覗くやつ その4
僕は反射的に、その膝を外に蹴り出した。
そして女の首の下辺りを強く押した。
ごりゅ、といやな音がして、顔はドアの外に消えた。
「僕の他に誰もいません。帰ってください」
僕はドアを乱暴に閉め、鍵をかけた。
呼吸が乱れ、膝が震えていた。
「出しテヨ! アノ子達ヲ返してよ!」
女は怒声をドアに叩きつけ、
「ぎギいいいい。ぎ、ぎいいイいいイイ」
とわけのわからない奇声を発した。
なおもがんがん叩かれるドアに向かって僕は、
「警察呼びますよ!」
と一喝した。
するとぴたり、とノックの音はやんだ。
ずっ、ずっ、ずっ、とサンダルを引きずる音が遠のいていった。
やがてエレベーターのドアが閉まり、降下していく音が聞えた。
僕は胸を撫で下ろした。
まだ動悸は激しく、膝は震えていた。
ゆっくりと這うようにしてリビングに戻り、そうっとベランダに出た。
僕の部屋は六階にある。
手すりから少しだけ顔を出し、下を見た。
女は歩道で棒立ちになり、僕の部屋をじっと見上げていた。
女とまともに目が合った。
僕はすぐに顔を隠し、
またそうっとリビングに戻った。
そして部屋の電気を消し、ベッドにもぐり込んだ。
しばらくはまんじりともしなかったが、
やがてとろとろと眠ってしまった。
気がつけば朝になっていた。
それから二度と、女は現れなかった。
覗くやつ その3
「……何ですか?」
僕がドアノブを掴んだまま訊ねた。
「いや……いるかと思って……」
僕から目を逸らさず、女が答えた。
「ええ、そりゃいましたけど……あの、どなたですか? 何の用ですか?」
「いえあなたじゃなくてね!」
女はなぜかそこだけ早口で言って、ドアの隙間から部屋を覗き込んだ。
そして隙間からぐぐぐっ、と顔を強引にねじ込んできた。
「あの子達ガ……まだイるかと思っテ……」
ゾッとした。
女ははあはあと荒い息を吐きながら耳の辺りまで顔をねじ込み、
ビー玉みたいな小さな目をぐるぐる動かして部屋の中を無遠慮に眺め回した。
あ、この人、いっちゃってる。
反射的に思った。
「ここは三ヶ月前から僕が一人で住んでます。僕以外誰もいませんよ」
僕は努めて冷静に言った。
「えエ、デもあの子達がマダ……ネえ、中にいルカと思って……」
女は相変わらずぎょろぎょろ部屋中をねめ回しながら、
隙間に膝を入れてきた。
<つづく>
覗くやつ その2
「いるんでしょ? いますよね?」
おどおどしたような焦ったような、なんとも表現しがたい妙な口調だ。
声からして中年の女性だった。
「いるんでしょ? ねえ、いるんでしょお?」
女はがんがんと大きな音を立ててドアを叩きはじめた。
その声に、まったく心当たりはなかった。
それ以前に、部屋にいるかどうかもわからないのに
「いるんでしょ?」
と言いながらドアを拳で叩いたり、
ドアノブを外から回したりするような不躾な人間を僕は知らない。
ほっておくとドアを叩く音は大きくなっていくので、
「ちょっと! ちょっと待ってください」
と僕は言ってドアにチェーンを掛け、鍵を開けた。
その途端、がちゃり、とドアは外から勝手に開けられた。
僕はこの時ほど、ドアチェーンの存在をありがたく思ったことはない。
この一件以来、僕は家に帰った時のドアロックとドアチェーンのセットを欠かしたことはない。
はにわ。
そう形容するのが一番かもしれない。
顔の色は病的に真っ白。
鼻がぺったんこで、目と口がまん丸で小さく、
頭蓋骨の幅が異様に狭い。
あくまで記憶によるところの感覚値でしか言いようがないが、
僕には10センチくらいに見えた。
そんな様相の、はにわそっくりの中年女性が立っていた。
ぼさぼさの長い髪の毛を強引に後ろで一つにまとめ、
化粧はまったくしていなかった。
がりがりに痩せていて、
ショッキングピンクのだぼだぼの薄汚れたスウェットを着ていた。
女はぽっかりと丸く口を開けたまま、僕を凝視していた。
<つづく>
覗くやつ その1
かなり怖い体験をしたことある。
他の記事でも書いた、僕が二十三歳くらいで
ちょっと贅沢な八畳の1Kで一人暮らしをしていた時の話だ。
十二月の平日、午後十一時くらい。
僕がテレビを見ながらうとうとしていた時、
「ピンポーン」
と玄関からチャイムの音が響いた。
そもそもこれが変なのである。
そのマンションはオートロックだったのでエントランスにセキュリティがあり、
突然玄関のチャイムが鳴るのはおかしい。
最初にインターホンが鳴るはずなのである。
一体、どうやってここまで来たのだろう?
