川人~原人研究その4 | 日本史をつまみ食いして旅する(旅人は721列車)

日本史をつまみ食いして旅する(旅人は721列車)

中央公論の「日本の歴史」を読んで、歴史が起こった現場に行ってみたいと思い、実際にその場所に行ってみた記録です。本当は通史で行くべきでしょうけど、いろんな都合で時代はバラバラです。

原始時代の原人が生活するのに最適な環境といえば、石灰岩の地形にできた洞穴、つまり「ほらあな」が一番に思いつく。

地理学の分野に立ち入るが、石灰岩の地形は長い間雨水などに浸食されて、鍾乳洞などのカルスト地形を形成するのだ。

当然、鍾乳洞には飲み水に困ることがないであろうし、洞穴はそれなりに安定した構造なので、大した道具を持たない原人が住居とするには、最適な環境であるに違いない。


北京原人なども、洞穴の中から発見されているのだ。


洞穴の入り口付近で日常生活をし、その奥に食料などを貯蔵するスペースを作るのが典型的な利用方法で、大きな洞穴なら、最深部に家族を埋葬したりすることもあるようで、原人の骨は、洞穴の奥の方で発見されることが多いようだ。


しかし、洞穴の奥で人間の骨が発見されたからといって、それが必ず原人であるかといえば、そうでもなく、たまたま北京原人などがそのような発見の経緯をたどっているだけであって、これより先、もっともっと原人が発見される事例を積み重ねていかなければならない。


日本の場合、ローム層という赤土がある程度の指標となる。

石灰岩の岩の中に、赤土が詰まっていたら、その中を発掘すれば原人の骨と思われるものが見つかるという例があったらしい。

しかし、この例も確実なものではない。

原人はまだ未確定な要素が多いのも事実なのだ。



三ヶ日人に会いにいった夜は、浜松の駅前に泊まり、翌日の朝、東海道本線の電車で豊橋駅に向かった。


電車の中で、冒頭に書いたようなことを思いだし、ボンヤリ浜名湖を眺めて過ごした。


豊橋の駅前から、路面電車で終点の赤岩口駅まで乗った。




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実は、赤岩口の近くに牛川人の発掘地があるのだが、私のような考古学を途中で投げ出した人間にしてみたら、この駅名がひっかかるのだ。

というのも、この地名が、石灰岩の間に、赤土がでていたようなイメージがするからなのだ。

これは私の勝手な思い込みなのだが・・・

しかし、牛川人は石灰岩の採掘現場で発見されている。


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赤岩口の停留所の手前に「牛川人骨出土地」の標識がある。
いまでは、原人ではないのに丁寧な扱いである。






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赤岩口の停留所から、ちょっときつい坂を登っていくことになった。





ちょうど朝の通勤通学時間帯で、前から自転車に乗った高校生が何人も坂道をくだってやってきた。
男子高校生は、車道を走るから、私とぶつかることはないが、女子高校生は例外なく歩道を走って坂道を下ってきた。
当然、自転車はスピードが出ているから、止まることができない。
何人かは、私を見てもブレーキをかけることもなく、すれすれを走る。
そのうち一人と接触したが、彼女は何もなかったかのように走り去った。

私は女子高生が前からやってくるたびに道の端の方に避難してやり過ごした。


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そんな危なっかしい坂道を10分も登って行けば、団地の入り口の反対側に、牛川人骨出土地の看板があった。


朝も早くから、住宅街のなかを歩くのは不審者のようで気が引けるのだが、なぜか私をみても誰もなにも言わない。
こどもがすれ違っても、あいさつもない。
私も気にせず、住宅街の一段と急になった坂道を歩いた。







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牛川人が発見されたとき、この辺りは石灰岩の採掘場だったはずである。
何回も同じことを繰り返すが、私のような人間が歴史歴史と目の色を変えて日本全国を旅してまわっても、地元の方々はそんなことは関係なしに生活をされているのだ。

私はただ、案内看板に従って牛川人に会いに行くだけなのだ。


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最後の曲がり路を曲がったら、突き当りに公園が見える。
ただの団地の中の小公園としか見えないが、あの中に牛川人骨の出土地があるのだ。

なんでも、身長150センチほどの女性の人骨だといわれていた。

しかし、牛川人は人骨ではなかったらしい。
ナウマン象のすねの骨ではないかと言われている。
浜名湖周辺の旧石器時代の人骨には、鈴木尚氏が大きく関わっている。

牛川人も科学的に人骨とされたわけではなく、発見された状態が、原人とされた人骨の発見の例に似ているからということだったらしい。

科学の発展には、間違いがつきものなので、決して発見された人を責めることはできない。
少なくとも、私のようなモノ好きは、こうして牛川人に会いに行こうという気になるのだから、今の評価がどうであれ、旅に出るキッカケにはなる。
もっとも、歴史をたどるという趣旨からは外れているが・・・




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三ヶ日人とならんで、牛川人も私のような40代の人間にとって重要な歴史用語だった。
ここに来るまでに、明石原人や、聖嶽人、それに三ヶ日人に会いにいった。
明石原人は、看板一枚だけだったし、聖嶽人は昔よりも荒れていたし、三ヶ日人もそばに近寄れない状態になっていた。

それに対して牛川人は、立派な公園に鎮座している。
しばらく、柵の外から眺めて、いろんなことを思い出した。

どれだけ時間がたったかわからないけど、とにかく公園のなかに入った。


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ナウマン象の出土地にしては立派だなと皮肉っぽく見てしまった。
住宅団地の中だから、割合きれいに手入れされていた。
桜の名所なのだろうか?


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考古学で挫折した私としては、今現在研究されている方々に頑張ってもらって、これから先、原人の発掘事例を重ねていって、もう少し確実な学説が出てきてほしいと思う。
それに、骨の形状や発見された状態が似ているからという理由だけで原人だと結論をつけるようなことはやめてほしい。
いずれにせよ、もっともっと発掘の実績を重ねていけないと、確実なことはいえないのだから、断定的なことは何も言えないのだ。

しかし、冒頭で赤岩口の地名について、私の思いだけでいろんなことを書き連ねたが、そんなことはもうどうでもよくなった。

私はただ、何枚か写真を撮影したら、来た道を豊橋駅に引き返した。

この後、本土唯一の原人と言われている浜北人に会いに行った。