いろんな考えの元になったと、
アインシュタインの相対性理論ないしは一般相対性理論は評価されている。

彼は、

「時間は絶対ではない」
「それぞれの見方で違っていい―つまりは相対的なのだ」

と言ったんだとか。


最近では今月初旬に暗黒物質の元になるのが見つかったそうで、
例えるならぷちぷちの空気の入ってない結合部分がどうやってできているのか
少し解明されたのかと。


物事を相対的にみることの重要性は理化学的には分からないけれども、
物事を知るのに片方の見方で判断してしまう危険性というのは、
どの場面でも応用可能な考え方なんだなと今更しみじみ。


時間と空間の捉え方を根本的に変えた彼もまた、
自分たちと同じ1日を過ごしていた。


$5udaのブログ-相対的
春過ぎて
花風ともに
顔をかえ
青の先には
マレー海峡


2013.4.13
主人公が目覚めると虫になっていたという衝撃的な作品『変身』で有名なカフカは、
生前渡すことはなかった『父への手紙』で、
普通の人が平気で乗り越えられるハードルがとてつもなく巨大にみえていたことを
こんなふうに表現していたんだとか。


「たとえばこんな感じです。
 1人目が低い階段を5段のぼるあいだに、
 2人目は1段しかのぼれない。
 少なくとも2人目にとっては、
 その1段は1人目の5段を合わせたのと同じ高さなのです。
 1人目は5段クリアするだけでなく、
 あと何百段、何千段もクリアしていくでしょう。
 しかし、この人にとって、
 自分が乗り越えてきた多くの段のどの1つも、
 2人目にとって最初の高い1段がもっていたような意味をもつことはない。
 全力を振り絞っても乗り越えられない1段。
 この段によじのぼることはできず、
 ましてや次の段に進むことなど無理な話なのです」



あたりまえというのは小さな文化の中で常に移り変わりする
当然なこと・そうあるべきこと等相対的な基準な訳であって、
ただそのあたりまえがなければ、
その文化圏の中で生活する上では、
幸せの沸点に到達しづらいのかもしれないのだから厄介なものなのかと。


水や電気やインターネットが使えてあたりまえ
まわりに理解してくれる友達がいてあたりまえ
ベテランなんだからできてあたりまえ
初心者なんだからできなくてあたりまえ


あたりまえという言葉は、
過去の経験から今現在へ見通しをもったときに、
使われるのかもしれないけど、
一方通行の見方であることにはかわりないのかもしれない。


障害をもった人を目の前にした際、
このあたりまえは全く違うあたりまえになってしまうような気がした。

ただすれ違うお互いのあたりまえを共有していく度に、
お互いのあたりまえは意味を増やしていく言葉になっていく気がする。

$5udaのブログ-あたりまえ
タンザニア・ラエトリ遺跡の猿人家族の足跡化石をモチーフにした模型
彼らは彼らの道を淡々と歩いた


2013.4.9
久々にショーシャンクの空に、をみた。

「脱獄には600年かかる」
「ショーシャンク刑務所に新しい書籍が届いた。
 次の本はなんだ?
 『モンテクリスト伯』か。
 どんな内容だ。脱獄に関するもんだ」

等等、
ショーシャンクの空に、に多くの影響を与えてるであろう『モンテクリスト伯』。


最近読んだばかりだから、
このショーシャンクの空に、もなんだか違ってみることができたような気がした。


同著書は復讐するものされるものの巧みな人間描写が読むものを魅了するんだろうけど、
話の展開は時として何十年も経てしまうもんなのだから、
読者を瞬間にして時の旅人にしてしまう。



そういえば映画の中に出てきた言葉がとても印象的だった。


「必死に生きるのか。必死に死ぬのか」


劇中モーガンフリーマン演じるレッドは頑なに
刑務所内では希望を持つことを拒否する。
罪人には変わりないけど「よき人」をどこかで求め戒めていく過程で
自由のない務所の中でも美しいものをみることができ
まわりの人々さえも巻き込む温かい何かをもった人。

反してティム・ロビンス演じる無実の罪人アンディ・デュフレーンは、
そんなよきパートナーに出会えたけれども断固たる希望は決して捨てなかった。


レッドも結局はアンディと出会えて希望を持つのだけれども、
アンディはレッドが希望を失ったとは思えなかったから、
最後まで感謝を述べ続けることができたんだろう。
時として言葉というのはコトバに過ぎなくて、
本当の思いを包み隠すのに最適な道具なのかもしれない。


レッドの「希望を持つな」という優しいコトバがアンディに希望を与え、
アンディの感謝の行動はレッドに希望を与えた。


フランクリンの『夜と霧』でも、
希望を持つか否かが生死を決めるんだとかという箇所があった。


自分は罪を犯して刑務所にいるわけでもなく、
無実の罪でアウシュビッツのような収容所にいるわけでもないけど、
必死に死ぬ人必死に生きている人がそこには描かれていて、
自分はもしかしたら、
いつの日か虚しい老人と言われるような時間の過ごし方をしていることもあるのかなと、
映画をみながら思ってしまいました。


