「8月」にちなんだ戦争の「記憶と記録」として 8月15日に

土屋源太郎さんのお話を採録しました。

土屋源太郎「戦争の時代」を語る | 砂川平和ひろば Sunagawa Heiwa Hiroba (ameblo.jp)

 

それに続いて

宮岡政雄さんが残した「私の履歴書」と題する手書き原稿から

台湾での軍隊生活について綴った部分を 紹介します。

 

 

宮岡さんが 台湾で従軍中につけていた日記をもとに 

後年 自ら書き改めたもので

1944[昭和19]年10月26日の「高雄港上陸」から

翌1945年12月24日に現地を去って 長旅の末に砂川の自宅に帰りつくまでの

1年2ヶ月にわたる記録です。

これもまた 砂川で米軍基地拡張反対運動を経験した後に

宮岡さんがふり返った 闘争前史の一部といえるでしょう。

今回は その前半部分を 以下に掲載します。

 

縦書き原稿を横書きに入力したための便宜上、漢数字を算用数字に変えたり

また読みやすくするために 漢字表記や送り仮名も現在の慣例に従う形で修正したりしました。

不明箇所など 必要に応じて加筆した部分は〔  〕で示してあります。

 

 

  「高雄港上陸」から「選考上等兵の選に落ちる」まで

 

高雄港上陸 昭和19〔1944〕年

10月26日入港 この日から昭和20〔1945〕年7月22日迄の日記を書き残していたので 台湾での警備と任務は此のメモを基に記す。

入港の翌日 高雄市郊外の専修工業学校が我々の宿舎にあてられ、東京を出る時に部隊から背負ってきた重みを又各自の肩に背負うのだが、この重みを背負うもの自身だけに頼る重みで 歩兵部隊が戦争でいやでも味わう 各自の力の単位でになうものだ。
当時ここはフィリピン派遣の中継点で 戦況が既にこれ以上の航行を困難にしていた。ここには 一月末に部隊が全滅する迄3ヶ月とどまり 勤務は資材を搬出する仮務であって 高雄から南方面への資材を船に積込む作業が行われた。

10月入港時に高雄港は既に爆撃の被害を負っていた。港の倉庫は爆弾が落とされていた。内地では砂糖がみられなかった。が ここの倉庫には砂糖がたくさん被害を受けていた。民間人がはいれない倉庫で 被害のまま放置されていたのは誰の目にも映った。甘味に相異なかった。

専修工業宿舎爆撃部隊解散

昭和19年11月2日は空襲もなく 港の資材運搬作業が多く 時には慰問もあって原隊での教育中より軍規も幾分ゆるみ、階級的にも隊長と下士官三名で中隊を編成しているので大変精神的に気が落ちつけた。

12月21日 部隊の約半数の人が一等兵に進級した。一階級進級が如何に大変だかということが日記に記されていた。残りの半数は一ヶ月遅れで進級した。
年が改まると1月3日には 早々と空襲を受けた。付近の高射砲隊が一勢に射撃開始 高雄市上空が空中戦場となった。その後空襲警報は毎日あり、戦況は益々悪くなった。21日には激しい焼夷弾攻撃を受け,何となく部隊が目標になってきた。

その後 連日の攻撃で兵隊が疲れ 起床時間も8時に延ばされたと 日記に記されている。この様子は 大変な攻撃を部隊が受けていることをあらわしている。
ついに1月25日 雨宮隊の宿舎に爆弾が投下され 一瞬に大火災となり 行方不明者34、5名を出した。空襲下で何も出来ない。夜に入り再び 残る大森、向井両隊の宿舎に攻撃を受け 大森隊の一小隊は90名が20名位になる程の死者を出した。

小池部隊長殉職

昨25日 一晩中の集中攻撃を受けた。攻撃が終るのをまって、部隊では26日 戦死者運びをし 祭壇を作り英霊を安置し 午后2時30分空襲警報解除 一同待避壕から出たその時 部隊長は英霊の祭壇の前で剣銃で自刃した。常日頃から謹厳な性格に見受けられ軍規が厳しい部隊長には 今回の部隊の被害が甚大な事の責任のつぐないと思うと 日頃の謹厳そうな人柄が、何か胸を打つものがある。当時の日記には記しながらも、自分では、何としても生きぬき家族と共に暮らしたいと、次項には記されていた。

