今日は久しぶりに本に没頭した気がする。
久しぶりというと嘘になるけど、
なんだかゆったりした気持ちで本にのめり込めた。


文字の刺激のみがぶろぐへの刺激になりつつあるから、
単調な性格だなと自覚しながらも、
こうやって今の自分の気持ちを整理するツールがあるものだから、
夏から秋への移り変わりとともに、
また文字を通して衣替えをしていけたらと。



宮本輝の『幻の光』というのを最近読んだ。

人間死んだらどうなるのか、というテーマを掲げつつも、
主人公は突如夫を鉄道自殺でなくす妻の手紙という形で綴られている。
何の理由も分からぬまま愛するものをなくした彼女は、
生と死の境目も考える隙も与えられず、
その瞬間を受け入れなければならなかった。
ただ、手紙という形でふと心境を紡いでいった。

暗いテーマなはずなんだけどこの作品を読んでいると、
なんだか絶望に陥ったとき、
自分はその頼りない絶望する何かを丸み切った背中に現そうとするのかもしれないけど、
なんだかそこでしかみられないものもあると思うから、
あながち絶望することは物事の終了とは思えず、
死に象徴される負のみの側面は感じられないな、と思った。


ラオスできいた、
人は風から生まれてまた風にかえる、
という言葉がしっくりきているからなんだろうか。


とにもかくも、
自分の中での3年目の節目を迎えた気がする。

だからか、
「(人間の精を抜く)病気にかかった人間の心には、
 この曾々木の海の、一瞬のさざ波は、
 たとえようもない美しいものに映るかも知れへん」

と、心の深淵の微々たる変化によってもののみえかたが変わってしまうと
示唆しているように感じるこの一文になんだか心惹かれた。

また自分はそういう人の気持ちをみてみたい、
もの好きなんだなとも思った。


$5udaのブログ-凪いだり
海が凪いでも風はみえる
どんな風でも凪いでいられる人でいたい


2013.8.30
Philip Freneauって人が諳んじた、
the wild honey suckle(野生のすいかずら)の
なかに次のような文があった。


From morning suns and evening dews
At first thy little being came;
If nothing once, you nothing lose,
For when you die you are the same;
The space between is but an hour,
The frail duration of flower.

夜明けの太陽、夕暮れの露から、
君の小さな存在は生まれ出て来た。
何でもないものだったのなら、何も失うものはない、
死んだらもとに戻るだけ。
その間のへだたりは、ほんのいっとき、
花一輪分のはかない生涯。



彼がどんな風にすいかずらと出会って、
何を考えていたんだろうって考えることすら無駄だろうけど、
何万本ものなかでもその一輪に出会ったかもしれないから、
彼にとってはその一輪は結局他の花とは全く違う花だったのかもしれない、
と結局思ってしまう自分。

間接的にもその一輪の花を知れたのだから、
自分にとって他の花とは違う感触の花になった。


名も知らなかった花に名があると知ったとき、
自分ははかないものと思うんだろうか。
それともその時間は時計的な時間ではない時を刻んでいくんだろうか。


$5udaのブログ-honey suckle
日本では忍冬(にんどう)とも呼ぶらしい
冬を耐え忍び半常緑の葉の緑を保つその様に、
人知れず勇気付けられた人もいるのかもしれない


2013.7.29
20年ぐらい前のシュールコメディとかに分類される映画、
the man who knew too little.

https://www.youtube.com/watch?v=W2bMmtNRpI8


「人生は舞台」
と何度も主人公の彼はいう。


そんなうまくいくもんかね。
テンポよくすすんでいく過酷な状況に
あくまでも「舞台」と思い込んでる彼の姿に、
ものごとを疑わない強さとか、
ものごとは自分の考えとは違う道筋を辿っているいるのかな、
とか無駄に考えちゃった映画だった。


ただ、そのなんだか分からないけど淡々とこなしていく彼に、
魅力だとか強さだとか楽しみ方だとか、
そういうのも感じさせられた。


今1日の中でほぼずっと一緒に過ごす彼らの生き方は、
もしかしたら彼のような世界をみているのかもしれない。


知ることで分かることもあるし、
知らないことで学んでいることもあるのかもしれないのかな。


$5udaのブログ-the man
表参道のビアガーデンであった彼は、
2つ星レストランシェフのquarterのインドネシア人。
来年ぐらいには札幌に店を出すんだとか。
いろんな舞台があるんだなと。