$5udaのブログ-ショーシャンク
劇中こんなシーンがあった
「独房室で1ヶ月も何やってたんだ?」
「音楽を聴いていたよ。モーツァルトをね」
「蓄音機もないのにか?」
「そうだ。心の中でだ。音楽は決して僕からは奪えやしない。
 人間の心は石じゃないんだ。
 音楽は人間の心を豊かにする。そう思わないか」



2013.4.8
「あの、不躾なことを聞きますが・・・・、
 あなたは卵が好きなのですか」


『モンテクリスト伯』『三銃士』で有名なアレクサンドル・デュマは、
ある劇を見に行った際、
隣に座る紳士が60種類の卵料理のレシピが書いてある本をみているもんだから、
そう言ったんだとか。

ある劇とは「吸血鬼」というもので、
劇作家になる夢をもって20歳でパリに出てきていた彼は、
ここでその「吸血鬼」の原作者シャルル・ノディエさんという紳士と出会うのでした。

ノディエはデュマの制作活動を後押ししてくれ、
当時有名大学出身者が当たり前だった作家界において
地方出身のなんの身分ももたないデュマが若くして売れっ子作家としてデビューすることに。


そんな出会いは誰の周りでも落っこちているんだろう。
損得・偏見とかのレンズを外して周りをみることができたら。


$5udaのブログ-卵
こうやって違う視点でみることも大事かも


2013.4.5
もともとは、Intouchablesというタイトルのフランス映画。

頸髄損傷で体が不自由な富豪と、
その介護人となった貧困層の移民の若者との交流を、
ときにコミカルに事実をもとに描いたドラマなんだとか。


「幸福の秘訣のひとつ、それは自分の不機嫌に対して無関心でいることだと思う。
 相手にしないでいれば、不機嫌などというものは、
 犬が犬小屋に戻っていくように、動物的な生へと舞い戻っていく」

「大げさに考えないで、ものごとをあるがままに見てみよう。
 実際、幸福であったり不幸であったりする理由はたいしたことではない。
 いっさいは私たちの肉体とその働きにかかっているのだから」


最近読んでたアランの『幸福論』の言葉と共鳴するかのような主人公たち。

障害を障害として捉えない彼らふたりの姿勢と印象深い温かい眼差しは、
出会いの不可思議さを表現しているようにも感じられた。


trailer
http://www.youtube.com/watch?v=0V8ZJ_8qARs

frence
http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=tJrnjP54OCg


2013.4.4
沖縄の言葉で、

なんくるないさは、
【何とかなるさ】

って意味の言葉らしい。


でもほんとは、

まくとぅそーけー
【正しいことをすれば】

って言葉が前にあるんだとか。


辞書的には、
「挫けずに正しい道を歩むべく努力すれば、いつか良い日が来る」という意味。


確かに何かしなきゃ何とかはならないだろう。
正しいことにはいろんな道や幅があるだろうけど、
ふとした瞬間何が正しくてそうでないのか確認できる友人がいてほしいし、
そういう友人でありたいなと。


$5udaのブログ-なんくるないさ
お坊さんに願うだけじゃ何も変わらない


2013.4.3
「自分はなんでこんなに悩んでいるんだろう」

同じことの繰り返しや毎日の変化のなさ、達成感のなさなどに空虚なるものを感じて、
ふと人生に対する理由なき疑問にかきたてられたりする状態というのは、
人間性心理学の基礎を築いたアブラハム・マズローによれば、
精神が高いレベルに達した人間が更なる心の成長へと飛躍的に向かい始めたときなんだとか。

「このままではいけないんじゃないだろうか」
という得体の知れない心のメーっセージが不安や理由のないイライラに。

こうした状態を高次病と名付けたらしい。



ようはネガティブを突っ切った先に本当のポジティブがあると言っているんだろうか。


ただ生きているだけの状態から、
生きがいやりがいある状態への変化、
と高次病についてどっかの心理カウンセラーは言っているけど、

今接しているダウン症や自閉症等の障害ある子どもたちというのは、
どんな生きがいややりがいがあるんだろうか。
もしくはないんだろうか。

いやきっと、
自分にはまだ分からない彼らの生きがいややりがいは必ずあるんだろう。


$5udaのブログ-高次病
毎日3匹の犬と散歩してるおじいちゃん


2013.3.24
生涯高校教師をやり続けた哲学者でもあるアランは、
著書『幸福論』の冒頭で不幸についてこう述べていた。


「私が言うのは、深刻な理由もないのに不幸な人たちだ。<中略>
 本物の不幸について、私は何も書いていない」


日曜雑話で毎週幸福についてプロポの中で書いてきてものは、
“本物の不幸”ではなく“不幸だと自分で思っている人”についてなんだとか。


後者は前者よりも時として深刻な二次災害をもたらしてしまうんだろう。


前者の例として、
周期的躁鬱患者、子どもに戻った老人、アルコール依存症や神経衰弱、
神経症、記憶喪失、失語症、腎臓結石、抑鬱病、不眠症などに罹った人びとや、
当時難破したタイタニック号の恐ろしい思い出を持った人々ではないかと言っている。

