イイケン先生かく語りき -8ページ目

 「3つのつながり」のお話し

私のコラムや、Facebook連載中の「今日の言葉」にたびたび登場する鎌田實先生(諏訪中央病院院長)、直接お会いしたことはないのだが、密かに尊敬し続けているお医者様である。

その蒲田氏と吉川敏一氏(京都府立医大学長)との対談本、『生きる力を磨く66の処方箋PHP研究所)からの話を、是非ともご紹介したい。

 

人の命は「三つのつながりによって守られている」といわれる。

その三つの第一は「人と人のつながり」である。

これに関しては、前述した著作にはないが、古今東西の偉人たちが色々教えてくれる。
例えば…

「誠実でなければ、人を動かすことはできない。人を感動させるには、自分が心の底から感動しなければならない。自分が涙を流さなければ、人の涙を誘うことはできない。自分が信じなければ、人を信じさせることはできない。(ウィンストン・チャーチル)」

「人とつきあうのに秘訣があるとすれば、それはまずこちらが相手を好きになってしまうことではないでしょうか。(瀬戸内寂聴)」

「垣根は相手がつくっているのではなく、自分がつくっている。(アリストテレス)」

「人付き合いがうまいというのは、人を許せるということだ。(ロバート・フロスト)」

「弱い者ほど相手を許すことができない。許すということは、強さの証だ。(ガンジー)」

不思議と、あまり人づきあいがうまいとは思えない偉人たちの名言である。

 

二番目のつながりは「人と自然のつながり」である。

私たちが今、ここで、こうして生きていること、それは、たくさんの生きものたちがいる自然の恵みのおかげである。直接には食べ物や燃料・材料として、また気候の調節、水の浄化のように目には見えにくい役目も、自然は果たしてくれている。

ところが近年、地球上の生きものが、かつてないスピードで次々に絶滅している。
それは遠い別の世界の話ではなく、めぐり巡って私たちのくらしの拠りどころをどんどん減らしている、ということに他ならない。
「人間存在の根源(生命の根源)」であり、「すべての中心で、すべてであるもの」とは何かを考えれば、それは「大自然」そのものである。

人と人とのつながりや、人と自然とのつながりは、地域の活力を支える重要な要素であると考えられる。

 

そして、最後のつながりは「体と心のつながり」である。

何かに深く悩んだり、心配したりして、それが続くと、胃が痛くなったり、胃潰瘍になった りする。誰もが一度は経験があるだろう。

精神的ショックが大きいと、一晩で髪の毛が「まっ白」になることすらある。

このように、体は精神状態に反応している。

 

この三つのつながりが一つでも切れると、人間は生きづらくなると感じる。

本来あるべき、この三つの繫がりを大切に、崩さないようにする努力、強いてはそれが、心身ともに健康、健全でいられる秘訣ということであろう。

日本人はどこへ向かう?

「 私の国では日本を褒めると袋叩きに合います。 」

-あなたはどこの国の人ですか?-

「 韓国人です。 」

「 私の国も日本を褒めると袋叩きに合います。 」

-あなたはどこの国の人ですか?-

「 中国人です。 」

「 私の国でも日本を褒めると袋叩きに合います。 」

-あなたはどこの国の人ですか?-

「 日本人です。 」 

 

有名なエスニック・ジョークの一幕である。

いつしか日本には「自虐史観」が定着し、悪いのはすべて日本、謝罪して回るのが当り前となった。

自国を声高に自慢し、民族のプライドを誇示することは許されない。
新聞社やそれをベースにするテレビ等マスコミ、そこで飯を食うタレント評論家は、
そんなこと言ったらこの世界から抹殺される。

平和を維持し戦争は絶対反対、有事のためのリスクに備える事すら許さない。

現実を見ようとしない、頭のいいお坊ちゃんたちの「マジック・ワード」が常套手段となった日本。

宗教、民族の血の争いもなく、国境を意識しない小さな島国が、国防への備えをしないまま、
70年間平和を享受し続けた結果、見事な「平和ボケ」が出来上がったといえる。

「自分で何もやらなかったから、攻められれば謝るしかない」…自虐史観誕生の発端となった。

 

