先日恵比寿に行って、、
東京都写真美術館なるものをたまたま発見したので、
行ってまいりました。


クリストファーベイカーはSNS、メール等ネット上の膨大なやり取りを収集して、
それをを可視化することで情報空間を再考。
彼のそれは3000人以上の情報を構造化して、
壁一面に広がる彼の世界は、
人の足を一度は止めてしまう作品に仕上げていました。

宮永亮は水面や空、太陽等自然や都市、田園、被災地の風景を重ね合わせ、
まるでリズムのように移り変わる映像を作り出し、
みてる人を過去へといざなっていました。

クリスチャン・ヤンコフスキーはBBCの依頼でドバイへ赴き、目隠しをしながら撮影。
現地人もしくは他者の先入観からどれだけ離れられるかを図る実験として、
まるで水曜どうでしょうの大泉洋の如くぐだぐだの雰囲気が、
みる人々を楽しませてくれました。

アイロニーとユーモアでベトナムの社会構造を顕在化したザ・プロペラ・グループは、
街中にしかけた1台のバイク、
それも彼らの生活のステータスともいえるHONDAの1台のバイクが、
時間をかけ人々にどんどん搾取されていく映像を残していた。



非現実的なこの世界は、
ともすれば今接している障害児の彼らがみている自分の姿ではないのかなと、
感じてしまった瞬間でした。


$5udaのブログ-写真館
写真館前にある写真


2013.2.18
感覚によって物事を捉える、
という一般的な使い方の他にも、

考えずに一気に全体を理解できる能力、
という風に哲学の世界では考えられてるんだとか。


もちろん論理を順序建てていく論理的思考とは、
正反対に位置するもので。



目の前に展開する現象を一気に把握できる能力なのだから、
それはそれは特殊な能力だし、


アリストテレス的に、
直観的能力は論理的思考や感覚と異なる最高の認識能力として位置づけてるみたい。
つまり、神的なんだとか。


デカルトも経験はなくとも、
人間は本来直観で物事を認識できる力があると言ってるみたいで。



何故にか直観という言葉が、
今日は頭の中をぐるぐるしています。


電車の中で席が空いてたもんだからそこに座って、
そしたら3秒後ぐらいに自分の席から4歩ぐらい歩いておばあちゃんに
席を譲ってるギャルがいて、

あぁ俺にはみえてなかったこのおばあちゃん

ってなんだか不思議な感覚になりました。


もしかしたらギャルは元々座ってたからおばあちゃんの存在に
気づいていたのかもしれないけど、
自分以上に今目の前に広がる場を理解して行動に移していた。

別に席が空いているのだから座っていることは普通なことで、
ただ彼女がみていた視点は自分とは違ったようでした。



あぁこのギャルの直観だったんだろうなと思ったわけで。



全然彼らが考えてた直観とは違う次元だけれども、
なんだか直観を強くしたいなって思いました。


考えずに場を捉える力なんだからそんな強いも弱いもないんだろうけど、
正しいと思ったことをやり続けていたら、
その直観は強くなるんだろうか。


$5udaのブログ-直観
ショーシャンクな男に会った日


2013.2.17
自分で人生は切り開かなきゃ

と最初に言い始めたであろうデンマークのキルケゴールさんは、
「主体性は真理である」として、
「この私」が人生を形作ってくもんだと考えてたんだとか。


サルトルは更に、
実存は存在で、
本質は定められた運命ということで、
「実存は本質に先立つ」
と表現したみたい。


ペーパーナイフを例えに、
それそのものの作り方や用途が決まっている場合は、
「本質は実存に先立つ」ものとして、

人間の場合は、
自ら創っていく存在として、
「実存が本質に先立つ」
として説明している。


この状態を彼は、
「人間は自由の刑に処せられている」
と言ったんだとか。


毎日「何をしてもいい」、
と言われたら何をするだろう。

自由の中で何かを選択しない限り、
あなたもわたしもペーパーナイフになってしまうよ、との警告だったんだろうか。


無数の選択肢の中から何かを選んでいくことが生きてる証なのならば、
無数の道から選んだり選ばされたってそのいまを楽しめばいいんだと思う。


日々同じことの繰り返ししかしていないようにみえたら、
選択すれば自由の刑から逃れられるんだろうか。


だったら今はもっと、
その選択肢を広げていけたらいいのに。

$5udaのブログ-自由の刑
選択して渋谷のスクランブル交差点にきた人たち


2013.2.16
人には発達段階というものがあるのですが、

今接している子ども達というのは、

一般のレールとは違う道を歩んでいる訳です。


10歳の児童であっても、
2歳児と同じような段階が当たり前で、

しかもそれ以上の
タテの発達にはある程度の段階が来たら終わりなんだとか。


ただそうした発達終わっても、
経験というヨコの発達はいくらでもできるんだと。


いわゆる2歳児や3歳児でも、
意思や性格ははっきり個々人によって違うし、
学ぶ意欲もある。

ただデューイ的に言うならば、
2歳児3歳児には、
それぞれに見合った「生活圏の広がり」しかもたないのだから、
実年齢が10歳であっても、
2歳児や3歳児と同等の生活圏内で学べることに限られるのだろう。

