野菜の花はなぜ可憐で品もあり美しいのか、という話があった。


観賞用に花のように派手でもなく華やかでもない。
いつの間にか咲いてはしぼむ。
野菜を得るための楚々とした小さな花なんだけれども、
美しすぎるからゆえの邪まなとこもなく、
揺るぎない品も持ち合わせている。


人に季節の味や栄養をもたらすし、
人の生活を凛として支える故に天から与えられた徳のあらわれではないだろうか。


そう解釈することでしか野菜の花の可憐な品は物語れないと、
そんな内容だった。


そして野菜の花に由来して人の話に続く。


美醜とは関係なく、
なんとも言えず品のいい顔立ちをした人がいる。
そういう人のとりわけ目はきれいだ。
視力が弱くてめがねをかけているとか、
目が大きいとか小さいとか、そうした表相的なものの底に深い目がある。
逆に人々に災いをなす者、悪意に満ちた者、自己中心的な者、
人から何かを与えられることしか考えていない者は、
やはりどこかくすんだ、濁った、不鮮明な人相をしているし、
目には汚れた光が沈んでいる。

野菜は生まれから咲く花や色や形は決まっているが、人は違うのではないだろうか。



人間の相、目の深さは、その人の心根や教養や経験や修練、
思想、哲学によって培われていくし、
生まれつきのまま不変だったり環境によって変化するものでもない。
ただ品や徳も、それによってもたらされる人相も目の深さも力も、
野菜の花と同じく、誰か人のためになるかならないか、
その存在の意義に依るのかもしれない、と。



ゲーテは40歳を過ぎると自分の顔に責任を持て、
と言ったそうなんだけど、
生き方が段々と顔に蓄積されていくんだろうか。



野菜のもたらす栄養は果実だけでなく花にもあるのかもしれないな。


$5udaのブログ-野菜の花
青い空の向こうに星がある



2013.6.30
10年間というと10年前をまず思い浮かべてしまうけど、
それはそれだけ10年間という時間が大きいからなんだろうか。


高次脳機能障害、こんな言葉を知った。


その人によれば10年間の記憶を失ってしまう病らしい。

もし彼や彼女が9歳ならそれ以上は戻れない。


そんな人を前にしたらなんて接するんだろう。
数少ない言葉や身振り手振りで。


いやいや、そんなこと言っても他の人と同じようにかかわるしかないよ。
いやいや、社会的弱者に優しくするのは当然だ。


もしそんな討論になってしまったならどちらでもいいのだけれども、
過去に戻りたいかと考えてしまった。


ガンジーは
明日死ぬとおもって生きるべきだし、
永遠に生きるとおもって学べ
と言っていたみたいだけど、
彼ならこうした人を前にしてなんていうんだろう。


きっとその人に合わせて生きろだとか学ぶべきだ、
というのかもしれないけど、
生きるだとか学ぶという言葉の意味が広すぎて時々道すらみえなくなってしまうのかな。


だったら過去の自分には何も言わず一緒にいてくれるだけでいいかもしれない。
言葉はときにうそでできたやさしさにすぎないし、
言葉のない言葉はときに一番の安心感を与えてくれるかもしれないから。


ガンジーならきっと言葉以外の言葉も駆使して相手に安心感を与えていたんだろうけど。


$5udaのブログ-10年間
10年の記憶を失っても忘れないことはあるんだろうか
現代医学では解明していない不可思議なつながりがまだあるのかと思ってしまう


2013.6.28
極寒の北海道で不思議な調べがきこえたことをふと思い出した。

あの音は風の音でもなく、
かといって雪の音でもない。

確かにきこえるその音は、
車の窓の外に広がる漆黒の隙間からしんしんときこえてくる。

街灯なんてもはやないところ。

夕刻になれば陽の光なんてもう届かないそんな場所。


自然が音楽や詩歌を行ずる訳じゃないけど、
そんな調べを最近きいていないような気がした。


そんな不思議な調べはふと思い掛けずやってくる、突然に。
しかも、ありきたりな調べに想いをふけっているときに。


$5udaのブログ-調べ
水面には幾重にもわたる調べがあるのかもしれないけど、
ある一点だけが自分にはとても大切な調べに感じる



2013.6.27
自尊心より大切なものはなんだろう。

自尊心を育てよと教育現場では謳われても、
詭弁だったとしてもほんとの自尊心を育むのかな。


人前で自尊心を傷つける発言はいいんだろうか、だめなんだろうか。


ときに人によっては自尊心を“傷”つけられることで
大きな目的のためならそれは滋養となるんだろう。
でもぐらぐらの自尊心だったら、
きっと“傷”つけられたら嫉妬や妬みとかの気持ちから
その心は憂鬱に変わってしまうんだろうか。


