何故だ、と牛河はそのビニール袋の中で思った。知っているすべてを正直に語った。どうして今さら俺を殺さなくてはならないのだ。…
牛河の縛り上げられた体躯が、地上に放り出された巨大な魚のように畳の上で激しくのたうつのを、タマルは目の隅で見ていた。…
彼の目はタグホイヤーのダイバーズウォッチの秒針を追っていた。三分が経過し、牛河の手足の激しいばたつきが止んだ。…そのあとさらに三分間、タマルは秒針を見つめた。それから首筋に手をやって脈を取り、牛河が生命の全ての兆候を失っていることを確認した。…
彼は輪ゴムを首からはずし、ビニール袋を顔からむしり取った。…牛河は両目を大きく見開き、口を斜めに曲げて開けて死んでいた。汚れた乱杭歯がむきだしになり、緑色の苔のはえた舌も見えた。ムンクが絵に描きそうな表情だった。…
「悪かったな」とタマルは言った。「こっちも好きでやってるわけじゃないんだ」…
タマルは牛河の手足を縛った紐を解いた。肌にあとがつかないように柔らかいタオルの紐を使って、特殊な縛り方をしていた。…牛河の持ち物をざっと調べ、彼が撮影した写真を一枚残らず回収した。…彼がここで誰かを監視していたことがわかると何かと面倒だ。…
あとには大事なものは何ひとつ残っていない。寝袋と食品と着替え、財布と鍵、そして牛河の気の毒な死体が残っているだけだ。最後にタマルは牛河の財布の中に何枚か入っていた「新日本学術芸術振興会専任理事」の肩書きのある名刺を一枚取り、自分のコートのポケットに入れた。
「悪かったな」タマルは帰り際にもう一度牛河に声をかけた。』




「気の毒なことをしたな」と男は言った。
気の毒なことをした?牛河はその言葉の意味について、いびつな頭の中で考えを巡らせた。それから思いあたった。
「リーダー殺害の一件はおたくが仕組んだのか?」と牛河は言った。
男はそれには答えなかった。しかしその無言の回答が決して否定的なものでないことを、牛河は理解した。
「私をどうするつもりだ?」と牛河は言った。
「どうしたものかな。実を言うとまだ決めてないんだ。これからゆっくり考える。すべてはあんたの出方次第だ」とタマルは言った。…
「それで、柳屋敷のことは教団に話したのか?」
「誰にも言っていない」と牛河は正直に言った。「柳屋敷が匂うというのはあくまで個人的推測に過ぎない。警備が厳しすぎたし確証までは得られなかった」
「それはよかった」とタマルは言った。
「きっとおたくが仕切っていたんだろう?」
タマルは答えなかった。彼は質問する側の人間であり、相手の質問に答える必要はない。
「あんたは今までのところ、こちらの質問に対して嘘をついていない」とタマルは言った。「少なくとも大筋ではな。一度海の底を潜らされると、嘘をつく気力が失われてしまう。無理に嘘をついてもすぐ声に出るからな。恐怖がそうさせるんだ」
「嘘はついていない」と牛河は言った。
「そいつはよかった」とタマルは言った。「好んで余計な苦痛を味わうことはない。どころでカール・ユングのことは知っているか?」…
「『冷たくても、冷たくなくても、神はここにいる』それがその石にユングが自ら刻んだ言葉だ」…
「…『冷たくても、冷たくなくても、神はここにいる』悪いけど、ちょっと声に出して言ってみてくれないか?」
…牛河はよくわからないまま小さな声で言った。
「よく聞こえなかったな」
…牛河は今度はできるだけはっきりとした声で言った。
タマルは目を閉じ、しばらくその言葉の余韻を味わっていた。それからようやく何かを決断したように大きく息を吸い込み、そして吐いた。目を開け、自分の両手を眺めた。指紋を残さないために、両手は手術用の薄い使い捨て手袋に包まれていた。
「悪いな」とタマルは静かに言った。そこには厳粛な響きが聞き取れた。彼はビニール袋をもう一度手に取り、それを牛河の頭からすっぽりとかぶせた。そして太い輪ゴムで首のまわりを締めた。有無を言わせぬ迅速な動きだった。牛河は抗議の言葉を口にしようとしたが、その言葉は結局口にされなかった。
両方の肺が必死に新鮮な空気を求めていた。しかしそんなものはどこにもない。ビニールが顔全体にぴたりと張りついて、文字どおり死の仮面となった。ほどなく身体中の筋肉が激しく痙攣を始めた。牛河は手を伸ばしてその袋をむしり取ろうとしたが、手はもちろん動かなかった。背中でしっかりと縛られているのだ。頭の中で脳が風船のように膨張し、そのままはちきれそうになった。牛河は叫ぼうと思った。新鮮な空気がどうしても必要なのだ。何があっても。しかしもちろん声は出てこなかった。舌が口いっぱいに広がった。意識が頭からこぼれ落ちていった。
やがて首の輪ゴムが外され、ビニール袋が頭からむしり取られた。牛河は目の前にある空気を必死に肺の中に送り込んだ。…
「海の底はどうだった?」と男は牛河の呼吸が落ち着くのを待って尋ねた。
「牛河さん、何度も繰り返すことになるが、俺は正しい答えを求めている。だからもう一度だけ質問する。…」
「教団はこのことを知らない」牛河はようやくそれだけを口にした。
「そう、そいつが正しい答えだ。教団は青豆と川奈天吾のあいだに繋がりがあることをまだ掴んでいない。あんたはまだその事実を連中に伝えていない。そういうことだね?」
牛河は肯いた。
「最初から正直に答えていれば、海の底なんか見ないで済んだんだ。苦しかっただろう?」
牛河は肯いた。…
男は続けた。「だから、ここはお互い腹を割って、包み隠すところなく、正直に話をしようじゃないか。いいな、牛河さん?」
牛河は肯いた。
「もし正しくない答えがまた返ってきたら、また海の底を歩いてもらうことになる。今度はさっきよりもう少し長く、もう少しゆっくり歩いてもらう。もっとぎりぎりのところまで。下手をしたらもう戻って来れないかもしれない。そんな目にあいたくないだろう。どうだ、牛河さん?」…
「リーダーの死に関して私に落ち度があた」
「どんな具合に?」
「私が青豆の身辺調査をした。リーダーに会わせる前に厳しいチェックを入れる。まずい点は何も見つけられなかった」
「しかし彼女は殺害する意志をもってリーダーに接近し、実際にとどめを刺した。あんたは与えられた仕事をしくじったし、いずれその責任を取らされることになるだろう。所詮は外部の使い捨ての人間だ。また今となっては内情を知りすぎた男になっている。生き延びるためには、連中に青豆の首を差し出さなくてはならない。そういうことかな?」
牛河は肯いた。