第9話https://ameblo.jp/5717-8507/entry-12726060109.html 


心身弱いとねぇつむつむhttps://ameblo.jp/5717-8507/entry-12666116592.html 



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第10話
〜精神疾患と診療中断の恐ろしさ〜

私は物心ついた時から、小学5、6年になるまで、記憶がおぼろにしかありません。

今思うと、それは機能不全家族に居たので、生き延びるのに精一杯だったからだと思います。
細心の注意をはらってないと、心がズタボロになってしまう為、子供の頃の思い出を覚えておける余裕が私にはなかったのだと思うのです。

数少ない残ってる記憶。
それは大抵、気持ちが滅入る物でした。

銭湯で着替えの下着がない時の記憶も、当時は何故そこまで、自分が下着無しで帰るのを嫌だと思うのか🤔その理由が、 実はあまり分かりませんでした。
単にホコリが舞って汚れるから···と思っていました。
けど、チラチラと頭に浮かぶ映像があったのも事実でした。

それは、過去にあった嫌な思い出が頭に浮かんでいたのです。

そこに集中すると、その時の事が、その場で今、まさに起こってると言う程、鮮明な画像になるのでした。
それが「フラッシュバック」と言う現象だと、私は知りませんでした。

今になって
「嗚呼、フラッシュバックなら、あんなに怖かったのもうなづけるなぁ」
と思います。

不幸なアクシデントで、あまり出会わない事だったと思うのです。
それでも多かれ少なかれ、似たような嫌な事に、他の人も出会うと思うんです。

けど、その後落ち着いてられるのは、事が起こったあとのフォローによってかなり変わると、思うのです。

特に幼い頃の不幸な出来事は。
多分ですけど、母親の声掛けでかなり違った物になったと思うんです。

普通のお母さんなら、巻き込まれた我が子を抱きしめて
「怖かったね!もう大丈夫だよ」だけど、
と言うと思うんです。
そして責めるのは、相手の男の人だと思うんですけどね。
そうしてもらえてたら、フラッシュバックなど起こさずにすむ精神状態になっていたと思うのです。

私の母は、私を責めました。
母は普通の人ではなかったのです。

母がよく私に言った言葉は
「あんたが悪い!」
でした。

今思うと、母は私が何をしても、責めるのはやめれない状態やったのかな···私は感じます。
きっと母は精神疾患を患ってたから、言動のコントロールが出来なかったのだと、今は思うのです。
しかも母は治療を中断してたから、余計にこじれていたから、母の言葉は刃物の様に私達を切りつけたのだと感じています。

前にも書きましたけど(第4話)https://ameblo.jp/5717-8507/entry-12711120819.html 


ざっくり振り返ると。

母は12歳からお寺に住み込みで奉公してました。そこで厳しいおばあさんに、厳しく躾られたのです。
けれど、躾と言えない事も言われていたそです。

母が1番嫌だった事は
「お寺のおばあさんが『お前は身分の低い出出なんやで。私らは葵のご紋の家柄。だからお前はこの家の誰より下の身分なんや。飼い犬よりも下の身分だと言う事を忘れないように!』って言われたんや!人間やなくて動物にも劣る身分やと!それがものすご嫌やってん」
と何度も怒って言ってました。

それでも帰る家がないから、手に職つけようと洋裁師を目指して頑張っていたそうです。

だけど寝る間を惜しんで頑張ったのが裏目に出て。
母は「飛蚊症」と言う目の病になり、医師から「洋裁はしないように!」と言われてしまったんです。

母は夢やぶれて、毎日厳しいお寺の仕事だけするようになり···。

気がついたら、希死念慮(死んでしまいたいと思う気持ち)にさいなまれるように精神が悪化してたそうです。

『死にたい』と思って床についたら、次に気がつくと、夜中なのに、踏切の横で立っていたそうです。

何回も電車が来る度飛び込もうとするのですが、やはり怖くてできない。
泣きながらお寺に帰ったそうです。

そんな事が続くと、さすがに奉公先の安寿様が、母の様子を不審に思ったようです。
母の日記をこっそり見たそうです。

そこには母がお寺で『嫌だ』と思っている事が、きちんと書かれていて。

安寿様は
「これはあかんわ」
と思われたのか、母を近くの精神科病院に連れていき、「躁鬱病」と診断を受けたそうです。
そして「希死念慮」が強い為、危険だから即入院になったのです。

