祈る男 その4
皆が懸念した通り、
ムデは次の朝日を見ることはなかった。
人間が果たしてこんな色になるのだろか、
と目を疑ってしまうほど、
ムデの肌は常識ではありえないような紫になっていた。
ムデを看取ると、
調合師は静かに握った手を離した。
ムデの家族は押し黙ったまま、
調合師に椀を勧めた。
それは水のような粥だった。
調合師は黙ってそれを飲み干すと一礼し、その場を去った。
約束どおり、お金は1ドルも受け取らなかった。
辛抱たまらず、
マツ君は調合師を追った。
町外れで彼を呼び止めると、
なぜマデの治療を引き受けたのか、と訪ねた。
すると調合師は少し考え、こんなことを言った。
「最初からわかっていた。ムデの病気が治らないことは。
薬だけで治せる病気じゃないこともわかっていた。
しかしあくまで病気を治すのは自分自身で、
そしてあくまで私は調合師だ。
もしも私が彼を治せないなら、
祈る男のために私ができることなど、祈りの手を握るしめるくらいだ」
もうマツ君は何も言えなかった。
調合師の行動や意識は、
マツ君が知っている正義や常識にはあてはまらなかった。
ただ、その背中には迷いが微塵も感じられなかった。
徹夜したマツ君には朝日がひたすらまぶしく感じられ、
その朝日の下で調合師の姿は明滅しているようにも見えた。
やがて調合師の背中がスモッグにかき消され、
誰かの祈りがどこからか流れてきた。
それは熱く湿った大気にねっとりと絡みつくような、
やたら耳障りでどこかせつなさを伴う調べだった。
祈る男 その3
それから調合師は毎日ムデのもとを訪れた。
訪れてはしばらく同じ薬を試したり、
時に新しい薬草を加えて調合しなおしたりもした。
ムデはお金が払えないのだから、
と何度も調合師を追い返そうとした。
しかし調合師は頑としてそれを受け入れない。
それどころか、
ムデの家族がいない時は彼のために食事の仕度をしたり、
家族さえ嫌がる下の世話までした。
何かと暗くなりがちなムデのために、
なんだかよくわからない陽気な歌謡曲も歌った。
そして夕方には二人で神に祈った。
一刻も早くこの身体がよくなりますように、と。
しかし、当然のように調合薬はまったく効かなかった。
日に日にムデは痩せ衰えた。
意識も混濁し、
最期には家族の顔もマツ君の顔も、
調合師の顔もわからなくなった。
マツ君にはわかった。
ムデはきっと、
明日の太陽を見ることはできないだろう。
誰の目にも明らかだった。
家族は泣いた。
マツ君も涙を流した。
しかし調合師は表情を崩さず、
祈るように胸の上で組まれたムデの両手を包むように握った。
マツ君にはその二人の姿が、
まさに敬虔な教徒と、
それを教え説く伝道師に見えたという。
朝が来ても調合師は手を離さなかった。
<つづく>
祈る男 その2
この話がこのカテゴリーに合っているのか……。
しばらく書いてみてふと思った。
まあ的確ではないかもしれないけれど、
書きはじめてしまったのでお付き合い頂けたらと思います。
あまりにも体調のよくなかった数年前、
さすがにムデも一度病院に行ったことがある。
しかし診察はいい加減なものだったという。
「芳しくありません。お金が貯まったら入院してください」
医者にはそう言われたらしいが、
毎日をなんとか暮らしているムデとその家族には、
貯金の見込みどころか明日を生きるための1ドルのあてすらわからなかった。
第一、ろくに動かない身体ではその日の労働もままならない。
仕方なく、
ムデは祈りながら回復を待つことにした。
しばらくして、
町に一人の男がやって来た。
伝統薬の調合師だ。
誰かからムデの話を聞いたようだ。
もちろん調合師といっても国家資格などがあるわけではない。
あくまで伝統薬。
東洋医学の見地からしても、
それは漢方などというレベルですらない。
それでも信心深いムデのような男には、
調合師は神秘的で救世主のような存在だった。
すぐに調合師は荷物を広げて薬の調合に入ったが、
ムデは「払うお金がない」と言って断った。
しかし調合師はこう言った。
