seek the Esprit.

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アウェーからのブログ。
文系好きの理系大学生です。

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英単語暗記というと、多くの人が2通りの方法を思い浮かべると思う。
 ・単語カードを使って単語を書き写し、暗記する
 ・市販の単語本を繰り返し見て覚える
の2つである。

まず、単語カード法のメリットは、
 (1)ポケットに入れておけばすぐに見られる点
 (2)必要なカードだけを持ち歩ける点
 (3)自分で習得度別に単語を管理出来る点
 (4)作成の段階で書き写すために覚えられる点

の4つがあげられていると思う(他ブログや勉強法の本を参照した)

対して単語本のメリットは
 (1)網羅性がある点
 (2)買うだけで使える点
 (3)出る順・対類義語別に並べられている点
 (4)CDなどの音声メディアが付属するものもある

の4つではないか。

単語本は見て覚えるだけであるので、大したテクニックは存在しないが(付箋をつける、と言った程度だろうか)単語カードについては様々な人が様々なテクニックを開発しているようである。

しかし、そのような方法論(例えば、覚えたカードは分けておいて何日後に復習すると言ったルール)はよいとしても、まず「単語カード」や「単語本」といった物理メディアに拘る意味があるだろうか?ということを再考してほしい。


アンチバベルの塔においても、本家の推奨方法は「情報カードに印刷して使用すること」となっているのだが、はっきりいって、暗記したカードを1枚ずつ外し、別の山にしたり、暗記したとしてしばらく放置したカードを再び暗記に”参加”させたりする作業ははっきり言って無駄な労力である(しかも、多くの人はカード作成を”手書きで”行なっている!)。
しか手で行う以上、数千語(アンチバベルではその何十倍)もの単語数を管理する中ではミスや実行し忘れも当然出てくる。そうなれば暗記という単純作業に対してのモチベーションはどんどん下がっていくであろう。
手書きを批判するつもりはないのだが、「手で書くという暗記効用」は認めるとしても、単語暗記とはすなわち「反復して見て覚える」学習である。
少なくとも十回以上見て覚えるものを作成する際に、一回書いたからといって大きなアドバンテージが生まれるとは到底思えない(私の実体験から言ってもそうだ)。
一般に、現代人は手書きよりもキーボード入力のほうが入力速度が速いはずである。
単語カードへのインプットはより高速に済ませたほうがより効率的ではないか。

そもそも、大学受験レベルの単語において覚える必要がある単語というのは「読む」必要があるのであって、書くことはほとんど要求されない。
英作文においては基本語やその派生語で十分な得点の答案を書けることになっているし、それ以外では単語の書き取りというのが(合否を分けるような範囲では)あまり出題されないからである。
(また、出題されたとしても超難問である可能性はごく低い。他の問題をやる中で書けるようになるレベルが多い)


だが一方で単語本形式にも、いくつかのデメリットはある。
配列されていることで、「順番で覚えてしまう」こと、学習状況が管理しづらい(どの程度覚えたかが形に現れない)、学習が非効率的になるといったことである。
この内最後の「非効率的」という指摘は、単語学習の特殊性とでも言うべきだろうか、「単語を暗記しているかどうか判断する時間は単語を覚えようとする時間に等しい」ということで、「あっ、この単語はもう覚えたぞ、意味は○○だ」と考える時間と、「この単語は覚えていないな、なんだっけ」と考える時間とほぼ変わらないので、単語本で暗記しようとすると必然的にすべての語彙をチェックすることになってしまうということだ。

ここで、これら2つの折衷案として「Anki 」というPC/iphone/androidのソフトウェアを紹介したいと思う。
Ankiは電子版の単語カードと言って差し支えない。
インターフェイスは単語カードそのものなので、使い方は直感的にわかるだろう。
また、PCで作成したものをクラウドで同期してスマートフォンでも同じデータを使用することができるというメリットも含めて、”単語カードのメリット”の(1)(2)(3)は内包しているといえるだろう。(4)は先ほど否定した。
また、"電子版"ならではのメリットとして、
 ・音声読み上げ
 ・理解度に基づいた自動整理
 ・枚数が増えた時の管理の楽さ

もあげられる。
音声読み上げ機能はまさしく言語学習の基本とも言える発音を正しく記憶する助けとなるし、アルゴリズムによる自動整理は先述の煩雑な”効率化”から逃げ出すこともできる。
自動整理とは、具体的には学習した単語を再び出題する間隔を決定することなどを指す。
くわえて、物理メディアではないためにかさばることもない。