常識となった日本でのこの光景は、やはり、世界の見識から見れば、実に不思議な現実に映る。

今期、安倍政権がチャレンジしている国会論戦は、ある意味、歴史的転換を目論む意図が伺える。

マスコミは当然認めず、検証もしないまま、むしろ反安倍報道を築き上げようと必死である。

日本だけ鎖国状態で繁栄できる時代ならまだしも、政治・外交・経済全てが世界の情勢と連携し、影響を受けざるを得ない現代社会では、自国だけの持論でことが治まるはずがない。

手を汚さず、汗はかかず…それは人任せ。
口先のみで「ただ『反戦』だけを唱える日本人が無責任に思えた」…とは、目の前の戦場で活躍する、報道写真家の長倉洋海氏の本音である。

 

いま世界中から日本人に求められているのは、謝罪ではない、力強い「行動」である。

そして、「名誉と独立を好む国民はすべて、自国の平和と安全は自分自身の剣によることを意識すべきである」…とは、オットー・フォン・ビスマルクの言葉であり、ドイツ人の精神的支柱になっている。

今現実の日本人が、アジアをはじめとした世界中の期待に対し、一体、何ができるのだろうか?

国益を維持しながら、今日の日本は、何を成すべきなのか?

その答えを世界中に向けて発信しない限り、国際的足並みから徐々遠ざかることも、悲しいかな、現実のようである。しかもややこしいのは、そうなることを望んでいる国もある事、明確なる真実である。

「本当の勇気とは、日常の場合に、迫害や死を恐れず、自分の信念を吐露しうる気力と行動であろう」…とは、確か、海音寺潮五郎氏の信念である。

国際社会における日本の立場を維持するために…日本人はどこへ向かうのか?

もう、言葉遊びの論議や評論は止めて、現実の世界に目を向けるべきである。

変化を拒むもの~慣性の法則

 

『大変』という字は『大きく変わる』と書く。

正に「変わる」ことは大変なことなのだ。

でも「変わる」から「変える」になったら、もっともっと大変になる。

「変わる」は自分が関与しないところで、知らぬ間に変わってしまう。

「えっ、いつから変わったの? 聞いてないよ…」とは、間々ある事である。

でも「変える」となると、自分自身の行動によるしかない。

「変更」「変化」「変革」から「改革」「革新」「革命」「改新」「維新」等々…

言葉は数多(あまた)存在するが、「変える」ことの難しさは、歴史上、不変の頑固さを持つ。

 

「変える」ことの困難性は、どこにあるのだろうか?

例えばラジコンの車を想像する。

そのラジコンカーに人形を載せて、ラジコンカーを真っ直ぐ高速で走らせる。

そして、急にハンドルを切って、車を右方向にカーブさせるとする。

車は右方向に曲がるが、人形は、それまで向かっていた方向(=真っ直ぐの方向)に進み続けようとして、車から振り落とされる。

これを、「慣性の法則」と言う。

つまり、「動いている物体(=人形)は、その方向に向かって動き続けようとする」わけで、下の車を方向転換しても、上の人形は「慣性の法則」に従って、真っ直ぐ行き続けようとすることになる。

 

人間の心も全く同じ心理「慣性の法則」がはたらいている。

今まで、あることを目指して進んできたが、ある時、「生き方を変えたほうがいい」と気付き、方向転換をしようとする
しかし、気持ちは、今まで目指してきたものを目指し続けようとしてしまう。

頭では、現状を打破する動きをしたいと思いながら、実際の行動は、現状を維持する動きになってしまう。
これは、心が、今まで目指してきたものを目指し続けようとするからで、今まで通り、つまり、現状維持ということが大変でなく、居心地が良いと思ってしまう。