「お金はいらない。その代わり、治ったら粥でもご馳走してくれ」
そして様々な乾燥した草の束を出しては微妙に調合し、
ウスでひいてムデのための薬を作りはじめた。
<つづく>
祈る男 その1
ちなみに怖い話ではありません、念のため。
古い馴染みのカメラマン・マツ君。
彼は三十半ばにして髪がほとんど白い。
世界各国を飛び回る多忙な男なのだ。
戦場カメラマンというわけではないが、
いろいろと危ない目にもあっているようだ。
イタリアでは本物のエクソシストを撮影したらしい。
記事にできないような恐ろしい理由で、
その時撮影した写真は残念ながらお蔵入りしたそうだ。
その理由については、
何度聞いても貝のように口を閉ざしてしまう。
エジプトにほど近いアフリカの某国では、こんなことがあった。
その国は指導者の問題もあり、
経済的に豊かとはいえない。
政治家や官僚などと一般市民の間には大きな経済格差があった。
一日に1ドル以下で暮らす人が多く住み暮らし、
例に洩れずそれらの人は路上に居をかまえている。
その国にいる時は、
マツ君も路上で寝泊りしていたそうだ。
彼が根城にしていた場所はあるコミューンの中で、
そこには年寄りも多く住んでいた。
ムデ(仮名)もその一人だ。
自称65歳くらいらしいのだが、
マツ君にはもっと老けて見えた。
何しろこういった国の人は自分の正確な年齢に固執しない。
曜日の感覚はあっても年月日の感覚は無いし、
誕生日も記録されていないのでつまりは自分が何歳かわからない。
周りに生きるメンバーや家族の意見を参考にし、
「大体65歳くらいだろう」
とムデも言った。
ムデはこの国の多くの人と同じく、
大変に信心深い男だった。
長く患っていたが、
「俺の身体はきっと良くなる」
と言い切っていた。
素人目に見てもムデは衰弱して見えたので、
「僕にはとても良くなるように思えない。病院に行ったほうがいい」
とマツ君は言った。
が、ムデは断る。
病院にかかるような金はないし、だいいち行く必要もない、と。
何故だ? とマツ君が聞くとムデは言った。
「祈っているからだ。毎日かかさず」
<つづく>
血も凍るような怖い話 後編
古いから鳴っているにしては、あまりにも急過ぎる。
さっきまでは雨の音しか聞こえていなかったのだ。
全員、言葉には出さなかった。
びびっていると思われるのがいやだったからだ。
しかし表情には現れていた。
これは、やばい。
このまま続けてはやばい。
誰かこの百物語をストップさせてはくれまいか。
当然、誰も止めない。
五人目が終わった。音は鳴り続けている。
六人目が終わった。音は鳴り止まない。
そしてU君は怖い話が思いつけない。
「おい」
横の男が、U君の方を向いた。
「お前の番だぞ」
お前で最後だ、と彼は言った。
U君は頭を掻いた。
「……いや、それがな……」
ベタで誰もが聞いた覚えのありそうな三文怪談で茶を濁そうか、
と思った刹那。
U君は思い出した。
昔友達に聞いた、血も凍るような怖い話を。
U君はひざを打った。
「思い出した!」
そう言った瞬間、ばしっ、という強烈な破裂音が響いた。
全員が音に驚いていると、
めりめりめりっ、という音とともに壁の一面が外に向かって崩れ落ちた。
一瞬何が起こったか理解できなかった。
しかし、反射的に懐中電灯はを崩れた壁のほうに向けた。
壁の向こうは山裾だ。
一瞬だけ見えた。
暗い山の斜面、壁があったすぐ向こうに、
真っ黒の何かがいた。
子供くらいの大きさだ。
何十という群れだった。
それらはまっすぐU君達を見ていた。
U君が何か声を出そうと思った一瞬前。
黒い群れは、
てんでばらばらの方向にざざざざっ、と消えた。
そこにはただ、
何事もなかったかのように雨に濡れた木々が立っていた。
雨が続いたから、古い土壁が弱って崩れたんだろう、
とU君のお父さんは言った。
U君が話を思い出した瞬間に鳴った大きな音のことも、
崩れた壁の向こうにいた黒い何かのことも、
お父さんには言わなかったらしい。
僕はU君に尋ねた。
「結局、血も凍るような怖い話ってどんなの?」
U君は曖昧に微笑み、何も言ってくれなかった。