フライドチキンと海のおと。 -32ページ目

テント その3

ふと目を覚ました。
時計を見ると、夜中の三時過ぎだ。


不思議だった。
S君は、一度眠ったら朝まで目が覚めないタチだ。
不思議に思いながらも、
S君は一服つけようとなにげなくテントの外に出た。



くわえていたタバコが、ぽろりと口から落ちた。
S君が大きく口を開けてしまったからだ。


目の前に、テントがあった。
自分のテントから、ほんの二メートルほど離れた場所に。
思わず対岸を見た。
そこにもテントがあった。
いや。一つではない。
対岸に二つ。
自分のテントの隣に一つ。
いつの間にかS君のテントは、
ほとんど同型の古びた三角屋根のテント三つに囲まれていた。


「怖さを認識する前に、本能的に退路を探したね」




隣に設置されたテントと川との間には、
二メートルくらいの通路が確保されている。
そこを通って、ここから離れよう。
S君はそう思った。
それには理由がある。
ただテントが増えていただけなら逃げ出すほどのことでもない。
問題はテントの中だ。


三つのテント、そのすべてに共通して、
内側に何かどす黒いものが大量に流れた跡がついていた。
血、に見えなくもない。


テントの中で何が行われていたか、
もしくは行われているか、
これから何が行われようとしているかなんて考えたくもない。
S君は音を立てないようにして最低限の荷物をまとめた。
そしてリュックを背負うと、
つとめて普通の速度で歩き、その場を離れた。
急ぐことも恐ろしかったのだ。



そのままS君は駅舎で朝を待ち、
七時を過ぎるのをきっちり確認したのち、キャンプ場に向かった。
キャンプ場には、自分のテントだけがぽつんと設置されていた。
三つのテントは、張られた形跡すらなかった。



「もう一人っきりでテントを張るのはやめにしたよ」



S君が好きなのはあくまでもアウトドアであって、
決してサバイバルではないのだ。

テント その2

「がさごそとか、かんかんとか、音が全然聞こえなかったからさ」


テントを張られた気配がまったくなかったのだ。
そのテントはS君が使っているようなドーム型のワンタッチのものではなく、
いかにも旧式の、重そうな三角屋根のモデルだった。
挨拶に行こうと思ったが、ちょっと考えてやめた。


「晩飯の仕度をする時に絶対出てくるはずだから。それに」


キャンプに慣れた人間なら、
テントを張った時点ですぐに向こうから挨拶に来るはずだ。
でもまだ出てくる気配がないので、
あまりアウトドアでの常識を知らないビギナーなのかもしれない。
それならば出てきた時にさりげなく挨拶すればいい。
S君はそう思った。
しかし、


「俺が晩飯を食い終わっても、とうとう一回も出てこなかったよ」


対岸のテントは静まり返っていた。
たまに夜風が吹いて、表面が揺れるだけだ。
中で動く気配はまったく感じられない。


(……誰もいなかったりして)


S君は自分の想像に鳥肌をたてた。
そしてすぐに気付いた。
誰かが中にいたとしたら。
それはそれで怖い。
それはそれでもう、ちょっと普通じゃない。
自分は今、すでに異常な状況に追い込まれているのかもしれない。
S君は硬質の恐怖を感じた。
とりあえず焚き火だけは絶やさないように気をつけ、
テントにもぐりこんだ。


日中の疲れからか、
S君はすぐに眠りに落ちた。
<つづく>

テント その1

アウトドア大好き人間のS君とは何度かキャンプをした。
僕も今ではアウトドアでイニシアチブを握ることができるが、
その状況に合わせた色々な動きはS君に教え込まれたことなのだ。


そんなS君は当然のように一人でもキャンプにゆく。
怖くないか、と僕が聞くと、


「一度、山犬の大群にテントを囲まれたことがあって」


と言った。死ぬかと思ったらしい。





それ以外でも、S君はこんな経験をした。
その時も彼は一人でキャンプをしていた。
特に珍しい場所でもない。
大阪市内ではわりと有名なキャンプ場で、
そこから車で二十分ほど山に入った場所だ。
木々が覆いかぶさるように空を隠していて、
幅五メートルくらいの川が真ん中を流れている広場。
テントなら、大きなものが四つほど設置できそうな広さである。
S君はそこをねぐらに決めた。


なぜかその広場は、
それまでに誰かに利用された、という雰囲気がなかった。


「でも使い勝手のよさそうな場所なんだよ」


S君はこんないい場所なら毎年でもこれるな、と思った。



夕方。

テントでうとうとしかけていたS君は、
晩御飯の仕度をするために眠い目をこすった。
鍋を持ってテントを出たS君は、
驚いて思わず鍋を取り落とした。
S君がテントを張っている場所から川を挟んで対面に、
いつの間にかもう一つテントが張られているのだ。
<つづく>

