こんにちは絶學無憂です。

 

私は現役の科学者です。

 

 

二十歳のころにはどこにでもいるような、なんちゃって唯物論者でしたが、皮肉にも唯物論的な研究室の中での地獄のような人生経験をきっかけに、何かに導かれるように、徐々に徐々にとスピリチュアルや精神世界という方面へと目覚めていきました。そうする中で人生のステージが変化するのを感じ、周りの人間関係がずっとよいものになり、妻とも巡り合って子どもたちも授かりました。

 

しかしある時、恩師が若くして病に冒されるのを目の当たりにし、また自分自身も慢性的な身体症状をずっと放ったらかしにしてきたため、このままでは命に関わると思いました。慢性疾患というのは西洋医学には対症療法しかないためにそう呼ばれているのだと分かったため、そのままで仕方がないと諦めるか、非正統的な医学、代替医療を試すか、という選択を迫られたわけです。

 

そしてまだ生きたい、死にたくない、という思いから、科学者でありながら、代替医療の世界の探索をはじめました。その最初に試したのがホメオパシーでしたが、これによって長年苦しんできたカフェイン依存症の渇望感が嘘のように消えるのを経験しました。しかしもうひとつ、重度の歯周病のほうは改善が見られなかったため、他の代替医療の探索を続けて、西洋レイキ・直傳靈氣を講習会で学び、さらにはキネシオロジー(タッチ・フォー・ヘルス)の筋肉反射テストを独習しました。また、代替医療についていろいろ学ぶ中で、陰謀論や医学不要論にも詳しくなりました。

筋肉反射テストのことを知ったときには、独習であったためにかなりひどい失敗もしましたが、精神科医デーヴィッド・ホーキンズの主張する、筋肉反射テストによって、一定の条件下でどんな命題についても真偽の判定ができる、というのはそれまでいろいろとスピリチュアルや精神世界について読んできた自分にとっても衝撃でした。またタッチ・フォー・ヘルスを学ぶことで、ずっと存在を疑問視してきた経絡が疑いようもなく実在すると、自分の筋肉を通じて確信することができました。これは大変だ、筋肉反射テストを世界へ啓蒙しなくては、という思いから、前のブログ「指先の真実」を立ち上げました。

 

ところが.......

いつしか、これらが家庭内に軋轢を生み出してしまいました。

 

そしてある日とうとう、妻が子どもたちを連れて出ていってしまい、家庭崩壊に至りました。

 

スピリチュアルへの学びの中で妻とも巡り合ったのに、その延長線上でヒーリングや代替医療を学んだのに、なぜそれがきっかけで家庭崩壊に至るのかどうしても理解できない、今までずっと人生に意味を見出してきたが、こんな人生は意味不明だ、と感じていました。

 

ちょうどその頃、キネシオロジーの世界で著名な、田中信二さんがオンラインで新しい講座を始めようとしており、一期生を募集していました。キネシオロジーが原因で家庭崩壊を招いたのに、キネシオロジーに救いを求めるのは愚の骨頂であろう、という思いはありましたが、このままではいけない、何かをする必要がある、というのは明確でしたから、藁にもすがる思いと言うより、これはきっと藁だろう、と思いながら、結局申し込みました。

この講座での内容はテクニックの類は最小限であり、むしろ、あり方や世界観を重視したものでした。始めた頃は、連日、罪悪感と孤独感と絶望感に苛(さいな)まれ、この家庭崩壊だけはどうにもできない、と感じていましたが、二ヶ月ほど経った頃、気がつくと、一日中胸のあたりが穏やかで温かい幸せな感覚で満ち満ちており、罪悪感も孤独感も消えているのに気がついたのでした。むしろ、この家庭崩壊ですら完璧だったと思えてきました。だって、これがなければここで語るようなことには気が付かなかったでしょう。

到底そんなことはあり得ないと思っていたのですが、実際にそうなってしまったのです。家庭は立派に崩壊したままですが、私はひとりで勝手に内側がほっこりしてしまった。

そして、この講座のいちばん大切なメッセージは、「極性の分離と再統合」でした。と、言葉だけ聞いても、なんのこっちゃ分からなと思いますが、それはそういうものなので心配しないでいただきたい。

