学習性無気力と言われるそうで。

長いあいだ抵抗することも回避することもできない
ストレスと抑圧の生活を余儀なくされた犬は、
何をしても意味がないと、
どうせ、だって、もう、
と学習し、困難から避難する努力や挑戦すら行わなくなるというものだとか。


特に病弱者(身体的なものも含む)等の
不自由な生活を余儀なくされる子ども達の教育現場にこの言葉は注目されてるらしい。


ただウィキペディアでは、

「病弱の児童・生徒は、生活規制のために一般的な学校での学習活動ができず、
 また、院内学級や訪問教育で対応するにも限界がある。
 加えて、教師との1対1での授業になりがちであるため、
 学習成果をほかの場で発揮する機会も相応に制限されてしまう。

 こういった状態で失敗を繰り返す場合、
 学習成果が出ない・学習をしても無駄だと考える状況
(いわば、失敗経験のループ・負のスパイラル)に陥ってしまいがちになる。
 この状況を、特別支援教育の場では「学習性無気力」と呼んでいる
(ただし、陥るのは病弱者とは限らない点に注意)。

 対応としては、他の学校の児童・生徒と交流する場を設けることを含め、
 成功体験を積み重ねるための場を設けるように周囲が配慮することが、
 病弱の児童・生徒のQOL向上にもつながると考えられている」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%A6%E7%BF%92%E6%80%A7%E7%84%A1%E5%8A%9B%E6%84%9F

と書いてあったけど、
この説明ではどうも教師の意図した教育がメインとして捉えられている気がするから、
教師にとって都合のいい解釈のように思った。

つまりは、
最高の教材である教員が一番児童に与えているであろう
無意識のうちでのセリグマンの実験は、
ほかの授業よりも尚正確に学んでいるんだろうから。



$5udaのブログ-セリグマンの犬
彼は楽しかったから人前でも手をたたいて喜んだ
失敗は恥じらいの気持ちを作ってしまうんだろうか
だったら失敗なんてなくなればいいのに

2013.5.22
こないだの週末、LGBTに関する日本初公開映画call me kuchuをみてきた。

https://www.youtube.com/watch?v=52EYw9WZyF8


ウガンダでの同性愛者に対する見方がここでは描かれていた。


例えば、こんな法案が提案されてるんだとか。

同性愛者が同性と2度以上性行為を行った場合、
また同性愛者が障害者、未成年と性行為を行った場合死刑。
それを目撃したものは24時間以内に通報しないと3年以上の禁固刑。

映画の中ではこんなシーンもあった。

いきなり自分の顔が朝気づくと大衆新聞に場所も掲載されていて、
仕事はもちろんなくなり、
地元住民は彼や彼女に対して罵声だけでなく投石や身体的精神的暴力を行使していた。


暴力の構造だとか権力関係、メディアの影響力とかいろんなことを考えさせられた。

アメリカのキリスト教右派や国連、さまざまな人権団体がここでは出演してたけど、
今多くの時間を接するのが障害児なんだろうか、
どうもマイノリティというものに対して印象づけられた映画だった。


マイノリティというのは組織や社会に属する限りどこでも存在するものかと。
目に見える形ではそれは明らかに誰しも経験していることだし、
精神的なとこではもっと多岐に渡るのかもしれない。


今日は作業療法士の人と少し話す時間があった。
日頃接する子どもには日常生活をするにはいろんな不都合があると言われる子が多い。
彼の話を聞いていると、

姿勢が悪いとか(礼儀正しくないとふと思ってしまう自分)
着替ることが難しい(着替えられないとふと感じてしまう自分)
歩き方が不安定
手の機敏性がない(とたまに思ってしまう自分)
等等

