イエスタデイ その5
それから二年後の秋。
僕は警察に補導された。
その日の僕のライブには、マイが来てくれる約束だった。
しかし、時間になってもマイはライブハウスに現れなかった。
定刻になったので僕はしかたなくステージに立ち、
いつもどおりノドも裂けよと歌いだした。
二曲目に入ってすぐ。
ふと、タテノリとは違う動きが目に入った。
僕の左斜め前のお客さんだ。
女の子が顔をゆがめている。
その後ろでは、いかつい黒人男性二人組みがニヤついている。
女の子は体を触られていた。
ベースの音がやんだ。
あれ、と思い僕がそちらに目をやった時には、
ベーシストはすでに楽器を投げ出して客席にダイブしていた。
「お前らええ加減にせえよ!」
ベーシストは吼えながら黒人の一人につかみかかり、
その顔面に右ストレートを叩き込んだ。
すぐ事情を察したギタリストも客席に飛び込んだ。
ステージ上にも客が殺到した。
僕は客にもまれながら、
人波を泳いでベーシストのところまでやっとたどり着いた。
ベーシストともみ合っている黒人の肩を掴んだ瞬間、
側頭部に強烈な衝撃が来た。
ひざの力が抜けた。
振り返ると、もう一人の黒人が手にしたビール瓶を振りかぶっているところだった。
僕は黒人に飛び掛り、何とかその手を押さえた。
周りはもう大混乱だ。
援軍と思しきごつい黒人男が何人もいて、
その辺の客を手当たり次第に殴っていた。
客も負けじと殴り返していた。
そのあたりで警官隊がなだれ込んできた。
頭の隅で「あ、これで前科者だ」と、
どこか他人事のように思った。
投げ出されたベースがアンプのそばに倒れており、
耳障りなハウリングでその存在を主張していた。
<つづく>
イエスタデイ その4
僕と同じように、マイもまた自分のバンドを持っていた。
マイはそのバンドでギターを担当しており、実際すごく上手かった。
その超絶プレイをはじめて見た時は三歩下がって土下座し、
「参りました」
と言った。
マイはプロのミュージシャンを目指していたのだ。
僕のような中途半端なまがいものではない。
彼女のステージに足を運んだこともあったが、
オーディエンスとステージが一つになる、というよりは、
みんな彼女の高速で動く指先に見惚れていた。
ステージを盛り上げるパフォーマンスも堂に入っていた。
音楽が、ギターが本当に好きなんだろうな、と思った。
僕はそのサマを見るにつけ、
「どおだい俺の彼女は。かっこいいだろ?」
と鼻を7センチくらい高くし、
また自分のやっていることとの落差に大いにヘコんだりした。
そしてマイは僕のへらへらした感じや、
音楽に対する意識の低さを叱ったりもした。
マイはよく
「貧乏でも、どっぷりギターだけを弾いて生きてゆけたらなあ」
と言っていた。また、
「いつかロンドンに行きたい」
とも言っていた。
とにかくルックスとかアイドル性などとは関係なく、
純粋にギターのテクニックだけで生きてゆく、
という環境に身を置きたかったのだ。
実際に日本の大手音楽事務所のプロモーターなんかから名刺を貰ったことなど一度や二度ではなかった。
しかし、彼らと話しているとどうも
「自分をアイドルとして売り出そうとしている」
感じがそこはかとなく匂ったという。
マイはそれらの申し出は丁重に断った。
「お前ね、それはすごくもったいないことだよ」
と僕が言うとびっくりするくらいのふくれっつらになり、
そのあとしばらく話をしてくれなかった。
だから僕も、
そんなマイの不器用なやり方にそれ以降は口出ししないようにした。
ギターのこともマイに教えてもらったが、
勉強もよく教えてもらっていた。
僕は決してまじめな学生ではなかったが、
とりあえず赤点だけはなんとか免れていた。
一夜漬けに近いスタイルで勉強していたからなのだが、
それにはマイの協力が不可欠だった。
なかでもマイは英語が得意で、
