「誰に頼まれた?」と男は尋ねた。
「さきがけだ」
「それくらいの予想はこちらにもつくよ、牛河さん」と男は言った。「しかしなぜ教団が今さら川奈天吾の動向を監視しなくてはならないのだろう?…」
「質問しているんだ」と男は言った。…
「彼はひとりの女に繋がっている」と牛河はうめくように言った。
「その女に名前はあるのか?」
「青豆」
「なぜ青豆を追っている?」と男は尋ねた。
「彼女が教団のリーダーに害をなしたからだ」…
「ところで牛河さん、あんたは今回、単独で行動しているのか?」牛河は肯いた。
「しかし妙な話だな。こういう監視や尾行の作業はチームを組んであたるのが常道だ。…単独行動はいかにも不自然だ。…」
「私は教団の信者じゃない」と牛河は言った。「個人的に雇われているだけだ。外部の人間を使った方が便利なときに呼ばれる」
「ここで川奈天吾を監視して、青豆との繋がりを探れと教団から指示されたのか、牛河さん?」
「そうだ」
「違うね」と男は言った。「そいつは正しくない答えだ。…連中はあんた一人に監視を任せたりしないよ。自分たちのところの人間を使って、チームを組んでやらせている。…」
「でも本当にそうなんだ。こちらは上の指示に従っているだけだ。どうして私一人にやらせているのか、それは私にもわからん」牛河の声はまたピッチが不安定になり、ところどころでひび割れた。
もし「さきがけ」が青豆と天吾の繋がりをまだ把握していないとわかったら、俺はこのまま消されるかもしれないと牛河は思った。俺がいなくなれば、それは誰に知られることなく終わるわけだから。
「正しくない答えが、俺は好きになれない」と男は冷ややかな声で言った。「牛河さん、あんたはそのことを身にしみて知るべきだ。…今回は新しい趣向でやってみよう。海の底に行ってもらうとする」
海の底?と牛河は思った。この男はいったい何を言おうとしているのだろう。
男はポケットから何かを取り出しているようだった。かさかさというビニールの擦れる音が耳に届いた。そして牛河の頭の上から何かがすっぽりとかぶせられた。ビニール袋だ。食品冷凍用の厚手のビニール袋のようだ。それから大きな太い輪ゴムが首のまわりに巻きつけられた。この男は俺を窒素させるつもりなのだ、と牛河は悟った。空気を吸い込もうとすると口の中がビニールでいっぱいになった。鼻の穴も塞がれた。
『目を覚ましたときあたりは真っ暗だった…心臓の鼓動が高まっていることに牛河は気づいた。…枕元に誰かがいる。…彼は反射的に寝袋のジッパーを外そうとした。その誰かは間髪を置かずに牛河の首に腕を回した。短い叫び声をあげる暇さえ与えられなかった。…その腕は彼の首をコンパクトに、しかし万力のように容赦なく締め上げた。…牛河は寝袋の中で身体をくねらせ、もがいた。ナイロンの内側の壁を両手でかきむしり、両足で蹴った。叫び声をあげようとした。しかしそんなことをしても役に立たない。…その絶望的な状況の中で牛河の脳裏をよぎったのは、この男はどうやって部屋に入ってきたのだろうという疑問だった。…こいつはプロだ、と牛河は思った。…意識が戻ったとき、牛河は寝袋の外に出されていた。牛河は畳の床に俯せにされていた。両足は背中の後ろに回され、柔らかい布のようなもので縛られている。足首も縛られている。それほど固くはないが手慣れた効果的な縛り方だ。…喉の両脇に鋭い痛みが瘤のように残っていた。漏らした尿が下着に滲みて冷たくなり始めていた。…「それほど簡単には死なない」と男の声が言った。まるで牛河の気持ちを読みとったように。「意識をいったん落としただけだ。あとほんの少しというところまでは行ったが」聞き覚えのない声だった。表情を欠いた中立な声だ。…
「牛河さん」と男は言った「牛河さんでいいんだね?」
牛河は黙っていた。二十秒ばかりの沈黙の時間があった。それから男は予告もなく、振幅の短い一撃を、牛河の左側の腎臓に送り込んだ。音のない、しかしおそろしく強烈な背後からの一撃だった。激痛が全身を貫いた。すべての臓器が縮み上がり、痛みが一段落するまでまともに息ができなかった。やがて牛河の口から乾いたあえぎ声が漏れた。
「いちおう丁寧にものを尋ねたんだ。返事をしてもらいたい。口がまだうまくきけないのなら、肯くか、首を振るか、それだけでもいい。それが礼儀というものだ」と男は言った。「牛河さんでいいんだね?」
牛河は何度か肯いた。
「牛河さん。…こんなところで隠しカメラを使って、いったい何をやっているんだろう?」
牛河は黙っていた。言葉がまだうまく出てこなかった。
「返事をした方がいい」と男は言った。「これは忠告だよ。腎臓を潰されると一生痛みを引きずることになる」
「ここに住む人物を監視していた」と牛河はようやく言った。
「それは川奈天吾のことだね」牛河は肯いた。



『火葬が終わり、安達クミと二人で残された父親の骨を拾い、小さな骨壺に収めた。…天吾はその骨壺を所在なく抱えたまま、安達クミと一緒にタクシーで駅に向かった。
「あとの細かい事務的な処理は私の方で適当に済ませておく」と安達クミはタクシーの中で言った。それから少し考えて付け加えた。「よかったら納骨もしておいてあげようか?」
天吾はそう言われて驚いた。「そんなことができるの?」
「できなくはない」と安達クミは言った。「家族が一人も来ないお葬式だって、まったくないわけじゃないからね」
「もしそうしてくれたらとても助かる」と天吾は言った。そしていくぶんうしろめたくはあったが、正直なところほっとして、骨壺を安達クミに手渡した。おれがこの骨壺を目の前にすることはもう二度とないだろうと彼はそのとき思った。あとに残されるのは記憶だけだ。そしてその記憶だっていつかはちりのように消えてしまう。
「私は地元民だから、大抵のことは融通がつけられる。だから天吾くんは早く東京に帰った方がいい。私たちはもちろんあなたのことが好きだけど、ここは天吾くんがいつまでもいる場所じゃない」
猫の町を離れる、と天吾は思った。
「いろいろとありがとう」と天吾はもう一度礼を言った。
「ねえ天吾くん、ひとつ私から忠告していいかな。忠告なんてがらじゃないけどさ」
「もちろんいいよ」
「あなたのお父さんは、何か秘密を抱えてあっちの側に行っちゃったのかもしれない。そのことであなたは少し混乱しているみたいに見える。その気持ちはわからないでもない。でもね、天吾くんは暗い入り口をこれ以上のぞき込まないほうがいい。そういうのは猫たちにまかせておけばいい。そんなことをしたってあなたはどこにも行けない。それより先のことを考えた方がいい」
「穴は閉じられなくてはいけない」と天吾は言った。
「そういうこと」と安達クミは言った。

「そんなことをしてもあなたはどこにも行けない」と安達クミは言った。「それよりも先のことを考えた方がいい」
でもそうじゃないんだと天吾は思う。それだけじゃないんだ。秘密を知ったところで、それはおれをどこにも連れて行かないかもしれない。それでもやはり、なぜそれが自分をどこにも連れて行かないのか、その理由を知らなくてはならない。その理由を正しく知ることによって、おれはひょっとしたらどこかへ行くことができるかもしれない。』