幽霊について その4
やがて車は国道に出た。
二十四時間営業のファミリーレストランやガソリンスタンドの看板が見える。
なんとか町へ戻ることが出来たのだ。
山を降りた途端に、車は猛烈なスピードで走りはじめた。
Tが、いかに強くアクセルを踏んでいたかがよくわかった。
「ふーう」
どちらからともなく大きなため息をつき、
とりあえずすぐ前に看板が見えているガソリンスタンドへ向かった。
いつの間にか握り締めていた手のひらは汗でぐっしょりと濡れていた。
スタンドへ車を入れると眠そうな目をした茶髪の兄ちゃんに
ガソリンを満タンにするよう頼み、
僕達二人はスタンド内にある自動販売機の並んだドリンクコートのようなところで熱い缶コーヒーを飲んだ。
飲みながら、車を雑巾で拭く兄ちゃんの少しコミカルな動きをなんとなく目で追っていた。
「さっきの重いの。何やったんやろうな」
「もともと中古車やし。最近あんま調子もようなかったしな」
話しながらふと車の方に目をやると、兄ちゃんが棒立ちになっていた。
こちらをちらちら見ては、しきりに小首を傾げている。
やがて小走りで近づいてくると、
「すいません。あの車、今どこから走って来ました?」
と僕達に訊ねた。
六甲山中でさんざん迷って、苦労してやっとここまで来たのだ、
と告げると兄ちゃんは細かく何度も頷き、
「ちょっと車の方、来てもらえますか」
と言ってすたすたと先を歩いた。僕達も後に続いた。
「これ見てください」
兄ちゃんは車の後部を顎でしゃくった。
セダンタイプの車体の真ん中あたりから後ろにかけて、
黒い手形が無数につけられていた。
それはもみじのような小さなものから、
力士がサイン色紙にべったりとつけるような大きなものまで様々だった。
いずれもどす黒く、邪悪な光沢を放っていた。
さっき展望台のような所で車に乗った時には、
間違いなくそんな手形は一つたりともついていなかった。
あそこで車に乗った後、たくさんの『何か』について来られていた。
僕とTがその場に凍りついていると、
兄ちゃんは後部座席のドアの取手を指先でとんとん、と叩いた。
「ドアを全部ロックしていたのは正解でしたね」
取手は、外側に向かって少しひん曲がっていた。
ロックを無視して、力まかせにドアをこじ開けようとしたかのように。
車を取り巻いていた『何か』達は、明らかに車内に入りたがっていたようだ。
触れるのもいやだったが、兄ちゃんと僕達二人で協力して手形を洗い流した。
固く絞った濡れ雑巾で何度か拭うと、
それはあっさりと落ち、ぴかぴかの元の状態に戻った。
その後、僕とTは空が明るくなるまでスタンドの兄ちゃんととりとめもない雑談をした。
もう怖くて怖くて、暗いうちには絶対に車に乗りたくなかったのだ。
「このスタンドで働いてるとね、ちょくちょくこういう場面にでくわすんですよ」
兄ちゃんは慣れた調子だった。これ以上に恐ろしいことも何度か経験しているようだ。
やがて空も白々と明るみ、僕とTは車に乗って兄ちゃんに別れを告げて帰途に就いた。
直接的に幽霊と相対したわけではないが、これが僕の唯一の霊体験だ。
互いに忙しくなったせいもあってか、
その後KやTとはなんとなく疎遠になってしまい、
もう十年以上も会っていない。
でも未だにあの真っ黒い無数の手形
は鮮烈なイメージとして脳裏に焼きついているし、
最近になっても六甲山方面に(特に夜は絶対に)足を向ける気もない。
夜の六甲山。舐めてはいけない。
度胸試しをしたいと言われる方は、それなりのお覚悟で。
幽霊について その3
そして深夜の二時頃。
ロードマップを何度も見直しては、
舗装もろくにされていない山道を行きつ戻りつ。
完全に迷っていた。
迷走は一時間以上も続き、
バカ話や恋愛話などしている余裕など微塵にもない。
ほどよくストレスも溜まった頃、唐突に視界がひらけた。
少し広い、展望台のような場所に出られたらしい。
緊張感がすっとほぐれ、僕達二人は車外に出て大きく伸びをしながら夜気を吸った。
そしてTはちらちら光る市街地の灯りとロードマップを見比べ、
帰る方向の見当をつけていた。五分ほどするとTは、
「そうかそうか。こっちか」
と呟いて車内に戻った。僕も続いて助手席に座った。
それから十五分も走っていなかったと記憶している。
エンジンが唸るような、悲鳴を上げるような音を立てはじめた。
下り坂である。車内にいるのは二人だけ。
しかしTは、
「男六・七人乗せて、なおトランクに米俵を満載した状態で二十五度の傾斜を登っているような」
重さだと表現した。
その時点で僕は完全に、
『なんだかよくわからないけど嫌な感じ』
の苦さを口いっぱいに頬張っていた。
エンジン音は唸るばかりで、回転数は上がるがスピードは出ない。
Tは黙りこくっていた。
「ふわ~あ」
欠伸をして首の間接を鳴らすふりをしながら、
僕は前部座席と後部座席のドアがロックされているか、
そしてすべての窓がきっちりと閉められているかを素早く確認した。
何というか、本能がそうさせたのだ。
うんうんとお産のように苦しげに唸りながらも、
やがて車はなだらかで新しく舗装された道路に出た。
もうすぐだ。もうすぐ町だ。
僕はカーラジオから流れるバカバカしいポップソングをハミングで軽妙に口ずさみながら、