おまえは世界の王様かっ。

納品に行った先で怒鳴り散らされた。
小さな居酒屋だ。怒鳴ったのはそこの雇われマスター。
僕が提出した請求書が、最初に話していた見積もり金額と違うからだと。
僕の説明を聞こうともしない。
とにかく上司を呼べの一点張りだ。
やむなく僕は上司Nさんを呼び出した。
Nさんが来るまでの間に少し落ち着いたからなのか、
すでに激昂している様子はない。
Nさんが店に到着し、僕の話した事とまったく同じ説明をした。
まあ君がそういうなら、という感じでマスターはあっさり納得。
結局Nさんの顔を見て安心したのかもしれない。




仕事をしているとどうしてもこういう人に会う。
仕方がない、仕方がないとは思いつつ、
やりきれない気持ちでいっぱいになる。
まったくの偏見無しに言わせてもらうが、
その雇われマスターからはおまえんとこを使ってやっている、
いつだって代わりはいるという気配がビンビン感じられた。
そう思われるのはこっちの手落ちだ、とは思わない。
そう思われても仕方がないな、
と自分で納得してしまうような仕事は、僕はやっていない。


結局、こういう人達は世間にたくさんいる、ということだ。


使ってやっている。仕事をしてやっている。
だから客の言うことは聞いてあたりまえ。
ちゃんちゃらおかしい。バカ丸出しである。
仕事に対する意識が極めて低い。


世の中は、仕事とは、
すべての人が何処かで誰かに頭を下げて均衡を保っている。
焼き肉を食べに行けば、
そこの店長が僕より十歳上であろうと僕に頭を下げる。
そしてその店長が車を買いに行けば、
店にいるのが主任だろうが社長だろうが頭を下げるはずだ。
もちろんその車屋さんの社長がまだ二十歳だろうが、
僕と仕事をさせてもらえるなら頭を下げる。至極当然のことだ。




誰もが誰かに頭を下げ、誰もが周りの誰かのおかげで成り立っている。
例えば営業部、企画部、事務、総務。
どの部署がかけても仕事は回らないはずだ。
それで回ってしまう会社は、どこか構造に異常がある。

そんなシンプルで当たり前のことを理解していない人が多い。
たかが雇われマスターが、神にでも選ばれたつもりか?


その居酒屋さんの壁には、


「俺が俺がの我を捨てて、おかげおかげの下で暮らせ」


と標語の様に書かれていた。すばらしい言葉だ。
だがその店に書かれていては冗談にしか見えない。




働くすべての人が、周りにいるすべてに感謝する。
絵に描いた餅ではなく、
そんなことがあたりまえの風土として根付いている会社は強い。
心の中心に、けっして折れない一本の芯を抱えている。
結局、成果を出してゆける会社とはそういったものであるはずだ。



たまご焼きの調味料 後編

小学生の頃、僕はいわゆる劣等生だった。
勉強の楽しさもやり方もわからなければ、
意味も理由も何もわからなかった。
ただ憑かれたように本をむさぼり読んでいた。
クラスのみんなが校庭でサッカーボールを蹴っている時間、
僕は図書室にこもっていた。
もちろんペーパーテストは惨憺たるものだった。
両親は不安だったに違いない。きっと思っていただろう。
どうしてこの子は普通じゃないの、と。
でも、本当にわからなかったのだ。どうしたらいいか。
ただ辛かった。母ちゃんゴメン。


そんな僕がある日、奇跡的に百点を取った。
国語の時間で、オリジナルの俳句を作りなさい、というテストだった。
毎日本を読んでいたせいか、文章を作るのは大得意だった。
僕の作った俳句は担任の先生に絶賛され、
赤ペンででっかく「100」と書かれた。
母の喜びようといったらなかった。
テスト用紙を額装しかねない勢いだった。
早速「プチ祝い」と称して、母が回転寿司を食べに連れて行ってくれた。
でも当時、うちにあまりお金がないことを僕は知っていた。


「なんでも好きなもん食べてええからね」


そう言われたが、
僕は無邪気を装いながら高いお皿には手を出さなかった。
お会計が足りなかったら母がどんなに恥ずかしい思いをするだろうとか、
高いお皿に手を出したら二度と連れてきてもらえないんじゃないかとか、
そんなことばかり考えて寿司を味わうどころではなかった。
かくして僕は、たまご焼きのお皿をいくつも積み上げた。
それをじっと見ていた母は一言、


「あんたは、たまご焼きがほんまに好きやな」


と言った。


何年経ってもあの言葉は忘れられない。





それから母は度々たまご焼きを作るようになった。
そしてたまご焼きは磨かれ、どんどん美味しくなっていったのだ。
今でもたまご焼きを食べると、
必ずその時のせつない気持ちがよみがえる。
気持ちが味を倍化させる気がする。
ほんわりしたたまご焼きを噛み締めるたび、


「母ちゃん。俺、がんばってるよ」


と心につぶやき、鼻息をあらくする。





だからたまご焼きや特別なのだ。こと母の作るたまご焼きは。
でも、それを差し引いても母の作るたまご焼きはうまい。
甘くて香りがよくて優しい。
そして、ほんのりとしょっぱい。