週末に友人と上野でやってる
「great journey 人類の旅」
なるものをたまたま見に行ってきました。


アフリカに生まれた人類が、世界中に拡散していった人類最大の旅路を、
イギリス人の考古学者ブライアン・M・フェイガンが
「グレートジャーニー」と名付けたことからそう呼ばれるんだとか。


探検家で医者でムサビの大学教授でもある関野吉晴さんは、
その旅路を動力を使わないで8年弱かけて人力で渡ったらしい。
各地で暮らす人々との出合いや
壮絶なる自然と真正面から向き合う彼のみてきた景色が展示会ではみることができました。


干し首だとかミイラがこの展示会のメインみたいで押してたけど、
ひっそりと立っているコラムの方がすごく魅力的な会場でした。


ものをたくさん持っているならそれを分け与える村の話があったり、
狩りで成功しても威張らない気風がある村の話だとか、
生活のためには嘘をつけばもっと鯨取りができるのに
「嘘」すら思いもつかないおじさんのエピソードだとかが紹介されてました。


他には村々で出会った人たちの背景が、
写真とともに
いろんな感情とともに
それは伝えてくれました。


その中にエジプトでは当たり前の共同水飲み場のことが描かれていました。
水が少なく貴重なものなのに、
どの村でも誰でも飲める共同水飲み場があるとのこと。
いつ水がなくなるかわからないし、
自分が旅した際にあれば嬉しいし、
いつ旅人が訪れても飲めるための場所なんだとか。

本当のところは知らないけれども、
今読んでる星の王子さまのお話の中でリンクする場所があったもので
とても印象深い一枚のコラムでした。


この本の中では、
見えない井戸探しを王子とパイロットは始めます。

王子が
「砂漠が美しいのはどこかに井戸を隠しているからだよ」
と言うと、

「もの」ばかりみていたパイロットが
「関係」を気づき始め、
この井戸は急に彼らの目の前に現れはじめました。


井戸というのは
この本の中では
「きづな」という例えだったのかもしれないと。


どこから汲まれた水かは分からないけれども、
水を飲む時、
その運んできてくれた人の姿が思い浮かぶというのは、
水がなにかのつながりを作ってくれていたんだろうなと。

いきなりそんな井戸が目の前に現れたら
嬉しいなと思いました。


$5udaのブログ-井戸
展示会前にいた何かの井戸をみつけた子ども


2013.3.18
振り返れば1月に日本に着いてから、
一度引越しをして、
もしかしたら今月末にはもう一度引越しをしなくては。


1984年の世界では、
こんな自由は許されない。

記録を取ること(もちろんブログや日記は禁止されている)
好きなものを買うこと
行きたい場所に行くこと
気になる本を読むこと
等等

この世界では重罪になるし、
常にどこでもテレスクリーンというものが存在し、
行動はもとより思考が監視される。


自分たちの権益のために支配し、
権力を維持する、
責任を負うことの無いエリート層を仮定しているのにすぎない姿が描き出されている。


ついにはそんな異端思考に至るのは
言葉が存在するからなんだと行き着き、
言葉の淘汰が彼らのいう主義に則って行われ、
貧しき言葉のみでしか表現できない時代がここにはあった。



英人ないしは米国もそうらしいけれども、
知ったかで読んだことがあると言ってしまうランキング1位のこの書物は、
いかにも有り得そうな近未来を既に当時から暗示しているし、
小説なのに随録で終わる不思議な1冊。



どうして彼等は言葉を恐れ壊し続けたんだろうか。
主人公は挑戦し信頼し裏切られ裏切り絶望し希望していた。
言葉のもつ様々な感情の側面を随所で感じた1冊だった。


$5udaのブログ-1984
地元のカフェ


2013.3.13
「この暗闇の海のような平原。
 そこに灯るひとつひとつの灯火は、
 人間の心という奇跡が
 存在することを示している」


これもサンテグジュペリの書いた一節。


闇夜に聞こえる静かな波の音にどれだけ怯えただろうか。
真っ暗な海の彼方はまして一層漆黒に違いない。


ただ

「星が光って見えるのは、
 誰もがいつか、
 じぶんの星に
 帰っていけるためなのかな」

とまた彼は言った。


目の前の海が真っ暗でも、
空を見上げれば一点一点の星がそこにはあった。



死と常に向き合いながら続けた飛行船に乗り続けた先に、
彼は戻らぬ人となった。


きっと地上よりも雲よりもはるかに高い場所から彼がみていた星空には、
恐怖以上の美しさがあったんだろう。



$5udaのブログ-灯火
夜の地上からみえた灯火


2013.3.11
「ぼくたちは、
 たとえどんな小さなものであろうと、
 自分の役割を自覚したときだけ
 幸福になれる」


サンテグジュペリの本を読んでいたら、
こんな一節に出会った。


今の自分の役割はなんだろう。


広い世界のキャンパスの中であっても
一点は自分が占めているんだから、
それだけでも世界の一部分になるのかな。


$5udaのブログ-役割
渋谷駅前にある銅像


2013.3.10
本能というのは生への執着なんだろうか。

昨日友人と会ったらそんな話になった。


固形食が食べられない児童への食事の指導だったり、
トイレに行きたい、
これであそびたい、
みてみたい、
触ってみたい、
構って欲しい、
聞きたい等等、
今自分が見ている現状を彼に伝えると、
彼はそれは本能なんじゃないかと言っていた。