人間の脳は、基本的に変化を嫌う。
慣れた、今まで通りであれば、厄介なこともなく安心できると思い込んでしまう「安易さ」が、変化を嫌う最大の原因かもしれない。

 

「変わる」と「変える」は違うと思っている。

世の中、あなたが知らぬ間にどんどん変わっているとしたら、

「変える」ことの出来ないあなたは、取り残される。

新しいコトが生まれると同時に、今までのモノは現状維持ではなく、「退化」していることに気が付かなければならない。

モノは減価し命は日々削られて、昨日と全く同じ現状は、今日はない事、明らかな真実だから。

経営も社会も、家庭生活も生き物だ。現状維持することなく、毎日毎日「進化」と「退化」を繰り返している。
その変化への対応は人間という生き物の必然と言えるのである。

もしも今、あなたが大変な時期だったら、それは今こそ、あなた自身を大きく変えるチャンスと考えてみると、少し、気が楽になる。

 「こころ」を伝える

人と人の「こころ」が触れ合うこと、これがコミュニケーションの最たるものであろう。

理解し合い、分かち合い、絆が結ばれ信頼が持てる。
感動を体験し、感謝が生まれる。

仕事も恋愛も、お付き合いも家庭の生活も、全てが人間のなせる業(わざ)、この「こころ」の通い合いがあってこそ、円滑な意思疎通ができるのだ。

と…、言葉を並べるのは実に容易であるが、現実はそう、簡単ではないようだ。

                  

なぜか?

その一つの原因は「こころ」は、見えないからだと思っている。

自分でも、他人でも「こころ」や「思い」は見えないのである。

見えないから伝わらない、見えないから誤解され、見えないから理解できない。

「こころ」や「思い」を見えるようにする、どうもこれこそが、コミュニケーションを円滑にし、安心と信頼を醸成する秘訣のようである。

 

「こころ」は見えないが、その「こころ」を行動に移す。

その「こころ」をそのまま素直な行為に表わすとすれば、

それは「こころ遣(づか)い」となり、目に見えてくる。

相手を労わる気持ちを持つことは大切だが、それを相手に伝えることで初めて、触れ合いが生まれる。それには、具体的行為がなければ難しいのかもしれない。

同様に、胸の内の「思い」は誰も見えない。

でもその「思い」を行動に移せば「思い遣(や)り」になるだろう。

優しい「思い遣り」があたたかい行為となれば、恐らくほとんど、相手に伝わるものである。

 

「こころ」を行動に…、加賀屋 (和倉温泉)の有名な、感動エピソードである。

「結婚式に招待された男性のテーブルに、女性の写真が置かれていることに客室係が気づいた。
聞けば昨年に亡くなられた奥様の写真で、花嫁の姿を一目見せてやりたかったという。

そこで彼女は、花瓶に一輪の花を用意し、料理を2品ほど持ってくると、

『奥様とどうぞご一緒に、今日の花嫁さんをお祝いしてあげてください』 …」

 

さすが!文具の伊東屋 (東京・銀座)

日本でも有名な超高級文具専門店。1,500円の万年筆とカートリッジインクを買った。

そこで若い店員さん、「万年筆についているインクは、このカートリッジと違う色です。

カートリッジと同じ色にお取り替えしましょうか?」と。

何万円もする高級万年筆ならまだしも、わずか1,500円の万年筆。

ちょっとした気配りをさりげなく当たり前のようにする店員さん。 
なかなかできることではない。

 

あなたの、優しい「こころ」や「思い」が見えた時、相手の「こころ」に感動が生まれる…そう、

感動を創造し、感動を提供することが、ホスピタリティ産業の原点であった。

異議あり! 「既存客より新規客を大切にするのは破滅に向かう」

某マーケティングコンサルタントのコラムを読んだ。         

彼は、「既存客より新規客を大切にするのは破滅に向かう」という論理をネットに展開し、エクスペリエンス・マーケティングの実践者とのこと、小生、全く面識がなく、あまりにも不躾で、消化不良の感もあるが、コラムに書いてみたくなった。

