別にお金があるわけではない
何日も前の話になってしまうが、
友達とウェイクボードをやりに海へ行った。
スノーボードくらいの板に乗り、
ボートに引っ張られて海面を滑る、あれである。
海と言っても海浜工業地帯の護岸港なので、
水は濃い抹茶のような色をしていたが、
それでも「夏」「海」という文字連に僕は大いにいきりたった。
完全なる初心者なので、前日のイメトレはしっかりとやった。
妄想の中の僕は海面をトビウオのように舞い跳ねている。
きらめく水しぶき。驚愕するインストラクター。跳梁するわが肢体。
「ようしよし! もうできるイメージしか浮かばない!」
僕は己が妄想に十分満足し、当日に挑んだ。
で、ボートに引っ張られて10分経過。
……。
全っ然立てない。
何回やっても持つとこ(名前がわからない)が手からすっぽ抜ける。
その度にばしゃんばしゃんばしゃーん、と、
熱湯コマーシャルのダチョウ倶楽部上島みたいに派手に落水する。
身体にすごく悪そうな色の海水をがぶがぶ飲み、
酸素を求めて海面にもがき出る。
船上に目をやると、
友達とインストラクターは葬列のごとく押し黙り、
僕を干ばつに住む哀れな生き物を見るような目でながめている。
悲しくなり、少し旅に出たくなった。
すると、とうとうインストラクターが動き出した。
星一徹を思わせる厳しくも適切な指導を受け、五分後。
僕は何とか海面に立つコツを掴んだ。
インストラクターすげえ。
次の15分のトライではずいぶんましになり、
十秒くらい(それでもたったの十秒)は立てるようになった。
スピード感がすごい。波のうねりにひざが震える。
ボートのエンジン音にびっくりしたボラが何匹も、
「何だよ何だようっせえな。俺らの海で勝手なことすんなよ」
みたいな感じで海面をぴょんぴょん跳ねる。
海風がすごく気持ちいい。
そして翌日。
死にたくなるほどの筋肉痛で起き上がれなかった。
小人の国に迷い込んだガリバーみたいに、
全身を細いロープで固定されているかと思った。
「ただボートに引っ張られるだけ」
みたいなイメージはあっさり覆された。
とんでもない全身運動だ。
冷蔵庫が片手で開けられない。
スニーカーを履くのに汗をかく。これはひどい。
あの星一徹インストラクターに、
いつの間にか大リーグ養成ギブスでも着せられてたのだろうか。
着ていたのはライフジャケットだけのはずなのに。
結局、筋肉痛は四日四晩続き、
僕は加齢による身体能力の衰えにせつない気持ちを抱いた。
できたら楽しい。
できなかったら旅に出たくなる。
そんなスポーツだ。
とはいえ、全身で夏を満喫できた。
記憶に残る夏の一日になったな。
はやくも秋の味覚か
今日、はじめてお会いするお客様と商談をした。
Nさんという女性の方だ。
佐藤江梨子ふうの美人。いかにも仕事ができそうな人だ。
会話が盛り上がっていたところで、Nさんの携帯が鳴った。
Nさんはちょっと失礼します、といってノートにペンを挟み、
電話を取った。
電話をしながらNさんはジャケットのふところを探る。
別のペンを取ろうとしているようだった。
僕はそのさまをぼんやり見ていたが、
ふところから手を出したNさんを見てぎょっとした。
サンマを取り出したのだ。
あの、魚のサンマである。秋においしいやつ。
それはこんがりといい感じに焼けていた。
僕は白昼夢を見ているのかと思った。
佐藤江梨子ふうの美人キャリアウーマンが、
携帯電話を首にはさんで焼き魚をいじくっている。
時折会話に冗談をまじえながらも、
表情はシリアスそのものだ。
それはフェリーニの映画のように、
しんしんと静かで異様な光景だった。
やがてNさんはサンマのエラの辺りをぐっとつまみ、
