昨2023年11月から、「記憶と記録」をテーマとして、戦後の反基地運動をふりかえる回想記事の紹介シリーズを開始しました。

その第1回は、元社会党員の仲井富(なかい・あつし)さんが書いた「砂川闘争から半世紀」と題する記事の前半でした。

戦後の反基地運動再訪――「砂川闘争」回想記事(1) | 砂川平和ひろば Sunagawa Heiwa Hiroba (ameblo.jp)

 

自らも参加した、米軍立川基地拡張に反対する「砂川闘争」の記憶と、後に砂川を再訪して反対同盟副行動隊長・宮岡政雄さんと妻キヌコさんに会ったときの回想が、感慨深く綴られた記事でした。

 

それに続く今回は、同じく2007年の『月刊むすぶ』に掲載された同タイトル「砂川闘争から半世紀」の(2)を紹介します。

「砂川闘争」初期の支援団体内部の問題などが、具体的かつ多面的に記された貴重な記録です。

 

従来の「砂川闘争」をめぐる言説には、体をはって農地を守ろうとした農民・地元民と彼らを支援した労組員・学生らの共闘による成功物語、という結果論的な印象がぬぐえません。しかし、当事者による記録や回想記、それらにもとづく研究などを少しでも読み始めると、より複雑な過程が見えてきます。時間の経過とともに、闘う主体の意識も関係性も、当然のことながら変化していったことが理解できるのです。

 

その点に留意しながら、仲井さんの記事内容を、時系列的に再構成して要約してみます。

〔以下、敬称略。小見出しを含む「  」内の語句は、すべて仲井さんの記事からの引用。〕

 

 

 

住民運動再訪 連載③ ひと・ことば 宮岡政雄

 

砂川闘争から半世紀(2)

 

仲井 富

 

『月刊 むすぶ』2007年3月 No.434

 

 

「砂川町は、当初は労組の支援申し出にもためらいを見せた」

 

1955年5月6日に、砂川町で基地拡張反対同盟が結成され、町長や町議会に対して「拡張反対・土地立入拒否」を求める要請が出された。町議会は全員一致で基地拡張反対を決議し、全町議および町内の各種団体の役員も、次々と闘争委員になった。反対同盟はまた、東京都や国会、政府に陳情を行い、反対の意志を固めていった。

しかし1955年6月18日に、立川基地拡張絶対反対町民総決起集会が開かれたとき、「初参加した三多摩地区労に対して、目印に赤旗一本だけという条件をつけた」という。「それほど保守色の強い町だった」のである。

 

左翼政党に対してはどうだったのだろうか。

1955年は、左右二派に分かれていた社会党が10月に統一され、続いて11月に保守合同で自由民主党が結成され、いわゆる55年体制という政党政治の枠組みが決まる節目の年だった。一方、敗戦直後の一時期に躍進した共産党は、路線をめぐる分裂などの混乱から大衆運動への影響力を失っていた。

 

砂川の現地では、早くも1955年7月のうちに、東京調達局が砂川町民に対する説得や条件の提示を始め、それを受け入れる条件派の動きも活発になっていた。

9月に入ると、調達庁は土地測量を強行すると発表し、実際に9月13日には、強制測量が行われて、初の杭が打たれた。翌14日には機動隊が出動して、強制測量を阻止しようとする地元民と支援労組員に100名以上の負傷者が出た。検束者も30名に達した。

そんな事態に達したことを受けて、政府と社会党との間で打開策が話し合われたらしい。

 

 

「1955年11月5日の夜に、社会党から政府に対してなされた所謂「冷却期間提案」」

仲井は、そのような提案に関して「背景は定かではない」と言うが、「しかし総評筋からの提案がなければ一ヶ月前の10月13日に統一したばかりの社会党執行部が独断で出来るような話ではない」と見る。

また宮岡政雄の著書『砂川闘争の記録』から、次のような宮岡の判断を引用している。

「警官も出さないが労組も出すなということだったらしい。表面はそうだが、実は労組に現地動員をさせないことが狙いであったろうと思われる」。

 

また星紀一編集による『砂川闘争50年――それぞれの思い』から、砂川弁護団の久保田昭夫の発言が引用されている。

「総評は「兵を出さないから、警官も出すな」という申入れをしたんです。……地元は政府への申入れを聞いて、社会党が我々を見捨てたといって、大変な騒ぎとなったんです。……「俺たちを裏切るのか」とつるし上げにあいました」〔……部分の中略は、本ブログ筆者による。以下同様〕

 

 

「かくして56年秋、砂川現地に三千名動員を呼号して全学連が登場することになった」

当初は労組の赤旗が持ち込まれるのを嫌うほど保守色の強かった砂川も、「1年後には労働組合はもとより全学連参加も強く求めるという変貌。ひとえに国家権力との闘いは容易ならざるものだとの実感が次第に高まったからだろう」と、仲井は書いている。

 

