神は赦しを与える御方です。神は自分自身の罪を知り罪を悔い改める者には赦しを下さる御方です。私達の主イエスはあなたの罪を背負い十字架に架かり死んで下さいました。彼は死んで墓に葬られ3日目に蘇りました。今も信じる人々を救う方なのです。

1)悔い改めなければ(1~5)
主イエスはガリラヤ人やシロアムの塔が倒れて死んだ人々は誰よりも罪深い者でしたか?誰でも悔い改めなければ滅んでしまいます。

2)ぶどう園の例え(6~9)
ぶどう園の主人はいちじくの木を植えてから3年以上経ってから、実を探したが見つかりませんでした。ぶどう園の主人は「いちじくの木を倒してしまいなさい。」と言われたのです。園の番人は「後1年待って下さい、それでもダメなら切って下さい」神は悔い改める者には、ぶどうの木のように実を結ぶことができます。(ヨハネ15:1~5)

3)病の霊に憑かれた女性の癒し(10~17)
主イエスは18年もの間、腰が曲がっていた女性を癒して下さいました。
○主イエスはご自分の下に信仰を持って癒しを求める人を癒して下さいます。

4)神の国の例え(18~20)
神の国はからし種のようである。又、神の国はパン種のようなものです。

主イエスの恵みがありますように。
人は、生まれた瞬間死に向かっていると言われますが、これは正確ではありません。人は、生まれた瞬間に永遠に向かって歩みだしたのです。その行き先が、神の国であれ、滅びであれ、永遠の世界に向かっているのです。もし人は、死で終わるか、人間の存在そのものが消えてしまうのであるなら、死はそんなに恐ろしくないかも知れません。もしそうなら「もし、死者の復活がないなら明日は死ぬのだ。さあ、飲み食いをしようではないか。」(コリント人への手紙第一15:32) ということに尽きるでしょう。

通常、私たちが死についての理解は「肉体の死」です。ところが聖書には、身体の死以外にも、「霊的な死」というのがあります。では霊的な死とは何でしょうか。それは神と人との交わりが無い状態です。神を信じないで、逆らうということが霊的に死ぬということです。クリスチャンは、霊的に死んでいることに気づき、方向転換して神との交わりを取り戻した人です。

そして、聖書にはもっと恐ろしい記述があります。それは、ゲヘナの滅び(地獄)です。これを「第二の死」と呼んでます。

「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ10;28)

このように聖書は、三つの死、すなわち身体の死、霊的死、そして第二の死があることを明示しています。
イエス・キリストを個人的に信じて救われるということは、神のいのちの回復をもたらすと言えます。

「神は、実に、そのひとり子(イエス・キリスト)をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)
だれも死んだ後に帰ってきた人はいません。聖書にごく一部の人が帰ってきてますが。ほとんどの人は、死を経験するのは初めてです。初めての道は、不安と恐れで一杯です。そこでイエスは「私は道」である。と仰せられました。
それは2000年ほど前に、イエスは降誕され、33年の地上生活を経験し、死んで、埋葬され、三日目に復活され、昇天されました。それは、私たちも誕生を経験し、生涯を送り、死んで、葬られ・・・、 ここまでは、自分が経験しなくても見聞きしているので知識があります。課題はここからです。私たちも肉体は埋葬されますが、いのちは天に招かれ「神の御前に」よみがえりを経験し「永遠を生きる」ことになります。なぜそんなことが言えるかというと、イエスがその先駆者となられ道を敷かれたのです。 要するに私たちは「天国行き」のバスに信仰によって乗る(委ねる)のみです。
今日まで人は「死後の世界」について多くの議論がされてきました。この課題は、神秘主義者たちによって神秘的に語られ、哲学者たちにとっては「ある・ない」に分かれ、宗教家たちには幻想的に語られ、知識人と称する人は、「唯物論」として死後はないと決め付けられてきました。一つの結論は、「分からない」ということでしょう。

そこで、聖書はどう言っているでしょうか。イエス・キリストはヨハネによる福音書14章で、弟子たちの質問に答えられました。それは、これから弟子たちを離れ・・・

「わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」

弟子トマスは「私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」そこでイエスは、彼に言われた。

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」と言われました。
わたしは、天地の造り主、全能の父である神を信じます。

わたしはそのひとり子、

わたしたちの主、イエス・キリストを信じます。


主は聖霊によってやどり、処女マリアより生まれ、

ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け、

十字架につけられ、死んで葬られ、よみにくだり、

三日目に死人のうちからよみがえり、天にのぼられ、

全能の父である神の右に座し、

そこからこられて、生きている者と死んでいる者とを裁かれます。


わたしは聖霊を信じます。

聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだのよみがえり、

永遠のいのちを信じます。

アーメン
私は、自分には値打ちも意味もないと考えていた。
生まれて来たから、死ぬまで生きていく。
生きているから何かをする。ただそれだけ。
自分と人を大切にしない毎日だった。

でも聖書を読んで生き方が変わった。
創造主によって造られ、
愛されていることを知った。
偶然に生まれたのではない。
私は創造主の知恵と深い配慮によって生まれた。
自分が高価で尊いことを知った。
高価で尊いから価値あることのために
生きるようになった。

神の目から見ると一人一人が高価で尊い。
何かができる人もできない人も。
たくさん持っている人も持っていない人も。

生まれてきたことを感謝している。
年齢を重ねることはすばらしいこと。
死んでいくことに安心がある。
私にとって死ぬことは創造主のもとへ帰ること。
すべての人が私を忘れても創造主は忘れない。

生きる喜びがわかった。
生きる意味がわかった。
生きる基準がわかった。
生きる方向がわかった。
死んだあとのことがわかった。

そんなすばらしいことを教会で知った。
すばらしい仲間を教会でみつけた。
何よりも私の創造主を教会で知った。

天にいます私たちの父よ。

御名があがめられますように。

御国が来ますように。

みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。

私たちの日ごとの糧を今日もお与え下さい。

私たちの負いめをお赦し下さい。

私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。

私たちを試みに会わせないで、悪からお救い下さい。

国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。

                     アーメン
「この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水が入ると、そこの水が良くなるからである。この川がはいる所では、すべてのものが生きる。」エゼキエル47:9
朝食

バナナ


昼食

トマトジュース 納豆 ゆでたまご 魚フライ ヤクルト ごはん
ビタミンC ビタミンB群 ウコンのサプリメント


夕食

ゆでたニンジン 納豆 ごはん
ビタミンC カルシウムのサプリメント


基本はこれだけです。