 

この、言葉で伝えてもなかなかよく分からないコンセプトが、どうも単なるヒーリングのテクニックや、スピリチュアルの知識を山程集めても到底太刀打ちできないくらい大切なようです。いや、これを知らずにいると、あなたもせっかくスピリチュアルやヒーリングをせっせと学んで幸せを目指しているつもりで私のように周りに地獄を作ってしまうかもしれない。それはそれで完璧なんですけど、でも、嫌でしょう。

 

私も相当スピリチュアルの本を読んできたつもりでしたが、それでも、この「極性の分離と再統合」の話は目からウロコでした。決して決して新しい話ではなく、太古の昔から語り継がれてきたことだと思うのですが、大方誤解されているか無視されているんではないでしょうか。


このテーマの大切さを考えるほど、ブログ「指先の真実」を立ち上げた時の自分の方向性は思いっきり間違っていたなあ、と思います。あまりにも方向が間違っているので、閉じてしまってもよいくらいですが、そういう間違いの記念碑としてひとまず残しておき、これからは自分の二の舞のような人を減らすためにも「極性の分離と再統合」の話をしていこう、と思います。

 

ところが「極性の分離と再統合」ですと、意味が分からないだけでなく、非常に難しい、堅苦しい感じもします。そこでブログのタイトルは「まんなかを生きる」としてみました。だいたい同じ意味のつもりです。もうちょっと分かるような気がするんじゃないでしょうか。


私が気づいたことというのは、私のこれまでのスピリチュアルへの探求や、代替医療やヒーリングの探索は、私の内側に、どんどん葛藤を作り出していたのだということです。目に見える世界だけしか認めない科学の世界で仕事をしながら、目に見えない世界を相手にしたスピリチュアルやヒーリングをどんどん学んでいるわけですから、隠れキリシタンのような心境でした。職場では一切そういう話はできないのです。

 

これらは外側では、西洋医学と代替医療、科学とスピリチュアル、目に見える世界と目に見えない世界、という、二元性の対立構造として存在していますね。

 

ところが、学校教育というのがそういう風に出来ているので、世の中の大多数の人は、医療といえば西洋医学しかない、と思っていますし、何が正しいって科学しか正しくないと思っていますし、目に見える世界しか存在しない、というように、今日でも考えていますね。主要なメディア、地上波テレビや新聞などはすべてこういう立場です。


少し前までは特殊な能力を持つような人だけが、ヒーリングのようなことを仕事とし、スピリチュアルな体験について語り、目に見えない世界を知っていたのですが、インターネットというお化けの登場によって、これまでほとんど禁じられていた、代替医療、スピリチュアル、目に見えない世界についての情報がその気になればあちこちからふんだんに入手できるようになりました。これらのテーマについての人々の認知度をもし比べることが出来たならば、1980年代と今とではかなり違うのではないでしょうか。


こういうものをきっかけとして、代替医療、スピリチュアル、目に見えない世界について知ってしまうと、その時初めて、主流の考え方ではない、もうひとつの考え方があったんだと気づくことになります。このときに、二元性の極性の分離エネルギーが働くので、多くの人はこれまで信じてきた常識とは逆の方向へ傾倒してしまいます。これは、ちょうど振り子が右から左へと振れるようなものです。真反対のほうへ向いてしまい、主流の考え方を攻撃するようになりがちです。

 


そして重要なことは、この二元性の中での極性の分離というのはあたかも外側にあるようですが、実はこのときに必ず個人の内側にも同時に極性ができてしまい、それが葛藤を生んでしまうのです。なぜこの部分を断言できるかと言うと、実はこれを検証する上で筋肉反射テストが使えるのです。

 