頭を引っ張り抜いた。
かくして、現れたのはサンマの背骨ではなく、
ごくありふれたボールペンの先端部分だった。
僕はサンマ型ボールペンを器用に使い、
ノートに細かく商談内容を書き記していくNさんのきれいな指を見ていた。
やがて商談を終えたNさんは携帯電話をぱたりと折り、
サンマ型ボールペンを素早くジャケットの内ポケットにしまった。
「お待たせして申し訳ございません。では商談の続きを」
Nさんは僕に向かってそう言うと、
蒼みがかった瞳を謎っぽくきらめかせ、
ノートに挟んであったペンを手にした。
僕との商談用の、
ありふれた黒の事務用ボールペンを。
僕にもサンマを使って欲しいなあ、と思った。
ぎっしゅ。
昨日、出勤途中の電車の中で。
対面に座っている20代半ばくらいのサラリーマンと目が合った。
僕はすぐに目をそらして外の景色を見たが、
そのサラリーマンはしばらくぼんやりと僕の顔を見ていた。
そして思い出したようにカバンからあぶらとり紙を出すと、
ぺたぺたと顔を拭きだした。
ちょっと悲しかった。
何この残尿感。
あかりをつけるまえ
夕日を見るのが好きだ。
理由は特にない。だってきれいだからね。
夏だったら入日が遅いので、
仕事が終わってから見ることもある。
別に感慨はないけど、
ああ今日も働いたなあ、なんて思う。
するとわけもなく、
ふっと涙が出そうになる。
こんなに世の中が変わってゆき、
世界が変わってゆき、
人のこころもたぶん変わってゆく。
とかく変化を求められる。
ハイスピードで。
変わらないことが「いけないこと」と言われ、
淘汰されたりもする。
ただ変えられない。
ただ不器用なだけ。
ただそれだけなのに、
ただそれだけなのに取り残されてゆく。
でも太陽は今日も変わらず、
真っ赤に全身を焦がしながら世界の裾野へ消えてゆく。
そのことが何だかすごいなあ、と思い、
理由のよくわからない涙がこぼれる。
いろいろとバカバカしくなり、
たははと笑いながら泣いてしまう。
まったく困ったもんだ。
以前は海のすぐそばに住んでいた。
だから海の入日を見ることができた。
休みの日は海に行き、ちょくちょく夕日を見た。
太陽は、海面にぐにゃりと押し付けられるように潰れてゆく。
海は沈黙している。血のように赤い空。
黒い海面に帯のようにたゆたう、
ナイフみたいな鋭い金色の光。
日が沈むにつれ、
不確かに震えながら、光の帯はしだいに細くなる。
西原理恵子のマンガの中に、
「あの光の帯は神様のところへ続いている道だ」
というくだりがあった。
そんな言葉に少しじん、ときてしまう。
限りなく大きな円環の中で、
ごく小さな一部として生きていることを実感する瞬間。
あかりをつけるまえの、ほんのわずかな瞬間。
ドキという男 その3
訪れるたびに、部屋の住人達のメンツが微妙に変わる。
増えたり減ったりする。
ある時など、
カールの化け物のようなサイズをした何かの幼虫が十匹ほど、
透明のケースに入った暗褐色の腐葉土の中でもぞもぞ動いていた。
ふと違和感に気づいた。
猫が消えている。
立派な三毛猫だ。
身体ばかりか態度もでかく、
立派にこの部屋の住人の顔をしていた。
確かこの部屋の動物達の中で一番の古参だ。
「おい」
「何?」
「猫は?」
「猫? ……ああ死んでしまった」
「老衰かい」
「ああ。ずいぶん長く生きたからね」
ドキは沈黙した。
「……ドキ。ひょっとしてお前さ……」
ドキは遠い目をして、大きな湯飲みに入った茶を一口飲んだ。
そしてゆったりとため息をつくと、
相変わらずせわしなく呼吸するエイを見るともなく見た。
僕はそのまま何も言わず、ドキの部屋を出た。
結局、猫がどうなったのかは聞いていない。