このAnkiに、”アンチバベル的に”単語本や辞書を読んで知らない単語をどんどん放り込んでいくのである。
そうすれば、一日に制限された量のみ新規学習を進められ(一日にあまり多くのことを覚えようとするのは得策ではない)、前日までの積み重ねから幾らかの復習単語が出題される。

アンチバベルにおいてはその量、復習の重要性からもAnkiはより効果的である。
本家管理人のように、アンチバベルが習慣づいている方には不要な学習法かも知れないが、単にこれからアンチバベルを始めようとするならばAnki を利用したほうが良いかもしれない。
しかし、アンチバベルそのものがあまり効率を追求したものではないので、自分の好みによって様々な方法を用いるべきであると思う。
効率主義の立場からすれば、(受験勉強のレベルでは)、「経験と教訓の呪縛」から脱して、文明の利器を利用した学習は理想的なのだが、やはり世の中には「紙の質感が好き」「脳は手抜きを嫌う」といったことをおっしゃる方も多くいらっしゃるようで、そういう方に無理に進める気はないことを断っておく。


参考: 根気も時間もないあなたが外国語習得の臨界点を越える一番ゆるいスタートアップの方法
前回書いた文(暗記を排す )だが、抽象的で結論も書いていないのは十分承知であるので、今回はちょっと具体的な、いわゆる勉強法についてきちんとまとめたいと思う。
もし前回の文章を読んでさっぱりわけがわからないと思われたら、それは正しい(正直言って文章になっていなかったと後悔している)ので、無視して今回から読んでいただいても構わない。
前回の失敗を踏まえて、今回はセクションごと、細かく区切って記事にしていこうと思っている。
また、ある書き方を真似して、補足説明は(注)などとしてどんどん後ろに飛ばそうと思う。


 一応注意だが、僕がやったことはあくまで理念を形にしたのであって、その結果だけを利用すれば有用なのかははたして不明なのである、ということは頭に入れておいてほしい。
平たくいうと、「この通り真似してもあなたに合うかは保証しませんよ」、ということだ。



1.まず取り組むべきは難問

 これは主に理数系の教科で実践すべき方法だが、実は意外と文系教科、特に国語に関しても効果がある。(なぜなら、高校程度では国語・英語もほぼ演繹系とみなせるからだ。)
 さて、学校や塾、自習などで一定の範囲の「基礎的な」(注1)インプット(理解)をしたあと、アウトプット(演習)は簡単な、量のある問題集(例えば数学なら4STEP、理科ならリードα、トライアル、シグマベスト系など)で行うという方法が一般的だと思う。
これに対し、私の主張は「そうした「基礎系(注1)・量系」参考書をまともにやり始めるより先に、一般に教科書レベルからつなぐのは難しいといわれるような問題に当たる」ということだ。

このメリットは、

1.「入試レベル」とのギャップを把握できる
2.単純でない問題に当たることでかえってわかっていない部分がはっきりする
3.解答の発想がナチュラルに身につく
4.当面の目標が定まるので、モチベーションが上がる



「スモールステップ」で一歩づつ固めていくという理想にかなった、良い方法に思える。
しかし、現実的には「基礎=公式の暗記!」のように誤った考えが横行しており、その程度の(公式を暗記した程度の)理解で問題集を使ってアウトプットしても、無駄が多いのだ。
 そのような問題集の「基礎的な」問題というのは公式に数値を代入して計算したり、ほぼ教科書の例題と同じような問題が並んでいたりするものである(注2)。 
ただ機械的に公式を暗記したところで、間違いなく入試問題というものは解けない。
解答を見て「ああ、この形だからこの公式をつかって、こっちではこの公式で・・・なるほど、このパターンの問題はこうやって解くのか・・・」とやるのは構わないのだが、せっかく「基礎=公式の暗記」に時間をたくさん費やしたのに、そんなものことをしていては時間の無駄
 
その代わりに、いわゆる「入試用」の問題集で、解説を読める程度のもの(注3)を適切に用いれば、先に上げた4つの利点を得ることができる。
 例が数学ばかりで申し訳ないのだが、
 教科書にっている程度の公式は
大体わかった(暗記していなくても良い)状態から、「一対一対応の数学」のような、やや難し目の、問題数の絞られた問題集に取り組む。
 このとき、解ける必要はない。が、しかし、すぐに解説を見てはいけないだいたい解答の方針の目安を立てるのである(注4)。それから、解答を読んで、「公式」が実際にどのような形で、どうされているかをしっかりと考える(「覚える」のではない)。決して、「パターンを暗記」でもないことを留意せよ。
その中で大抵は自分のしていた公式の丸暗記がいかに頼りなかったかを自覚することとなり、理解が足りなかった部分に気づくとなる。
 
