秩父神社の立札 ~第673回
保育園の入園不承諾通知が届いたようで、激しい怒りが込められた内容の匿名投稿ブログが、大きな話題を呼んでいる。我が子が保育園落ちた腹いせに、「政治が悪い」、「政治家半分クビにして、日本もついでに死ね!」とばかり、ちょいと愚痴ってみたら、大変な騒ぎになった。
何を勘違いしたのか、民主党やら共産党やらの女性議員先生たちが、国会に持ち込んだ。
こうなればマスコミはノリノリで、連日「保育所作れ、保育士足りない」の大合唱となってしまった。
BS日本テレビに作家の曽野綾子氏が出演、「日本死ね」に対して、強烈なパンチを打つ。
「若い人が、贅沢な住宅を持たないこと。4畳半一間で暮らせばいい。そうすると、奥さんが働きでなきゃいけない状況が減ってくる」だって。「政府に全部を叶えてもらおうなんて無理」
「自分の子どもが入れないと、日本死ねとかいう自己中心」と、それは凄すぎる発言をした。
一部の言葉尻をつかまえ、大騒ぎ大好きなマスコミやネットの世界は、またまた炎上。
書き込みをしたご本人、そんな筈ではなかったと、びっくり・ポンに違いない。
この番組、BS日本「深層NEWS」の名誉のために弁解をしておく。
番組の趣旨は、「未曽有の災害から日本人は何を学び、その後の復興にどう立ち向かうべきか。日本人に求められる“強く生き抜く力”とは何か」曽野綾子氏に質す…というものであった。
曽野氏は、自らが体験した戦後復興と震災復興とを重ね合わせ、「相手の苦しみ、悲しみをともに持ち、ささやかな親切を尽くすこと」の重要さを訴えた。これを伝えることが番組の、そして曽野氏の真意であった。マスコミの得意技、言葉だけが独り歩きした。
そんな時に某中学校の校長が、全校集会で「女性にとって最も大切なことは、子どもを2人以上産むこと。仕事でキャリアを積むこと以上に価値がある」などと発言。
「待ってました」とばかりマスコミの乱痴気騒ぎが始まった。
これに対し校長は、「生徒や保護者から直接おかしいという声は届いていない。私の発言で傷ついた生徒がいたなら真意をきちんと説明する」と述べ、自分の主張は正しいとの信念を語っている。
一方で、少子高齢化や不安定な年金制度などの課題を指摘し、「男女が協力して子どもを育てるのが社会への恩返し」と主張した。
何か、至極まともに聞こえてくるが、世の批判はすさまじいもののようだ。
スウェーデンのように、育児、介護はほとんど無料、素晴らしき福祉国家である。
自分の子供の育児はヘルパーに頼み、自分は他人の子供のヘルパーとして働いている。
何かへん!だと、気になって仕方がない。
秩父地方の総鎮守「秩父神社」、そこには昔から、「親の心得」という立札が建てられている。
母親が、もっと豊かになりたいと、何よりも仕事第一優先になった時、
触れ合いのタッチングラブは…誰としたらいいのだろうか。
幼児としっかり手を結び守ってあげるのは…子供の変化を見極める目は、
みんなママ以外の人に委ねて、「私は輝くビジネスウーマン!」
秩父神社の立礼は、全く実のないお題目、そうあれと誰かが望んでいる。
子は親の鏡 ~第672回
ドロシー・ロー・ノルト(Dorothy Law Nolte)作のポエム『子は親の鏡』を紹介したい。
けなされて育つと、子どもは、人をけなすようになる。
とげとげした家庭で育つと、子どもは、乱暴になる。
不安な気持ちで育てると、子どもも不安になる。
「かわいそうな子だ」と言って育てると、子どもは、みじめな気持ちになる。
子どもを馬鹿にすると、引っ込みじあんな子になる。
親が他人を羨んでばかりいると、子どもも人を羨むようになる。
叱りつけてばかりいると、子どもは「自分は悪い子なんだ」と思ってしまう。
励ましてあげれば、子どもは、自信を持つようになる。