 

~既存客は何もしなかったら、1年で2030%くらい流出していく。
としたら、3年くらいですべていなくなることもある。
その分の補てんを新規客で補おうとすると、開発にかかるコストは、既存客を維持する場合と比べ、6倍から12倍といわれているから。
だから利益が出なくなる。

企業の利益の多くは、既存客からもたらされている。

その既存客のリピーターが減るのは、顧客満足度の低下でなく、あなたの店や商品を「忘れる」から。
「マーケティングとはお客さまの『忘却』との戦い」(中小企業診断士・乗山徹氏談)であり、お客さまの心の中に、あなたの会社や店がどれだけ占有できるか、まさに、市場シェアよりも、お客さまのマインドシェアを高めることが大事なのだという~

 

いかにも「なるほど」と思いがちだが、良く考えるとおかしな論理である。

既存客を大切にしようということは、至極当たり前の論理。異議を唱える余地はない。

しかしだからと言って、「新規客を大切にするのは破滅に向かう」とは飛躍も良いところ、同じ論点の土俵にはないといえる。

「何もしなければ、3年で既存客はほとんど去っていく」とは、その通りかもしれない。

だから「リピート率を高めることが必要」もその通りだ。
しかし、「従って、新規顧客の獲得努力は無駄だ」とする論理は、あまりにも短絡過ぎて全く理解できない。

これからは、モノという商品や、決まりきったサービスを売るのではなく、「体験」を通した付加価値を売る必要があるという論理と、だから新規開拓は無駄だという論理は、全くかみ合わない。

 

時代の価値観は縷々変わっていく。

新たな商品や新しい価値観を持ったサービス展開は、毎日のように革新されていく。

当然、新たな価値観を持った消費者がマーケットのシェアを占めていく動向は、否めない事実である。

そして肝心なことは、既存客も時と共に歳を重ねていく。

お客様自身の老齢化により、行動に制限されたら、リピートしたくても出来なくなってくるだろう。

顧客の高齢化の問題は無視できない。

顧客の新陳代謝、つまり新規顧客の獲得は、経営の絶対的使命の一つであろう。

 

「新規客獲得は、既存客を維持する場合と比べ、6倍から12倍コストがかかる」とは、コストパフォーマンス努力をしないと宣言しているようで、決して実践的、実務的でない。

それほどコストをかけないで新規顧客を獲得できる方法は、今の、サービス品質を高めることで実現できる事、昔から経営の真理として証明されている。

マーケッターと称する連中の誘いにのり、派手な広告を打ち続け、慣れないSNSやインターネットに忙殺され、ストレスや経費の割に効果が出ない…
そんなやり方を選べば、仰る通りかもしれない。

口コミにより「客が客を呼ぶ」、そんなビジネスルールはあらゆる商売の基本である。

シャーロット王女の誕生

イギリス王室は4日、ウィリアム王子と妻キャサリン妃との間に生まれた第2子の王女の名前が

シャーロット・エリザベス・ダイアナ」に決まったと発表した。

シャーロット王女誕生の経済効果はケーキ、プロセッコ、マグカップ、プレート、Tシャツの売上など、すでに8千万ポンド(約145億6千万円)10歳になるまでに10億ポンド(約1,820億円)の経済効果があると予想されているとのこと、他国のこととはいえ、微笑ましい、嬉しいニュースである。

イギリス王室も、日本の皇室と似ており、特に親しみを感じる人が多いと思う。

しかしその実態は大きく異なっている。今回は単なる、薀蓄コラムである。

 