これが、メリット、3を生み出す理由である

 
そして、その部分を教科書などで確認したら、その問題集は一時しまって良い(注5)。 
ここでやっと、網羅系のチャート、もしくは4STEPなどで高速アウトプットをするのだ。公式を形で暗記したのではなく、意味的にきちんと理解した上で演習するので、特に詰まることもないだろう。(注6)


スモールステップ的な学習は着実で良いのだが、どこまで積み上げればよいのかわかりづらくまた時間的にも逆算できないという欠点を持つ。
よって途中で焦りだしたり、焦らなすぎて入試に間に合わないという自体を引き起こしてしまうことがあるのだ。
他方、「難問方式」は、自力で最初に取り組んだ「難問」達を解けるようになる、という当面の目標が必然的にできる。
また、最終的に求められるレベルとのギャップもある程度わかるため、不安感が払拭される

簡単な問題集で無機的に物事を覚えるよりも、「生きた」問題の中で有機的に物事を学ぶほうが正しい理解により早く、より正確にたどり着けるのだ





補足
(注1:これはまたいずれ述べるが、”本当の”基礎ではない場合が多い!)
注2:よく公式を体で覚えろ、脊髄反射でできるようにしろなどと言っている人がいるが、勉強とはカラダでもセキズイでもなく、アタマでするものだ。そんな勉強なら人間様がやる必要がない。コンピューターにやらせて遊んでいたほうがまだマシである。)
(注:ここでは、
解説を何度か読んで、かろうじて理解できる程度までを「読める程度」とした
(注4:
「ここはベクトルの範囲で、3:4というが出ているのだから分点の公式を用いるんだろう・・・・あれ、分点の公式ってどうだったっけ?」といった程度で構わない
(注5:とはいっても、前述の「一対一対応」などは各章のまとめなども秀逸なので逐一参照したほうが良い)
(注:ここであえて”簡単な”問題集に戻るのは、やはり問題数の絞られた問題集だけをやっていては量的に足りないからである)

 受験関連業界、特に「勉強法」というものは宗教みたいなもので、派閥に分かれて争っている。
もちろん一般に言われているように万人受けするベストな勉強法というものはないだろう。
だから僕の勉強法をここに書いて偉そうに教授しようなんて気は毛頭ないのだけれど、最近勉強法について友人から聞かれることがあったので、自分で整理する目的も兼ねて書いてみようと思う。

 僕の勉強法というのは、あまりに抽象的すぎるかもしれないが、

1.暗記を排す
2.体系を組み立てる
3.「範囲」に拘らない
という3つの理念?を一応ベースにしているつもりだ。
もっとも、2、3は1から必然的に生まれるものである。

 こんなふうに書くと、まるで勉強を始めた時からこういう考え方を元に勉強してきたかのように聞こえるが、もちろんそうではないので注意してほしい。
途中で自分のスタイルを振り返って、効率化していった時に出てきたのがこの3つの理念ということだ。
悪く言えば「後付け」であるが。

 さてあまりに抽象的で中身が見えない話であるので、解説していこうと思う。
1.「暗記を排す」であるが、「勉強」と切っても切り離せない関係である「暗記」を、徹底的に排除する、というのは文字どおりなのであるが、では実際にどうするか?
この疑問から、先ほど書いたとおり、2の体系主義、3無範囲主義が必要に応じて生まれるわけである。
 思うに、「受験戦争」のイメージを悪くさせたのは「詰め込み・暗記」であったろうが、そもそもここでいう暗記とは何か?


