フライドチキンと海のおと。 -48ページ目

夜のエレベーター

終電間際、オフィスの机に定期券を置き忘れているのを思い出した。


あわてて駅から会社のビルまで走り、
カードキーでセキュリティを解き、ビルに入った。


ビルは真っ暗で、しんとしている。
エレベーターは当然、一階で停止している。
僕はエレベーターの『開く』ボタンを押した。



中に、おじいさんが立っていた。



僕が言葉を失って固まっていると、
おじいさんは僕に軽く一礼し、エレベーターから出た。
そしてそのままビルの外へ出て行った。



誰もいないビルで。
止まって閉じられたエレベーターの中で。

一体何をしていたんだ?



混乱した頭で考えようとしたが、
すぐに終電間際であることを思い出し、
僕はオフィスに急いだ。

美味しい本

食べ物の話をよく書きますね、
と知人に指摘された。
そう、食べることが大好きなのです。
それがまさに昨今の脂肪の蓄え方と密接に関係しているのだが、
あまり食のことではガマンはしないようにしている。
早い話、ダイエットができない。ちえっ。

食を取り扱った本もたくさん持っている。
そういう本をたまに手に取り、
気に入ったページだけぱらぱら読んで味を想像するのが好きだ。
どんな本を読んでいるのですか、と聞かれたので、

特に好きなものをちょっと列挙してみます。




「旅行者の朝食」
米原万里著/文春文庫


子どもの頃「ちびくろサンボ」を何度も読んだ。
なんで虎がバターになるんだ? という疑問は沸かなかったが、
なんでたっぷりのバターでホットケーキができるんだ?
とは思った(口の中をよだれでいっぱいにしながら)。
この本でもそこら辺にちょっと触れる話がある。
やっぱり同じことを思ってる人はいたんだなー。




「料理人」
ハリー・クレッシング著/ハヤカワ文庫


これは小説。
不気味な容姿の天才的料理人が作る、奇想天外な料理の数々。
文章がすごくうまい。ぐいぐい引き込まれるのだ、この異常な世界に。
でも読んだ後、「??」という感じで、
こんなジャンルだ、とか、こんな話だ、という説明がむずかしい。
読まないとわからないなあ。
でも料理は美味しいのに、体重はぐんぐん減る。いいなあ。
コーヒー代わりに肉汁(ブロス)を飲むシーンがいくつかある。
これがすごく美味しそう。




「不味い!」
小泉武夫著/新潮文庫


発酵した食べ物に世界で一番詳しい著者が、
世界各国の臭くて不味い食べ物の謎に真っ向から挑む。
もう、虫とか爬虫類とかは普通に食べる。
中でも圧巻は、スウェーデンの缶詰・シュールストレミングだ。
別名、世界で一番臭い食べ物。
小泉氏曰く、
「ギンナンを踏み潰したものにくさやの汁をぶっかけ、
 そこにウンチのような臭さが加わり、
 さらに魚の塩辛の匂いを強烈にしたものが混在した」
匂いなのだとか。
これをパンに塗って食べるんだって。
あまりの臭さに、日本では輸入が許可されていないらしい。
食べてみたいなあ。




「被差別の食卓」
上原善広/新潮新書


これを読んではじめて、
僕の大好きなフライドチキンが黒人奴隷料理の代表であること知った。




ちょっとキリがないのでここらへんにしておくが、
食べ物の本はおもしろい。
幸運にも僕はあたりまえに美味しいものを食べているので、
本でも読まないことにはあまりものを考えずに日々が過ぎる。
「美味しいなあ」と笑って食べられる日々に合掌。






カツ丼と線香花火

夏の香りもそろそろオーラスなので、
友達数人と花火をした。



ビーチでロケット花火をぱんぱん打ち上げ、
手に持つやつ(名称不明)をしゅしゅしゅわわ、と。
シメはやっぱり線香花火。
なぜか線香花火というやつはしんみりする。
しんしんと静かで、つましくも美しいからなのだろう。



「ねえ」


線香花火の弾ける火種をぼんやり見ていた友達は、
唐突に僕に話しかけてきた。


「何?」
「花火って毎年、覚えてるの。どこでやったかとか、誰とやったかとか」
「へえ」
「今夜のこれも、思い出になるのかな」
「たぶんね」


友達は新しい線香花火に火をつけた。


「わたし昨日ね、一人でカツ丼を食べてたの」
突然何の話かわからず、僕は彼女の顔を見て話の先を促した。
「そしてね、思ったわけ。カツ丼って亭主関白の家庭みたいだな、って」
「…………」
「ありがとう、おしまいまで聞いてくれるのね?
 つまりね、こういうこと。
 カツ丼はもちろんカツがないとはじまらないじゃない。
 だからカツが、あのどんぶりの中ですごく大きな顔をしてるのね。
 ほら、俺が主役だぞ、みたいな。
 味の成分的なものも当然カツの割合がかなり大きくしめているわけよ。
 これはもう完全な亭主関白なの、わたしに言わせれば。
 でもね、ここに一つ勘違いがあるの」
「何、その勘違いって」
「わからない?」
「わからない」
「卵の力よ。あくまでこの料理は“カツ丼”なの、“カツライス”じゃなくて。
 ふわとろの半熟卵とあいまって、はじめてあの芸術的な美味しさになるの。
 卵がないカツ丼なんて……そうね……」