大した問題ではあるんだけれども、
更に彼は、

「ただ待つだけだったら、不幸しかない」

「不幸になったり不満を覚えたりするのはたやすい。
 ただじっと座っていればいいのだ。
 人が自分を楽しませてくれるのを待っている王子のように」

「気分に任せて生きている人は皆、悲しみにとらわれる。
 否、それだけではすまない。やがていらだち怒り出す」

と。


幸福が来るのを待つがゆえに、自分からは動かない。
だから不幸になるのだと。
動かないから、
どうせ~
もう・・・
だって・・・
~だから
等、反骨精神ならまだしも責任転嫁になりかねない。

自分自身が不幸の理由になっているんじゃないかと思うことは、
誰かしら少しは感じたことがあるんじゃないんだろうか。


ただ彼はその不幸の原因は案外単純だと言っている。

泣き止まない幼子をいくら病気だ遺伝だ親子関係だ、
と言ったところでピンが裾の部分にひっかかっていただけだし、
古代ギリシャのアレクサンドロスが誰も手懐けられない暴れ馬を大人しくできた理由は、
自らの影を恐れていたことを発見しその馬の頭を常に太陽に向けてあげたという。


恐怖や不幸を感じるのに身を任せて増長させるのではなく、
それを引き起こした“ピン”を探してみよと彼は何度も訴える。

不安、失墜、不機嫌、絶望等どれでも、
必ず原因はあるのだからと。



先日は7月並みの猛暑だったこともあり、
桜の花が咲き薫る頃、
学校では卒業式を迎えました。

当日は授業はなくいつものように彼らと接していると、
ある子が窓の外を指差し、
「あ、さくらー!」
と言ってました。

自分の背後にきれいな桜が咲き誇っていることに
その子のおかげで気づかせてもらいました。


大人は下をみながら子どもと話し、
子どもは上をみながら大人と話しているのかな。


彼らに小さなピンを日々みつけてもらっている様な気がします。


$5udaのブログ-ピン
桜をみるおじさん


2013.3.23
会うなり悲鳴をあげる
ものすごい勢いで拍手する
飛び跳ねる 何度も飛んでいる
手をぶらぶらしてる
身体ごと揺すって何かにノッテル
俺の身体にまとわりついてあれやこれやヤって欲しいとねだる
唾を吐いてる
爪をたてる
抱きついてくる
手をとりおねだりする
大好きーっと言ってくる


今日もいろんなメロディが奏でられるんだろう

そんな音がいつの間にか心地よくなってきたきがする


$5udaのブログ-メロディ
通勤路


2013.3.21
星の王子さまの作者テグジュペリは長い汽車旅行の際に、
フランスを追われて故郷の窮乏のなかへ帰っていく多数のポーランド人労働者と相席したんだとか。

その時の情景を『人間の大地』でこう言い表している。

「ぼくは、あるひと組の夫婦の前に腰をおろした。その男と女のあいだには、
 子供はどうやらわずか に凹(くぼ)みを作って、眠っていた。
 子供は、眠りながら寝返りを打った、するとその顔が、燈火の前に浮び出た。
 おお! なんと愛すべき顔だろう! この夫婦から、一種黄金の果実が生れ出たのだった。
 この鈍重な二人の者から、美と魅力のこの傑作が、生れ出たのだった。
 ぼくは、このつややかな顔、この愛すべき、とがらせた唇のやさしい表情の上にうつむいた。
 そうして、ひとり言をもらした、
 これこそ音楽家の顔だ、これこそ少年モーツァルトだ、これこそみごとな生命の約束だと。
 (中略)精神の風が、粘土の上を吹いてこそ、はじめて人間は創られる。」


歪んだ凸凹のような重苦しく生気のない粘土の固まりのような彼らも、
昔はきっとその子と同じような生気の輝きがあったに違いない、
そう彼は彼らをみながら感じていたらしい。


更に彼は続けている。


「ぼくを苦しめるもの、それは彼らへの施しのスープでは解決ができないものだ。
 彼らの身体のでこぼこでも、醜さでもない。
 それは何というか、彼ら一人一人のなかで殺されたモーツァルトだ」

私たちの中に眠る子どもの喪失を表したかったんだろうか。

子ども、というのはまるで自分が世界ではじめて発見したかのように
そのことを身体全身で喜びを現す。


そうした感動を忘れてしまったんだろうか。

「おとなはみんな最初は子どもでした
(でも、そのことを忘れずにいおとなは多くありません)」

と彼は言っているけど、
『星の王子さま』の中では
何かのきっかけで子ども心を思い出していく主人公の姿があった。


$5udaのブログ-粘土の固まり
両親と会って子ども心を思い出した日


2013.3.20