デジタル大辞泉によると、受験期の暗記は「論理的,意味的な関連で記憶する
」ことであるようだ。
もちろん、どんな人でもあらゆる勉強について「論理的,意味的な関連で記憶」している。
(appleという英単語を、apple=りんご、というつながりや写真、発音を思い起こすとで覚えるのは誰しも当たり前である。まさか[a]という形の右に[p]という形が2つならんで・・・・というふうに覚える人はいないだろう)
 

しかし、僕が主張したいのはその「論理的,意味的な関連」の範囲があまりに狭すぎるのではないか、ということだ。


 英単語を例に上げると、僕が単語帳を最初に見るとき(暗記を排す、と言っても単語を覚えないわけではない。念のため)頭から始めるのではなく必ず「知っている単語」「見たことのある単語・意味を見て納得できる単語」をマークする。

「見たことのある・意味を見て納得できる」とは、例えば何かの商品名や会社名、映画のタイトル、ゲームのセリフなど、外来語として、または単語そのものは知っているという単語を指す。
具体的に上げるとキリがない。ちょっと意識して、頭を使ってみると関連性というのはどんどん広がるものでだ。(もちろん、全く世間に興味がなかったり、全く本を読んでいなかったりするものにとっては別である)
 これを更に、語源・接頭辞・接尾辞などで、必要暗記語数を削ぎ落としていく。



数学や物理においてももちろん暗記主義は唾棄するべきであると感じている。
この2分野というものはそのそも演繹的な学問であって、少ない法則や定義からあらゆることを示そうというのが元々の目的である。
まして、高校レベルの解法など、そもそも暗記する意味自体がない、というかおかしいのである。
(諸先生方を非難するつもりではない。今の受験というシステムから考えれば最短の道は確かに徹底暗記主義であるから、仕方のない事だと思う)

だが、そんな方法で大学に入ってどうやって学問をするつもりなのかと問いたい。
「高校の範囲だから」という理由で体系だった考え方を学ばないことは無駄でしかないと思う。
(繰り返すが、高校の授業で高校の範囲を超えないのは仕方のない事である、高校なのだから。しかしそれでも、簡略化されたものを道標としてたまに示すくらいのことはしてくれてもいいような気もするが)

ところで、これを読んで教科ごとの勉強法の指南だと思われては困る。
目指すものは全学問を内包した「哲学的な」体系であって、単に教科ごとの体系ではない。
英語の否定形をみては数学論理の否定と同じであることを確認し、物理のエントロピーの法則から社会学を連想する。
そういったものこそが真の学問であるのではないか。
実用的でない、という批判を(僕の考え方も、いわゆる「勉強」そのものも)受けるかも知れないが、僕はこうした考え方を日常レベルまで落とし込んで実用に供している(つもりだ)。
正直な感想で、「高校の勉強なんてなんにもならない」という意見は、紛れもなく暗記主義から生まれたものだろう(もしくはあまりに不十分な勉強量だったか)。
そういう意見の人を劣っているとか言うつもりはさらさらないが、僕にとって学問の活用はとても楽しいものだし、そういう話ができないのはちょっともったいないんじゃないかな、とは感じる。
 せっかく貴重な時間をかけて、苦戦して勉強するのだから、その過程や結果を(点数をとれるから楽しい、というレベルを超えて)十分楽しむべきではないのか。

暗記主義は、今まで(高校生活の3年間としよう)の、働く必要もなく保証された環境で勉強できた時間を結果的に白紙に返してしまう危険性を孕んでいる。大学に入って、または社会に出て、自分の「勉強」は何だったのか、と思うような目には遭いたくない、とつくづく感じる。

先日、ある予備校教師が「受験に学問する必要はない」と言っていたのを耳にした。
もちろんその通り。必要ないことは明白だ。東大京大だって、学問しなくたって入る人なんてゴロゴロいる。
ただ、それが良いことなのか?
日本の期待、将来、税金、責任・・・・あらゆるものを背負っていくはずの我々大学受験生がいつまでも受験というシステムに甘えて必要なことだけをしていればよいのだろうか?
明治の受験生を見よ、科挙を見よ。
あらゆることにポリシーを持って、行動しなければならないのだと、切実に感じている。

あけましておめでとうございます。

さて、入試までほぼ一年となったわけですが、新たな試みとして「アンチバベルの塔」を始めてみました。
アンチバベルの塔というのはまぁ平たく言えば辞書暗記です。
他の単語帳、例えば「鉄壁」も持っているのですがどうもコンスタントに続けることが困難なので、いっそのこと全く新しい事を始めてみようと思ったわけです。

さて、暗記に使う辞書はこちらです。

「アクセスアンカー英和辞典」(学研)

本当は英英辞典のほうが良いのですが、収録語彙数、値段、入手しやすさなどの観点から妥協してこちらの辞書にしました。
収録語彙は非常に平易。平易すぎて大丈夫かと思うくらいではありますが、難関国公立大や英検準一級
でもこれ以上のレベルの語彙は出ないように思われます。