困難ではないかと自分が思っていたことが実はそうではないことが理解できたような気がした。


と同時に、多数派だと勘違いしてる自分もまたマイノリティだと思った。

マジョリティだってマイノリティだって、
尺度さえ変えてしまえばその値は常に変動してしまうのではないかと思ってしまうから。


$5udaのブログ-マイノリティ
自分が多数派でも少数派でもいいけど
多数派なら少数派を考えたいし
少数派なら多数派を視野にいれたい


2013.5.21
歳時記には昔の宮中の行事だと記されているんだとか。

陰暦4月朔日だから今の5月10日を指すらしい。


当日宮中では装束だけでなく、
帳のかたびらも夏使用にかえて、
ついたても取り払うし、
畳もかえるおっきなイベントだったんだとか。


今年GWはじめに北海道では雪が降るし、
かたや首都は夏モード最中の豪雨少々。


気候に合わせて気分が変わるよりは、
気分を変えるために雰囲気を変えることは大事なことかと。


1日の中でもそんな更衣みたいな時間があればどれだけいいんだろう。

そのためにも時間は投資しなくちゃいけないけど。

自分にとってはなんだか今でも続いてるランニングが、
どうも文字通りでも気持ち的にも1日の中での更衣になってる気がする。

更衣ってこんな使い方ではしないだろうけど。


$5udaのブログ-更衣
自分で更衣できないときは誰でもあるし
そんなときは誰かに頼めばいいと思う
更衣さえ終わればきっと今の嫌な気持ちは晴れていく


2013.5.16
明日を迎える日々は嬉しいけれども、
同時に明日を失う悲しさがある。

明日を迎える日々は虚しいけれども、
同時に明日を創る刺激がある。

明日はいつだって訪れる。


$5udaのブログ-あした
明日を直視できないときは鏡越しにでもみてみればいいと思う


2013.5.9
普段使ってる言葉だって、
例えば外人が使ってるとニュアンスの違いから、
何気ない日本語の豊かさを感じることがある。

本だって友人だって仕事だって環境だって、
付き合っていく中でいろんな顔をみせてくれるんだろう。

たまにはそんなきっかけがそっと現れる。
気にしなかったら指の間からしゅるしゅると抜け落ちていくような出会いだろうけど。


http://www.youtube.com/watch?v=IIuz6fUtfRE


$5udaのブログ-捉え直す
フランス人の友人は何かを変えたいとき、
それは他人の意見でなく自分の意思でしか変えられないといった



2013.5.7
漆黒は漆器の黒という物質を提示しており、
無彩色でありながら光の反射による微妙な彩りを否定しないという色なんだとか。

漆の木は枝が折れたり虫や動物に傷つけられたときに、
漆をにじみ出して傷を守ろうとするらしい。

また漆の語源は「うるわし(麗し)」とも「うるむ(潤む)」ともいわれ、
水に濡れたようなみずみずしい漆の艶やかさを表したものだそう。


水と木と人を含む漆は、
生えている場所や季節、当日の天候、職人によってその魅力を変えていく。

そして採取後、木は枯れる。
新芽に命を託して。

漆器に重ねられた黒の層は薄くみえるけど、
東洋の悠久な時間の層を感じ考えさせられた。



傷の痛みを覚えているから、
漆器になったとしてもどんな色をも受け入れられるのだろうか。



漆黒は純白の前では陰になる。
清らかさの異名を持つ白は、
人間の目に見える光のすべてを反射する物体から感じる色と言われる。
反射を否定と読むなら、
自分は漆黒になりたいと思った。


$5udaのブログ-漆黒
白い月と黒い空
月をみて撮ったはずなのに今は空しかみえない


2013.4.26
現実にあるかのようにみえて実は存在しないもののこと。
錯覚や思い違いを意味するんだと。


カントはこの仮象を2種類に分け、
1つを論理的仮象と言ったそうで。
これは論理的規制に対する不注意から生まれてしまうそうで。
ただこの仮象は解消可能だと彼は言ったんだとか。
だって、その見方を変えればいいのだから。

もう1つの超越的仮象は厄介なもので、
例えば神の存在はそれに当てはまるそうで、
注意しても避けられない見方なのだとか。


ただ誰もがこの超越的仮象を持っているのかもしれない。
これだけは譲れない何か、
例えば思い出や経験したこと等
それは言葉的な意味からは乖離するんだろうけど、
こういう含みをいずれもつのかもしれない。

何か人間の理性によって証明できないものは超越的仮象というなら、
生まれて出会ってきた全ての瞬間はその状態と言えるんだろう。


$5udaのブログ-仮象
雲をみて人は水だと思ったり分子だと思ったり気球だと連想するんだろう



2013.4.25
こっちに進めばいいんだ
これは押せばいいのかな
トイレはこっちか


等等、
知覚が行動のための情報を提供することを
提供するという意味のアフォードから
米の知覚心理学者ギブソンが用いた概念。


どう行動すればいいのか知覚するだけで理解できるのだから、
日常の中で昔から多く使われてきているものなのかと。


彼の知覚観に基づけば、
生物は周囲の環境に適応することを目的に知覚していることになるらしい。


今自分は子どもたちに
いかに着替えるかその順番を教えるか、
トイレにどうやって行くか確認するか、
靴の履き方、
ごはんの食べ方、
お互いが理解し合える合図・道具、
ストレスの感じづらい日常生活のサポートのために
やっぱり自然とアフォーダンスを利用していた。
自分の用意した環境に合わせるためでもあるのかと思ったり、
子どもたちがより快適に過ごせるようにと思ったり。


アフォーダンスという考え方が、
何か優位に立ったものから与えられた概念なような気もするけど、
自分で自分のモチベーションを高めるために、
自分のまわりをアフォーダンスで固めることも
1つの方法なのかもしれない。


思い出の品というのもアフォーダンスなのだろう。
なにかその物から当時の心の中を垣間見ることができるし、
五感で何かを振り返り感じるんだろうから。
そうしてまた触れることで、
その思い出の品は生き続けることができるのかもしれない。

$5udaのブログ-アフォーダンス
何かものを捨てることはそれを殺すことなんだろうか
たとえ捨てることはできてもそのとき感じた感情までは殺せやしない


2013.4.23
悲しんだり楽しんだり、
喜んだり怒ったり。

昼の顔には太陽が昇り、
夜の顔には星々が昇る。

一点の光が。

その光をみたい。


http://www.youtube.com/watch?v=r9LCwI5iErE



$5udaのブログ-eye
いろんな光が灯る街


2013.4.18
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。
 よどみにうかぶうたかたはかつ消えかつ結びて、
 久しくとどまりたるためしなし。
 世の中にある人と栖(すみか)と又かくのごとし」


『方丈記』の出だしにはこう、

流れる川の流れは絶え間ないが、しかし、その水はもとの水ではない。
よどみの水面に浮かぶ泡は消えては生じて、
そのままの姿で長くとどまっているというためしはない。
世の中の人間と住まいも、これと同じなのだ、

と物事の移ろいについて描かれているんだとか。


この3ヶ月で3度目の引越しを終えて、
久しぶりに職場に。


鳥の目虫の目という視野の違いを現す言葉があるけど、
障害児と呼ばれる彼らも少し遠くから眺めてみれば、
大きな成長が何故だか今日は一段とみえた。

ものの移ろいはみえやすく伝えやすいけど、
人の移ろいはなんでかみえずらく伝わりづらいのかも。


$5udaのブログ-引越し
1Kに2つの2段ベットがる部屋


2013.4.14