すこれまでも、1950年代の「砂川闘争」とほぼ同時期に展開された反基地運動について、いくつかの記事を紹介しました。

 

反基地運動の戦後史ーー「九十九里浜闘争」 | 砂川平和ひろば Sunagawa Heiwa Hiroba (ameblo.jp)

 

反基地運動の戦後史――「内灘闘争」 | 砂川平和ひろば Sunagawa Heiwa Hiroba (ameblo.jp)

 

反基地運動の戦後史――「新潟飛行場反対期成同盟」 | 砂川平和ひろば Sunagawa Heiwa Hiroba (ameblo.jp)

 

それらは闘争終結後に書かれた記事であったとしても、当時の活動家またはジャーナリスト・研究者が書いた、同時代のレポートであり運動分析でした。

 

今回は、1955年秋から「砂川闘争」に関わった元社会党員・仲井富(なかい・あつし)さんが、後年書いた回想記事を紹介します。

 

仲井富さんは二十代の若さで、社会党本部の書記として砂川に赴きました。三鷹市に住んでいた友人の部屋に寝泊まりしたり、現地に泊まり込んだりして、砂川の人々を支援し、地元の企画会議に参加しながら人員や宿泊先などの手配をしたそうです。

 

しかし1956年10月13日夜、翌日の大量動員を前に防衛庁・調達庁が「測量中止」を決定すると、仲井さんは1957年以降、社会党青年部長として全国的な闘争の中心に身をおくようになりました。全学連や総評青年対策部、青年学生共闘会議などを中心とした、勤務評定・警職法反対闘争、そして60年安保闘争へと、国民的運動の高まりのなかで多忙を極めたのです。

 

1970年からは、社会党本部を辞めて公害問題研究会を発足させ、全国の住民運動の現場に足を運びました。そして1980年、その中間報告の意味を込めて『月刊総評』に連載記事を書くことになり、仲井さん自身の運動経験の原点である「砂川闘争」の生き証人として宮岡正雄さんを訪ねた、と言います。

 

その時の記事「連載 わが戦後史と住民運動 第七回 

立川米軍基地反対運動 砂川町基地拡張反対同盟の宮岡政雄さんにきく」

などが、国会図書館の電子アーカイブに所蔵されています。

 

月刊総評 (277) - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)

日本労働組合総評議会 編『月刊総評』(277),日本労働組合総評議会,1981-01. 

国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2226741 (参照 2023-11-29)

 

この記事は、以下の小見出しのもとに、仲井富さんが宮岡夫妻を訪ねてインタビューした内容を採録しています。

・肌で感じた自由民権の思想

・基地拡張反対運動のはじまり

・親類縁者の系列で幅広く

・権力に弱い地域の人たち

・頑張り抜いた栗原ムラさん

・個人の尊重と非暴力主義

・三里塚闘争との連帯

・大衆の中にいたかつての社会党

・権力者への抵抗が基本だ

・百姓やりながらの25年間

・二代目団結じいさんも70歳

・改憲阻止の住民運動をおこす

 

その後2007年に、同様の連載企画が『月刊むすぶ』で始まりました。

第一回「老いは未知との出会ひ」は、仲井さんが前年(2006)に田中正造の墓参りに行った話から始まります。足尾鉱毒事件の舞台となった谷中村(現栃木県藤岡町)が、廃村から百年を迎えた年でした。

それに続く第二回が

「住民運動再訪 連載 ひと・ことば 宮岡政雄 砂川闘争から半世紀」

と題する記事でした。

 

その『月刊むすぶ』に掲載された一連の記事のなかから、いくつかを数回に分けて紹介します。

まずは、宮岡政雄さん亡き後、彼の著書『砂川闘争の記録』が再刊されたことを知った仲井さんが、砂川を再訪した際の回想記です〔以下、敬称略〕。

 

 

住民運動再訪 連載② ひと・ことば 宮岡政雄

 

砂川闘争から半世紀

仲井 富

 

『月刊 むすぶ』2007年2月 No.433

 

