こんにちは絶學無憂です。

 

ふだん、そんなの気にしないのですが、たまたま、「自分の中の両性」の記事のいいねをしてくれたのがどなたなのかを見ていたら、なんとリブログ元のクノタチホさんからいいねを頂いてました。

 

いやー、こりゃあ、ありがとさんです。

 

でねー、自分の中の女性性がなんとか、とかほざいていたら事もあろうにバストアップセラピーの依頼を受け、なんか面白いことになっています。

 

今回は、最近しばしば聞かれるので、どうやって私が今のような不思議な状態、ほぼ感情ストレスなし、という状態に至ったのか、ということについて、このブログの最初の記事の内容を、当時用いた方法論についてやや詳しく触れながら振り返ってみたいと思います。

 

 

2018年の2月にブレインアップデート・オンラインコーチング(第一期)に申し込み、実際に学び始めたのは3月からでしたが、その初期の頃に、Zoom会議で田仲真治に話したとき、「無憂さんは今は大変な時期なんですね。でも、それが実はギフトだったということが分かりますよ。」とかニコニコしながら言われて、「それだけは絶対有り得ない」と憤慨してました。子供を連れて妻が去っていき、夫として、父として、自分は最悪だということを突きつけられた後でしたので。

 

 

記録が残っているので、詳細に変化が追えるのですが、オンラインコーチングでは最初の一ヶ月間、世界観についての話がほとんどで、極性ということの意味や、この世は仮想現実だ、という世界観(これはこの前からすでに馴染みのある考え方でした)について学びました。
 
 
大きな変化を体験したのは、4月11日。このときに課題として、「悪循環サイクル・好循環サイクル」というワークをひとりで行いました。
 
これはブレインアップデートの非公開の方法なので、手順の全貌は詳しく書けないのですが、怒られない程度にどんなものか紹介すると、まずその人の今の在り方が、現実から思考(観念)へ、思考から心(感情)へ、感情から身体(行動)へ、身体から現実へ、という閉じたループになっており、だからこそ絶対安定でそこから出られないということを明らかにしていきます。
 
 

 

常々このブログでお伝えしていることですが、どういう自分観、他人観、世界観という観念のフィルターを持って現実の出来事を見ているかというのが、感情を決め、その感情が身体へ影響し、その身体で行動を起こしているわけですので、この観念の中身が大事です。

 

感情 = 出来事 × 観念

 

という皆さんおなじみの公式のとおりです。

 

この観念を握りしめたままでいくら回し車を回しても、それは悪循環サイクルなので、一向によくならないのですね。

 

まずこの現状を理解した上で、陰があれば陽があるというところへ目を向けます。

 

つまりこれまでは悪循環サイクルのほうだけにエネルギーを注ぎ込んできたので、こっちしかない、と思いこんできたわけですが、

 

 

実は見えていないだけで、陰があれば陽があるのです。

 

 

これまで見えていなかった好循環サイクルを自分で設計し、エネルギー調整によって、悪循環サイクルから好循環サイクルへと、陰と陽の統合を経て、切り替える、まさに極性の統合のための素晴らしいワークであり、このブログの成り立ちとも密接に関わっています。ですが全貌が公開できませんので、ご興味ある方は実際に私(Facebookもしくはコメント欄からご連絡ください)かあるいは田仲真治さんご本人にセッションのご相談をして頂くのがよいかと思います。

 

これをやって、初めてそれまでの自分のあり方がウンコのように汚かったというのが見えたのでした。

 

当時のメモから。

うわ、自分はこんな嫌なやつだったのか、と。妻に申し訳ない。

さらに

終わった後でもう一度悪循環サイクルの項目、特に認識の項目を読んでみましたが、前はこれに強く同調していたのですが、感じ方が変わったように思います。自分が書いたので言っていることはわかりますが、言葉と自分との間に距離を感じます。前は「そうなのだ!」と強弁する感じでしたが、「そうかなあ?」という程度の感じです。変化としては気づくのはこれくらいです。

と書いていました。

 

このときに書いた、好循環サイクルの内容がそのまま残っているのですが、先日これを読み返してみて唖然としました。

 

このときから1年半が経過していますが、当時はまったく夢物語のような、現状からはあり得ないような理想の状態を書いたはずなのですが、その内容がことごとく現実化しているのです。

 

