以前、平城京の羅城門の址にやってきたときに、郡山駅で降りた。
まさか再び、郡山駅で電車を降りるなんて思ってもいなかった。
奈良とか京都とか、そういった駅なら何回も行きそうな気がするけども、実際はそうでもない。
大阪駅からの大和路快速を降りて、以前も見た改札前の駅周辺案内で、これから行く賣太神社を探した。
賣太は、「めた」と読む。
羅城門にやってきたときは、賣太神社など意識していなかった。
もう、あれから2年近くも経っているのに、郡山駅は変わっていないようだ。
これもタイムスリップのひとつかなと思いながら、歩いて賣太神社に行くことにした。
羅城門に行ったときは、左に曲がったのだけど、今回は右に曲がった。
振り返ると、羅城門に行った時と同じような風景に見えた。
右に曲がってすぐに、左に曲がった。
細い道なのに、歩道がないし、結構な交通量があるから歩きにくい。
郡山駅から5分も歩いたら、佐保川にかかる橋を渡る。
ちょっと奈良の方角、つまり、羅城門の方向を見た。
2本目の薄緑の橋のそばに、羅城門の址がある。
写真を撮った場所から羅城門まで、距離にして1キロくらいだろうか?
郡山駅から写真をと撮った場所まで5分ちょっと。
今回のルートをとれば、郡山駅から羅城門の址まで20分くらいで行ける。
以前は、クソ暑い中、1時間もかけて歩いたのに・・・
羅城門にこだわるには、わけがある。
別に前回、時間をかけて行ったからではない。
この橋からすぐの交差点を右に行けば賣太神社に行ける。
左に曲がれば羅城門の方向である。
つまり、私が言いたいのは、この賣太神社への道は平城京の朱雀大路からまっすぐに伸びてきた道だということである。
羅城門は朱雀大路の上に作られているから、当然、朱雀大路から続いた道なのだ。
今は住宅街の中の平凡な道のようにしか見えないけど、奈良時代だったら平城宮の朱雀門からまっすぐにここまでやってこれたのだ。
私は地形図で定規をあてて確認し、そのあと藤原京のことを調べていくうちにこの道のことが出ていたので、気にかかっていた。
現地に来てみたら、この道が奈良時代から残っている道ですよという表示などどこにもない。
それに反対側、羅城門の方向は、住宅で道がふさがっていて、まっすぐにいけなくなっている。
この道は下ツ道という。
平城京から藤原京へとまっすぐに伸びていた、奈良時代の最重要幹線道路だったのだ。
歴史の中でも重要なモノでも、現代人の生活のなかで検証ができなくなってしまうことはよくあることだ。
私が目の色を変えて歴史歴史といっても、現地にいる人には生活の場であって、私のような人間は、邪魔な侵入者でしかないのだ。
住宅街を10分も歩いたら、田んぼの中の道になったが、すぐ目の前に離れ小島のような集落があった。
これは道の左側の集落である。
持って行ったカメラにパノラマの機能がなかったので、ちょっと見にくいが、この集落の反対側に賣太神社がある。
入り口に、稗田環濠集落の案内がある。
言うまでもなく、堀に囲まれた集落だが、実はここは室町時代の武装集落であって、堀は言うまでもなく、城の堀と同じ役割を持っている。
突き当りの森が、賣太神社である。
あまり大きくない集落だが、この集落は稗田阿礼とは関係がない。
実際、賣太神社も元あった場所から移動しているらしい。
繰り返しになるが、この道が朱雀大路から続く下ツ道のなれの果てなのだ。
集落の反対側には、赤地に白文字で、「古事記上撰千三百年」の幟があった。
その幟の反対側に、賣太神社があった。
稗田阿礼と一緒に、猿田毘古神や天宇受売命も祀られているのに、猿田彦神や天鈿女命と日本書紀の記述なのが気になる。
稗田阿礼は日本書紀には関わっていないはずなのだけど・・・
そんなことはさておき、せっかくやってきたのだから、さっそく鳥居をくぐって境内に入ってみた。
参拝したら、最近物忘れが激しくなった私も少しはアタマがよくなるだろうと思った。
社務所では、古事記論読会をやっていた。
ちょっと声をかけたが誰も出てこなかった。
勉強の邪魔をしたら、稗田阿礼が怒るかもしれない。
本殿まで行ってみる。
誰もいなかった。
境内は古事記に関する案内看板が多数あった。
同じ日に行った稗田神社とは大違いである。
その中でひとつ、違った案内があった。
賣太神社を含む稗田環濠集落の航空写真であった。
せっかくだから、環濠集落を一周してから郡山駅に戻ることにした。
集落そのものは室町時代の遺構だから、古事記や稗田阿礼とは関係ないが、散歩がてらまわるのも悪くない。
天気もよかったし・・・
集落を一周していたら、あちらこちらでカメを見かけた。