しばらく入院して、状態が落ち着いたから退院になりました。
母はお寺に帰りました。
けど3ヶ月で、母は以前と同じような気持ちになったそうです。
それで母は新しい職先と、家を決め、10数年御奉仕したお寺を去ることにしたそうです。

その時、精神科病院の診察もなし崩しに辞めたようでした。

その辺の話しは母は、全くしませんでした。

ただ
「お母ちゃんなぁ。躁鬱やったけど。お寺から出て、自分で仕事してな。会社の人らと山に登ったりしててん。そしたら気分が良くなって、病気治ったんやと思うんや」
とは言ってました。

子供の頃は『そんなもんなんや』と思ってました。

けど、そんなに簡単に躁鬱病が治るんなら、精神疾患の人達が、みんな苦労しいひん···と今の私は思います。

実は私も。
10数年前に、2回目の結婚&離婚が原因で、鬱と統合失調症を発症した精神障害者なんです。
なので、そんなにすぐに治らへんわと、心底思います。

1度メンタル〜精神〜がやられたら、やはり弱くなってしまうんですよね。

それは何か精神に圧力(プレッシャー)がかかると、症状が出たり、再発したりすると言う意味です。

けど誤解のないように付け加えると、精神疾患になりやすい人は「真面目で我慢強くて、几帳面で完璧を目指す働き者」と言われています。

普通の人が
「まぁ今日はこの辺で止めとこかな」
と自分を守る行動が取れる 柔らかい考え方と行動が出来る人だとすると。

精神疾患になりやすい人は、途中で止めれず、硬い考えてしまい、限界が来てもまだ頑張り続けるような人なんで。

それでダムが決壊する如く精神疾患を発症するんだと、私は体験して感じました。

過ぎたるは及ばざるが如しですね。


ちなみに、身体の病でも、1度身体にメスを入れたら身体が弱くなると言われてます。

悲しいけどそれも現実です。
心も身体も、我慢しすぎて折れた所は、折れる前より踏ん張りが効かなくなるようです。

だけど、身体は目に見えるし、検査結果やレントゲン撮影で可視化出来ますし。偏見少ないから、本人も受け止めやすいのですけど。

躁鬱病や統合失調症などの精神の病は、目に見えないし、検査結果にも現れにくい。
まれに心理テストなど特殊な検査で分かる時もありますけど。
心理テストの結果も難解で、専門家でないと理解しにくいんですよね。

そして心の病は、現在でも偏見が大きくあり、患者本人だけでなく家族も、理解しにくいし受け止めにくかったりするんですよね。

令和の時代でも
「キチ〇イ」
とか
「弱い奴」
とか
「何するかわからん奴」
など言われてると思うのです。

母が罹患し、治療の中断をしていた頃は、今よりもっと精神の病に対して偏見が強かったと予想出来ます。

母は山登りで気分が良くなったから治った!と思ったようですが、私は治っていなかったと思うのです。

きっと母は自分が精神疾患になってると言う事を、否定していたのだと思います。認めたくなかったんだと思うのです。

ただ実際に入院した事も事実だから、そこは仕方なく「昔入院した」と認めて。

病になった原因をお寺のおばあさんの厳しさとかのせいにして、無理やり自分を納得させたのでしょう。

そして原因のお寺から離れたから、気分も良くなったので、完治したと思いたかったのだと思います。

けど、先に書きましたが、何かストレスかかると容易に再発する物なので。
父との結婚や2人の生活や
出産や育児
ご近所付き合い等
母の心に重くのしかかる出来事が沢山あったと思うのです。

本来ならストレスが母にかかった時、母を精神科受診させる人がいれば良かったんですけど。

昭和40年代では、好き好んで精神科の病院に行く人は少なかったと思うのです。

母本人も、精神疾患はもう治ったと思ってましたから、自ら受診はしなかったんだと思います。
代わりに自分は完治したことを、子供達だけでなく、お寺さんにも、繰り返し言って、完治を強調していたのだと思います。