だから、まわりの介助や支えが必要な人たちなんだと思う。


こうして考えてみたら、
今目の前にいる相手が例えば10歳児であったり、
15歳だったり、25歳だったりと、
年相応の発達段階を知らないあいだに彼らに求めてしまっているような気がした。


仮に「3歳児」だったら、
相手がトイレに失敗しようが食事をこぼそうが言葉が通じなくたって、
なにか通じるところはあるんじゃないかと見守ってあげられるんじゃないだろうか。


尚且つ、そうした行為に愛らしさや安堵感、生きた心地すら感じるのかもしれない。
だから自分たちも「3歳児」に尽くすことは、
そうしたなにかを得ていることでもあるんだと思う。


永遠に彼らは「3歳児」なんだろう。

そう考えたら、
今してることの意味だとか、
彼らの存在理由が、
なんとなくだけどわかるような気がした。

もう少し彼らの不思議な発達のレールに乗らせていただきたいと。


$5udaのブログ-発達
どこかへ通じるレール


2013.2.14
異文化は狭義で言うなら個々人で違うし、
広義ならそれは習慣・言語・思想とかの違いなのかもしれない。


今日、いきなりある児童が帰りの会で泣き始めました。
明日通院のため学校に来ないのだけれども、
学校にくるもんだと思ってたから、
ようは自分の思ってた明日とは違うから泣き始めたんだとか。


自分の思い通りにならなくて、
心の葛藤があるなんて誰でもあるんだろう。

ほかの児童は、今家近くで始まった工事現場の音が怖くて家に戻る度に泣いてるんだとか。



確かに知らない世界のことはいつになっても怖いと思うのかもしれない。

小学生の頃住んでたフィリピンでそのへんでバスケをしてたら、
知らない外人に当たりそうになって、
その方からその方の言語で怒鳴られたとき、
母国語で言われるよりも不思議な恐怖心を仰ぎたててられたのは、
つい最近のことのように思い出すし。


そう思うと、
彼らは常日頃しかも帰る場所ですら異文化・異世界なのだから、
その中で安心感だとか安らぎを求めることは自分が考える以上に大変なんだろう。

まるで生まれてすぐ、
異次元にタイムスリップするようなものなのかもしれないんだから。


擬似的になんだけれども、
こうして彼らを通して今の自分をみれるのだから、
その異文化に接してもらっている自分は、
もっともっと彼らに感謝の気持ちを持つべきなんだろうな。


$5udaのブログ-異文化理解
同じ朝日もビルの窓越しにみると違ってみえる


2013.2.13
身体が震えるような感動。

覚えていないだけで、身体はその感動を覚えているものなのかな。


子ども時代にはまるでそれをあたかも自分がはじめて発見したかのようにはしゃいで、
その感動を感動のまま伝えてたような。

今はその表現方法が変わっただけなのかもしれないけど。



今日、ベテランの先生と仕事終わりに2時間程話しました。
今持ってる児童の現状環境だとか、過去について。


その中である1つの質問をされました。


「1枚の紙があって、
 ハサミを使ってその子は1度しか紙を切る力がない。
 連続切る力はもちろんないし、
 ハサミ分しか切れない。
 クラスには6人の児童がいて、
 残り5人は淡々と切ることができる。

 その1人の児童のために、
 どんな支援方法があるだろうか?」

と。


結果を言えば、
その児童が切れるところまで教員が切っておいて、
同時に切らせるんだとか。


個々の能力なんて違うし、
スピードだって違うからこその支援方法なんだけれども、
こうした障害持った子たちと触れるたびに、
そのことをよく考えるようになったかもしれない。

できたという達成感に違いはないんだなーと。


彼らはハサミで紙を切れたことに対して純真無垢に喜ぶ。


自分だってできたことに対して喜んでいるはずなのに、
いつの間にかそのハードルをあげていたのかもしれないな。


ハードルは常にあげていくべきだろうけど、
今できてることに、
できたと喜べたらまた毎日が変わってみえるのかもしれないなと、
ふと児童のトイレの後始末をしながら思いました。