広い心で接すれば、キレる子にはならない。
誉めてあげれば、子どもは、明るい子に育つ。
愛してあげれば、子どもは、人を愛することを学ぶ。
認めてあげれば、子どもは、自分が好きになる。
見つめてあげれば、子どもは、頑張り屋になる。
分かち合うことを教えれば、子どもは、思いやりを学ぶ。
親が正直であれば、子どもは、正直であることの大切さを知る。
子どもに公平であれば、子どもは、正義心のある子に育つ。
やさしく、思いやりをもって育てれば、子どもは、やさしい子に育つ。
守ってあげれば、子どもは、強い子に育つ。
和気あいあいとした家庭で育てば、子どもは、この世の中はいいところだと思えるようになる。
(『子どもが育つ魔法の言葉』(訳:石井千春 発行:PHP研究所)より、詩 『子は親の鏡』)
ノルト女史は、ロサンゼルス出身、英国国立聖職大学で博士号取得。
在野の教育者として世界的に有名な方である。2005年11月に亡くなっている。
この詩「子は親の鏡」は世界中で読まれていて、37ヵ国語に翻訳された。
日本でも120万部を超える大ベストセラーになっている。
そして今回改めて驚いたのは・・・・「子ども」を「従業員」、「家庭」を「会社」に置き換えても、全くその通りであること、会社も家庭も、その中に生きる人間も、基本的には同じ心情の元で育まれ、大きく成長していく。
特に、雇用主と雇用者が「触れ合える距離」にある中小企業の場合、自分の子供の如く従業員と付き合う経営者がいること、社会の実相の一つかもしれない。
確定申告の事実! ~第671回
この時期になるとテレビで、「3月15日、確定申告…」なんて、普通のニュース枠の中で流れてくる。
確定申告とは、正確に言えば、「個人の申告所得税」の申告・納税期限である。
今が旬! 真っ最中のこの時期、暇な税理士はいない。
税務署は人であふれ、「無料納税相談会」と称し、街の至る所で、やたらイソイソと、騒がしい。
今や、毎年の風物詩になっている。
平成27年度の当初予算でみると、所得税収は16兆4,420億円で、歳入に占める割合は17.1%であり、消費税の17.8%と並ぶ大きな税源となっている。
確定申告の内容ややり方等は、国税庁のホームページが良くできているのでお勧めである。
もちろん別の機会で、当職にお聞きいただければと思っている。
(国税庁・確定申告 https://www.nta.go.jp/tetsuzuki/shinkoku/shotoku/kakutei.htm)
(飯島経営グループ・ホームページ http://www.ik-g.jp/)
所得税は1798年にイギリスで創設されたのが始まりのようだ。
日本では明治20年(1887)に導入されているが、これは世界でも早い方だった。
当時は、免税点が高く最高税率も3%と低いもので、納税者の数も12万人足らずにすぎず、その税収の国税全体に占める割合も2%にもみたなかったという。
大正8年には国税の20%を超えるまでになり、その後、大正15年の税制改正で、所得税が直接税の中枢に据えられ、更に昭和15年の税制改革では、現在の給与所得に相当する「勤労所得」について、源泉徴収制度が導入されるなどの改正が行われた。
そして、第二次世界大戦後の昭和22年に、それまでの賦課課税制度を申告納税制度に改められ、給与所得に係わる年末調整制度もこの際に導入された。
日本の税制が体制化するシャウプ勧告を受けた、昭和25年の税制改正より前に、所得税はほぼ、今の制度が出来上がっていたと言って良いかも知れない。
今実施されているのは、昨年1年間、平成27年分の申告である。
平成26年分所得税及び復興特別所得税の状況は、確定申告書を提出した人員2,139万1千人で、平成23年分からほぼ横ばいで推移した。
