イエスタデイ その10
一日迷い、結局僕は返事を書くのをやめた。
マイが僕の返事を求めているのかどうかも、
あまり考えないようにした。
それから何週間かたった頃にまた手紙が来たが、
僕は返事を書かなかった。
そしてそれがマイから来た最後の手紙だった。
別れてからも友達でいられるパターンの恋もある。
実際僕にも何度かあった。
マイとも、ひょっとしたら友達でいられるかもと思っていた。
しかし違った。
僕とマイが二年かけてはぐくんだ恋は、
一度離ればなれになったら二度と会えない性質のものだったようだ。
そして僕は知っていた。
僕達が望むべき場所は“昨日”ではなく、
“明日”でなければならないということを。
それに気付いていながら、
何かを雄弁に語るマイの目から視線をそらしていた。
そんな自分が愚かだったとは思っても、
過去のことを悔やんではいない。
なぜなら僕には望むべき明日があるし、
守るべき大切なものを持っているから。
あの時のマイのように。
マイが弾くギターをテレビで聴くことはまだできないが、
その熱い音色は今でもくっきりと思い出せる。
たとえどんな場所で弾いていたとしても、
マイのギターは誰かの胸の扉を強くノックしているはずだ。
そう、たぶん今この瞬間にも。
それから、マイ。
思ったとおり、やっぱりダウンタウンは天下を取ったよ。
イエスタデイ その9
マイがロンドンに行ってから二週間後に届いた手紙。
その封筒にはこう書かれていた。
『もし読めたら日本語訳をつけて送り返してきなさい!』。
僕はあせりながら封を開け、中を見てげっそりした。
三枚にわたった手紙はすべて英語で、
しかもくずした筆記体で書かれていたのだ。
「まったくまったくほんとにあの根性曲がった意地悪ドS女はよ!」
僕は頭を抱え、
呪文を唱える魔女のようにぶつぶつと悪態をついた。
けけけけけ、というマイの高笑いが聞こえてきそうだ。
それから僕は辞書を片手に、
ほとんど丸一日かけて手紙を訳した。
内容は近況報告だった。
今回のオーディションには惜しくも落ちてしまったが、ロンドンにはおいしいオーディションがたくさんあって、すぐまた次のやつを受けようと思って猛練習している、とか。
おじいさんにはトラウマになるくらい怒られたが、アパートを借りるために八方に口をきいてくれた、とか。
そして自分の言葉には聞く耳を持たなかった両親を電話で説得してくれた、とか。
アルバイトを見つけて、そこにいる同じ歳の女の子があまりに可愛すぎてビビっている、とか。
食べ物はあまり好みではないので、僕と二人でよく食べに行った定食屋のしょうが焼きが恋しい、とか。
三枚目には、また手紙を書くので、
あなたも手紙を書いてね、ただし英語でね!
それ以外は受けつけませんからね! と書かれていた。
そして最後の行には、
I'll never fall in love again.
と書かれていた。
読めないくらいに、
ことさらにくずした文字で。
<つづく>
イエスタデイ その8
「意味ないの。東京にもわたしの夢、ないの。
どうしてもそのオーディションだけは受けたいの」
「俺はどうなるんだよ」
急にマイは口をつぐみ、僕から目をそらした。
マイが僕から目をそらしている間、
僕はのっぺりした脳みそをフル回転させ、
いろんなことを考えた。
やがてマイがうっすらと口を開いた。
そして何か言おうとしたが、直前に僕が言葉で制した。
「別れような」
マイは体をびくっと震わせた。
僕はこれ以上は無理というくらい、
肺いっぱいに息を吸い込んだ。
「だって無理だもんな、イギリスと日本なんて遠くてさ。
いや、遠いだろー? たぶん遠いと思うよ?
どこにあるのかも、あんま知らないけど。
もちろん俺行けないしさ。
だからとりあえず! とりあえずお前は全部忘れてさ、
音楽に集中しなよ。大丈夫、お前根性あるし。
大体、一度決めたこと曲げられないヤツだし。
しかもその歳でそんくらいギター弾けたらさ、
いい線行くんじゃない?
特に日本人じゃほとんどいないと思うし。
やる意味あると思うよ?」
僕は腕組みし、何度もうんうん、と頷いた。
「いやあ、すごいな。俺な、恋人だったけどさ、
ずっと尊敬してたんだよね。だってお前すごいんだもん。
やっぱり目が違うんだもん。本気の目っていうの?