日本の皇室は、儀礼的な国事行為のみを行う存在であり政治、国防には関与しない象徴である。

憲法88によってほとんど資産を保有できず、公務以外で稼ぐことができない。

職業選択や宗教の自由は認められていない。

天皇家と皇太子家の生活費は税金(内廷費)で賄(まかな)われており、その額は年32,400万円。宮中祭祀(きゅうちゅうさいし)に携わる職員の人件費などでほとんど残らない。
皇族維持に関するそれ以外の費用、宮廷費(皇室の公的活動)557,996万円、皇族費(皇族17名)2億9,128万円、更に宮内庁の人件費や事務費などを賄う宮内庁費(1082,772万円)まで含んで年間約170億円である。

 

イギリスの国王は、時に称号がkingあるいはqueenであれ、立憲君主制国家の元首であり、「国王は君臨すれども統治せず」とあるが、時として政治的な権力が存在し、イギリス軍の長でもある。

王室は世界でも有数の資産家であり、国に税金を収めている。また王族の職種はある程度自由であり、「王室ビジネス」ができる点日本とは大きく違う。

日本の銀座に相当するロンドン中心部のリージェントストリートもイギリス王室の所有地で、ストリート沿いの店舗からのテナント料が1軒当り6,500万円×店舗数約10,000軒の収入がある。

イギリス本国の海岸線の土地55%が王室の所有地であり、風力発電会社に貸し出しをしている。

イギリス王室は、民間企業に王室御用達許可とは別に、王室ブランドとして王族自身が商品開発し年間収入100億円以上の「ブランド使用料」を稼いでいる。
また、ロンドン塔の王冠などの財宝の観覧入場料を徴収し年間250万人の入場者で売上30億円、バッキンガム宮殿の観覧入場料は売上32億円、ウィンザー城なども王室不在時に観覧入場の収入が有り、日本の京都御所の一般公開が無料である点と大きく違っている。
これら王室領の不動産の地代やテナント料など推定総資産9,000億円、そこから上がる収入は、莫大なもので、イギリス最大の領主=大地主様に違いない。

所得税を納めているが、所有する財産、領地は個人的なものではなく、国王や皇太子の地位に付属するので、相続税はかからない。
2012年まで国会承認で王室費(内訳=スタッフの制服の一部支出、スタッフの給与、宮殿等維持費)が支払われていたが、2013年からは中止されたのも、何となく頷(うなず)ける。

 

平然と貴族制度が存在するイギリスは、格差に対する価値観が日本とは違い、国王家が最大の領主であることを、国民の誇りにしているようだ。
つまり、イギリス王室は国内最高のビジネスマンであり、そして最良のエンターテイナーである事を、国民が望んでいるのかもしれない。

かつては世界でも有数の資産家だったが、戦後にその殆どの資産が国庫へと譲渡され、以後は特定勢力に利用されないよう国税で慎ましく暮らしている日本の皇室。

どちらがいいか…の判断はお任せするが、そう単純には、比較できないかもしれない。

美味い酒もまずくなる!

仕事上の会議でも、終わった後の居酒屋でも、「彼がいると、どうも会話が止まってしまう」…せっかくの酒がまずくなる、身近に必ずそんなタイプがいるはずだ。

往々にしてそのタイプの人間は、「会話がキャッチボールである事」、その基本原則が分っていない。

彼らには申し訳ないが、彼らの特色のいくつかを「ネタ」にして、自らを顧みてみよう。

 

会話が総じて「否定的」で「断定的」になりがちである。

「~できっこない」と否定的な言い方を多用し、それを一方的に押し付けてくる。

「~すればできる」という肯定的な表現を工夫しようとしない。

否定は、相手の心に壁を作ってしまう。

そのため、まずは自分の気持ちはおいて、相手の気持ちになった言葉を言ってみることである。

相手の意見に反対の場合、彼らはいきなり反論から会話が始まる。

「それは違う…」と言い切られたら、後が続かず、会話にならない。

意見としてどうしても異論がある場合は、「なるほどあなたの言うことも分かります、しかし…」と一旦は相手を受け入れた後で反対意見を述べる。
角を立てない、相手に対する配慮である。

これをコミュニケーション術では「イエスバット法」と言っているが、彼らはそれを理解しない。

 