確定申告書を提出した人員のうち、申告納税額のあるもの(納税人員)は612万人。
ということは、残り1,248万7千人は還付申告で、平成25年分から8万4千人増加した。
事業所得者の納税人員は162万6千人(前年比2万1千人増加)、土地等の譲渡所得の申告人員は48万1千人で、前年より微減。株式等の譲渡所得申告人員は93万7千人で、前年より16万1千人減少という状況だった。
我国の税制は、ほとんど全ての国税について、申告納税制度が採用されているが、所得税だけは、その大部分が申告によるものではなく、源泉徴収によるものである。
就労人口の大部分を占める給与所得者の大半が確定申告をせず、年末調整により所得税を確定しており、自ら申告書を作成し、自ら税務署へ提出する必要はないとされている。
決められた控除以外いわば100%課税される源泉徴収と、自己申告により課税される個人事業者との間に「不公平感がある」といわれているのも、所得課税、永年のテーマである。
もう、「うんざり」です! ~第670回
少し前の話である。
もう、空いてきただろう…と、家内を誘い、映画を観にいった。
シリーズ第7作目となる『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』である。
土曜の朝9時過ぎのシネマコンプレックス、我々を含め10人で、ほぼ貸切状態のようなものだった。
『スター・ウォーズ』シリーズはすべて見てきたので…、
今まで通りの出来栄えで、なんだかホッとし、不思議な安心感があった。
最後に「つづく」とはなかったが、もう第8作を作っている…実に分かり易い。
『スター・ウォーズ』の内容については、あえて小生が論じる必然はなく、残念ながら、評論すべき知識も持ち合わせていない。
ただ久々に映画館に行き、やたらに気になったことがあったので、書き記しておきたいと思った。
シネマコンプレックスでは、本編が始まる前に必ず近日公開の「予告編」を流す。
たまたま、偶然だったのかもしれないが、今回の予告編、殆どは「争(あらそ)いもの」だった。
人間同士、あるいはエイリアン対地球軍等々、とにかく「戦争もの」ばかり。
最新鋭の音響装置からフルボリュームで発せられる「激音」は、耳、頭のみならず、全身を駆け巡り、体を震わせる。
コンピュータグラフィックを駆使した最新のアクションシーンは、大地を粉砕し地球すら滅亡に導く。
超絶技巧を有した殺人技は、スクリーンいっぱいに血吹雪をまき散らし、壮絶な殺戮シーンが繰り返される。
小生のような気の弱い、小心者は、本編に入る前にうんざり、気色の悪い思いの中で本編を見ることになった。が、よく考えれば本編そのものも、「戦争ごっこ」、闘いものであった。
映画に限らず、映像モノ、特にゲームの世界はそれ以上、戦争ものに牛耳られているようだ。
これらのゲームを、「いい加減、人を殺すゲームにも 飽きたよ」と内心は感じながらも、結局は遊び続ける若者が多いと聞く。
勝利を手にするには、一体、何人殺せばいいの?
小生ゲームを殆どやらないので、あるいは正確ではないかもしれないが、最近では、鳥肌立つような残酷性を回避した、安心して、人殺しを楽しむことができるシーンとなっているようである。
たとえば、死体が残虐に飛び散ることもなく、透明になって消えるだけのシーンなどだ。
画面の向こう側で、実際に人が死んでいないこと、ゲームを遊んでいる人間であれば誰でも知っている。だからこそ平気で殺戮を楽しみ、壮絶な戦争を繰り返し、征服者としての勝利を満喫させる「戦争ゲーム」に夢中になる。
ゲームや映画だから、恐らく彼らには全く、良心の呵責は存在しない。
どうしてこんなに「戦争が好き」なのだろうか?
