北方領土の間宮林蔵!
今日は、北方領土の日とオリンピックメモリアルデーです。
【活用場面】
忍耐強さと探求心!
間宮林蔵は、間宮海峡(樺太とユーラシア大陸の間の海峡)の名前で知られているとおり、 樺太が島であることをヨーロッパに先んじて発見した人で、当時の地図測量について優れた知識を持った人でした。
少年時代の林蔵のエピソードです。
林蔵少年は、村の豊作を願うため、家族や村人に連れられて、筑波山にお参りしていました。
13歳の時のこと、林蔵だけが夜になっても、麓の宿に帰ってきません。
家族や村人は大変心配しましたが、翌朝になると、手に火傷の痕が少しあるものの、元気に宿に戻ってきました。
村人が林蔵から話を聞いてみると、その夜は、頂上のひとつである男体山の、わきを少しおりた大きな岩の下ですごしたそうです。そこで、手に油をたらし、それに火をつけ、これを明かりにして、筑波山の神様に立身出世を、お願いしたのだといいます。
林蔵の我慢強い性格を、現している話です。
また、15歳の頃自宅の近くを流れる小貝川で行われていた、せき止め工事に興味を持ち、朝早くから日暮れまで川の近くに立ち、熱心に工事の進み具合いを見ていました。
その様子が工事を担当役人の目にとまり、いつの日からか、お役人の雑用を、手つだうようになったのでした。
その後、幕府役人の一人村上島之允と一緒に各地を巡り、土木工事を勉強し、各地の調査や測量にも出かけることになり、その中で測量と地図作りを勉強したといわれています。
大人になった林蔵は蝦夷地や樺太の探検をします。
蝦夷地の探検では、蝦夷地はもちろんのこと、南千島、国後島や択捉島まで測量し、新しい道を切り開き、蝦夷地の住民に植林や農業などを教えました。さらに、蝦夷地だけでなく、国後や択捉などの日本の北の領土をすみずみまで調べ地図にしました(1807年)。
樺太探検は、まさに命がけの探検でした。
当時の樺太は、島なのか、シベリアと陸つづきの半島であるか、よく分かっていませんでした。もちろん、地図の上でも半島となったり、曖昧な線で書かれたりしていました。
松田伝十郎と二人で、アイヌの人が案内する小さな舟で、林蔵は東から、伝十郎は西へと二つに分かれて調査を始め、「樺太が、島であれば、いずれ再会しよう。」と約束して分かれます。
ところが、林蔵が進んだ東海岸は、北に向かうにつれ波が荒く、小舟での探検が難しくなり、諦めて山を越え、伝十郎が調査する西海岸へ進みました。
伝十郎はというと、さらに北へ進んでいて、潮の流れの様子や、海を挟んでシベリアが見えたことなどから樺太が島であることを信じて、林蔵の所に戻りました。
この年の調査に満足できない林蔵は、松前藩に願い出て数度にわたり一人で調査に出かけましたが天候不順のため調査は難航しますが、粘り強い林蔵はとうとう自分の足と目で樺太が島であることを確認したのでした。