$5udaのブログ-できたという達成感
何かに喜びを感じる少年


2013.2.12
誰でも1日の中で感情の起伏があるものかと。


電車の中でマナーの悪い人と乗り合せちゃったとか、
渡りたかった信号を渡れなかったり。
期待してたものが案外美味しくないとか、
そうでなくても職場でどうしても合わない人に気を使って仕事したり、
なんか原因はわかんなくてもむしゃくしゃしちゃたり、
家族のことだとなんかイライラするとか。


そんな負のイメージがある側面ばかりの起伏だけではないけど、
感情というのは、
自分を観察することで少しは見方が変わるのかもしれない。

どんな感情の時にどんな身体の反応をしていたか、
どんな身体の状態の時にどんな感情だったか。


そうやって感情を爆発させていくから、
感情もコントロールできるようになるのかもな。

感情なんて思うように出せばいいと思うけれども、
いつの間にか出せなくなってるんだよなあ。
どうしてなんだろう。


$5udaのブログ-怒りを抑える方法
誰だって瞬間瞬間で変化し続けている


2013.2.11
「先に生まれると書いて、先生。
 後に生まれると書いて、後生。
 中国ではどちらも学ぶ相手、という意味があるんだよ」

と、大学史の授業で知り合った北京大学の学生が教えてくれたよーな。



先週、職場体験ということで中学2年生の男子生徒3人が3日間学校に来てました。

担当ということで色々手配はしたのだけれども、
他学年に参加したため直接関わる機会はありませんでした。

ただ最後校長と面談するとのことで、同席することに。


彼らは、

「障害者と聞いて、最初乗り気じゃなかった。
 でも来てみると、なんとか仲良くなりたいと思って色々工夫して話しかけてみた。
 初日は全然うまくいかなかったけど、
 こっちが心を開いたぶん、打ち解けていったような気がして嬉しかった。」

「担当の先生から、『教えるということは、目的を持って接するということだと思うよ。
 ただ子ども達と接するだけでは、教えるということではないんじゃないかな』と
 言われたけど、そうやって接してみるとなんかいつもと違う感じがした。」

「ただただコミュニケーションを取ることが難しかった。
 普通なら言葉で分かり合えることが、言葉が通じなくてなんか違和感があった。
 でもこうして1つ新しいコミュニケーションの仕方を学んだんだから、
 将来なにかに活かしていきたい。」


と、各々思うことを素直に話していました。

職場体験に来ていた彼らに学んだ、とても有意義な日々でした。

また彼らと出会えた子ども達も、きっと嬉しい気持ちになったんだと思います。


$5udaのブログ-後生
6年前ボランティアで知り合った特別支援学校の子ども達


2013.2.10
やる気・根気・呑気

とは、いま担当のベテラン教師が教えてくれたことです。


やる気がなければ児童はそれを感じ取るし、
根気がなければやり取りなんて続いていかないし、
呑気なぐらいじゃないとあれやこれやイライラしてしまう。

こういう3つの気が大事なんだとか。


別にカテゴリ分けする必要はないんだろうけど、
自分が一番感動したベテラン教師の姿勢は、
26年間児童の観察日記を書き続けてきたこと。

毎日向き合おうとした結果が日記というか実践観察なんだろうから、
その眼はほんとにすごいと思った。

なんだって続けるには理由があるんだと思う。
ベテラン先生が続けている理由は、子どもがよりよくなるためであって、
過去を見返したとき、それが手本となってまた今から始められるからなんだろうか。


そんな先生と出会えたことがよかったです。
この感謝はきっとまた、新しい出会いを生んでくれるんだろうと思います。


$5udaのブログ-やる気・根気・呑気
おじいちゃんと孫娘


2013.2.7
いわゆる障害者は、

「同じとこ違うとこ」のある人と言われるそうで。


その本では、
どこら辺が同じで
どこら辺が違うのかが
丁寧に書かれていたのですが、


とりあえず全く違う存在ではない

というのは、よくよく分かりました。



トムクルーズも高機能自閉症らしく、
台本を読んでもらって暗記して芝居に臨んでいるんだとか。



そう聞くと努力のアプローチは人それぞれなんだなと。


誰だって壁にはぶつかるし、
それに対する内なる気持ちなんてのはなかなか人には説明しづらいし、
それでも努力を続けてみると、ふと乗り越えてる自分に気づいていくのかも。


根気よく毎日同じことを繰り返す彼らを知っていくためには、
自分も根気よく何かを続けていかないと彼らの気持ちは分からんのかなとふと感じました。


$5udaのブログ-同じとこ違うとこ
工事現場に立ち続けるおじさん


2013.2.6