映画監督の宮崎駿氏が『宮崎駿の雑想ノート』(大日本絵画; 増補改訂版 1997年刊)で、自分自身が「戦争反対」を掲げながら、戦争に使われる道具である、戦車などの兵器が大好きで仕方ないという自己矛盾に対して、自分の頭をポカポカと殴る一コマを思い出した。
今どきの社会学者は言う。
映像はあくまでバーチャルの世界、現実とは全く違う。
戦争には絶対に反対が現実で、ゲームや映画の中の戦争は娯楽としての別次元だと、言いきっている。
でもやっぱり、小生のような気の弱い、小心者は、もう、「うんざり」である。
金融とITの融合「フィンテック」 ~第669回
金融業界を中心に「フィンテック(FinTech)」が注目を集めている。
拙筆「第667回のコラム」に続き、今回も近未来の新潮流について書いてみたい。
フィンテックとは、金融(Finance)とテクノロジー(Technology)を組み合わせた造語で、最新のIT技術を使った新しい金融サービスのことだ。
これまでもITを活用した事例は数多くはあったが、フィンテックは、ユーザーの細かなニーズをくみ上げたサービスを実現したり、モバイル機器での金融取引を主流にしている点などが、従来の金融機関が提供するサービスとは異なっているようだ。
実際に実施されているサービスも含め、フィンテック例を整理してみる。
たとえば、「決済&送金サービス」。金融機関の口座番号を使うのではなく、SNSのIDやモバイルアプリなどを使って、個人間でお金のやりとりをすること。「LINE Pay」や「フェイスブックで送金」などが該当します。
このほか、スマートフォン(スマホ)やタブレット端末をクレジットカードの決済端末として活用する「グーグルウォレット」「アップルペイ」なども。
更に「資産管理&運用」サービス。金融機関(銀行やカード会社、証券会社など)とネット上で連携し、資産を管理する。ライフプランに合わせた資産のシミュレーションができるサービスも。スマホの家計簿アプリ「マネーフォワード」は、この代表的なサービスの1つ。
また「投資&融資」。金融機関を介さずに、インターネットを通じて個人や企業がお金を集めたり、貸し出したりできるサービス。
ネット上で不特定多数の人から資金を集める「クラウドファンディング」や、お金を借りたい人や企業と貸したい人や企業を結び付ける「ソーシャルレンディング」などがある。
そして「仮想通貨」。国や中央銀行が管理する通貨ではなく、オンラインサービス上で貨幣価値を持つ電子通貨サービス。
ネット上の取引所で自国の通貨と交換・購入し、データでお金をやりとりするため、国際送金時などの手数料が安い世界中で日常的に使えることを目指した仮想通貨「ビットコイン」が注目を集めた。
コンサルティング大手、アクセンチュアの「フィンテックへの投資額調査」によれば、およそ10億ドル(約1,200億円)であった2008年の投資額は、6年後の2014年には約12倍の122億ドル前後(1兆4,000億円以上)まで急上昇している。
日本国内の状況は、14年の投資額は約5,440万ドル(約65億2,800万円)。
この投資額にも表れているように、フィンテックが欧米で急成長を遂げる一方、日本は「周回遅れ」とやゆされるほど遅れを取っている。
(出典:「THE PAGE」 http://thepage.jp/detail/20151209-00000002-wordleaf?page=2)
新たなサービスの誕生に期待が高まるフィンテックだが、懸念点もある。
それはネットを介するということに他ならない。
前回コラムの「クラウドファンディング」も全く同じだが、常にサイバー攻撃のリスクが付きまとう。