他の人が話しをしている中へ、突然土足で入り込み、前後脈絡を無視して自分の話を展開する。

誰もそんな話聞きたいとは思っていないが、本人はつい自慢したくなるようで、いわゆる「癖」が悪い。

会話はコミュニケーションの最たる手段だ。自分の言い分を一方的に話すことは、会話ではない。

キャッチボールである所以(ゆえん)がここにあり、いわゆる「話し上手は聞き上手」と言われる原理原則である。
彼らはそんなことお構いなし、どうしても言いたいことを言う「悪癖」から、結果いつも傍若無人に振る舞ってしまう。
益々お酒がまずくなる。

 

目の前にいる人が「不快」に思っていることに、一向に気が付かない。

逆に相手を思い遣る仕草やしゃべり方を、知らないから当然かもしれない。

時にして、相手の言った言葉を、言い回しを変えて繰り返す。
相手の直前の語尾をそのまま使う等すれば、相手は自分の言ったことを理解してくれていると感じる。この手法を「バックトラッキング」と言い、仕草を真似ることを「ミラーリング」と呼んでいるが、彼らには無縁である。

 

話によっては緩急をつけたり、話題に合わせた声のトーンを心がけることを一切しない。

「目は口ほどにものを言う」、相手の目が発する情報は思っている以上に大きいはずだ。

相手を正面から見て、目を伏せない、目を細めない、けれどじっと見つめすぎないは基本動作。

生身の相手と向き合ってこそface to face、ライブ・コミュニケーションの絶好の機会なのに、悲しいかなスマホから目を離さない。
「お前、誰と話してるんだ!」と怒り輝く相手の目を見ようとしない。

チャンスを自ら逸してしまっている。

 

きっと、あなたの身近に、こんな「酒をまずくする人」がいるだろう。
いや、身に覚えがあるとすれば、あなた自身、私自身がその予備軍になっているかもしれない、反省の弁でもあった。

「顧客満足度を高めなさい」とは「マジック・ワード」である!

顧客満足度を高めなさい! ほとんどのコンサルタントがお題目のように唱えている。

至極当たり前の真理だが、実はこれを実現させるのは、なかなか難しい。

結論から言えば、個々の満足度を高めるということは、十人十色のお客様の我ままをすべて受け入れるということで、はなはだ現実的でないと思っている。

 

お客様との接客では様々なケースがあり、その時、お客様の心の中にどのような心理が働いているのか、その経緯を探ってみる。

最初のお客様心理は、「歓迎期待の心理」。

お客様は、お店の玄関を入った時から「気持ちよく扱って欲しい」という心理が働く。

そのお客様を自宅に招待したら、どのように接待するかに通じる心理で、フレンドリーで、ウェルカムに迎えなければならない事となる。

 

この段階をクリアしたお客様は、次に「独占期待の心理」が働く。

本来、サービスは全てのお客様に平等でなければならないのだが、お客様は、自分の用事が済むまでは、他のお客の用事を聞いて欲しく無い、私にだけ、集中して欲しいという心理が働いている。

極めて我ままだが、その我ままに、即座に対応出来る迅速性を身に付けておかなければならない事となる。

 

そして次のステップは、「優越感心理」と進展していく。

お客様は、自分は「他の客とは違う」という所を見せたい心理が働いてくる。

ここで一番重要な事は、お客様に劣等感を抱かせない事だ。お客様に恥を書かせない事、何としても「あなただけは違う」という特別な歓待を意識させることである。

 

それを見ていたお客様は、「まねしたい心理」が沸き起こってくる。
これは、隣のお客様のものが良く見えるという誰にも働く心理のこと。注文を急に変更したりする時、この心理が働いている。

そんな時には、お客様の意向に合わせるのが対処のコツだが、いかにも厄介なことかも知れない。

 