簡単に言えば、「自分が正しい!(あなたは間違っている)」とちらっと思うだけで、体の筋肉の状態に異変が起きてしまうので、体の中のエネルギーが極性を作って分離してしまっているというのが分かります。筋肉反射テストで調べれば体の片側(たとえば右半身)の筋肉だけが強く、反対側が弱い状態が見つかります。

しかも田中信二さんの発見によれば、こうして作られた極性は、ちょうど鉄のような磁性体に磁石を近づけると、全体が磁石となるように、近くの人に伝染るようです。内側に極性を作り出してしまった人が一人いると、その近くにいる人が連鎖反応的に影響を受けて、全体として大きな極性を作り出します。これも筋肉反射テストを応用してデモンストレーションをすることができます。このデモンストレーションの様子は読んだだけではちょっと想像しにくいと思いますが、ふうんそうなんだ、というくらいに思っておいていただければ幸いです。大事なことは、内側に作り出した極性の分離エネルギーは他人をも巻き込む、ということです。

ワジム・ゼランドという人が「振り子の法則」という本を出しています。社会の中の集合意識には、対立する両極の間を揺れる振り子があるのだ、といいますが、その振り子を揺らす原動力が、一個人の持つ、この極性の分離エネルギーなのでしょう。そして、集合意識の中の振り子をブンブン振れば振るほど対立が激しくなり、果てはその振り子が、我が家のような家庭崩壊や戦争を引き起こします。

どうして本来平和なはずのホメオパシーやレイキ・ヒーリングやキネシオロジーを学ぶことが家庭崩壊に至ったのか。簡単に言えば、気持ち悪かった、ということなんでしょうけど、極性の分離ということでいえば、テーマの中身はある意味関係がないのです。非常に素晴らしいものについても、非常にくだらないことについても(たとえば先のサッカーのワールドカップの対ポーランド戦で日本代表が時間潰し作戦に出たということでSNSなどが賛否両論でかなり賑わいましたが、サッカーに興味のない私からすれば皆さん本当にヒマなんだな、と思いました)、全く同じように極性を作り出すことができるでしょう。

このようにして自分の内側に極性を作り出してしまったら、どうすればよいのでしょうか。

 

多くの人はここで対応を間違ってしまうのです。AではなくてBだ!と言っていて、具合が悪くなってくると、選択肢が二つしか見えていないので、じゃあやっぱりAだ!と、両極の間を行ったり来たりと、振り子を揺らすことしかできません。これの恐ろしいことは、結局、どちらの側へついても、動き出した振り子を止めることもできず、ただただ振り子の揺れが大きくなっていくだけなのです。


この仕組みからは陰と陽という二元性だけの中にいては脱出できません。

 

ここで必要なのは分離した極性の再統合なのです。

 

振り子の右も左も、陰も陽も、実はどちらもこの宇宙には必要があって、両者の間に完全なバランスが保たれているという視点。

 

老子はこのことを道(タオ)と呼んだのではなかったか。そして道(タオ)については、普通の言葉ではうまく語れないために、反語表現を多用したのではなかったか。

 

釈迦が悟りを開くに至ったとされる、中道(ちゅうどう)の教えというものがあります。一般的には、これは両極端を避けてほどほどがよい、という意味に解釈されていますが、中位がよい、というだけで本当に悟りを開くに至るのでしょうか。たとえば激辛と甘口を廃止して中辛のカレーだけを残したら、それは悟りに繋がっているのでしょうか?

 

この一般的な解釈は儒教における中庸と混同している、という批判も散見されます。もし、中道とは、二元性の対立を超えるという意味であったならば、あるいはそれは悟りへと繋がっているかもしれません。それは、激辛も甘口も中辛もすべて宇宙にとって必要だ、というに相当するでしょう。私はこっちのほうが悟りっぽいと思いますよ。中辛だけがよいとは思わない。

話、ある程度伝わりましたでしょうか?

まあ、なんか、こんな感じの話をしようかなと思っています。すぐにネタ切れになるかもしれませんし、あまり興味を惹かないかもしれませんが、とりあえず我が家はあっけなく崩壊したくらいですから、結構大事だと思っています。

 

よろしくね。