彼女はしばらく考えていたが、
ばっちりくる比喩を思いつかなかったようで、
小さく「やめた」と言った。


「これはもう奥さんなわけ。関白を陰で支える出来た奥さん。
 おろかよね、カツは。
 卵ありきであの味になっていることもわからずに、
 俺が主役だぞ、なんて。それに奥さんは一言も文句もなく、さ」
「あのさ」
「何」
「カツ丼は人間の試行錯誤で生まれた料理であって、
 おそらくカツにとってもそれは想定外のことだろうから」
「論点はそこにはないの」


彼女は人差し指をぴっと立てて僕の話を制した。


「亭主関白の家庭っていうのは、
 ……これはうまく機能している亭主関白の家庭の話ね?
 亭主は偉そうでも実は奥さんにうまく転がされてるじゃない、だいたい。
 そこに亭主は気付いていない。
 俺がいるからうまくことは展開している、みたいに勘違いして。
 奥さんの陰徳があったればこそなのにさ」
「…………」
「傲慢よね。自分がかりかりしたコロモに纏われていることも忘れて。
 それでいてずるいのが、カツ丼って“庶民の味、代表”なのよ。
 つまりね」
「良くも悪くもソトヅラがいい、と」
「そういうこと」


彼女は花火に向き合った。そして、
「わかってんじゃない」とつぶやいた。


僕の火種がぽとり、と落ち、
この話題に決着をつけるタイミングの訪れを告げた。


「君は、亭主関白の家に育ったの?」
「別に」
「じゃあ、カツに恨みでもあるの?
 ひどい目にでもあったの? むねやけしたとか、セクハラを受けたとか」


彼女はひどく悲しい目で僕を見た。


ぽとり、という音とともに、
彼女が手にしていた線香花火の火種も落ちた。


「終わっちゃった」
「そうだね」
「今夜のこの話も、いつか思い出になるのかな」
「たぶんね」



嬌声があがった。
僕達から五十メートルほど離れた場所でも、
男女五、六人が花火大会をしていた。
声の感じからして、僕達よりぐっと若そうだ。
シルエットが細長い。身のこなしが軽い。
そしてそのチームの花火は、
まだまだストックに余裕がありそうだった。
あと一時間くらいは続くのかもしれない。




また夏が終わる。

お守り その5

「ね、怖いでしょ」
「怖いね」



K君は角を曲がると猛然とダッシュした。
マンションに帰り着くまでに、何回も後ろを振り返った。
部屋に飛び込み、鍵を閉め、
ドアにチェーンをかけてはじめて人心地ついた。


ふと。
異臭がした。


最初は何の匂いかわからなかった。
どこから匂っているかもわからなかった。


「電気を点けて、部屋のあちこちを歩き回って。
 どこからも匂うんです。それこそ、部屋全体から」


そしてK君は気づいた。
異臭を放っているのが自分であることに。


「正確には僕のカバンからです」


焦げ臭いのだ。

K君はタバコを吸わないので、
もちろんカバンの中に火の気はない。
K君はカバンの中身をベッドの上にぶちまけた。

匂いの正体はすぐに判明した。


「お守りだったんです。これですよ」


K君は、例のお守りをつまんでぶらぶらさせた。
そして結わえられた紐をほどくと、
お守りの中身を引っ張り出した。


「なんか呪文の書かれた木の板が入ってるんですけどね」


真っ黒に焦げていた。


「外側の布もね、最初は黄緑色だったんです。
 その夜カバンから出した時には、この色になってました」


K君は木片をお守りの中に入れると、
大事そうにカバンにしまいこんだ。


「K君はどう解釈するの?」
「どうって?」
「お守りさ。力、使い果たしたのかな」
「そうなんですかね」
「持ってなかったらK君、どうなってたのかな」


K君は、わからない、と言った。

もちろん僕にもわからない。
ただ、皿に残った鳥皮の串にはもう手をつけたくない。
それだけが暫定的な事実だった。


お守り その4

「気づかれちゃだめだ、絶対にだめだって思いました」


何気ないふうを装い、K君はそっぽを向いた。
進行方向にあるCD屋を見て、
店頭のポスターの文字を意識して読んだ。

だが、K君にはわかった。


「女は僕から目を逸らしませんでした」


はっ、はっ、という息がすぐ近くまで来た。
その距離、一メートル。


<絶対に見ちゃだめだ>


K君は正面から視線を動かさなかった。
そしてすれ違う瞬間。
女は顔をぐっ、とK君に近づけた。


「見てただろ」


がさがさにひび割れた、
男とも女ともつかない声だった。
声を発した時、女の唾液がK君の腕に飛んだ。
服の下には汗が流れていた。


「急に速く歩いたりしたら不自然だから。
 一生懸命、平静を装って歩きましたよ。完全無視で」


背中に目が付いているんじゃないかというくらい、
K君には背後の様子がわかったという。
女は荒い息を吐きながら、
立ち止まってじっとK君の背中を見ていた。
ともすると笑い出しそうになる膝を叱咤し、
K君はつとめて冷静に歩き続けた。


<そこの角。そこの角まではゆっくり歩こう>


「いつも曲がっているドラッグストアの角までが永遠に感じました」


そして曲がる瞬間、はっきりと女の声が聞こえた。


「……くそったれ」
<つづく>