預金口座の個人情報がネット上に流出したり、悪用されたりしないよう、より強固なセキュリティ対策は重要な課題であり、今後の未来社会に常に付きまとう、壮大なテーマである。
慎太郎:懺悔の一冊 ~第668回
政治家を引退し、八十三歳のおじい様として、余生を静かに過ごしているのかと思いきや、今再び文筆活動に精力を注いでいるようである。
作家で元都知事の石原慎太郎氏が、田中角栄元首相に成り代わって一人称で語る小説『天才』(幻冬舎)を出版、話題を呼んでいる。
正直、今日時点で小生、まだこの本を読んでいない。
だから本の書評はできない。
でも久々に興味津々、今日にでも本屋へ行こうと思っている。
石原慎太郎という人物、自己顕示欲が強く、人を小ばかにする態度は、好き嫌いを二分する、強烈な個性を持つ、「小説家や政治家」風の「パフォーマンス芸術家」と思っている。
好き嫌いは別として、今となってはとても、希有な人物である。
人前で堂々と差別発言をし、指摘されると開き直る、自己中心的で人間としてはあまりいただけない。
小説家としては、ひたすらお坊ちゃんの、のほほんとした正義感に溢れたもので、構成も、登場人物でも話題作りがうまく、盛り上がりを狙った作品ばかりと認識している。
要するに、あまり好きでない。
でも小説『天才』は、読んでみたい小説のようだ。
小生が石原慎太郎をイマイチ好きになれない、その小さな理由の一つが「田中政治を批判する急先鋒だった」というこだわりがある。
田中角栄が総理大臣になり、日中国交正常化をやったのが1972年。石原慎太郎は、台湾切り捨てに憤慨した。それがあってかどうか、自民党内タカ派が、1973年青嵐会設立。
石原慎太郎もこれに加わる。
「私はまぎれもなく、田中角栄の金権主義を最初に批判し、真っ向から弓を引いた人間だった」と本人も述べている。
若手参院、衆院議員時代の石原は「反田中」の旗頭だったはずだ。
しかし若気の至りと、生来の目立ちたがり屋は、金権体質のみならず、田中政治そのもの、更に田中個人のプライベートをえぐり出し、卑劣で下品な批判を繰り返した。
当時最大の巨魁であった「田中角栄」、それに真っ向から立ち向かう正義感溢れる若手政治家~
こんな構図はいかにもマスコミ受けし、最高の人気を勝ち取るベストシナリオであった。
あまりにも辛辣すぎる田中批判は、ブームが過ぎれば、周辺の人もその品格の無さに霹靂する。
居場所がなくなった慎太郎は、1975年都知事選に立候補して、現職の美濃部亮吉に敗れている。
1976年に国政に復帰するが、その年に田中角栄は総理大臣を辞任、その後、ロッキード事件等で、徐々に影響力を失っていく。
気が付くと石原慎太郎自身、「傘寿(さんじゅ)」をとうに過ぎ、政治家を引退している。
悪態(あくたい)をつきっぱなしで終わってしまう…そんな焦りがあったに違いない。
田中角栄という政治家がいたからこそ、交通インフラの整備や、資源外交、テレビメディアの「造成」など、彼は、誰も持てなかった予見性があり、さらに正確な文明史観を持っていた。
角栄の政治的業績の大きさは前例がなく、角栄後もいない、正に「天才」そのものであった。
石原慎太郎は、田中角栄を尊敬しつつ、実は大好きな目標だったに違いない。
彼の近著『天才』は、田中角栄への懺悔の一冊であるかも知れない。
仕事できない奴 (やつ) ~第667回
「仕事の段取りが悪い」「仕事が遅い」「無駄が多く、イライラする」…こんなタイプの人、あなたの身近にいるに違いない。仕事ができる(早い)人とできない(遅い)人には、どんな差があるのだろう。
一見して判る特色は、机が汚く整理されていない人、仕事できない予備軍の可能性が高い。
机が整理されていれば、モノを探す時間を短縮できるだけでなく、仕事に必要な段取り力も高まるというものだ。
自分のデスクだけが汚い人、仲間のスタッフへの配慮がなく、優しさが欠如している。