心の中では一心に南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と唱えていた。
<つづく>
幽霊について その2
そんなはた迷惑な友人Kと、今から十五年ほど前によく遊んでいた。
Kは前述したような感じのことをちょいちょい口走る。
初対面の人間のアパートに訪れた時でも、
「ああ、この押入れ。あんまりようないな。
閉める時はピタッと閉めへんと、隙間から這い出てくるで」
なんてことをしれっと言って素早く部屋を出てゆく。
はた迷惑な男なのだ。
そんなKと付き合っていたので、霊感がまったくない僕にも
『なんだかよくわからないけど嫌な感じ』
というのはなんとなく掴めるようになっていた。
兵庫県の六甲山にはどうやら出るらしい、
というのは関西ではわりとメジャーな話だ。
六甲山にまつわるそっち系の都市伝説はやたらと多い。
昼はデートスポットとして、夜は心霊スポットとして有名な場所なのだ。
ある夜、僕は友人Tに誘われるままにドライブに出かけた。
場所は六甲山。
当時は暇だったし、助手席に座って気の合う仲間と二人で
バカ話や恋愛話に花を咲かせるのも好きだった。
そして何より、
(霊感の強いKがいないから、幽霊も寄ってこないだろう)
とタカをくくっていたのだ。
<つづく>
幽霊について その1
僕は幽霊を見たことがない。
とにかく怖がりなので別段見たいとも思わないし、
いわゆる自称『霊感が強い』という友人Kからも、
「ほんまによかったなあ、お前は霊感なくて」
と、つくづく、といった感じで言われる。
まあそう言われたところで彼が申すところの『霊感』が、
自分に備わっているかどうかなどということは自分自身では測りようがないし、
彼が申すところの『霊感』が彼自身に備わっているかどうかということも
もちろん僕にはわからない。つまり、
「ほんまによかったなあ、お前は霊感なくて」
と言われたところで、
「そうですか」
としか答えようがないのだ。
ちなみにKには幽霊がばんばん見えるらしい。
しかしこちらから『見えている』ことを悟られると向こうから寄って来るので、
見えていてもそ知らぬふりをする、という。
ある天気のいい日曜日、
そのKともう一人Tという友人(Kいわく、このTにも霊感は露ほどもない)と
僕の三人でレンタカーを借り、湖に釣りに行った。
運転はT、助手席に僕、後部座席にKというポジショニングだ。
市街地を離れ、周囲の景色にも緑が増えてくる。
八つほどトンネルをくぐった。
目的地直前の、最後のトンネルにさしかかった時だった。
ずっと上機嫌でルアーフィッシングについての薀蓄を並べていた後部座席のKが、
急にむっつりと黙り込んでしまったのだ。
喋り疲れたのかな、と思い、僕もTも別段気にもとめなかった。
長く、やけに暗いトンネルだった。
ひょいと後ろを振り向くと、
Kは仕事で重大なミスでもしてしまったかのように両手で頭を抱え、俯いていた。
(ああ、こいつ何かを感じとったんだろうな)
僕とTは恐らくほぼ同時にそう思ったが、
とりあえずトンネルを出るまでは何も言わなかった。
やがてトンネルを抜け、さんさんと降り注ぐ太陽の光に
きらめく湖が見えた頃を見計らい、僕はKに訊ねた。
「なあ。さっきトンネルで俯いてたん、何で?」
すると頭を抱えていた両手を引き剥がすように離し、顔を上げた。
真っ青だった。
「……見えてもうた……」
「ふうん……。何が?」
トンネルの出口付近の天井に、スーツを着た男が七・八人、
クモのように四つん這いで張り付いてこっちを見ていた、というのだ。
たっぷりと釣りを楽しんだ後、もちろん帰りは別ルートを使った。<つづく>
メメント森さん
今日、雨が降って濡れている大理石の階段を、
一個飛ばしで駆け下りようとして足を滑らせた。
手すりがあったので寸でのところで体勢を持ち直したが、
もう少しで十五段くらいブチ落ちるところだった。
そういえば徳島に帰省した時。
道路の脇に柿の木があって、たくさん柿がなっていた。
そこで僕は柿をもごうとして木によじのぼり、
足を滑らせて地面に頭から落ち、
柿どころか危うく首をもいでしまうところだった。
または学生時代、徹夜で勉強していた時。
夜中の三時頃に腹が減ったので、
消化によいおじやでも作ろうと台所に立った。
どうせなら気分転換もかねて本格的に、と思い、
一人用の土鍋を引っ張り出してきてぐつぐつやりはじめた。
数分後おじやは完成し、
僕はミトンを両手にはめて土鍋を持って部屋に向かった。
小走りで。これがいけなかった。
ちょっとした出っ張りにつまづいた僕は見事に宙を舞った。
熱々のおじやを頭からひっかぶる姿を想像してぞっとし、
僕は大やけどをおうよりは、とおじやを前に放り投げた。
かくして僕は野球のヘッドスライディングのような体勢ですっころび、
投げられたおじやは緩やかな放物線を描いて前方に飛び、
メダカの水槽の中にぼちゃり、と落ちた。
小さな水槽は一瞬にして沸騰し、メダカが真っ白になってぷかぷか浮いた。
熱々おじや、おそるべし。
この殺傷能力について自衛隊は真剣に考えるべきかもしれない。
これらの話には、教訓めいたものはなんらふくまれていない。
あっという間に死んでしまうかもしれないんだなあ、と思っただけだ。
だからといって日々を一生懸命に生きよう、なんて話じゃないからね。
ともあれ、今日も生き延びた。