かくしてあんな暴言マシンガントークの中断モンスターができたんやな···と、今の私は思います。


けど当時私は、母が言う「治ったんやで」の言葉を信じましたけど。

自分が看護婦として働くようになった時、私は
『お母ちゃんほんまに躁鬱治ってるん?
治ってないからあんなに怒りやすかったし。被害妄想や病的な潔癖とかがあったんと違うか?
治るというか、悪化してたんやないかなぁ。本人は自分に霊感があると信じてたけど。
まぁ私らも、お母ちゃんには霊感があると信じてたけど。
あれって···妄想や幻覚や幻聴やったんとちゃうかなぁ?
もしそうなら、統合失調症とかも発症してたのかもしれへん』
と疑うようになりました。
ですが、母に言っても納得しないと思い何も言わずに母の様子をみてました。
母は昔と変わりなく、不思議な事をよく言ってました。

例えば···。
母が私が幼い頃からよく言っていたのは
「良くない事が起こる!だって黒い影が来たもん!悪い事が起こる前には、黒い人が来るねん!」
とか。

買い物に行った時、久しぶりに出会った顔見知りのおばさんと話した後、くるんっと私の方を向いて
「さっき会った人! もうすぐ死ぬ!死相が出てたもん!死神ついてた!」
と必死の形相で言ったりもしました。


またある時は
「お母ちゃんにはなぁ霊感あんねん。
そやから霊がお母ちゃんに助けてもらえると思って寄ってくるねん。
この前も薄暗くて なんか気味悪い3畳の部屋で急に眠たくなって寝ててんやん。そしたらなぁ、足を冷たい手でグイグイって下に引っ張られてんやん!
あの世に連れていかれるところやったわ!」
とか、本当に怖がりながら話すのです。

子供だった私は、怖いと思いつつ話しを黙って聞いてました。

もちろん私も弟も、母の霊感の力を信じていました。

今なら
「体感幻覚(体の感覚で感じる幻覚)やん。病院行こ」
と言いますけど。
子供の頃は、母の言葉が全て正しいと思ってましたから、鵜呑みにしてました。

母は幼い自分の写った家族写真についても色々言ってました。


家には、母方のおじいちゃんとおばあちゃんと母と母の妹(私からしたら叔母さん達)が並んで写った古い白黒の家族写真がありました。

何故か前にお水と線香を立てる仏具が置かれていました。

物心つく前から、母は私達に
「この写真はな、お母ちゃんの子供の頃の家族写真や。ここに霊が写ってるねん。ほらここ!おばあちゃんの後ろのんは畜生と水子の霊や!あとお狐様もいてはる。おじいちゃんの後ろには、怖い神様も写ってはるねん。お母ちゃんらを護ってくれてはるねん。それとここは地縛霊やで!」
とこんこんと、いつも母はマシンガントークでまくしたてていました。

この写真の話しは、私は学校の同級生によく話していました。
聞いた子達はみんな「きゃぁ!きゃぁ!」と言ってました。

私はそれは話しが怖いけど みんな楽しいから言っていると思ってました。
けどそれは私の思い違いでした。
小学5年の時に思い知ることになります。
まだ先の話ですが。

母のする怖い話しは、当時テレビ📺で流れてた「あなたの知らない世界」より、リアルで怖かったです。

母は霊感(かな?)があって、怖い想いをしてましたけど、怪談など怖い話しも好きでした。
「あなたの知らない世界」は見れる時は欠かさず見ていました。

当時はビデオなどなかったのですが、母は夏になると、特集されるお昼間のそのコーナーを見るために、会社の休み時間に抜けて帰って来てたと思うんです。

私の記憶が定かではないので、思い違いかもですが。

あなたの知らない世界を母とよく見ていた記憶があります。

歳を重ねる事に、母の霊感話しは凄みを増してきました。

特に
「あんたな、そんな悪いことばっかりしてたら、悪霊が取り憑くで!地獄行きやで!」
とか話す時は、怒ってるはずが、母の目がキラキラしていて、楽しそうに話すので、私は戸惑った事がありました。