彼はかつてコロセウムに行った時に不思議な体験をしたんだとか。
それはふと頭の中にそして身体に、
昔ここで例えばライオンと格闘していた奴隷の姿が何故だかみえて。
そこでその奴隷は自由を勝ち取るための戦いに挑む。

これもまた誰しもが持っている生への執着の1つの現れなんだろうか。

なら、その生への執着が生きている限り知らず知らずに衰えてることも事実なんだろう。



潜水服は蝶の夢を見る
は昔みた映画で衝撃的だったものの1つ。

映画は唐突に始まり、
どの視点で描かれているのか一瞬見ている側は戸惑う。

脳梗塞で倒れた後、
意識ははっきりしているのに
左目以外は動かない主人公。


「あなたELLEの編集長でしょ。愛読者だったの」
という看護師の一言がきっかけとなり、
左目の瞬きの回数で文章を作りながら1冊の本を【書き上げた】。

潜水服が蝶の夢をみるかのように。


本能というのは衰えもするし開花もしていくんだろう。
昨日会った彼は終日仕事に打ち込みながら、
かつては出来なかった数学や物理を週末はオンラインを利用して学問に打ち込んでいた。
往復4時間の通勤時間には読書に勤しんでいる。
夢のために400万の貯蓄もしていた。
1年後には1000万は貯まっているんだろう。

停滞は本能の死を意味するんだろうと彼と会ってそう感じた。


$5udaのブログ-潜水服
高校時代を共に思い出した休日の匂い


2013.3.9
こないだ会った友人は営業をしてたんだけれども、
どうも営業成績は自分軸と相手軸に左右されてたんだとか。

社内トップの成績を上げていた頃、
不思議と親身になっていたし、
売上よりもその人に喜んでもらいたいという気持ちが強かったらしい。

そうしているうちに、
こう言えば納得させられる
売上もあがってくんだろう
信頼してもらえる
等々経験から学んでいくうちに、
段々と成績も下がっていったんだとか。


そういえば、
教育実習に行ったときに似たような経験をした。
英語を1学年4クラスに教えていたんだけれども、
もちろん同じ授業をやるのだから、
1回目より2回目、そして3回目と授業の濃度は蜜になっていった。
けれども、どうしてか必ず4回目のクラスではうまくいかず悩んだ当時。

きっと相手軸より自分軸だったんだな、と。


今いる場所でも、

「噛まれることよりも噛むことが辛いんだろうな。
 唾をかけられることよりもかける方が辛いんだろうな」

って思ったところから距離は確かに縮まったんだけど、
最近またうまくいかないなーっていう場面が多い気がする。

常に相手軸なんかで日々過ごせるのはニーチェ的にいう超人ぐらいだろうから難しいけど、
たまには自分軸じゃなくて相手軸で考えるだけでも、
現状は変わっていくんだろうな。


$5udaのブログ-軸
自分が彼を見ているとき 彼は異なる何かを見ていた


2013.2.26
今読んでるジョージ・オーウェルの『1984年』の世界には、
「憎悪週間」ないしは「憎悪二分間」という、
国民のための国によって制定された時間がある。

ひたすら国が決めた「悪」に向かって、
憎悪しまくる時間というユニークでアイロニーに満ちた表現方法なんかなと。


この世界では思考警察が存在して、
すべての人々の思考すらも管理し、
同じ「悪」に向かって憎悪することを強要するし、
拒むことは「蒸発」という死を意味する。


主人公は半ば内面では反発しながら自制を保ちつつあるものの、
二分間の憎悪を終える頃にはまわりと同じように発狂していることにはっと気づく。



こうした場面を読んでいると、
もしかしたら教育の観点から考えてみたら、
同じような現象が現実世界でもあるように思えた。


日々何らかの目的で教育に携わる一方、
テストや入試、就活もそうだろうし、
日々の何気ないやり取りに、
「どれだけできていないか」
「失敗することは恥」
「先生に認められることが大切」
等の学習がまわりに露呈されながら、
子ども達に蓄積されている側面も教育にはあるかもしれない。