2013.7.22
世阿弥の代表作品、井筒。


井筒は井戸のまわりを指して、
主人公の女性にとっては幼き頃に夫と遊んだ思い出の井戸らしい。


今読んでた本で能についての描写があった。



登場する主な人物は、在原業平と紀有常の娘。

この娘は、小さなときから業平を愛していたと。
お互い家は近所でよく門の前の井戸で遊ぶことも多かった。
そして、ふたりは井戸を覗き込み、水に顔を映し合っていた。


「互ひに影を水鏡、面を並べ袖をかけ、
 心の水もそこひなく、移る月日も重なりて、
 大人しく恥がはしく、互ひに今はなりにけり。
 その後かのまめ男、言葉の露の玉章の、心の花も色添ひて・・・」


その後、業平は娘にこんな歌を贈る。


「筒井筒、井筒にかけしまろが丈、
 生ひにけらしな、妹見ざる間に」


と、すると娘も返歌も贈る。


「比べ来し、振分髪も肩過ぎぬ、
 君ならずして、誰か上ぐべき」と。


意訳だろうけど、と前置きしておいてこんな訳が載っていた。


業平は

「小さいこと、この井筒と比べた私の背丈も、
 いつの間にか井筒を越してしまいました。
 あなたと逢わないでいるうちに」

と語りかけ、

「あなたと比べあってきた私の振り分け髪も伸びて、もう肩を過ぎました。
 あなたでなくて誰がこの髪を結い上げるのでしょう」

と、娘は応える。


そんな内容だった。

この時代、西暦800年頃なんだとか。

女性は成人の際、髪上げという儀式をしていたと。
そんな背景から考えると娘の返歌にはいろんな意味が含まれているんだろう、と。


帰らぬ夫を待ち続ける女性の霊が主人公で、
寂しさと喪失感を抱きながらも尚夫を想い待ち続ける愛情が主題となってるこの作品は、
地謡と4つの楽器が弱くも強くも響きあいながら、
死後の世界から生きていたときの自分をみる女の、
変わらぬ一途な愛をよくよく表現しているらしい。


終盤、亡き業平形見の直衣を身にまとった娘の亡霊が、
地謡の「生ひにけらしな」につづいて、
「老ひにけるぞや」と語り、
亡霊は井筒のなかを覗き込み水に映ったものをみて、
「見ればなつかしや」と語り、左の袖と扇で面を隠して膝をつく。



伊勢物語も古事記も源氏物語も四書五経も身近ではなかったけど、
なんだか日本文学のことについてもっと知りたくなった。

終盤のこの場面をみに行きたいと思った。


$5udaのブログ-井筒
「生ひにけらしな」とかつてはこの井戸で聴いた言葉に
どんな想いで「老ひにけるぞや」と彼女は語ったんだろう
理由は知らずとも日本語がきれいだと思った



2013.7.15
1970年代のニューヨーク市警に蔓延する汚職や腐敗に対して、
自分の意思を貫いたフランク・セルピコの実話を元にした映画。

https://www.youtube.com/watch?v=qKtqKft86SY



妥協を許さず、賄賂には徹底して上層部とも命を呈して争ったり、
それでいて好きな人の趣味であるバレエをしてみたり、
警察の立場や警官としての振舞い方に1つの信念をもっていて、
実直に淡々と行う姿が描かれていた。


自分の生活に段々と甘くなるのはどの時代でも組織でもそうなのか、
お金や社会的立場で着飾り、
それをもって称賛されたいと願うようになるんだろうか。


またまた『星の王子さま』には、
うぬぼれ男のいる星があって、
彼は彼しかいない星なのに、
王子の称賛を求める。

この星でいちばんハンサムでお金もあって、
おしゃれで頭もいい、という称賛を。


そういう称賛っていうのは、
環境によって変わる流動的なものなのだろうけど、
汚職や不祥事の隠蔽にはまってる映画内の警官たちは、
大なり小なりそんな称賛を求めているように感じた。


うぬぼれ男を纏った人は、
年収だとか服装だとか学歴だとか何を食べてるだとか、
そんな話がいちばん好きなのかもしれない。


セルピコはそういう大物気取りした人が大嫌いだったみたい。


わるい称賛は一時的な気持ちよさだけかもしれないけど、
いい称賛は時間がたってもふとした瞬間に思い出すものなのかもしれない。


$5udaのブログ-セルピコ
「称賛してくれよ」と言ううぬぼれ男、
「何が楽しいんだろう」と思いながら「称賛する」と言ってあげる王子さま、
そしてその言葉に酔いしれるうぬぼれ男。



