朝礼スピーチのねた ブクロ -5ページ目

漫画も文化!

今日は、初午、河豚の日、服の日、漫画の日に風の日です。


【活用場面】

 漫画も文化として考えよう!


元総理が漫画の殿堂・博物館構想を立ち上げ、残念ながらボツになりました。また、東京では有害図書として一部の漫画に厳しい規制が掛けられているようです。


さて、今日は漫画について考えてみましょう。


以前の欧米社会では、大人が漫画を読むとは考えられなかったようで、日本の社会人が電車の中で漫画を読むのを見ると奇異に感じていたようです。


確かに、あまりみっとも良い物ではありませんが、恥じる必要もないと思います。


難しいことを優しく教えられることは大変重要ですが、なかなか難しい事です。その点漫画を勉強に活用する事は、子供の興味を惹く上で価値のある方法です。「漫画日本史」などは多くの人が利用したのではないでしょうか?


NHKで放映された「ゲゲゲの女房」や放映中の「バクマン」を見た人は分かるように、人気漫画家になれる人はごく僅かで、かつ血のにじむような努力と勉強や技術向上に心血を注いでいる人達です。


はたして、小説のような活字で表現された物が高尚で絵と文字で表現した漫画が高尚ではないと言えるのでしょうか?


いずれも作品としては立派な物だと思います。特に、漫画は文字が少なく、また絵ばかりのページもあり、読み飛ばされてしまうページも多々あるでしょうが、そのページを書く為に多大な時間を要していることに思いをいたせる人はどのくらい位いるでしょうか?


まさに職業に貴賤の差はありません。であれば、そこから生まれてくる作品にも差別は出来ないはずです。


この年になってもまだ漫画を読んでいます。そして、今でも多くのことを教えられます。

最近は、少女漫画ですが、「ちはやふる」にはまってます。かるたの世界も深いですね!


漫画でも小説でも、そこから何かを感じて得られるかは、すべてその人の感性によるのではないでしょうか?

針供養と女性の病気!

今日は、ロカビリーの日、針供養の日です。


【活用場面】

 女性の病気と守護神!


針供養は、裁縫に使われた際に、折れたり曲がったり錆びたりした古い針をこんにゃくや豆腐などに刺して供養する行事です。


その起源には諸説ありますが、有力な説を紹介すると・・・


① 中国伝来説

 針供養に似た行事が中国にもありました。これが日本に伝わり、日本古来から元々有った事始め、事納め、女の守護神たる淡島神社などのわが国の祭事と混じり合って、やり方が変化していったのが現在の針供養であると言うもの。


② 東北の言い伝え説

 むかし、東北のあるところで姑にいじめられた嫁が、針山の針を盗んだという無実の罪を着せられると言う事件がありました。その酷い羞恥に耐えかねた嫁が海に身を投じて死んだのが「2月8日」だったことからこの日に供養が始まったと言うもの。


ですが、淡島神社を起源とする説が有力なようです。

淡島神社の縁起は住吉大明神の奥様でしたが、婦人病になって嫌われてしまい、紀州・淡島に流されて鎮座し、その後、賀田の海女の守護神となり、婦人病の守護神となり、女性全体の神となったとされています。


江戸時代、性病だけではなく婦人病全般は婚姻に差し障りが大きく、医学もこの分野は非常に立ち後れていたため、淡島神社は最初は遊郭や性的な事に従事する女性の守護神として崇敬を集め、そのうち婦人病の神として急速に広まりました。


そこから転じて、女性の守護神として崇拝を集めるに至り、当時の女性の金銭に交換出来る技術として最も一般的であった裁縫の神ともなり関東中心に行われていた事納め、事始めの祭礼の間の日時がちょうど室内作業である針仕事に集中する時期と一致していたこともあって、針供養が行われるようになったそうです。


針という一つの道具にも深い気持ちが込められているようです。大事にしましょう!

北方領土の間宮林蔵!

今日は、北方領土の日とオリンピックメモリアルデーです。


【活用場面】

 忍耐強さと探求心!


間宮林蔵は、間宮海峡(樺太とユーラシア大陸の間の海峡)の名前で知られているとおり、 樺太が島であることをヨーロッパに先んじて発見した人で、当時の地図測量について優れた知識を持った人でした。


少年時代の林蔵のエピソードです。


林蔵少年は、村の豊作を願うため、家族や村人に連れられて、筑波山にお参りしていました。
13歳の時のこと、林蔵だけが夜になっても、麓の宿に帰ってきません。
家族や村人は大変心配しましたが、翌朝になると、手に火傷の痕が少しあるものの、元気に宿に戻ってきました。

村人が林蔵から話を聞いてみると、その夜は、頂上のひとつである男体山の、わきを少しおりた大きな岩の下ですごしたそうです。そこで、手に油をたらし、それに火をつけ、これを明かりにして、筑波山の神様に立身出世を、お願いしたのだといいます。

林蔵の我慢強い性格を、現している話です。


また、15歳の頃自宅の近くを流れる小貝川で行われていた、せき止め工事に興味を持ち、朝早くから日暮れまで川の近くに立ち、熱心に工事の進み具合いを見ていました。

その様子が工事を担当役人の目にとまり、いつの日からか、お役人の雑用を、手つだうようになったのでした。


その後、幕府役人の一人村上島之允と一緒に各地を巡り、土木工事を勉強し、各地の調査や測量にも出かけることになり、その中で測量と地図作りを勉強したといわれています。


大人になった林蔵は蝦夷地や樺太の探検をします。


蝦夷地の探検では、蝦夷地はもちろんのこと、南千島、国後島や択捉島まで測量し、新しい道を切り開き、蝦夷地の住民に植林や農業などを教えました。さらに、蝦夷地だけでなく、国後や択捉などの日本の北の領土をすみずみまで調べ地図にしました(1807年)。


樺太探検は、まさに命がけの探検でした。

当時の樺太は、島なのか、シベリアと陸つづきの半島であるか、よく分かっていませんでした。もちろん、地図の上でも半島となったり、曖昧な線で書かれたりしていました。

松田伝十郎と二人で、アイヌの人が案内する小さな舟で、林蔵は東から、伝十郎は西へと二つに分かれて調査を始め、「樺太が、島であれば、いずれ再会しよう。」と約束して分かれます。


ところが、林蔵が進んだ東海岸は、北に向かうにつれ波が荒く、小舟での探検が難しくなり、諦めて山を越え、伝十郎が調査する西海岸へ進みました。


伝十郎はというと、さらに北へ進んでいて、潮の流れの様子や、海を挟んでシベリアが見えたことなどから樺太が島であることを信じて、林蔵の所に戻りました。


この年の調査に満足できない林蔵は、松前藩に願い出て数度にわたり一人で調査に出かけましたが天候不順のため調査は難航しますが、粘り強い林蔵はとうとう自分の足と目で樺太が島であることを確認したのでした。