隠すべき秘密もなく誰にでも心をオープンにして生きる
知っていることは聞けば教えてくれるけどむやみに振りかざさない
周囲と調和してにこやかに笑いながら生きている

深くて柔らかい呼吸
柔和な笑顔
全然偉ぶらない、あけっぴろげな態度
爽やかな行動

世界は陰と陽が調和しており、いつでも必要なことが起こっている
世界観:この世界は常識と非常識とがバランスをとって調和している
人間観:人々はそれぞれにこの宇宙にふさわしい居場所がある
自分観:私には他の人々と同じく宇宙にふさわしい居場所がある

私の醸し出す雰囲気が全く別物の調和したエネルギーとなり、妻も恐れる必要なく、再びコミュニケーションを取り戻し、愛を取り戻すことが出来る
キネシオロジーやレイキなどの手段も調和の中でほどほどに使い、バランスを乱さない
私がニュートラルの位置にいるので、必要な人が私と出会い、物事がスムーズに運ぶようになる

これら全部実現してます。今の自分のことが書いてある、と分かります。

 

 

キネシオロジーによるエネルギー調整、ゴール設定のひとつ、と見なして良いと思うのですが、

前は「そうなのだ!」と強弁する感じでしたが、「そうかなあ?」という程度の感じです。

という「小さな」変化が、一年半後にこうなっているとは、当時全く予想できませんでした。半信半疑だったと思います。

 

観念を書き換えるということがいかに現実の創造に重要か、ということが身に沁みて分かる貴重な体験となりました。

 

 

この翌日の4月12日には、Zoom会議で、8の字エネルギーの集中砲火を浴びます。

 

前日の体験を話して、もうスッキリしてしまいましたと言っていたら、いや、まだ残っているでしょう、と言われ、たしかに妻との一番緊張した場面を思い出すと、筋肉の力が抜けてしまいました。

 

そこで、Zoom会議に参加していた10名ほどの人から、数分間の8の字エネルギーの集中砲火を浴びました。これは面白いので機会があればぜひ皆さんにも体験してもらいたいのですが、人へ向かって8の字(無限大マーク)を指で描くと、8の字を送られた人は、ネガティブ思考ができなくなります

 

 

このときは鮮烈な体験でしたが、この集中砲火の最中に、その一番強烈な対立の場面の記憶を再生して、そのときの感情を再現しようと努めたのですが、それが考えられないのです。

 

考えられない、というのはどういうことか、想像できないかもしれませんが、喩えて言うならば、机の上のコップをつかもうとしたら、そのコップが砂のように崩れて手に何も残らないような状態。ネガティブ思考を試みても、その思考が形を取る前に、粉々に崩れてしまうのです。

 

この後で、その修羅場を思い出しても平気になってしまいました。

 

 

そして、学び始めてからたった二ヶ月後の、5月7日にとうとうその日がやってきます。この日は私のいるイギリスでは祝日で、天気が良かったのでサイクリングに出かけました。

 

なんか素敵だなあと思いました。

可愛い子供二人と離れ離れになって、もちろん悲しいときもあったんですが、今日は祝日で天気が良かったのでサイクリングに行って、親子連れのたくさんいる公園も通ったんですけど、そういう姿を見て、嫉妬したり、我が身を悲しんだり、っていうのが今日は全然なかったですね。可愛いなあと思いました。


〇〇さんのところと上の子が同じ年齢なんですけど、こういうエピソードを読んでも、どうして自分のところは....と、なぜかちっとも思わない。微笑ましい気持ちになります。

とりあえず天気のせいだと思ってましたけど、今日は一日中ずうっと幸せでした。日が暮れて日付の変わった今もまだそのままです。

むしろちょっとおかしいんじゃないか?と思うくらいですが。なぜかこの件については今日は極性を作らないで済んでいるようです。

もっといえば、ずっと仕事と家庭だけでしたから、休みの日に一緒に遊ぶような友人がほとんどいないんですが、若者グループが楽しそうに川で舟あそびをしたり公園で遊んだりしているのを見て、あー、自分はこういう仲間いないなあと思いながらも、なぜか平気。羨ましいとか寂しいとか感じず、楽しそうだなあ、美しいなあと。

ずうっと穏やかな気分が続いています。

んー、写真を撮る時には自然と「今ここ」へ集中するから、一日中それをやっていたらこうなったのか(筋肉反射テストでNo)、単に天気のせいなのか(No)、食べ物の影響(No)、昨日見たこの動画の最後の部分の音叉の影響(Yes!!!)。たしかに音は綺麗だなと思いましたが、見た直後には何もなかったんです。昨日は普通だったと思うし。音叉恐るべし!!!