日々2分間憎悪する『1984年』の彼らに重ね合わせてみると、
特に初等教育の時期に
「どれだけできていないか、できないか」
「どうせ、もう、だって」等々の諦め
「失敗は恥」
等学習することは、
まるで彼らが憎悪に雄叫びや発狂するかの如く、
ゆくゆくは子ども達の声にならない悲鳴になってしまうのだろうか。

$5udaのブログ-憎悪
今日会った見つめ合う子ども達


2013.2.23
よくゼミの教授がこんなことを言っていたよーな。



安易に物事を見えるもので判断してはいけない。
何か起こるからそれに対応するだけの症状主義では、
その場は凌げても
ゆくゆくその問題とは一層加速し深刻化するのだから、と。


胃が痛いからって胃薬飲んだところで現状は和らぐかもしれないけど、
放っておいたら実は他のもっと重い病気だったり。


人間関係うまくいかないって言って、
目の前の人に合わせてるだけじゃ他の人ともやっぱりなかなかうまくいかないもので。



大阪の体罰事件を巡る問題が起こってから、
やたらと暴力行為による問題早期解決のための文書がまわり、
ついにはそのアンケートと称して各校をそれがまわり始めました。

また教員の現場が原因による病気が多いとのことで、
それを防止するためのDVDも各校で全員が拝聴拝見することが義務付けさせられました。

付け加えるなら、国歌斉唱時の問題等も。


共産主義的なまたは組合的な意味合いはないけれども、
彼らのいう義務には権利を欠いた従順を意味するように感じた。


理想お言うならば国で問題視されるようなことよりも、
現場で問題視されることがもっと重要視されればいいのに。


障害児ということで両親が離婚し、
じいちゃんばあちゃんが代わりに面倒ている児童と接しながら、
今朝机上に置いてあった紙面を思い出して。


$5udaのブログ-症状主義
途上国の問題だってみてるだけじゃ分からない
身近な友人だってなかなか相手の困ってることは分からない


2013.2.21
カリキュラムとは戦後米から入ってきた教育概念で、
ラテン語の「走る」(currere)から由来した言葉。
走るコース、つまりランニングコースのことを意味する。


どういう学習をどの年代でするのか、
どこまでを学ぶべきでそれを把握するべきなのか。


そうした教育課程は、
顕在的カリキュラムと言われるもので、
一般的な時間割通りの学習内容を指す。

それに反して、
潜在的カリキュラムというものも存在する。

手を挙げた生徒のみだけを指し進めていく授業。
教師を尊敬するように仕組まれたイベントや、
退屈さの耐えること、座ったまま沈黙することを学んでいくこと。

これらは教員が意識していない学習になる。



もちろんそれを意識してるのかしていないのか、
教え手の意図していない言葉がけや道徳観を学んでいるのもこれに当たる。


今接する児童にももちろんカリキュラムはあるのだけれども、
それは個々人で違う。
時間割が違う訳じゃないけど、
学ぶべきハードルは個々人で調整している。



今日は着替えの授業で、
別にこちらが意図していなかった動作言葉がけで彼は眼を輝かせてくれた。
これもまた潜在的(Hidden)カリキュラムだったんだろうか。


こっちは真面目に学習に取り組んでもらいたいとなかなか言葉の通じない児童と、
だから眼で会話なら通じるだろうとおもってた児童とは、
5回唾をかけられながらも眼で訴えてみた。

その後6回目の唾をはかれて、
自分は断念してしまったけど、
児童は自分の意図してしていない何かを感じていたんだろうか。

なら児童のみていない、
彼らのいないところで、
どれだけ彼ら彼女らのことを思い考えることができれば、
それもまた彼らに通じるんだろうか。

$5udaのブログ-カリキュラム
子どもは何かを意思している訳ではないのに、それでも彼らに何かを学んでいる大人


2013.1.20
米の詩人・エマソンは、
「雑草とは、その美点がまだ発見されていない植物である」
と言ったそうで。


彼は18歳でハーバードを卒業後、
神学校に学び、ゆくゆく自由進行の立場から離れて、個人主義を唱えていった。


哲学者であり、作家であり、詩人であり、エッセイストの彼の雑草にも眼差しをむける言葉は、
なんとなくだけれどもすっと心に落ちてくる。


「毎日毎日をきっぱりと終了せよ。
 あなたは全力を尽くした。
 確かにヘマもやったし、馬鹿なこともしでかした。
 そんなことはできるだけ早く忘れよう。
 明日は新しい日だ。
 明日をつつがなく、静かに始めるのだ」


彼も早く忘れたい1日があったのかもしれない。
誰かを励ますための言葉だったかもしれないし、
結局自分で自分が励まされていたのかもしれない。


雑草は静かに明日を生きはじめるんだろう。
そのままの何も飾らない姿で。


$5udaのブログ-雑草
岩手釜石に生え始めてた雑草


2013.2.19