そして最後、結果的には、「自分本位の心理」となる。
お客様は、時として利己的で、自分さえ満足すれば良いという心理が働いている。
不愉快なお客様、理不尽なお客様、機嫌の悪いお客樣など様々なお客様に合ったアプローチをしていかなければならないだろう。

ここまで来て初めて、お客様の満足度は俄然アップする。

 

お客様は十人十色、だがサービススタッフも十人十色。同じサービスをしていても、満足される方と不満な方もいる。
決まった型のサービスは存在しないから、定義も法則もない。

コンサルタントが言う「顧客満足を高めなさい」とは、よくよく考えると「で、どういう意味?」と首をかしげたくなる、いわゆる思考停止を招く「マジック・ワード」。
何をもって検証したらいいのか、お題目は何遍も聞くが、そこまで具体的に教えてくれる先生に、会ったことがない。

我ままがエスカレートしていく顧客満足度、

個々、一人一人に合わせた、最高の満足を提供すること、そんなことができるのだろうか?

テレビが、ちっとも、面白くない!

テレビが面白くない…と思っているのは、小生だけではないらしい。

2012年の朝日新聞に記載された記事によると、国民の75%が「最近のテレビ番組はつまらない」と回答している。
平日でも平均3時間半もテレビを見て、「世界に冠たるテレビ好き」と言われる日本人。

しかし、最近のテレビ番組に対する不満は年々高まっているようである。

㈱博報堂が調査した「テレビ視聴実態調査2014」によると、テレビは真剣に見るものではなく、75.2%が「ながら見」、見ていなくても、BGM的にテレビをつけておくことがある人が 65.2%いる。見たとしても半分以上の人が途中でチャンネルを頻繁に変えながら見るようだ。
1週間に10本以上の番組を録画している人が 35.8%いるが、録画しても結局見ずに消す番組がある 52.0%、録画したテレビ番組は、途中を早送りしながら見る人は 52.5%もいることが分った。

 

所詮、番組そのものが面白くない。視聴者のマインドなどそっち抜けで制作されている。

チャラチャラした芸もない下種(ゲス)芸人ばかりで、鬱陶(うっとう)しい。
スタジオで、その辺のおにーちゃんの会話をしているだけ。
しかもその傾向は、民放こよなく同じ、芸人の内輪ネタが横行し、暴力的な内容、刺激的な内容だけが増えているような気がしてならない。

「気色悪さ」と「下品極まりなさ」が全国の拡散されており、文化的、情報的品格のかけらもない。

 

どこを見ても吉本興業とジャニーズ事務所ばかり、NHKすら毒されてしまった。

マンネリ感が出たり、視聴率が悪くなって止めたい番組も、なかなか止められなくなっているという悪循環に陥っている。
大手プロダクション支配下では、例えばジャニーズの人気タレントを押さえることがドラマで成功する早道だと、かたくなに信じられてきた。
実際にSMAPや嵐のメンバーには3年も先を見越してオファーを出し、出演OKが出されたと同時にシナリオを構成し、共演者を当てはめていくというやり方が主流になった。
日本の俳優は、演劇や演技を勉強しなくてもテレビドラマに出ることを許される。
良質なドラマができる訳がない。本末転倒がまかり通っている。

 

ニワトリが先か、卵が先か、いずれにしろ民放テレビ局にお金がない。
ロケなし番組で、2時間、3時間のスペシャルが増えているのもテレビ局側の事情が伺える。
制作費が1時間3,000万円かかるとして、それを2時間番組にすればセットや出演者はそのままだから、4,000万円程度で作れる。
そうすれば1時間当たりのコストは下げられるが、その分、確実に内容が薄まるのは当然の帰結であろう。

時間枠を複数のスポンサーで制作するため、CMが多くなり、視聴率だけが共通の指標になる。

かつては挑戦的な番組を作って視聴率が低迷しても、スポンサーが納得する内容なら良かった。

民放と言えども、そんな意義ある情報・教養番組があったと思うが、今は皆無となった。

ドキュメンタリー風番組も、実は「提灯持ち」だとすれば、視聴者を愚弄し、欺く犯罪行為に近い。

 

公共の電波を低俗化し私物化する、テレビ制作に関わる職業人のプライドはどこへ行ったのか?