より具体的な「当時のいきさつ」については、前掲書『砂川闘争50年』から、元全学連中執の森田実の言葉が引用されている。

「反対同盟の青木市五郎さんと、清水幾太郎さん、高野実(元総評事務局長)の三人から、私に連絡があり……「学生に手伝ってもらいたい、全学連に運動に参加してもらいたい」と言われ、「良いんですか、過激だと言われている全学連が運動に参加して良いんですか」と言うと、青木さんが「是非頼みたい、それは前年、総評とか社会党が支援してくれたのだが、途中で勝手に去って行ったんだ」

 

 

「労組側も、全学連参加に遅れをとるわけにはいかない」

「社会党、総評の体制も前年に比較して強力になった。総評としては前年〔1955〕に、長年の高野実事務局長の体制を打倒して、岩井章事務局長になった」

そのような変化のなかで、岩井新局長は「高野グループから「日和見」との突き上げを避けるためにも砂川闘争を見捨てるわけにはいかないという政治的理由もあったろう」と、仲井は推察する。

 

仲井富は、1955年10月に統一した社会党の青年部事務局長の肩書で、「実際の書記局配置では軍事基地委員会に配属され……一書記として雑用すべてをすることになった」。1955年秋から砂川に入ったものの、当初は「なにもわからぬまま右往左往しただけだった」が、2年目の1956年からは、「砂川だけでなく小牧基地や茨城県神池自衛隊基地などにも参加、さらに防衛庁や調達庁などへの申入れや抗議行動に世話係として走り回った」のである。

 

 

「本当の基地闘争体験が始まる」

こうして仲井は、「1956年9月18日の砂川現地での闘争戦術会議などにも出席」、同月21日の総評幹事会では「砂川基地拡張反対闘争支援計画を決定、測量予定日には三千名以上の動員を決定」した。その日の仲井の日記には次のように書いたという。

「〔社会〕党本部へ総評、岩井、太田、今野氏が訪れる。党の取り組みの不足を追及。議員団百名を現地に参加させよとの事、喜ぶべき申入れである」

この日記をふりかえって、仲井は「全学連三千名動員というインパクトが労組側も真剣にさせたと」のだと、あらためて確信する。

 

 

「砂川町役場で「砂川支援団体連絡会議」が結成された」

1956年9月26日、「はじめて社会党・総評勢力と全学連、護憲連合、基地問題文化人懇談会、日本平和委員会など、十六団体がまとまって戦う体制が発足した」のである。

仲井自身、偶々三鷹市に住めるようになって、「砂川闘争」最大の山場となる1956年9月には「立川駅経由で通う」のに絶好の条件が整った。

 

亀井文夫総編集による『流血の記録 砂川』に記録されたような1956年10月13日の「激突」の背景には、上記のような経過があった。「胸迫る砂川の悲劇の真相を描写した」この長編記録映画は、仲井にとって「これに勝る砂川の闘争記録はない」といえる作品だった。

「ここには新しく到着した全学連部隊と地元住民との交流、殺到する調達庁と警官隊の測量を先頭に立って10月5日から阻止し続けた数十人の社会党国会議員の活躍、激突の日の労働者学生と警官隊の表情、警棒で押し捲る警官隊、警官隊の前面に座り込みうちわ太鼓を叩く日本山妙法寺の西本敦上人ら。それに対しても容赦なく警棒を振って殺到する警官隊、つぎつぎに担ぎ出される負傷者たち……」

仲井自身、警官隊にごぼう抜きにされ、強烈な足払いを食わされて「雨で泥んこになった畑に顔面を叩きつけられた」。

警官隊の暴力で千名近い負傷者が出て、入院するほどの重症者もいた。

 

 

「ここまできたら引けない。断固一万人動員でたたかうべし」

同夜の雰囲気は惨憺たるものだった。雨に濡れたまま社会党総評の戦術会議が開かれたとき、「和戦両様の議論があった」という。

結局、労組出身の左派議員ではなく、左右を問わず戦前の無産運動を経験してきた議員たちが、地元民の意を受けて、「一万人動員」を主張したことが「決定打となって、政府は翌日からの強制測量を中止せざるを得なかった」。


拡張予定地だった農地の測量は中止されたが、基地内に土地を所有する農家が、その農地の返還を求めて、基地内測量に反対する闘いは続いた。1957年7月8日に、反対闘争中の学生らが、フェンスを倒して基地内に数メートル足を踏み入れたことで起こった「砂川事件」についても、仲井は同じような意義を認める。

「基地内に入った学生たちは後に起訴されたが、刑事特別法は憲法違反といういわゆる「伊達判決」を導き出す引き金になった」からである。

 

それらの経験に照らして、仲井は「肝心なときに大切なのは左右でもイデオロギーでもなく人間の肝だなと痛感した」。

この記事の最後で1980年に再会したときの宮岡政雄を回想して、仲井は次のように書いた。

「別れ際に脳溢血でリハビリ中の宮岡さんがいわれた。「仲井さん、今畑を歩いてリハビリしています。畑の土の上が柔らかくていちばん身体にいい…・・・」 

そこに真の「百姓」魂を感じたのである。

 

 

↑仲井富さんから提供された『月刊むすぶ』の記事コピー

(同誌のバックナンバーは、以下のサイトで購入可能)

ロシナンテ社 (big.or.jp)