仕事が遅い人はレスポンスの反応も遅く、仕事が早い人は当然、反応が早いという傾向ある。
メールのレスポンスの早さと仕事能力は、ほぼ比例すると言っておこう。
仕事の出来る人は、総じて目標から逆算して仕事を進める。
「自分がやるべきこと」「部下・同僚に依頼すべきこと」「進捗状況のチェック」等々を「目標(仕事の期限)から逆算して」取り組んでいく。
だから必ず、仕事に優先順位をつけて重要度の高いものから進めていくこととなる。
今日やるべきことは、何が何でも今日中に終わらせることを常とするが、仕事の出来ない人は、こんなことをしない。
いつまでもダラダラとルーズに仕事をやっている人がいる。
これは、自分で自分の仕事のタイムリミットを決めていない人である。
一つの仕事に対して、時間を3倍かけたところで、クオリティーが3倍になることは、芸術の世界以外、そうそうあることではない。
山積する仕事に手がつかず、「きっと誰かが、うまいこと処理してくれるだろう」とか「この仕事は、期限が来てしまう前に、きっと彼がやってくれるだろう」と都合の良い解釈をして、何となく逃げてしまう人、仕事の進展状況を、きちんと把握しながら仕事を進めていない証拠である。
どんなにすばらしい仕事をしても、スケジュール管理ができなければ、納期に間に合わせることはできない。
また仕事を完璧にやることに執着する人、これも結果的に仕事ができない場合が多い。
少し難しい仕事で完璧主義を発揮しようとすると、ほぼ間違いなく途中で挫折するか、100%に到達するまで時間がかかる。
結果、コストがかかり、チャンスが逃げてしまうことも多い。
ムダな時間の費消は、他の仕事に支障が出ることもあるかもしれない。
だから、完璧主義者は企業では評価されない。
仕事が遅い人は、ホントはやらなくてよい仕事をたくさん抱えている。
断るという事が苦手な人だ。
仕事が早い人は、やらない仕事を決めている。
だから頼まれた仕事を断る事ができる。
ということは、人に頼むのがうまい人、つまりそれだけの人間関係を作れる人である。
ということは、コミュニケーション能力が高く、心地良く、他人に仕事を頼むのが上手な能力を持っているということに他ならない。
「仕事をする」ということは、常に「誰かの期待に応える」ことと同じこと。
自分の役割を認識し、それを100%達成することで、周囲からの信頼を得ることである。
知識やスキルがいくらあっても、 「できる人」にはなれない。
結局、仕事ができる・できない…の差は、
この「信頼」を勝ち得るか否かにあると言っても過言ではない。
メールの返事ができない連中 ~第666回
小生、歳の割にはネット社会に慣れ親しんでいると思うが、朝方、とんでもない時間にパソコンに向かい、悪戦苦闘…なんてことが、毎日の日課になってしまった。
特に身近なIT手段であるメールは、手軽なコミュニケーションとして広く普及し、一般企業なども積極的に利用する「ビジネスツール」となっている。
もはや、手紙やはがきに取って代わる通信手段となったメールだが、文字だけの内容であることから、時に、思わぬ誤解をされたり、相手にとって迷惑となってしまったりする例も見受けられる。
もらってムカつくメールも確かにある。
今回は「メールのビジネスルール」の原則と事例である。
まず、メールの大原則⇒急ぎの用件には使わない!
メールは相手が不在でも一方的に送ることができる。
しかし、送信したものを相手がすぐに読んでくれるとは限らない。
「送ったからコミュニケーションができた」と思っては、とんでもない誤認ある。
仕事はメールを送ることではなく、コミュニケーションを作ることである。
緊急の用件のときには、電話を使うのが基本。本当は「face-to-face」がベスト!