次の日は高射砲陣地の構築。夜になって英霊を火葬場に送り出した。宿舎であった専修学校は全部焼失したので壕での寄宿が始まる。次の日には部隊の移動命令を受け各部隊が轉属となった。向井、雨宮両隊は澎湖島へ 大森隊は金沢第七聯隊を原隊とする部隊も数多くの戦死者を出して 部隊は解散することになった。

台湾上陸以来満3ヶ月 初めて軍隊生活六ヶ月半、お互いに明日の命の知れない生活を共に過ごして来た人達が ここで別れることになった。この六ヶ月は大勢の人間が命令によって自由にあやつられて来た。

二ヶ月前に初めてこの部隊から戦死者を出した。この方は病気で何の看護も受けることなく、家庭と離れたまま、埋葬された。みじめさは言葉にならない、気の毒さで全て、全てのこれを味わった戦友は なんとしても丈夫で生きながらえることを念じたであろう。
だが、戦争はそれを許さず一ヶ月後の今は百数十人戦友が無惨な状態で亡くなっていた。この悲惨な出来事を最後に またその人達と別れていく。
この先に何があるのか?今日迄は輸送中の部隊として 兵隊は全て階級は同じで 指揮は全部で将来〔将校のことか?〕5人 下士官が10人、兵20人という編成で 階級的な気苦労は少なかった。これから務める部隊は、と思うとまた気が重かった。

中壢郡八塊庄*へ移る 

*〔漢字「壢」は日記中では略字で書かれているが、「中壢郡」は日本統治時代の台湾に実在した行政区画の一つ。新竹州に属し、歴代群守は、台湾総督府の日本人官僚が務めた。
現在の地図では、桃園市中壢区、楊梅区、平鎮区、新屋区、観音区に当たる。
「中壢駅」は現存し、台湾桃園市中壢区にある台湾鉄路管理局縦貫線の駅〕


1月31日高雄駅午前6時18分の列車で中壢駅に午后六時着いた。この日は台湾の現地人が初めての入隊のため 通過駅はどこも見送り人で雑踏していた。中壢から次の任地八塊庄へ行軍。真夜中に宿舎についた。
部隊本部は中壢にあった。ここでの任務は 山に登って林木を切り出す使役でした。台湾も2月は雨が多く 夏服で雨にぬれての毎日は非常に寒かった。標高も高い所で 2月中 毎日雨の日が続いた。

2月25日 中隊復帰の命令を受け 雨の中の材木切り出し作業も交代となった。ここでは連日の雨と寒さで困難な毎日を過ごした。轉属後始めて部隊に入る。1月30日第七聯隊に轉入しただちに出張先勤務で 一ヶ月ぶりにこの日 部隊本部に入った。

新竹州の楊梅が本部の所在地で 轉属申告を行い中隊の任地新屋に向い 籍の在る中隊の指揮に入った。地方の部隊にはその地方の人柄があり 石川県人の多い部隊に東京の私が入ることは 何となく体臭の違いを感じさせた。一般兵は日常生活が同じなので感化が早いが 下士官以上の幹部には常に部外者の扱いをまぬかれない。そうした取扱いは出張が大変多かったが、長い軍隊生活の中にはこうした立場の者は常に部隊の裏側に置かれていた。

今後の私の勤務も出張が多く命ぜられた。私にとって日常勤務は 幹部の少ない使役の出張勤務の方が 気がらくで勤め易かった。もしこれが後方の警備を任務としたものでなく 仮に敵と対峙した最前線の場合であれば 常に危険な任務はこうした他の地方から轉属した者が命令を受ける立場が多いのが日本の軍務の 常にある宿命であった。たとえに軍隊を運隊と語るところも この辺を指した言葉である。

竹材運搬作業出張

原隊の勤務わずか2週間でまた出張命令が出された。例によって申告のため楊梅の部隊本部に集合した。この時 砂川村から同じ部隊の幹部として二部隊以来の戦友で下士官の中野伍長も来ていたが 彼もまた東京の人で 轉属要員で、この日同じ様に本部に見え 沖縄への轉属だと 顔を合せた。高雄以来一ヶ月ぶりで懐かしかった。
軍隊の命令はいつもこうして運命の定めをおっていた。今後会う日はふる里で、と互いに武運を祈った。