この業界には、マーケティングがない。
傲慢さだけが目立ち消費者心理を探ろうとする、意欲もない。

インターネット動画の情報量、自由選択度、利便性等を考えると、テレビのシェアは確実にWEBに奪われてしまうこと、業界人は意識しているのだろうか。

低品質・マンネリ・没個性・儲け主義路線の大量供給では、とてもWEBに勝てるはずがない。

さあ、投票に行こう!

統一地方選挙のさなか、いかにもバカバカしい報道が繰り返されている。
小泉元首相の表現を借りれば、最近の政治家の質の低下ぶりは「怒りを通り越して笑ってしまいたくなるほどあきれた状態」だ。

問題の事件は、大阪維新の会。

例の“浪速のエリカ様”こと、
上西小百合衆院議員を除籍、続いて維新の党も除名処分とした事件。

その発端は本会議欠席とその前後の彼女の行動にあったようである。

今更その内容を書くつもりはないが、国会で最も重視されるのが本会議、とりわけ予算審議を可決する本会議には特別の意味がある事、彼女は認識できなかったようである。

時の総理大臣であった石橋湛山は、昭和32年度予算審議という重大案件の中で、最高責任者である首相が、病気療養を理由に自ら国会に出席して答弁できない…との理由で辞任した。

ロッキード事件で渦中にいた田中角栄氏も、高齢まで衆院議員を務めた中曽根康弘氏も、そしてよく「俺は潜る」といって表舞台から姿を消していた小沢一郎氏も、これには欠かさずに出席していた。

 

大阪維新の会の橋下代表は、「(国会議員は給与が)2200万円!これに1200万円の経費が入り、3000万円以上の給与が(上西氏に)入る」と述べて、議員辞職を拒んだ上西氏を批判してみせた。

いくら橋下氏が年収の多さを批判しようとも、その原因を作ったのが大阪維新の会であり、橋下氏である事実は紛れもない。
政治的能力を問わずして、目立ちがり屋の上西氏を国会議員に仕立てた張本人、他人事のような無責任批判には、開いた口が塞がらない。

橋下チルドレンともいえるような議員の辞職を指導しきれない点は、大いに問題があると思う。

 

その結果、橋下氏は大きな勘違いをしていること、ご存知なのか?

つまり、上西氏を除籍することで、さらに彼女に「利益」をもたらすことになることを見逃している。

無所属となった上西氏がもし一人会派を結成すれば、月々65万円の立法事務費が支給されるのだ。これは年間で780万円にのぼるため、上西氏には、合計で約4000万円以上の国民の血税が流れ込むことになる。

橋本氏のおかげで、さらに多くの税金を彼女に支給することになるのだ。

 

政治を志す人、その神輿を担ぐ人、いとも安易に票を投じる人、どうも、限りない素人たちのコミックショーに見えてしかたがない。

「税金の無駄遣い」を堂々と演じる連中に、結果被害を受けるのは、常に善良なる小市民、健全たる有権者という図式が、一向に直らないでいる。

政治は、万民のためを判断基準とする王道を歩むべきで、権謀術数による覇道を排すべきだ」 とは、かの坂本龍馬が師と仰ぐ幕末随一のプランナー、「横井小楠」の言葉である。

 

正に今、統一地方選挙の真っただ中、政治について正面から向き合う、絶好の機会である。

政治家が悪い…とはいかにも無責任、悪い政治家を選んだ有権者がいたことを忘れてはならない。
市区町村の議会議員、都道府県議会議員、いずれもあなたの身近にいる候補者だ。
将来に亘り、我々の住む地域を託する人を選ぶ貴重な一票であること、真摯に受け止めて頂きたいと思っている。

さあ、投票へ行こう!!とお願いしつつ、ペンを置く。