年々思い込みも酷くなりました。

そして何か悪い事が起こると

「ほらぁ、やっぱりな。お母ちゃん分かっとってん。だってそうなる夢を見てたから。やっぱり悪い事起きたわ」
と、度々言うようになりました。

あまり何回も言われるから、いつしか私は心の中で
『わかってたんなら先に言うてや!』
と突っ込む様になっていました。

私は世の中に霊感ってあるのかどうか分かりませんけど。

ないと証明出来ないならあるのかなと思いますけど。

ただ、本当に霊感なのか🤔
母みたいに精神科の診察を中断してる人は、症状が悪化したり、別の病が発病したせいで、幻聴・幻視・体感幻覚・妄想が起こっていて『霊感』と感じられるのか🤔

見分けがつかないと私は、今は思っています。

もし霊感だとしても、母方の祖父は母が4歳の時に亡くなってたんですよね。

そのおじいちゃんの事を母は
「おじいちゃんが私らを護ってくれてるねん」
と言い続けていました。

ありがたいというより
亡くなってからも家族のために護ると言う仕事をさせられるおじいちゃんが可哀想に感じていました。

同時に、嬉々として仏様のお世話や、季節ごとに〇〇寺でご供養してもらう姿を見て
『沢山の供養費出して、これだけずっとご供養していかなあかんのか。これ引き継いでいくのか···』
と大きくなるにつれて不安になっていました。
私が中学生の頃には

母方の先祖代々の霊
母方の水子の霊
母方の祖父の方の先祖代々の霊
母方の祖父の霊(おじいちゃん)
父方の先祖代々の霊
父方の水子の霊
母の水子の霊
と言う7柱の御霊を供養してもらっていたと思います。

現在では父の霊も増えて、8柱の御霊を供養してもらってるようです。

一体諭吉1枚ぐらいかかると思います。

さほど裕福ではなかったですが、ご供養はしっかりされてました。

ご供養してないと、母は
「夢に出てきはるねん。恨まれるねん」
と言ってました。

母は本当に変わった価値観を持っていました。

そして子供達に、その価値観を毎日 マシンガントークで話して聞かせました。

何か母の腹が立つ事があったら、その言葉は暴言となって、突き刺さりました。

ちなみに、そんな母と結婚してる父は、母の言うことを遮らず、黙って聞いていました。

父も子供の頃両親を無くしたので、親と言うものを知らない人でした。

私の家族の力関係は
母が頂点
その次が弟
そして私(かな?)
最後に父
だったと思います。

父は弟と折り合いが悪く。
私とは、あまり喋らないけど、大切にしてくれてるのが、今では分かる関係でした。
当時は
「お母ちゃんなぁ、お父ちゃん嫌いやねん。あんたらおるから別れられへんけど。気持ち悪いねん!」と言う母に迎合して、父を嫌っていました。

父もそんな家に居にくいのか、職場(うどん屋さん)の寮で泊まる事が多かったです。

たまに帰宅すると、母に
「お父ちゃん汚い!」
と言われながら、なんの反撃もせず隅の方で過ごしていました。

そんな父ですが、私は1冊だけ本を読んでもらった事があります。


読んでもらったのは
「小公女セイラ」
でした。

今も家にその本は残っています。
父との数少ない思い出の本なので、捨てられず持っています。

当時はまだ2段ベッドがなくて、ひと間に布団を敷き詰めて寝ていました。

寝る前に数ページづつ読んでもらったんです。
とても楽しみにしていたのを、今も覚えています。

今なら寡黙で不器用だけど、いい父かな?と思う私ですが。

子供の頃は母の言葉が全てだったので。
父をよく思っていませんでした。


父はタバコを吸う人でした。
母はタバコが嫌いで
「お父ちゃんまた煙草吸ってる!あんた言ってきて!」
と私にやめさせる様言ってこいとよく言われました。
私は母に洗脳されてると言って良い状態だったので
「お父ちゃん 部屋でタバコ吸わんとって!タバコ臭いってお母ちゃん言ってる!」
とよく言ってました。
父は小さな声で
「おっ、すまんなぁ」
と言って外に出て行ってました。

今思うと。
私もタバコは嫌いだから、同じように言うかもですが。
外に追い出さず、換気扇の下で吸ってもらうかな···と思うんです。

もっと小さな頃、父にタバコの煙で輪っかを作ってもらって、めっちゃ喜んだ記憶もあります。

私の育った家は、私も居ずらかったけど。
父はもっと居ずらかったんだろうなぁと思います。

何故仲良く出来なかったのかな。
それは今も思う事です。

振り返ると、私達は、みんなが寂しい家族でした。