うとうとしていたせいもあって、
最初は隣の部屋のチャイムが鳴っているのかと思った。
だがほんの数秒待っていると、
「ピンポーン、ピンポーン」
と立て続けに鳴った。これはウチに間違いない。
さて、おかしい。
インターホンでの応対もしていないし、
エントランスのロックも解除していない。
同じマンションの住人だろうか?
回覧板的な物を持ってきたとか、
お隣さんが新しく引っ越して来たとか……?
などと考えていると、急にドアのノブががちゃがちゃっ、と乱暴に回された。
<つづく>
しんどい時には、決して読んではいけない本
『負(マイナス)の教科書』
/梶井幸雄著
もうすぐ公開される映画『東京島』に大いに期待している。
これは「アナハタンの女王事件」という、
1900年代半ばに起きた実際の事件をモデルにした創作である。
かなりかいつまむと、無人島で一人の中年女をめぐり、
男達が血みどろで奪い合う……なんかそんな話だ。
僕はかねてより
「ドキュメンタリーに勝る奇異は存在しない」
と信じているが、
この事件もやっぱり凄まじい。
こんな事件の迫力の前では、
アイデアを絞れば絞るほど創作は脆くなる気がする。
もちろん創作には創作ならではの面白さがあるのだけどね。
で、上の本。
身体がずっしりと重くなる本だ。
ソファに座っていると、そのままずぶずぶ埋没してゆきそうな。
この本には世界中のありとあらゆる殺人鬼と、
その殺人鬼が起こした事件の詳細が集められている。
まあ、よくもまあ、集めたもんだ。
こんなに。胸の悪くなる話を。
出来事の一つを取り上げるだけでも、
そのまま小説の一本でもぺろりと書けそうな“濃い”話ばかり。
それらがダイジェスト的にぎゅっと一冊に濃縮されているわけだ。
松岡修造にこんこんと人生について説教されているような濃さである。
いや、松崎しげるに「愛のメモリー」を一晩中耳元で歌われているような。
そんな中でも特筆すべきは、
「人喰いソニー・ビーン一族」の話だ。
ご存知の方も多いでしょう。
1400年代にスコットランドで起こった、
歴史上類を見ない異常な事件。
書くだけでしんどくなってくるのだが、またかいつまんで。
怠け者で乱暴者だったソニー。
彼は気の合う女を見つけ、
海岸に面した洞窟に二人で住む。
働く気などなかったソニーは女と力を合わせ、
近くを通る旅人を襲って殺し、
金品を巻き上げるようになった。
そして……そうです。
食料に困った彼らは、殺した旅人を喰った。
二十年間に亘って彼らは殺し続け、喰い続けた。
そしてソニーと妻は子供を何人も作り、
その子供達もまた近親相姦を続けて、
最後にはなんと一族の人数は五十人に達していた。
いずれも言葉もろくに話せず、生活能力の低い子ばかり。
ただ、人間を殺してさばく技術には長けていた。そらそうだ。
結局、一族はちょっとした失敗をきっかけに軍隊に捕らえられ、
公開処刑されることになる。
男達は生きたまま腕と足を切り刻まれ、
女達はその様をたっぷり見せ付けられた後、火あぶりにされた。
一族が棲んでいた洞窟には夥しい数の人骨と、
なめされた人間の皮が山積みにされていた。
……どう、これを読むだけでしんどくなったでしょう?
こんな話が五百ページくらい続く。
タイトル通り、マイナスのオンパレード。
タイミングが悪いことに、僕はこの本を日曜に読んでしまった。
月曜の身体の重さったらなかった。
しんどい時には決して読んではいけない。
“こっちの世界”に戻ってこれなくなる……かもしれない。
この本にはなんの教訓も含みもないが、
読後、ともあれ平和な日常が送れていることに幸せを感じた。
同時に、日常と非日常を隔てる壁のひ弱さに戦慄した。
薄皮一枚の向こうに、確かに実在する世界だ。
いや……薄皮があるとか書いている時点で、
僕には現実が把握できていない、のかも。