仲井富が、前述の『月刊総評』掲載の「わが戦後史と住民運動」という連載記事を始めて、久しぶりに砂川に行ったのは、1980年のことだった。その2年前に脳卒中で倒れた宮岡政雄は、ようやく再起したばかりだったが、仲井のことを覚えていて喜んでくれたという。

それから25年ぶりの再訪で、仲井は73歳の老人になっていた。「砂川町にはほぼ昔の面影はない」。バスを降りて近くの郵便局で宮岡宅を尋ねたが、個人情報保護のため教えられない、と言われた。

 

地元の地図を頼りに探し当てた宮岡家では、健在だった妻の宮岡キヌ子と次女の福島京子に温かく迎えられた。

仲井は25年前の宮岡政雄の言葉を思い出す。

「55年ころの社会党は口とやることとが一致していた」

「砂川が言い続けてきたことは、自分の土地を守りたいということだけではない。二度と軍事基地になる戦争はいやだということで、そのためには平和憲法を守らなければならない」

「これからの民主主義というのは地域住民の民主主義をもっと大切にしながら、地域の人たちが政治の選択をどうして行くかが大切だ」

 

砂川現地オルグとして最も早く1955年夏から砂川に入っていた藤田高は、同年9月と11月の2回「大きな危機があった」と語っていたという。9月13日に初の杭が打たれたが、その夜の集会で青木市五郎行動隊長は「土地に杭は打たれても、心に杭は打たれない」と発言。大量の警官が導入され、翌14日の激突で検束者27名〔宮岡『砂川闘争の記録』年表によると30名〕に達し、副行動隊長だった宮岡政雄ら13名が逮捕された。

「これ以上の実力阻止は無理だから条件闘争で進もう」という動きが一気に顕在化し、「以後、公然たる切り崩しと脱落が始まる」のである。

 

2回目の危機は約1ヶ月後、1955年11月5日の強制測量から始まった。警視庁警官隊1450名に守られての強制測量で、負傷者約100名、逮捕者3名を出した。

仲井はこのとき初めて「砂川闘争」に参加し、日記に次のように書いたという。

「警官隊に殴られ蹴られた。体中がズキズキ痛む。うなりながら書いている。思い出すたびに歯ぎしりしたくなる。口惜しい。砂川町では女も子供も警官隊と戦った。踏み荒らされ白い肌を見せる甘藷畑、芽生えたばかりの麦が、踏みつけられていく。おれは涙がこぼれた。三名の同志……は砂川に住み込んで頑張っている」。

 

この夜、社会党の加藤勘十軍事基地対策委員長らは、西田労相・福島調達庁長官を訪ね、話し合いで事態の解決をはかりたいとして、政府は当分の間強制測量を中止してもらいたいと申し入れた。

労組側も一時的に動員を中止し、社会党も現地オルグ団を引き上げを決めた。しかし、砂川に常駐していた前述の藤田高らはこれに承服せず、ついに社会党との関係が切れることになった。彼ら3名は「砂川の反対同盟に身柄を預ける形となり、宮岡の自宅に寝泊まりして農業を手伝ったり、街頭カンパ、労組の集会などの世話役をすることになった」という。「最終的には所属していた社会党新宿支部の常任書記をクビになった」のである。

 

実際には、社会党・総評が労働者の動員を見合わせたにもかかわらず、政府側は、警官を動員しない・西田労相が直接現地に出向いて解決をはかる、という社会党側の提案を正式に拒否した。

1955年11月9日、藤田高らは砂川に残り続けていたが、政府側は「手薄な動員体制の空白を衝いて、警官隊500人を現地付近に待機させ、測量班は警官約200名に守られて一気に予定していた約2万坪の第一次測量を終わらせた」。

 

同年11月10日の『朝日新聞』夕刊には次のような見出しが出た。

「抵抗微々、測量はかどる、消えた組合旗」

「岐路に立つ砂川町、総評と社会党、笛を吹いたが逃げる」

「福島調達庁長官は……「逃げたがっている総評に花道をわざわざ作ってやる必要はない」とまで極言している」と書かれたという。

 

<つづく>

 

↑仲井富さんから提供された『月刊むすぶ』の記事コピー

(同誌のバックナンバーは、以下のサイトで購入可能)

ロシナンテ社 (big.or.jp)