夢掴んでやる!って目ぇしてるもん。
すごいなー。やっぱすごいわ、行動力も。
ひょっとして世界的ギタリストとかになっちゃったりして。
そしたら俺、死ぬほど自慢するからな。
俺、あの子と付き合ってたんだぜー、って」
とっくにのどはからからだったが、
僕はのべつまくなしにしゃべり続けた。
しゃべり続ける以外の方法など考え付かなかった。
「行くな」なんて口が裂けても言えない。
“昨日”すら英語でロクに書けない人間が、
明日に向かって目を輝かせている人間を、
一体どんな言葉でならひきとめられたというのだろう?
今でもわからない。僕はちっとも進歩していない。
まあつまりこんな男だからふられるのである。
イライラした読者の方、もうしわけない。
マイは僕の口から流れ出る具にもつかない言葉の一つ一つにこくん、こくんと丁寧に相槌を打ち、
僕から目を離さずに、瞬きもほとんどせずに聞いていた。
本当に、透けるように白くきれいな顔だった。
<つづく>
イエスタデイ その7
『今大丈夫?』
「……いや、大丈夫ってか、どうしてたんだよ」
『軟禁されてた、親に』
「……なんで?」
『うーん。……電話じゃちょっとね』
「お前こそ大丈夫なんか」
『うん、今は……。あのさ、出て来れないかな?』
マイは梅田駅にいる、というので、
いつもの公園で待ち合わせることにした。
待ち合わせ場所に行くと、はたしてマイはいた。
マイはもこもこに着膨れていて、なぜかギターケースを背負っていた。
そしてかたわらには大きなボストンバッグがあった。
「家出してきちゃった」
僕は三秒くらい沈黙した。
「……まじで?」
「うん。まじで。でもまだ親は気付いてないと思う。
荷物とか、ほとんど置きっぱだから。
今日中に東京の友達の家に行って、
それから飛行機乗って、向こうから手紙で知らせるつもり」
「飛行機って、どこ行く気だよ?」
「イギリス」
「……まじで?」
「うん。まじで。とりあえずロンドンのおじいちゃんの家に転がり込む。
無理なら、下宿でもなんでも探す」
「なんのために?」
「もちろん音楽やるために」
マイの目には一点の曇りもなかった。
マイはロンドンで行われるオーディションのことを隠していた。
両親にも、友達にも、僕にも。
言い出せなかった。
すべての人達に反対されると思っていたからだ。
僕のライブに行こうとしたその日、
派手な格好をお父さんに見咎められた。
そのまま僕と付き合っていたこともばれ、
激しい口論になったという。
その勢いでオーディションのことも言った。喧嘩口調だった。
お父さんは猛烈に反対した。
もちろんマイは反発した。
しまいにお父さんはマイに手を上げ、
なおも家から出ようとするマイを引きずって部屋に閉じ込めた。
学校には休学届けを出した。
電話を使うことすら禁止された。
「だったら最初はまず東京で地道にさ」
「そんなの意味ないもん」
マイは僕の言葉をつっぱねた。
<つづく>
イエスタデイ その6
僕の親指はインクで汚れていた。
調書に捺印を押したその指は、
唾液でこすったくらいではきれいにならなかった。
「もしかしたらずっと汚れたままかもしれないな」
と思った。
もちろんそんなわけはないのだが、
殴られた頭は痛みを増しており、
考えるのも億劫になってネガティブな発想しか浮かばなかった。
でも汚れた指がきれいになるまで、
マイのきれいな髪をなでる気にだけはどうしてもなれなかった。
警察署を出てすぐにマイの家に電話をかけた。
番号をプッシュする自分の薄汚れた指を見て、
ひどくみじめな気分になった。
案の定、マイはいなかった。
停学中、何度も電話したがとりついでもらえなかった。
「娘はいない」
の一点張りだ。
お母さんが出た時は一言ふたことの会話で済んだが、
お父さんにはこんこんと説教をされた。
マイはその後も僕のライブには来なかった。
学校にも行っていないようだった。
そうして僕とマイは何週間も、
会うどころか言葉一つ交わさずに過ごした。
恋人同士というのはこうして終わってゆくのかな、と思った。
それから一ヶ月ほどたった、ある夜。
マイから突然電話がかかってきた。
<つづく>