だから、報連相の全てをメールで行うと思ってはいけない。
ビジネスメールでは「読む相手のこと」を一番に考える。
相手に「読んで、返信する手間」を与えてしまうこと、そんな迷惑をかけることを、忘れてはいけない。
書き出しでの頭語や時候の挨拶は不要。
一行あたりの文字は25~35文字程度を目安にする。
メールの「重要度」機能は、原則使わないように、一方的で自己中心的な印象を受ける。
安易で幼稚な顔文字、(笑)や(爆)などの記号使用等、ビジネスでは避けた方が無難。
「要回答、締切厳守、大至急、」なとの、命令や督促などでの上から目線の言葉遣いは、絶対禁止。
逆に、「恐縮ですが、お手数ですが、お時間のあるときに」などのクッション言葉を用件の前に挟んでおくと、印象が丁寧になるので効果的…以上が一般原則だろう。
メールならではの手法が、返信と転送だ。
件名を見れば、「本文を読まなくても大丈夫」というぐらいに、まとめられるのが理想である。
また返信時の件名は、ただ「Re:」を重ねるだけでなく、できるだけ書き直した方が好ましいだろう。
ただし、どのメールに対しての返信かを分り易くするためにも、相手が書いた件名は削除せず、自分の件名を「Re:」の前に書き加えるようにすると良い。
たとえば、「Re:Re:Re:Re:Re:打ち合わせ日程の件につきまして」よりは、「13日承知しました Re:打ち合わせ日程の件につきまして」という具合か。
返信はなるべく早く返すが常識と思え!
すぐに返信できない場合は、連絡してくれたことへの感謝と、「後ほど改めて返信します」という旨の一文を添え、まずは取り急ぎの御礼として返信をするのが一般的と言われている。
「全く返事の無い奴は、いつも誰だか決まっている。
自分勝手で相手に対する配慮がない、気配りや、思いやりができない連中である…」
某ビジネスマナーセミナーで、講師が声高に言っていた。
全くもって、「御意」かもしれない。
「読む相手のこと」を一番に考えていない人である。
地域創生のカギ~日本版DMO ~第665回
観光関連コンサルタントとして、20歳代から全国を走り回ってきた。
その駆け出しの頃から、観光の地域経済波及効果の重要性を痛感、訴え続けもう40年近くなる。
ここ10年来、国もやっと観光振興の重大さを認識、最近では国の主要施策の一つとして位置付けてきた。
とりわけ地方創生の基になる地域づくりは、観光振興なくしてあり得ない、その主軸となり得る考え方が、今注目を得ている。
それは、日本版DMO(Destination Management/Marketing Organization)である。
従来の観光振興の担い手は、「行政」、「観光協会」、「観光事業者」の3者による観光振興が圧倒的だった。
しかし、景気低迷の上に地域間の競争が厳しくなり、この観光振興手法の成果が上がらなくなった。
なぜ、成果があがらないのか? その反省のもとにDMOという発想が生じてきた。
「従来型観光振興の問題点」をまとめると、まず、全体最適ではない。
自治体の活動は行政区の範囲を出ておらず、つまり、観光客という顧客志向ではない。
役所の移動があり持続しない。
片手間仕事で、観光、あるいは地域づくり専門スキルを有するプロがいない。
目標不明確。責任を取らない。
これらをしっかり反省することから、地域振興策を確立しなければならない。
日本版DMOとは、地域の「稼ぐ力」を引き出すとともに地域への誇りと愛着を醸成する「観光地経営」の視点に立った観光地域づくりの舵取り役である。
そのために多様な関係者と協同しながら、明確なコンセプトに基づいた観光地域づくりを実現するための戦略を策定するとともに、戦略を着実に実施するための調整機能を備えた法人であり、その機能そのもののことである。(観光庁ホームページより)
これからの観光は、地域へ「行こうよ型」から「おいでよ型」になり、地域主導とならなければいけないと思う。
つまり、住民や他産業を含めた「地域のみんな」が主体となる。
そのためには官と民、地域と地域、民と民の壁を除く「マネージメント機能」と、ゼロサム競争で地域間競争が厳しい状況の中で、お客様に来てもらうための「マーケティング機能」が絶対不可欠となる。