「日常会話ならたぶん問題ない」とまで言っていた。
確かにずっと洋楽を聴いてヒアリングの練習をしていたし、
分厚いペーパーバックスをいつもカバンに入れていた。
街を歩いている外国人に突然話しかけたりもしていた。
そんなマイだったから、
僕が行っていた高校のレベルの英語など問題にもならなかったようだ。
ちなみに彼女の高校の偏差値は当時、僕の高校の倍以上あった。
(僕のクラスメイトのほとんどは“J”や“S”の向きを逆に書いたり、
“love”を“lave”と書いたりしていた)
「んん、もう! さっき教えたじゃん! ばか!」
と何回言われ、
「だぁから“イエスタデイ”のつづりはこおだよ! こ・お!」
と、言われながら何回教科書で頭を叩かれたことか。
僕が今、多少英語好きになっているのは、
間違いなくマイのスパルタのおかげなのだ。
<つづく>
イエスタデイ その3
マイがよく語っていた、自身の性体験の豊富さ。
それがすべて嘘だとわかったのは、
奇しくもマイとはじめてベッドに入った夜だった。
梅田周辺にある、
とびっきり場末感の漂う安いホテルを選んだのはマイだ。
部屋の壁紙はところどころ剥がれていた。
シーツをはじめとしたすべての寝具は、
月のない闇夜のような濃密な黒だった。
僕にとってマイははじめての相手だった。
僕はとても緊張していたので、
ホテル選びから何からやたらリードしたがるマイの「豊富さ」を信じ、
任せていた。
結局、がちがちの僕はろくにマイを満足させることができず、
ただただ一方的に、ほとんど何の快感もなく、
キツネにつままれたように初体験は終焉を迎えた。
矢吹ジョーとの対戦のために痩せ衰えた力石徹のようになった僕を見て、
(しつこいようだけど、そりゃあ俺ふられるよな)
「すっごくよかった」
と、マイはかわいい笑顔で言った。
僕は目をしっかりと合わせることもできなかった。
そのあとベッドで何時間か眠り、
朝早くにシャワーを浴び、ホテルを出た。
そしてマクドナルドで朝マックを二人で食べた。
ハンバーガーを食べながら僕がそらぞらしく音楽の話などをしていたら、
笑って聞いていたマイは口を笑顔の形にとどめたまま、
大粒の涙をぼろぼろとこぼした。
落ちた涙はレモンドロップのようにホットコーヒーの水面で弾け、
きれいなミルククラウンをいくつもこしらえた。
僕はびっくりして、
「どうしたの?」
と尋ねた。一度だけ。
マイは俯いて、わからない、と答えた。一度だけ。
そのあと三十分くらい、マイは声を殺して泣き続けた。
僕は黙ってマイの嗚咽を聞いていた。
マクドナルドを出て歩いていたら突然マイが、
「もういやになった?」
と僕に聞いた。
僕は真顔で、なるわけがない、と答えた。
マイは「そっか」と言い、しばらく黙って歩いた。
そして「嘘言っててごめん」とつぶやくように言ったあと、
僕がはじめての相手であったことを告げた。
<つづく>
イエスタデイ その2
待ち合わせ場所にマイが来てくれた時には、
僕はホセ・メンドーサと戦い敗れた矢吹ジョーのようになっていた。
(今これを書いていて思ったんだけど、そりゃあ俺ふられるよな)
「……ふられた」
「……まじで?」
「まじで」
「あー。そっかー」
地べたにぺったり座り込んでいた僕の横に、マイはしゃがんだ。
マイは化粧をしていなかった。
大人っぽい黒いジャケットに、デニムのミニを合わせていた。
夜にマイと会うのはそれがはじめてだった。
普段学校帰りなどに会っている時は、
「夜っぽい雰囲気の子だな」
と思っていたのだが、こうして夜会ってみると、
ちっとも夜にはまってやしなかった。
夜の十一時過ぎ。
十六歳の僕達は、
街にぽつりと空けられた異質で硬質な穴のようだった。
「あのさ、来てもらってなんだけど」
「何?」
「十一時過ぎてるからさ」
「だから何?」
「いや、送るから。帰った方がいいよ」
