『とても長かった、と青豆は言う。
とても長かった、と天吾も思う。しかしそれと同時に二十年という歳月が、もはや実質を持たないものになっていることに彼は気づく。それはむしろ一瞬のうちに過ぎ去った歳月であり、だからこそ一瞬のうちに埋めることのできる歳月なのだ。

ずっとここにいて、このまま時間のことなんか忘れてしまいたい、と青豆は小さな声で言う。でも私たちにはやらなくてはならないことがあるの。
我々は移動する、と天吾は思う。
そう、私たちは移動する、と青豆は言う。それは早ければ早いほどいい。もうあまり時間は残されていないから。これからどんなところに行くか、まだ言葉にはできないけれど。
言葉にする必要はない、と天吾は思う。

私たちが離れることはない、と青豆は言う。…
急がなくては、と青豆は小声で囁く。…闇に包まれた深い森を手探りで抜けていく幼い子供たちのように、彼らの手は堅くひとつに握り合わされている。
「僕らはこれから猫の町を離れる」と天吾は初めて言葉を口にする。青豆はその生まれたばかりの新しい声を大事に受け入れる。
「猫の町?」
「深い孤独が昼を支配し、大きな猫たちが夜を支配する町のことだよ。美しい河が流れ、古い石の橋がかかっている。でもそこは僕らの留まるべき場所じゃない」
私たちはこの世界をそれぞれに違う言葉で呼んでいたのだ、と青豆は思う。私はそれを「1Q84」という名で呼び、彼はそれを「猫の町」という名で呼んだ。でも示されているのは同じひとつのものだ。青豆は彼の手をいっそう強く握る。
「そう、私たちはこれから猫の町を出ていく。二人で一緒に」と彼女は言う。「この町を出てしまえば、もう昼であれ夜であれ、私たちが離ればなれになることはない」
二人が急ぎ足で公園をあとにするときもまだ、大小の一対の月は緩慢な速度で流れる雲の背後に隠されている。月たちの目は覆われている。少年と少女は手を取りあって森を抜けていく。』
『天吾君、目を開けて、と青豆は囁くように言う。天吾は目を開ける。世界にもう一度時間が流れ始める。
月が見える、と青豆は言う。
天吾は顔を上げて空を見上げる。ちょうど雲が切れて、ケヤキの枯れた枝の上に月が浮かんでいるのが見える。大小二つの月だ。大きな黄色い月と、小さくいびつな緑色の月。マザとドウタ。・・・
それから天吾は傍らにいる青豆を見る。彼女はもう、サイズの合わない古着を着て、髪を母親にぞんざいにカットされた、いかにも栄養の足りないやせっぽちの十歳の女の子ではない。かつての面影はほとんどない。にもかかわらず、彼女が青豆であることは一目でわかる。天吾の目にはそれは青豆以外の誰にも見えない。彼女の一対の瞳が湛える表情は、二十年の歳月を経ても変わっていない。それは力強く、濁りなく、どこまでも透き通っている。自分が何を希求しているのかを確信している目だ。誰に阻まれることもなく、何を見るべきかを熟知している目だ。その目はまっすぐ彼を見ている。彼の心をのぞき込んでいる。
青豆は彼の知らないどこかの場所でその二十年という歳月を送り、一人の美しい大人の女性に成長した。
・・・
何かを言わなくてはと天吾は思う。しかし言葉は出てこない。・・・
青豆は彼の目を見ながら一度だけ短く首を振る。天吾はその意味を理解する。何も言わなくていいということだ。彼女はポケットの中の天吾の手を握り続けている。彼女の手は一瞬たりともそこから引くことはない。
私たちは同じものを見ている、青豆は天吾の目をのぞき込んだまま静かな声で言う。それは質問であると同時に質問ではない。彼女はそのことを既に知っている。それでも彼女はかたちをとった承認を必要としている。
月は二つ浮かんでいる、と青豆は言う。
天吾は肯く。月は二つ浮かんでいる。天吾はそれを声には出さない。声はなぜかうまく出てこない。ただそう心に思うだけだ。
青豆は目を閉じ、丸くなって身をかがめ、天吾の胸に頬を寄せる。心臓の上に耳をつける。彼の思いに耳を澄ませる。そのことを知りたかった、と青豆は言う。私たちが同じ世界にいて、同じものを見ていることを。
気がつくと、天吾の心の中にあった大きな渦の柱は既に消え去っている。ただ静かな冬の夜が彼のまわりを囲んでいる。』
『牛河の遺体は冷え切った闇の中に静かに横たわっていた。部屋には彼のほかには誰もいない。明かりは消され、ドアの鍵は外からかけられていた。…部屋には時計はないから正確な時刻はわからない。おそらく坊主頭とポニーテールが退出してから一時間ばかり経過した頃だろう。もし仮にそこに誰かが居合わせていたなら、牛河の口が突然もぞもぞと動き出したのを目にして、肝を潰したに違いない。それは常識では考えられない恐ろしい出来事だった。牛河は言うまでもなく既に絶命していたし、おまけにその身体は完全な死後硬直の状態にあったからだ。しかし彼の口はなおも細かく震えるように動き続け、やがて乾いた音を立ててぱくりと開いた。
そこに居合わせた人は、牛河がこれから何かを語り始めるのではないかと思ったことだろう。おそらく死者にしか知り得ない何か大事な情報を。その人はきっと怯えながら、固唾を呑んで待ち受けたことだろう。さあ、これからいったいどんな秘密が明らかにされるのだろう?
しかし牛河の大きく開かれた口から声は出てこなかった。そこから出てきたのは言葉ではなく、吐息でもなく、六人の小さな人々だった。背の高さはせいぜい五センチほどだ。彼らは小さな身体に小さな服を着て、緑色の苔のはえた舌を踏みしめ、汚れた乱杭歯をまたぎ、順番に外に出てきた。…六人のリトルピープルは牛河の口から出ると、…それぞれに身を揺すって、図体をだんだん大きくしていった。…やがて一人が無言のうちに手を伸ばして、空中からすっと一本の細い糸をつまみ上げた。…次の一人もまったく同じことをした。…あとの三人も同じ動作を繰り返した。しかし最後の一人だけが…牛河のいびつなかたちをした頭に手を伸ばし、そこに生えている縮れた毛髪を一本ちぎった。…その五本の空中の糸と、一本の牛河の頭髪を、最初のリトルピープルが慣れた手でひとつに紡いだ。そのようにして六人のリトルピープルは新しい空気さなぎを作っていった。…青白い月の光を浴びて、牛河はテーブルの上に横たわっていた。口は大きく開き、閉じることのない目には厚い布がかぶせられていた。その瞳が生きている最後の瞬間に見ていたのは、中央林間の建て売りの一軒家であり、その小さな芝生の庭を元気にかけまわる小型犬の姿だった。
そして彼の魂の一部はこれから空気さなぎに変わろうとしていた。』