フライドチキンと海のおと。 -57ページ目

見るな。 その2

「見るな。こっちを向くな」


なおもそれは僕の背中に向かって素早く言った。
その場に凍りついていると、


「ゆっくり歩け」


と言う。

しょうがなく僕はぎくしゃくと歩を進めた。
駅から家まで歩いて五分ほどだ。

その五分が永遠に感じた。

背後のそれは、僕の歩みと同じペースでついてくる。

勝手に乱れてくる息を整え整え、
機械的に左右の足を交互に前に出した。


やがてマンションの灯りが見えた。
と、背中のそれは


「誰にも言うな」


とだけ言った。


ふっと気配が消えた。

僕はそのままゆっくりと歩き、
階段を上り、鍵を開け、部屋に入った。
その間、ずっと後ろを見ることができなかった。


それから僕は暗い道がちょっぴりきらいになった。
当然帰る道も変えた。
今は街灯が煌々と輝く国道沿いを歩いている。
暗い道への想いは捨てがたいが、しょうがない。



なにせあの黒い四つん這いとは二度と会いたくないのだ。











見るな。 その1

まったくわけがわからなかった話。


数年前、僕は広告代理店で働いていた。
多忙を極めていて、週の半分くらいは終電車で帰っていた。


その日も最寄の駅を降りた時は12時をまわっていた。
僕は火照った脳をもてあますように、
ぼんやりとしながらのらりくらりと家に向かって歩いた。


月もない夜だ。


僕は暗い道がきらいではないので、
あえて街灯のない、墨を流したように真っ暗な道を選んで歩いていた。


ふと、視線の端に何か動くものをとらえた。
いつも見ている、粗大ゴミが集められている場所だ。
猫かな、と思い何気なくそっちに目をやった。


ほんの一瞬。
一瞬だけ目が合った。
真っ黒で大きな、四つん這いになっている何かと。


おやっと思った瞬間、
それは驚くべきスピードで僕の背後に駆け回った。
おそらくは、四つん這いで。


息が止まりそうになった。

しかし、それは僕は振り向くより速く、


「見るな」


と言った。
<つづく>









ヒマワリがきらいな理由 その4

それから何年か経った、ある初秋の日。


僕はふらりとYの顔を見に行った。
Yは家の本屋で元気に働いていた。


僕が週刊誌を手にし、レジにいるYに渡すと、
Yは帳簿のようなファイルを机に置いた。
ほんの二秒ほどぼんやりとし、
口角をほんのり上げると僕の手から本を取った。


「ありがとうございます。360円です」


とだけ言うと、ゆっくりとした動作で本を紙袋に包んだ。
そしてばね仕掛けの人形みたいにぺこりと頭を下げ、


「ありがとうございました」


と懐かしい笑顔で言った。


細い目がなくなる笑顔は、思い出のままだった。



夏は好きだが、ヒマワリはきらいだ。
ヒマワリの咲く季節になると、
どうしてもYのことを思い出してしまうからだ。
太陽の光を浴びて嬉しそうに揺れる黄色い花びらを見ると、
あれから十年以上経った今も胸が締めつけられるように痛くなる。


ヒマワリが枯れてしょんぼりとうなだれ、
空が少し高くなると、僕は心からほっとする。





ヒマワリがきらいな理由 その3

八月も終わりにさしかかった頃、
突然Yのお母さんから電話がかかってきた。
Yのことで話があるので、
ぜひ一度会ってもらいたいとのことだった。


待ち合わせ場所の喫茶店に現れたYのお母さんは挨拶もそこそこに、
Yが数ヶ月前からある病気にかかっていることを告げた。
舌を噛みそうな名前の脳の病気で、
症状が進めば記憶の混同が多くなり、
ある一定の記憶においては完全に喪失することもあるという。


つまり、Yはもう僕に対する記憶をほとんど失っている、というのだ。


僕は言葉が出なかった。
ただ、と彼女は涙ぐみながら言葉を続けた。

ほんのわずかな間だけ、唐突に記憶が戻ることがあるらしい。
その瞬間をいくつもつなぎあわせて、Yが僕に手紙を書いたというのだ。


Yのお母さんはバッグから封筒を出し、テーブルの上に置いた。
夏の空を思わせる鮮烈なブルーの封筒には、
見覚えのあるYの字で僕の名前が書かれていた。


僕はその場で封を開け、手紙を読んだ。
そこには、楽しかった二人のたくさんの思い出話がたどたどしく綴られていた。
何度も鉛筆で書いては消しゴムで消したと思しき跡が残っていた。
あいまいになってゆく記憶を必死でたどりながら、
僕達の日々を刻み付けるように書いたのだろう。


手紙の末尾は、


『どんなにがんばっても、
 大好きなあなたのことを少しずつ忘れてしまう。
 きっともうすぐ、あなたの全部を私は忘れてしまうでしょう。
 だからどうか、どうかあなたも私のことを忘れてください。
 そして幸せになってください。
 あなたと過ごした日々は私の宝物です』


という言葉で締めくくられていた。



僕は涙をこらえることができなかった。
<つづく>


ヒマワリがきらいな理由 その2

それから一ヶ月くらい経ったある夜のこと。


Yに電話して、
かねてから観たかった映画を観に行く約束を取り付けた。
二人ともくだらない話で大笑いし、
上機嫌のうちに電話を切った。


その直後、Yから電話がかかってきた。
何か言い忘れたことがあったのかと訊ねたら、


「なぜ最近会ってくれないのか、他に彼女ができたのか」


とものすごい剣幕で一方的にまくしたてるのだ。

さっきとは完全に別人だった。


鈍い僕もさすがに、Yが正常な状態ではない、ということに気づいた。



心配になり、翌日さっそく彼女の家を訪れた。
表側は商店街に面しているので、裏手の玄関に廻った。


玄関の前には小さな庭があり、
たくさんのヒマワリが真夏の陽差しを浴びて嬉しそうに揺れていた。


三回ほど呼び鈴を鳴らすと、やっとYが出た。
Yは訝しげな表情で僕をじろじろ見た。
僕が話しかけても無気力に「うん」とか「はあ」と応えるだけで、
会話はさっぱり要領を得ない。
どうもその場に居づらくなり、
僕はうなだれて「じゃあ」とだけ言ってその場を離れた。
その日から何となく、お互いに連絡を取らなくなった。


映画を観る約束の日も、待ち合わせ場所にYは現れなかった。

<つづく>