村上
つまり『1Q84』は一口でいえば近過去小説であり、僕としてはいわば、過去の書き換えをしているわけです。なぜそんなことをするかというと、僕自身の生きてきた時代の精神性みたいなものを、ひとつ違うかたちに置き換えて検証してみたかったからです。…
戦争から帰ってきた父親たちが結婚をして、戦後すぐに僕らの世代が生まれた。平和な時代がやっと訪れ、貧しかったけれどみんな一生懸命働いて、昭和三十年代の高度成長があって、生活も右肩上がりに向上し、これからすべてがよくなっていくだろうという時代だった。…
だいじなのは、そのころの二十代の青少年は基本的に未来を信じていたということです。いまの大人はばかで貪欲で、意識が低く、何も考えてないから、愚かしいことがいっぱい行われているけれど、われわれのような理想主義的で先進的な決意を持った世代が大人になったら、世の中がよくならないわけがないと考えていた。いまになってみればずいぶん浮き世離れした話だけれど、当時の若い人はだいたいそう信じてたんです。…
学生運動がつぶされても、それでもまだ、われわれが会社員になれば会社自体が変わるんだと思って、多くの人は髪の毛を短くして会社に入った。…
しかしそれで社会が変わったかというと、何ひとつ変わらなかった。結局は右肩上がりに乗っかってせっせと働いて、バブル経済をつくっただけ。
そんなふうにして目的の置き換えを続けるうちに、当たり前のことだけど、理想主義なんてあっという間に壊れていった。やがてバブルははじけて日本は多かれ少なかれ、舵をもがれた船みたいなありさまになってしまった。僕らの世代は、それに対する責任をとっていないんじゃないかという思いがあります。世代的責任というのが具体的にどういうものかはよくわからないけれど、でもやはりそういうのを感じます。



……理想主義に燃える学生運動。エホバの証人にはまった僕らの親世代はある意味、そんな熱病がいまだ冷めない人々なのかもしれないな…夢破れた社会理想を宗教で穴埋めしようとした。
その時代の空気感はきっと彼らに影響を与えたはず。なんとなくそんなふうに思えてしまう。
村上
善か悪かというのはさっきも言ったように、個々のケースで個々の人が、強制してくる外的な力のベクトルの向きを、いまは善に向いているのか、悪に向いているのかと、自分の感覚で判断していくしかありません。同時にその感覚と、生活の質感とを常に結びつけていかなくてはならない。それはとても難しい孤独な作業です。
その孤独な作業に人を耐えさせるのは、やはり愛というか、コミュニケーションの深さしかないと思います。それも首から上の愛ではなく、骨身にしみついた信頼感のようなもの。そういうのが必要になってくる。天吾も青豆も元々そういうものを与えられていませんでした。でも青豆の強みは、神という絶対的な観念を小さいうちに植え付けられたことでしょうね。その神は彼女を苦しめ、苛みはするけれど、それでも絶対的なものを信じるという観念は、彼女の骨の髄にまで染み込んでいるし、それが彼女を最終的に助けることになります。

-おりおりに祈りの言葉が出てくるというのは、そういうことですよね。

村上
そうです。その神が正しいか正しくないかではなく、絶対的な何かの存在を信じるという観念が彼女を根本で支えています。

村上
彼らとはちがって、僕は幼少時代や少年時代に、自分が傷つけられた記憶はありません。夙川と芦屋という穏やかな住宅地域で育ち、いわゆる中産階級の子どもで、一人っ子だから葛藤もなく、家庭にも問題はなく、…平穏無事な少年時代というか、早い話、小説にしたいと思うようなことが何ひとつないんですよ。

で、書いているうちにだんだんわかってきたことがありました。幼年時代、少年時代に自分が傷ついていないわけでは決してなかった、ということです。人というのは、だれであろうと、どんな環境にあろうと、成長の過程においてそれぞれ自我を傷つけられ、損なわれていくものなんです。ただそのことに気がつかないだけで。…
両親を非難しているのではありません。両親は両親にできることをしているだけ。どんな動物でも同じことですよね。生きていくためのノウハウを子供に引き渡す。人間の場合はほかの動物とは違って、ものすごく複雑な社会生活を営んでいるから、ノウハウもより複雑になってきます。でもノウハウを引き渡すということは、ある意味でサーキットを閉鎖していくことなんです。
だから、僕が自立して自由になり、自分で働いて、自分の生活システムを立ち上げていくにつれて、自分がどれほどの傷を負っていたかということがだんだんわかってきた。でも繰り返すようだけど、親を批判しているわけではないんです。考え方も生き方もぜんぜん違うけれど、それはしようがない。ただそこから、その痛みから、乖離の感覚から、自分の内的な物語が生まれくるんです。
『1Q84』に出てくる傷つけられた人々というのは、極端に拡大され、誇張されたものではあるけれども、僕自身の投影でもあります。