村上
善か悪かというのはさっきも言ったように、個々のケースで個々の人が、強制してくる外的な力のベクトルの向きを、いまは善に向いているのか、悪に向いているのかと、自分の感覚で判断していくしかありません。同時にその感覚と、生活の質感とを常に結びつけていかなくてはならない。それはとても難しい孤独な作業です。
その孤独な作業に人を耐えさせるのは、やはり愛というか、コミュニケーションの深さしかないと思います。それも首から上の愛ではなく、骨身にしみついた信頼感のようなもの。そういうのが必要になってくる。天吾も青豆も元々そういうものを与えられていませんでした。でも青豆の強みは、神という絶対的な観念を小さいうちに植え付けられたことでしょうね。その神は彼女を苦しめ、苛みはするけれど、それでも絶対的なものを信じるという観念は、彼女の骨の髄にまで染み込んでいるし、それが彼女を最終的に助けることになります。
-おりおりに祈りの言葉が出てくるというのは、そういうことですよね。
村上
そうです。その神が正しいか正しくないかではなく、絶対的な何かの存在を信じるという観念が彼女を根本で支えています。
善か悪かというのはさっきも言ったように、個々のケースで個々の人が、強制してくる外的な力のベクトルの向きを、いまは善に向いているのか、悪に向いているのかと、自分の感覚で判断していくしかありません。同時にその感覚と、生活の質感とを常に結びつけていかなくてはならない。それはとても難しい孤独な作業です。
その孤独な作業に人を耐えさせるのは、やはり愛というか、コミュニケーションの深さしかないと思います。それも首から上の愛ではなく、骨身にしみついた信頼感のようなもの。そういうのが必要になってくる。天吾も青豆も元々そういうものを与えられていませんでした。でも青豆の強みは、神という絶対的な観念を小さいうちに植え付けられたことでしょうね。その神は彼女を苦しめ、苛みはするけれど、それでも絶対的なものを信じるという観念は、彼女の骨の髄にまで染み込んでいるし、それが彼女を最終的に助けることになります。
-おりおりに祈りの言葉が出てくるというのは、そういうことですよね。
村上
そうです。その神が正しいか正しくないかではなく、絶対的な何かの存在を信じるという観念が彼女を根本で支えています。