2013.7.14
ぼくは嘘のくしゃみをしました。
あなたに優しいことばをかけてもらいたくて。



わたしは嘘のくしゃみをしました。
あなたにただ振り向いてもらいたくて。



でも、嘘のくしゃみをすると怒られる。変な顔でみられる。
それでも嘘のくしゃみは出てしまうのです。
あなたが何も気にかけなくても。
いつか気づいてくれると無条件に信じてしまっているんだから。


$5udaのブログ-嘘のくしゃみ
嘘のくしゃみは涙とか表情だとか言葉じゃないものによく変わる



2013.7.11
いろんな目がある。


感情の機微がそこには現れるんだろうか。

ふとした瞬間の何気ない心の気持ちが目には出るんだろう。

だからその目に安心もするし、
ときには不安を感じるのかもしれない。


ダヴィンチはある音楽家の友人の瞳をとても魅力に感じたそうで。

演奏を終え一息ついたその瞳の輝きを1枚の絵画に描きあらわした。


その吸い込まれるような瞳の彼は、
また同じ瞳で演奏を続けていったんだろうか。


$5udaのブログ-まなざし
額縁の外の人たちはどんな目だったんだろう


2013.7.8
心の中を旅してみよう。
そこには千の山と千の川があり、
その先にはまだ見ぬ世界が心の中には広がっているのだ。


と、確か中国の誰かが言っていたようで。



この言葉を知ったとき、
山本周五郎の『ながい坂』には次のような一説を思い出した。


一足跳びに山の頂上にあがるのも、
一歩一歩としっかりと登ってゆくのも、
結局は同じこと。
むしろ一歩ずつ登るほうが
途中の草木や風物を見ることができるし、一歩一歩を
たしかめてきたという自信をつかむことができる、と。


何かは何かとつながり、
何かがなければ何かにならず、
何かはいろんな色を彩り、
何かはいろんな音を奏で、
何かはいろんな形になっていく。
匂いもするかもしれない。
温かいかもしれないし、冷たいかもしれない。
嬉しさ悲しさも混じってるのかも。
ただ何かは一歩と同義語のような気がする。


自分の一歩を知るのは難しいことだし、
ましてや他人の一歩は知り難い。
ながい坂をみんなそれぞれの歩調で歩いているんだから。

彼らの歩調を知りたいと今日は無性に感じた。


$5udaのブログ-何か
眼前に広がる草原には何かがたくさん歩いていた


2013.7.3
こないだ上野にある東京都美術館展覧会でやってたダヴィンチ展に行ってきたら、
「地獄いきの男」
という小さな1枚の絵があった。


裸体の体格のいい男は顔面を両手で覆い、
少し上向きになりながら何かを叫んでいるような絵だった。




話は変わると、
キルケゴールは『死にいたる病』で、
絶望こそ人間が他の動物とは異なり人間たらしめるものだと言っているそうで。
絶望とは今この環境を捨てたいけれども捨てられない状態とでも言い換えれるんだろうか。
絶望してるときは別段悲しんでいるようにも苦しんでいるようにもみえないものなのかも。
本人も自覚しているわけでもないし、
安定や生きがいの中にひっそりとそれは暮らし続けているのかもしれない。
刺激という雨が降らない限り、
池の奥底にある自分さえもみえない沈殿物は浮かび上がってこないのかもしれない。
そんな沈殿物が自分にあることがわからない状況も、絶望に他ならないのかも。



「地獄いきの男」が絶望から憎悪や怒りを創りだすなら、
さらにいろんな病にかかりながら地獄に居続けるだろうし、
もしその自己愛からくる感情を理性をもって抱擁できるなら、
地獄でさえも居心地よくできてしまうのかもしれない。


$5udaのブログ-地獄
「地獄いきの男」は惰性・無関心に姿を変え、
人がいるところに暮らし続けるかもしれない


2013.7.2
一年之計、莫如樹穀、十年之計、莫如樹木、終身之計、莫如樹人

という諺が中国にはあるんだとか。


一年の計は穀を樹うるに如くは莫く、
十年の計は木を樹うるに如くは莫く、
終身の計は人を樹うるに如くは莫し。


人も立派に育つには時が必要であって、
自分の時もまた自分のみの時ではないことの示唆なんだろうか。


アメリカ先住民の言葉に、
大地というのは未来の子どもたちに借りているもの、
という考え方があるそうだけれども、


自分という人もまた親から譲り受けたこの身であるとともに、
子のために譲りゆくべき身であるとも読めるんだろうか。


と、たまにはちがった視座に立ってみるとき、
子どもをみる目も自分をみる目も少しは変わってみえるのかもしれない。


$5udaのブログ-人は100年
10年の木は多くの人を物質的に支える
100年の人は人のなにを支えていくんだろう



2013.7.1