フライドチキンと海のおと。 -64ページ目

「強敵」と書いて「とも」と読む。

「逃げ出した先に楽園なんてありゃしねぇのさ。
 辿り着いた先、そこにあるのは、やっぱり戦場だけだ」

       /『ベルセルク』より 主人公・ガッツのセリフ



仕事で辛い目にあった時、しばしば思う。
ここから逃げ出してしまいたい、と。
どこか遠い場所で、もう一度やり直せたら、と。

はたして、逃げ出せるのだろうか。
そして、やり直せるのだろうか。

上の言葉は、そういう気持ちに対する一つの回答である。


自分に優しくない世界。もちろん辛い。
そしてそこから新天地へ逃げ出す。
傷ついた心を抱えたままで。
そこにはたぶん、また辛い世界が待っているのかもしれない。


結局、どこかで踏ん張って、戦わなくてはいけないんだろうな。
ボロボロになっても、めちゃくちゃ泣いても、ドロドロに汚れても。
そうしてがむしゃらに道なき道をかきわけて、
ふと気づいて後ろを振り返ったら、
いつの間にか道ができているんだろうな、たぶん。


故・中島らもが、エッセイの中でこう言っていた。

「楽園とは、競い合い、高め合うライバルがいる場所のことをいう」。

もしそんなふうに考えられたなら、世界はきっと楽園だ。

谷川メイコ

友人と痛飲して、家に着いたのは深夜の二時ごろだった。
くらくらする頭をもてあましながら布団にくるまり、
ずぶずぶと甘い眠りの淵に沈みはじめた頃、電話が鳴った。
僕は釣られた魚みたいに、ぐいぐい眠りの水面近くまで浮上していった。

電話をかけてきたのは、谷川メイコだった。


『私。谷川。谷川メイコだけど』


谷川メイコは早口で言った。


『例の牧草の件で、ちょっと伝えたくて。あの牛はね、

やっぱり合成牧草は食べないって。
 だからちょっとね、まずいことが起こりそうなの。ヤンさんは怒り心頭で。

 ええ、そりゃもう怒ってて。だから香港ルートと、

 日本ルートの関係者全部連れてこいってなっちゃってんのね。

 もちろん私も、あなたも』


そこまで谷川メイコは一気に喋った。
僕は一度眠りに落ちかけた頭をぼりぼり掻き、

少しでも理解を早めようと試みた。


『ともあれもう牛がばんばん死んじゃってるからさ、

 どうしようもないってことなんだけど。
 社長は×××に賠償するくらいなら全面戦争だ、とか言ってるし。

 バカよね。そりゃ責任は向こうにもあるけどさ。
 どうする? あなた、青龍刀でぶった斬られるわよ?

 もちろん私も。あはは』


谷川メイコの話は小指の爪ほども理解できなかった。
とりあえず僕は蛍光灯を点け、タバコをいっぷくつけた。
そして谷川メイコのきんきんする声を一旦頭の隅に追いやり、考えた。


さて、と。


谷川メイコって、一体誰だ?