明日起きたらこれはどうなってるんだろう?

このときは、日中から夜の11頃まで(寝るまで?)ずーっと胸の辺りがポカポカして、穏やかな気分で、ほっこりしていました。胸からこのポカポカエネルギーがどんどん溢れ出すような感覚で、誰に対しても優しくなれそうな気がしました。

 

この前日に見た動画の一部に、音叉セラピーの音叉の音が入っていたのですが、他の人が受けている音叉セラピーの音を聞いているうちに、自分の中で何かが起こってしまったのだろう、と推察しています。

 

症状から考えると、ハートチャクラが活性化した、あるいは開いたのだと思われます。ちなみにオンラインコーチングの同期生で同時期に同じような体験(胸がポカポカ)をした人が他に男女二人おられました。

 

このときほどの強烈なポカポカ感がずっと続いているわけではありませんが、いまだに、この日のエネルギー状態の延長線上を生きていると感じます。

 

胸ポカの数日後に書いたものです。

 

で私の呑気な風景写真を見た姉がお怒りのメールを送って来たんですが、新たに父親入院という知らせを読んでも、あんまり動揺してません。嗚呼、コケて病院へ行ったのねと思う。高齢なので下手をすると命取りの場合もあるなと思う。そしてまだ穏やかでいます。

これはこれでどうかしてるんじゃないかと思いますが。もしものことが起こった時に後から突然「ガビーン、俺はあの時どうかしてた!」とショックを受けるんだろうか?

姉の怒りの文章を読んでも、あんまり感じない。嗚呼、怒ってらっしゃるんだなあと思います。もともと予想外の事態にすぐパニックになる彼女の性格であればこれは結構堪えるのだろうなと。

月曜日ほどはっきりとしてないかもしれませんけど、なんかまだ穏やかなやつが続いていそうな気がします。やっぱり他所のお家の小さい子を見ても可愛いなと思います。

そして、「それって問題ある?」「ないです....」プププ、というのを繰り返し頭の中で再生しています。ここの部分だけ切り出して動画再生しながら音叉をならすと皆さん穏やかになってしまったりして。

最後の「それって問題ある?」「ないです....」プププというのは、大変革を体験する前日に見ていた例の動画で、音叉セラピーを受けた人と田仲真治さんの会話です。相談者が問題だとして持ってきたお題に対して「それって問題ある?」と真治さんが聞いて、相談者が恥ずかしそうに「ないです...」というのを見て、私がプププと笑っているんです。

 

普通の人であれば動揺するであろう、親の入院の知らせや、姉からの怒りのメールが届いたりしたけど、全然平気だったんですね。この後しばらくして、実際に母が危篤となり緊急帰国しましたが、知らせを受けたときも、飛行機の中でも全然動揺せず、リラックスしたままでキレイな雲を眺めつつ「ひょっとしたら着いてすぐに葬式の手配かもな」なんて思っていました(飛行機の中では遠隔レイキも行いましたが、母は「奇跡的に」一命を取り留めました)。

 

 

この胸ポカ以来、ほとんど悩みなしで生きてます。無憂という名前はそういう意味でつけたんじゃなかったのですが、実際ほぼ憂(うれ)いが無い人になってます。

 

あると言えば、歯が痛むときは辛い。

 

例外的に、テニスコートでは極性を作ってるみたいで、そこでは怒ったり、なんなり、それなりに人間的な極性や感情を体験しています。これが仙人にならずに人間として生きるためのクサビのようになっているんじゃないでしょうか。

 

ですが、たとえば昨日も、研究室で、他の人であれば激怒するような事件があり、実際に学生は怒ってましたが、私だけはやっぱり、怒ってないんですよ。頭がおかしいのかと自分で思うくらいです。

 

果たして感情解放などを繰り返していけばこういう生き方が他の人にも可能なのか?

 

そもそもこういう生き方が素晴らしいと本当に言い切れるのか?

 

難しい課題ですが、自ら人体実験をしているようなものです。こういう生き方でどうなるか見てみたいと思います。