ビルゲイツが
「世界は君の自尊心を気にかけてはくれない。
 君の気分に関係なく世界は君が仕事を終わらせることを期待している。」
とは言っても、
さすがに無条件に自分の自尊心を受け入れる存在は必要なんだろう。
受け入れてくれる人に甘えるのが普通だし、
自分の自尊心ばかり気にかけるちいさい自尊心を中心に考えちゃいがちだから、
ビルゲイツもこんなこと言ってるのかもしれないけど。


心地よい自尊心ってなんだろ。
きっと自尊心より大切なものをわかってたり気づいてたりすることなのかな。


$5udaのブログ-自尊心
絶対的な自然はちいさな自分の自尊心を包んで解放してくれないかな
ちいさな自尊心だったら自分が自分の自尊心に支配されてることすら気づけないけど


2013.6.26
パスカルの『パンセ』にはこんなことが書いてあったと1年前の日記に。


自己愛とは自分のみを愛し自分のみを敬う存在で最も憎むべきものであるし、
すべての誤ちは突き詰めればこの自己愛に辿りつくんだとか。


そういえば『星の王子さま』には、
呑み助の星があった。


どうしてお酒を飲んでいるの?
との王子の問いに、

恥ずかしさを忘れるために飲んでいる。
何が恥ずかしいかって、
お酒を飲んでいることが恥ずかしい
という趣旨で応える呑み助。


自己嫌悪の状態も結局は自己愛なんだろう。
自分の醜態を他人にみせたくないと考えた挙句、
何かを誤魔化すように毎日を過ごさなくちゃいけないんだろうから。


$5udaのブログ-呑み助
呑み助と出会って、
おとなって、とってもとってもおかしいんだなあと、
王子さまは旅を続けながら考えていましたと


2013.6.13
子は親を選べない
子は親を選んで生まれてくる


その親もまた人の子


思弁的な言葉かもしれないけど、
子と親の関係ってどんなに複雑なんだろう


子は親に理性でなく感情で問いかけるのだろうか

親は子に何を問うことができるんだろうか



$5udaのブログ-子と親
蛇が蛇を産むのではなく、
蛇とならざるを得ないものは、
蛇を親とする以外に生まれる術はないのだ
という逆説的思弁はなんだか言葉遊びのようにも捉えられるかもしれないけど、
たまにはこんなことを考えてもいいと思う



2013.6.11
今読んでる本にこんな一文があった。


「蝶蝶が死なんように上手に捕らないかんぞ。
 捕まえたら、あとで逃がしてやるんだ。
 お前も捕らえられて籠に入れられるのはいやじゃろう。
 遊んだあとは、母さんのところに帰りたいじゃろ。
 蝶蝶も同じじゃ。
 蝶蝶もすぐに母さにのところに帰してもらえるとわかったとったら、
 お前の網の中に入ってくれよる」

「蝶蝶を安心させてやらにゃいけん。
 なんちゃ悪さをせんけん、
 どうぞぼくの網に入っちゃんなと頼んでみい」


小説の中では、50歳ではじめて子を授かる主人公が我が子にそう語っていた。


得たいものは、
欲でなくして感謝することから得ることができると言いたかったんだろうか。



チョウはキリスト教では復活の象徴とされ、
ギリシャでは魂や不死の象徴なんだとか。
日本でも仏が乗ってるだとか仏の使いだとかいうみたい。


人は超越的な何かをチョウに重ね合わせてみたそうだけど、
チョウだって生きるために羽を羽ばたいている。


だけれども大切な人との思い出がなくなってしまった途端、
チョウにその人との繋がりを求めるんだろうか。


ヒラヒラと淡々に舞い
不思議といつの間にか目を奪われてしまうあの羽に。


小説に登場する子どもも、
蝶をみるとき父とのそんな想い出を思い出すんだろうか。


$5udaのブログ-蝶
チョウの羽は生きてきた過程を表現する



2013.6.7
95年米で製作されたヒューマン系映画。

作曲家を夢見る主人公が高校音楽教師になるが、
嫌々ながらも真摯に生徒と向き合う中で、
彼の指揮はやがて演奏者だけでなくメロディの雰囲気や
場にいる人たちの居心地よさまで変えていく、
ような映画なのかな。