ちなみに、ページ数は1400ページほどなので、1日7ページ+復習で6ヶ月と20日ほどで終わります。しかもこの辞書、小さいため1ページあたりの単語数が少なく、おおよそ10語程度なので一日にやる実質単語数は70語ほど。また普通の単語帳とは違い、超基本語句や派生語句もふんだんに載っているので、実感としてはもっと少なく感じます。

と、いろいろ書いてみたのですがいかんせんまだ初めて数日しか経っていないもので、近日中に「収録単語数24000語でどこまで対応可能か?」ということを自分なりに調べてみようと思います。
よく、こんなことが言われます。

「知識ばかり集めても、知恵がなければ社会ではなんの役にも立たない」


まぁ、誰もが聞いたことのある言葉でしょう。
このあとには、「だから、経験のある人の言うことをよく聞きなさい」と続くことも多いです。

この言葉を文字どおりに解釈すると、「経験のある人の言うこと」というものはもうそれで『知識』なので大いに矛盾しているのですが・・・そんな言葉遊びはなんの意味もありませんね。

さぁ、『知識』と『知恵』どちらが重要か、というのは昔から議論されている話のように思います。
現在の日本では、詰め込み教育への反発の表れなのか『知恵』派が多いように感じますが、「ただ、知識もなきゃね」という、ゆとり教育に反発するような『知識』派も認められているのではないでしょうか。

そこで、この禅問答を自分なりに解決するために、ちょっと一つ要素を足してみましょう。
『知性』です。三者を英訳すると、

知識:Knowledge
知恵:Wisdom
知性:Intelligence、Esprit(エスプリ)

となりますね。
更に言い換えると、

知識→情報
知恵→機知・機転
知性→理性

少しいいすぎな部分もあるかとおもいますが、本質的なポイントは抑えていると思います。
理性というのは哲学的な意味のほうで、簡単には物事を判断する能力、程度の認識でいいでしょう。

さて、結論から言うと、なによりもまず『知性』こそが大事なのだということをいいたいのですが・・・

「経験」といえば、経験論。英国経験論的な立場にたって述べると、生得的なものはなにもないわけですから、当然、知恵(や知性)は知識の積み重ねによって組み立てられるわけです。ということは何よりもまず知識が大事でしょう。
しかし、実際的に考えると、たしかに生得的な観念によって物事を判断しているわけでは無いですが、準生得的とでもいうべき要因(環境とか、地域、親の価値観)などによって、大きく物事の見方は変わってしまいます。

一般道徳から考えても、これまでの日本の教育において、知識を優先させた結果が、必ずしも良い結果を及ぼしたわけではありません。数多くの伝統文化や、民間療法などの消滅へ一役買ってしまっていたとまで言われます。


そこで、知性の登場なのです。
知性とは、「あの人は知性がある」のように『気品』の類義語のように使ったり、また、上記の様に理性と同義語のように使ったりすることも多々あります。

知性(=理性)とは、いわゆる司令塔・観測所です。物事を判断・決断する働きです。サッカーで言うとMF?
単に知識と知恵について語るだけでは、ディフェンダーとフォワードについて語っただけに過ぎず、フィールド上で重要なもう一つのポジション、ミッドフィールダーにもきちんと言及する必要があるでしょう。

良質な知性を持たなければ、莫大な知識を持っていようと、優れた知恵を持っていようとも、それらを発揮することなく人生は終わってしまいます。
逆に良質な知性を持っていさえすれば、大したことのない知識量と知恵であろうと、それなりにチャンスを見つけて、的確に行動することができます。

「知性を鍛える」ということは、とても難しいことです。知恵のある大人、知識のある大人というのは幾人も知っていますが、知性のある大人に出会ったことは数少ないです。
僕の話したことのある中で、最も「知的」だと思ったのは、某大学で哲学を教えていらっしゃる教授です(現在は、その人気から学長に就任)。
何が知的かというと、幅広いことに、偏見を持たず、かつ自分の意見はしっかり持って望むという姿勢です。
哲学科ということもあり、小難しく、よくわからない話ばかりするんだろうと思っていたのですが、実際は、映画・読書・野球・etc・・・・と、非常に幅広く楽しんでいらっしゃるのがとても印象的でした。


※余談ですが、このブログタイトルの「エスプリ」ですが、これも「知性」という意味です。
知性のある人間こそが、最も目指すべき人間だという信念から名付けました。