2023年11月以来、戦後の反基地運動をふりかえる回想記事を紹介してきました。
まずは「砂川闘争」に関して、かつて社会党員として現地闘争に参加した仲井富さんが、40年後に砂川を再訪して書いた記事に注目しました。

 

戦後の反基地運動再訪――「砂川闘争」回想記事(1) | 砂川平和ひろば Sunagawa Heiwa Hiroba (ameblo.jp)

戦後の反基地運動再訪――「砂川闘争」回想記事(2) | 砂川平和ひろば Sunagawa Heiwa Hiroba (ameblo.jp)

 

上記(1)の前文でふれたように、仲井さんは1980年代初期にも砂川を訪れ、病後ながら健在だった宮岡正雄さんにインタビューしています。そのブログ前文では、インタビュー記事の書誌情報や小見出しを列記しただけでしたが、今回は内容に踏み込んで、あらためて紹介します。
〔以下、敬称略〕

 


 

 

連載=わが戦後史と住民運動 第七回

 

立川米軍基地反対運動                             砂川町基地拡張反対同盟の宮岡政雄さんにきく

 

仲井 富

『月刊総評』1981年1月(通号 277) p92~99

 

この記事では、仲井富の質問に答えるという形式で宮岡政雄の自由な語りが、そのまま記録されている。その内容は、自身の運動経験の回想にとどまらず、多摩の自由民権思想の系譜や、「砂川闘争」後の三里塚との連帯や、今後の住民運動に継承すべき精神など、「砂川闘争」を長いスパンでとらえた、示唆に富むものとなっている。多岐にわたるため、あえて宮岡政雄個人史や砂川闘争前史といった側面を重視して再構成し、前後二回に分けて、今回は記事前半を要約する。

 

砂川年表(1609~1977) | 砂川平和ひろば Sunagawa Heiwa Hiroba (ameblo.jp)

 

 

 

宮岡政雄個人史と砂川郷土史

 

大正2年(1913年)生まれの宮岡政雄は、インタビュー冒頭で大正デモクラシーの影響を受けたと語り、「学問としてではなく、自分の肌で感じた自由・民権というもの」であることを強調している。

宮岡家は、江戸時代の新田開発に始まる農家で、長男として生まれた政雄は16代目だった。砂川には規模の大きい養蚕農家が多く、宮岡家も親戚には町の有力者が多かったという。

ところが政雄が小学校一年生のときに父が亡くなり、二十歳になるまでは父の弟である叔父の世話になった。「ほんとうに苦しい思いをし」金の苦労はしたが、自らもたゆまぬ努力をして力をつけると、経営面積が広いだけに自立して家を復活させるのも早かったようだ。

1920年代に入ると、砂川周辺でも軍事関連の施設が増えていく。

宮岡政雄自身が兵隊にとられたのは、いわゆる「太平洋戦争」末期の昭和19(1944)年だった。近衛第一連隊(東部二部隊)で「三ヶ月間教育召集を受けて、フィリピンへ渡ることになった」。ところが「台湾まで行って、それ以上行けなくなって」しまい、台湾で終戦を迎えた。

1945年12月に立川駅に帰り着いたが、砂川村の自宅は戦中の空襲で焼失していた。

 

〔台湾での経験については、宮岡自身が駐留中に書いていた日記を基に後年あらためて綴った記録があり、本ブログで全文掲載したとおりである。〕

宮岡政雄「私の履歴書」台湾編(前半) | 砂川平和ひろば Sunagawa Heiwa Hiroba (ameblo.jp)

 

宮岡政雄「私の履歴書」台湾編(後半) | 砂川平和ひろば Sunagawa Heiwa Hiroba (ameblo.jp)



戦後の記憶のなかで、後の砂川闘争にも関係していると思われるのが、農地改革の補助員をやったという経験である。「職員がいるわけではなく、下手をやるとボスにみんな取られてしまう」から、宮岡は「二千町もある農民の構図を写してきて、それぞれ小作人一人ひとりが自分で構図の中に書き込むようにした」のだという。どこを誰が耕作しているかが構図上ではっきりすれば、もう誰も動かせないからだ。