これから竹材の運搬作業に苗栗郡に向かい また一ヶ月を苗栗で過す。ここは郡役所のある町で内地人の方が住まれていて大変世話になった。出張先は作業班なので軍規の取締が幾分ゆるやかで 地方の方々ともお会いできて内地の勤務の様な気がした。

内地の方も警察官と郡役所に勤める方と学校の先生で、知識人が多く、日曜日には小学生が自分の作品を持って慰問に来て交流の日も作られた。奥様達も良く気を使って頂いた。
当時は男の方は現地で召集を受けている人が多かったので 更に兵隊の事に気を使ってくれたと思れる。当時の日記に菊池、山内、吾妻、森さんと現地人の陳瑞蘭、李弟妹氏の名前が記されている。

この頃は本土では小磯内閣が總辞職。ソ聯の中立条約放棄等々で 国中の情況も混乱していたことは私も大変心配していた様子が 日記にかかれていた。
その後鈴木貫太郎大将の組閣等 戦局は益々重大になってきた。当時街の中にも台湾への上陸を心配している人もあり 上陸地点はこの辺ではないかとささやかれてもいた。地方の人に戦争は敗けそうですと私が話すと 反対に激励されたこともこの頃であった。ここの人達も敗戦は当時予想していなかった。この勤務も5月15日で終り 引上げた。

七聯隊へ轉属以来 出張勤務が多かったが 以後は戦局が出張を許さず、海岸防備の陣地構築に追い込まれていった。海岸の陣地構築も全てが手仕事で 現地人を勤労奉仕に動員しての作業は見るからに非能率であった。

選考上等兵の選に落ちる

5月中旬から部隊に復帰し勤務につく。6月には入隊以来の同年兵が 初めて上等兵の定期進級が行なわれた。だが私は落された。
六月になるとこうした田舎にも各地に爆撃を受けた。東京からの戦友が また二人爆死した。この頃から部隊宿舎の分散が計られ、部隊宿舎を民家へ 部隊ごとの宿舎に分けられた。敵の上陸作戦を迎撃する体制が計られ、益々現地の人の協力が必要となった。分隊ごとの合宿になると 私たち兵士も家族的な生活が行われてくる。

その頃現地は一期作の収穫期に入った。軍では稲の収穫の手伝へはいった。ここでは農家の人達もよく歓迎してくれた。食事も御馳走になった。食器を田んぼの水で洗うので どうしても私は食べる気になれなかった。
こんな勤務が終戦迄の三ヶ月間続くが 竹材の運搬作業で出張先の栗苗街の方々からよく慰問の便りが届いた。この頃は誰一人便りのない殺伐とした野戦の毎日の生活の中へ 私のところへはよく皆さんが便りを届けて頂くので 中隊中が羨ましがった。これが軍隊の成績を落す 出張中の勤務の評価であったろう。

軍隊生活では特に地方人との交流を恐れられた。隔離された生活の社会であった。それだけに私には心の支えである。特に知人であり親戚の人だと部隊へは報告しておいた。こうした栗苗街の人達の好意で 留守家族への便もこの人達が航空便で度々行なって頂いたが、復員後帰宅したら一度も届いていなかった。当時台湾で想像した以上に内地の戦況は悪かった。

私は戦地台湾での軍隊の成績は まず中位に評価されていた。私はその2ヶ月後に上等兵に進級した。その時は既に終戦の迫った時であった。私の上等兵は日本陸軍の解体につらなった上等な兵ではなく悪兵であった。

一方現地人の六月は 静かな日ともなると塩をくむ人達が海岸に出て塩の基の水をくむ姿はなんとものどかでした。内地は専売で 塩は専売であるのに、この人達の自然の中で塩が造られ自然に自活が出来る。一体この人達には日本語は通じない。塩の専売も関係ない。この戦争に勝ったらこの地にいつの日に電燈がともるだろうか?と思われたことは当時の事であった。

【後半 「敵の上陸迫る」から「列車にて帰宅」までは 8月23日に投稿予定】