「……もしもし」
『もしもし』
「どちらにおかけですか?」
『何いってんの?』
「僕のセリフですよ」
『……あなた誰?』

僕は噛んでふくめるように自分の名前を告げた。谷川メイコは沈黙した。

『ねえ、番号は090-××××-××××よね?』

僕はしっかりした口調で自分の電話番号を告げた。

『あらやだ』

谷川メイコは再び沈黙した。僕も沈黙した。

『ねえ』
「はい」
『話したこと、誰にも言わないでね』
「はい」
ぶつり、と電話が切れた。

僕はタバコをもみ消し、布団にもぐりこんだ。
そして再びずぶずぶと、カスタードクリームのように甘い眠りの淵に沈んでいった。

赤い小人の話 その3

出た。


テレビに目を据えている僕の視界の端、

つまりテレビの置いてある低いテーブルから40センチほど右横に、

朱色のそいつは二本足で突っ立っていた。

そいつは木製のデッサン用フィギュアのように人間と変わらないすらりとした体型をしていて、頭が小さく、手足が長かった。

だが、僕は目の端でそいつを捕らえただけで、あえて直視しないようにした。

気づかないふりをした。

なぜか? 理由はふたつある。

ひとつは、そいつが身じろぎもせず、じっと僕を見つめていたから。

そしてもうひとつは、

そいつがあきらかに武器のような20センチほど(人間のスケールにしたら3メートルくらいか)の棒を両手に抱え持っていたからだ。


こいつが何者かは知らない。

だが、絶対にこいつと目を合わせてはいけない。

こいつに、『こちらがその存在に気づいている』ことを気づかれてはいけない。

わずか10センチの生き物を相手に、

本能と体中の全神経が緊急事態めいたサイレンを鳴らし、僕の脳に危機を告げていた。


そのまままんじりと数分間。


物理の授業よりも上司の説教よりも長く感じた。
テレビの内容なんてまったく覚えちゃいない。

だがなるべく深く呼吸をし、テレビに集中しているふりをした。

たった二分ほどのCMがとてつもなく恨めしく感じた。

やがてそいつはさっきよりはいささかゆっくりとした走り方で、

クローゼットと壁の隙間に走り込んだ。

思わず体の力を抜きかけたが、まだすぐには安心できず、

そのままの姿勢をたっぷり三十分は維持した。

おかげで全身の筋肉のこわばりや痺れがそのあとしばらくは消えなかった。

着ていたTシャツは絞れるくらい汗を吸っていた。


そいつを見たのは、その日が最初で最後だった。

その後何年かそのマンションに住み、それから転々と居を変えたが、

一度もそいつを見ていない。



今でもふと思う。

あいつは一体、本当に、何だったのだろう?
そしてあの時、あいつと目が合っていたら。僕はどうなっていたのだろう?
今ここで、この話を書くことが出来ていたのだろうか?
今となっては知るよしもない。

















私、言いましたよね?

仕事でちょっとしたミスが起こった時、

「私、言いましたよね?」

って言う人、よくいません?

「僕伝えましたよね?」

とかね。

で、結局仕事がうまくいかなかったりする。余計な手間と時間がかかる。


これ、悪いのはどっちだろう。

言った方? 言われた方?


いろんなケースがあって一概には言えないと思うが、僕は「言った方」をクロにしたい。

この場合の「言う」というのは「喋る」ということとイコールではない。

ただ喋るだけなんて誰にでもできる。そうではなく、「伝える」ということとイコールなのだ。

つまり、

「相手に伝わる」ということを目的にすえるべきなのだ。

もっと言えば、「伝えられた相手が仕事を完遂する」ことを目的にすべきだろう。


だから仕事でミスが起こった時に、

「私、言いましたよね?」というフレーズは言い訳以外の何物でもない。

つまりは、

『自分は業務として伝えたんだかんな!仕事はちゃんとしてんだかんな!』

と周囲に対して声高にアピールしているわけだ。

「きちんと相手に伝わるまでが仕事」と自覚しているならば、

逆さにしてもこんな言葉は出てこないはずだ。

「伝えましたよね?」←いったい誰に言ってるんだ?

伝わっていないであろう相手に確認として言っているなら、愚か極まりない。


そしてまた、

「相手にしっかりと伝えるまでが仕事」

と思っている人の説明は、総じてわかりやすい。

こういう人を、「仕事が出来る人」というのだろう。

「相手が、何を理解していないか理解している人」というのは、

結局頭がよく、心があたたかいのだ。


赤い小人の話 その2

覗いてみたが、何もいない。


マンションの六階の高さが、

ちょうど50メートルほど先にある高速道路の高さと同じくらいなので、

おおかた疾走する車のテールランプか何かが姿見に反射したんだろう、

とやや強引に自分を納得させた。


気を取り直し、また寝そべってテレビを見はじめると、

今度は確実にテレビの後ろを朱色が横切った。


さっきの倍ほどのスピードで。

しかもその時は二本の足で走る姿がはっきり見えた。


これはもう、ただごとじゃない。

見たこともない妙な生き物が僕の部屋にいる。

そう考えた途端、もう一度鳥肌がざわざわと立った。

そんな生き物が、勝手に台所の横に置いてある洗濯機の裏辺りで繁殖でもはじめようものならことである。
駆除、もしくは捕獲してくれる業者に連絡しよう。

そう思い立ったが、とりあえずは確実に『いる』ということを確認するのが先だと思い、

クローゼットの裏、本棚の裏、

その手の生き物が生息していそうな冷蔵庫の裏なども徹底的に探した。

しかし、発見できない。

そこで僕は、向こうから出てくるのを待つ作戦に切り替えた。
役に立つとも思えなかったが、とりあえず殺虫スプレーと

棒状に堅く丸めた新聞紙は手元に置き、臨戦態勢は維持したままで、

さっきテレビを見ていた時とまったく同じ体勢をとった。


それから約一時間が経過した。
最初は気を張っていたが、さらに二十分経ち、三十分経ち、徐々に緊張感が薄れていった。
(やっぱり見間違いだったんだろうか?)
そう思った瞬間だった。<つづく>