マイは怖い顔をした。
「ふられたばっかりの友達を街にほっぽりだしてグーグー寝れるほど根性座っちゃないよ」
「……おまえ。超かっこいいな」
そう言うと、マイは真っ赤になった。
「そんなことないけど。今のあんたは超かっこ悪いけどねっ」
季節はちょうど今頃だったと思う。
それから朝五時頃まで、僕達は公園のベンチに座って話をした。
缶コーヒーを何本も飲みながら。
タバコを何本も地球に還しながら。
話すネタには困らなかった。
まず僕がふられたこと。
(別れてすぐに元彼女は、ZEEBRAみたいな大阪生まれヒップホップ育ち的な彼と付き合いはじめた。そりゃあ俺ふられるよな)
ジャパンロックの可能性について。
(これについてはかなり意見が割れた。マイは根っからの洋楽フリークなのだ)
ダウンタウンが東京でどれだけ活躍できるか。
(僕もマイも、松ちゃん浜ちゃんは東京で間違いなく天下を取る、と断言していた)
青い香りがぷんぷん漂う、互いの恋愛観について。
スモッグの浮いた空が灰色がかった濃い青紫色になった頃、
ばね仕掛けの人形みたいにマイはぴょん、と腰を上げ、
「帰らなくちゃ」
と言った。
その公園からマイの家までは歩いて二十分くらいだった。
マイは自転車を押し、僕はその横を歩いた。
歩き出してすぐにマイは「あのね」と切り出し、
「ほんとはね。ほんとのほんとは、別れてくれて嬉しかった」
と言った。
そして「ごめんね」と付け加えた。
<つづく>
イエスタデイ その1
この話を書くことには躊躇があった。
でももやもやしているのならいっそ書いてしまおうと思えたのは、
何よりいつも読んでいただき、
かつあたたかいコメントを頂ける皆様のおかげだ。
読者の皆さん。本当にありがとう。
皆さんのことを心から愛しているし、甘えています。
皆さんがいなければ、
僕はもう一行たりとも書き進めることなどできない。
手元に一通のエアメールがある。
封筒の裏面にはこんな一文がある。
『もし読めたら日本語訳をつけて送り返してきなさい!』。
エアメールをもらったことなどこれが最初で最後。
たったの一通きりだ。
古い手紙を片付けていたら出てきた。
覚えてるかい? といった感じで。
イギリスから送られてきたものだ。
消印の日付は二十年前。
送り主は、その時付き合っていた彼女だ。
ちょうど二十年前。
はじめてできた恋人に、
「なんか物足りないんだよね」
という情け容赦ない言葉をぶっつけられ、木っ端微塵にふられた。
僕はへろへろになり、
半泣きになりながら阪急梅田駅のコンコースにあるカード電話にたどり着くと、
恋人(元ね)の親友、マイの電話番号をプッシュした。
1コール目でマイが出た。
「あ、マイ? 俺」
『あ……ひょっとして、ふられた?』
「……なんでわかった?」
『そりゃわかるよ』
「だからなんで」
『…………』
みたいなやりとりがあり、
マイは『すぐそっち行くね』と言って電話を切った。
マイの家は梅田駅のすぐ近くにあった。
僕と彼女(しつこいが元、ね)が付き合いだしてすぐ、
「親友だから紹介しとく」
と言われ、彼女はマイを連れてきた。
はじめてマイを見た時の印象は
「外国人みたいだ」
だった。
肌が真っ白で、瞳と髪が栗色だった。
彫が深く、不自然なほど顔が小さかった。
あとで知ったことだが、マイのおじいさんはイギリス人だった。
なるほどそれで、と納得できるルックスだ。
マイは大のロック好きだったので、
僕ともすぐ意気投合した。
話し方も考え方もさっぱりしていたので、
彼女と三人で遊んでいても、
ついつい話しやすいマイと盛り上がっていることもよくあった。
その時僕は彼女にメロメロで、
好き過ぎてカッコつけて変に気を使ってしまい、
恋人でありながら彼女とはうまく話せなかったのだ。
だからマイの存在は緩衝材的で、
いてくれるとありがたかった。
雰囲気がやわらぐのだ。
<つづく>