子を授かりそれは彼の音楽観や人をみる眼も変えてしまうのだけれども、
その場面は長い楽譜において不完全小節で終わるのでなく、
それまでのいろんな拍子と交じりあっていく過程が
自分にとってはすごく意味深いものだった。

映画を楽しむというよりは、
子ども観を見直すというか、
自らの穿った人を観る見方を一時だけかもしれないけど変えてくれたんだから、
ああいい映画を観たという満足感に浸れた。

フィクションにしても、
主人公を演じる彼の表情とか言葉の選び方とか、
彼をまとう空気がとても魅力的に感じた。



$5udaのブログ-陽のあたる教室
生きてる中で陽があたることなんてある方が珍しいのかもしれないけど、
だからといって陽が綺麗なことは忘れたくないな


2013.6.4
born into brothelsというタイトルの映画。

写真が伏線であるのは確かだけれども、
未来を写したく写していた訳ではないだろうから、
英訳のままの日本語タイトルでもいいかと思ったな。


インド・コルカタにはでっかなな売春窟があって、
もちろんそこには売春婦だけでなく、
そこで生まれた多くの子どもたちが暮らしている。

売春婦である母親の手伝いをし、
女の子であれば一定の年齢に達すると自らも客を取らされるようになるのも現実。



「役立たず」

「いちいち言わないとできないのかい。このゴクつぶし娘」と母は言う。


それに対し娘は、
「母さんは好きだけどたまにひどいことを言う。でも母さんだからいいの」と答える。


彼ら子どもたちは母たちがどんな仕事をしてるかわかってる。
大変なのも知ってる。


「お金持ちになりたいと思わないな。
 どんなに貧乏だって幸せになれるんだろうから。
 受け入れなくちゃ。
 悲しいことも苦しいことも人生だもんね」


「一度に2人倒せるぐらい強かったお父さん。昔でも今でも有名人なお父さん。
 母さんが出て行ってしまってからは誰からも無視されるような人になってしまった。
 でも父さんだから好きでいたい」


「この街は汚い。
 田舎だってこんなには汚くない。
 食べ物の横に靴があるんだ」


「母さんが死んだ
 台所の事故で
 実際は男が火をつけた
 女は焼き殺された
 警察の調査はない
 売春をしていたから?
 赤外地域だったから?」


現実の生活に直面する彼らのみている世界が彼らの言葉で伝えられていた。



彼らのほとんどは一生をこの売春窟の中だけで暮らし、
未来に夢や希望を持つことを許されない過酷な運命なんだとか。


NYで活動するフォトジャーナリスト、ザナ・ブリスキさんは、
1998年からこの売春窟での取材を開始し、子どもたちの現実を目の当たりにしてから、

自分の出来る活動、

カメラを彼らに与え、写真教室を始める、、

その活動を繋いだものが映画の中に収められていた。


写真を撮ったある少年が語っていた。


「たとえ死んだって、
 写真に撮っておけば、
 一生会い続けられる」


彼は支援を得ることができた数少ない1人だけれども、
高校から米に渡って学問し、今や青年に。


自分は今なにをみているんだろうと、
映画をみている自分にシャッターを向けたくなった。


$5udaのブログ-未来を写した子ども達
今を写すことは未来を写すことなのかもしれないけど、
今を写すことは今の自分にはなんだか難しい
インドで出会った彼ら
今何をしているんだろう


2013.5.29
西を向けばネパール、
東を覗けばブータン、
南を振り返るとバングラデシュ、
そんなところに位置するインドの北東部ダージリン。

ここは世界遺産にも指定されるダージリン・ヒマラヤ鉄道。
動く世界遺産は登山しながら色んな景色を見せてくれるんだとか。


映画の中では父の他界を機に離れ離れになっていた3兄弟がここダージリンに集まり、
兄弟の絆を深めつつ抱えている問題を乗り越えていく様子が描かれている。
コメディ調なんだけど3兄弟が迎える出会いと経験は、
なんだかそこに描かれる事実とは違うものをみせてくれたような気がした。


インドは喜怒哀楽の国って言われるんだとか。
人との出会いに喜び、
人に騙され怒り、
人の別れに哀しみ、
人に楽しみ方を教えてくれる
と自分は読んでみたけど、
またインドに行けばそう想うのかな。


$5udaのブログ-ダージリン
みる場所や気持ちも違うからなのか
月のみえ方も違ってみえる


2013.5.28