そのためにはまず、日本版DMOを中心として観光地域づくりを行うことについての、多様な関係者の合意形成、そして、各種データ等の継続的な収集・分析、データに基づく明確なコンセプトに基づいた戦略(ブランディング)の策定、PDCAサイクル(Plan・Do・Check・Action)の確立等の事業マネジメント、さらに、関係者が実施する観光関連事業と戦略の整合性に関する調整・仕組み作り、プロモーション等の機能を果たす必要があると言える。
また、地域の官民の関係者との効果的な役割分担をした上で、例えば、滞在交流型旅行商品の企画・販売や、観光案内や宿泊施設、レストランや現地の交通手段などの手配をする仕事、いわゆるランドオペレーター業務の実施など地域の実情に応じて、日本版DMOが観光地域づくりの一主体として個別事業を実施することも考えられる。
日本型DMOの成功事例は僅かで、現状の評価はまだ定まっていない。
まだ多くの課題もあるが、それ以上に大きな可能性を秘めている。
これからの観光施策の担い手、つまり日本経済の牽引役・DMOに大きな期待を寄せるところである。
参考:(公社)日本観光振興協会 第6回DMO研究会 観光地域づくりプラットホーム推進機構・清水真一会長談
「信用」と「信頼」 ~第664回
「経営者は社員を、信頼しても、信用するな」、
無条件に社員を信じ切るのではなく、経営者としての目をきちんと持ち、常に冷静な判断することを忘れてはいけないという教訓なのだろうか、
経営者セミナーの必須『格言』の一つになっている。
「信用」と「信頼」、よく耳にし、また我々自身安易、かつ頻繁に口に出す言葉だ。
でも本当の意味をきちんと把握し、正確に使い分けてしゃべっていただろうか?
こりゃ、いかん…ということで、今回は「信用」と「信頼」、その違いについて、こだわってみた。
彼を信頼すると言い、彼を信用するとも言う。
でも、彼の言葉を信用するとは言うが、彼の言葉を信頼するとは言わない。
「信用取引」という言葉はあるけど、「信頼取引」という言葉はない。
また、「信頼関係」という言葉はあるけど、「信用関係」という言葉はありえない。
これは明らかに、両者の意味が異なっていることの証拠だ。
早速ネットで色々調べてみた。
まずは「信用」。「信用」するためには、実績や成果物が必要となるとのこと。
何らかの実績や成果物を作って、その出来栄えに対しての評価が「信用」のもと。
その優れた実績や成果物といった、過去の業績に対して「信用」するということになる。
その人の過去の行為(事実)や、作り上げてきた作品といった物理的なモノに対して、
「これは大丈夫だ」と信用するわけだから、
「信用」は、モノを、評価する人から、そのモノを作った人に対する片方向になる。
英語で言うと“信用=believe”となる。
一方「信頼」は、そうした過去の実績や業績、あるいはその人の動静を見たうえで、
「この人なら、この仕事を任せても、しっかり仕上げてくれるだろう」とか、
「この人なら、私の秘密を打ち明けても、大丈夫だろう」などと、
その人の未来の行動を期待する行為や感情のことを対象とする。
もちろん、「信頼」するためには何らかの根拠が必要だが、
その根拠を見たうえで、未来を「信じる」ということになる。
そう考えると、「信頼」してもらうためには、まず「信用」が必要、前提条件となる。
「信用」なしには「信頼」を勝ち取るのは難しい。
「信頼」は、その人の実績や過去の振る舞いを見たうえで、その人の人間性や習慣、クセ、感覚といった目に見えないものに対して期待し、その期待に応えてくれるだろうという気持ちの表れである。
気持ちに気持ちで応えるのが「信頼」であり、
「信頼」は気持ちと気持ちのつながりだから、双方向となる。
英語で言えば“信頼=trust”である。
昔、当時の「鳩○首相」が、東京で「オバマ米大統領」と会談した際、いきなり「トラスト・ミー」(私を信じて)と発言したことがあった。
実績に裏付けられた「信用」がない人の、突然の発言に、呆れるやら情けないやら、
正に国辱的ピエロ、
believeとtrustの意味すら理解しない滑稽事件であった。