砂川闘争が始まったとき宮岡政雄は40歳だったが、その頃には町の役員をすべて経験していた。

宮岡の近所に、調達庁の仕事をしていた人物が住んでおり、その人が「ずっと前から、ここは拡張になるという風評を流して」、宮岡に対しても、色々な木を植えておけば土地を売る時に高くなる、などと言っていたという。

農地改革補助員としての「正直」や公正を尊ぶ姿勢、また基地拡張に便乗して金を儲けようとする連中に対する苦々しい思いが、宮岡の「徹底的に反対」を貫く決意につながっていることがうかがえる。

宮岡は、砂川村はもともと政争の厳しいところだった、とくり返し述べている。大きな行政区で東西に細長い集落だったため、一つにまとまるということが大変だった。富国強兵をめざす義務教育が始まったときも、最初の学区制で小学校が二つ建設されたのだという。


戦後は、勤労者が増え労働組合や社会党の活動も活発になった。そのことは、砂川に町制が敷かれて翌1955年に初の町長選挙が行われた際の経緯にも、反映されている。

宮岡によれば、地元の社会党支持者が宮崎伝左衛門をかつぎ出し、“宮伝”新町長が誕生した。そしてその直後に米軍基地拡張計画が伝えられて、ただちに反対同盟が結成された。担ぎ出された宮伝も逃げるわけにはいかなくなって、基地闘争の先頭に立った。

“宮伝”支持をとおして、「砂川にある革新系のものが作られていた。それが大きな支配をした」という宮岡の言葉は、意味深長である。


かつて村会議員だった宮伝は、宮岡を跡目にしようとして「なんとか抱き込もうとしたけれど」宮岡は応じなかった。それが、基地拡張反対で共闘することになった。
その後、条件派が多くなり町ぐるみの反対運動はくずれていくのだが、宮岡はそのこと自体には触れず、「地域の人々は権力に弱い」と指摘する。昔から「陰でボスがあやつってうまいことをするのがいやで仕方なかった」。基地問題に関しても、「高く売りつけるために反対運動を利用しようとする者もいる」ことを知り、また戦争中に「軍隊内部のいやらしさも知ってしまった」。「そういう世の中の内幕がわかってきた」宮岡にとっては、宮伝町長も「どちらかというと権力者」だった。反対運動の内部にあっても「何とか行政の権力を握ってうまくやろうという」者と、宮岡のように「それを警戒して抵抗する」者とがいた。「自由民権という三多摩の風土は失われて」「都会の刺激や資本主義の真髄が入ってきて、それを目標に動いている人が多い」、と宮岡は嘆いていたのだ。


歴史ある農家の16代目を継がなければならないという宿命、押しつけられた生活の重荷――本当は幸せではないと感じていた宮岡は、「自由というものが正しいし、幸せだ」と思う。「一人ひとりの人格を大事にしてここに残っている人は、それを貫いている」。そこに「自分たちの生きる道があった」。「今残っているのは、みんな底辺の虐げられた人だけ」だった。

その一人として、宮岡が「あの人には本当に頭が下がる」と、特に敬意を込めて語るのが栗原ムラのことである。夫婦そろってまじめで、伯父からもらった土地なんだから「私には売れないと頑張り抜いた。そういう人だけが残った。本当に幸せだった」という言葉には、とりわけ実感がこもっている。

【後半に続く】

 

「条件派」「反対派」の分裂だけでなく、最後まで反対を掲げた人々の間にも複雑な人間関係や意見・感情の相違がありえたことは想像に難くない。それでも1956年には、拡張予定地の測量を中止に追い込み、1968年には米軍が滑走路延長計画そのものの中止を発表するに至った。

本稿後半では、三里塚との連帯および相違、宮岡にとっての「砂川闘争」の歴史的意味づけなどについて紹介する。