「砂川平和ひろば」は、内外の研究者が砂川現地を訪れて立ち寄れる資料館であり、また研究者同士が出会い交流の始まる場ともなっています。
かつての運動家や若手の研究者から学ぶことも多く、このブログをとおして、それらの成果を記録し保存する作業も始めたいと思います。
すでに何度か紹介したアメリカの研究者ダスティン・ライトDustin Wright さんからは、日本の反基地闘争について色々ご教示いただいてきました。おかげで、砂川闘争以前にもかなり大規模な反基地闘争があり、それについての雑誌記事や論文などが残存していることもわかりました。

そのうちの一つが、「九十九里浜闘争」です。
一般にはあまり知られていませんが、現在ネット上では、敗戦後まもない時期のこの闘争について、以下のような記述があります。
・1948年、千葉県の九十九里浜一帯がGHQに接収され、在日米軍の実弾演習場にされた
・それに対して漁民を中心とした反対運動が起こった
・その運動は、封建的な「網元・親方制度」に対する労働争議としても発展した


九十九里浜闘争 - Wikipedia

米軍の射撃訓練開始に伴い、前年の1947年には、九十九里浜航行禁止区域が設定されたことや、隣接する民有地など26万8千坪(約90ヘクタール)の土地が、米軍の陸上基地「キャンプ・カタカイ」として接収されたことなども記されています。朝鮮戦争が勃発した翌年、1951年には、演習強化のためにさらに8万ヤードの海面が接収されて、九十九里の全漁場が演習地となったといいます。
地元民から「ドカン」と呼ばれた射撃音は深刻な騒音問題となり、射撃時の振動被害も大きく、漁場を奪われた漁民と静かな海辺の生活を奪われた住民は、漁業権の補償交渉や「基地反対・撤去」を求める運動を開始しました。


しかし1950年2月21日の反対行動に対して、占領当局はこの住民運動を「共産主義者に扇動された」ものとみなし、翌日にはCIC(対敵諜報部隊)による追及を始めました。そして、地元の日本共産党片貝細胞の党員9人を逮捕し、「占領目的を阻害する行為」などの理由で、米軍の軍事法廷にかけました。


同年、日本共産党中央委員会理論政治誌『前衛』5月号には、「「九十九里濱事件の教訓」と題する論考が掲載されました。「九十九里浜事件」の被告の一人による記名記事です。

また、それから5年後、日本社会党・総評系の雑誌『社会主義』は、1955年11月号に「九十九里浜の‟フカ”」と題する記事を掲載しました。


九十九里浜闘争は、サンフランシスコ講和前――つまり日本がまだ戦後の独立を果たしておらずGHQの占領下にあった時期に、漁民を中心とし共産党の支援を受けた住民運動でした。戦後GHQによって解放された日本共産党が絶大な影響力をもっていた時代から一転、占領政策が「逆コース」をたどるレッドパージ(共産党員の公職追放)と朝鮮戦争の時代へと移る時期に、房総半島で起こった米軍基地反対運動が、全国の注目を集めたのです。


以下、1950年代の二大左翼政党が、戦後の反基地闘争の端緒をどのようにとらえていたかを参考にしながら、その後の基地闘争にも通じる問題点を中心にまとめてみます。

 

「  」内の文章は原文からの引用ですが、漢字・仮名遣いなどは、現代風に書き替えて表記します。

〔  〕内の既述は、本ブログ筆者が必要に応じて加筆したものです。

 




 

 

1「九十九里濱事件の教訓」

奥野邦比古 

『前衛』(通号50)1950年7月 p50-55 

 


◆基地被害の実態

「戦時中、九十九里浜一帯は、米軍の敵前上陸地点として注目され、頑強な防衛陣地が構築されていたところ」だった。「戦争が終りに近づくにつれて、たえまなく来襲する艦載機の攻撃の的」でもあり、当時、「この海岸一帯の農漁民は、食うものも食わず、陣地構築の為に、強制労働にかり出され、辛苦をなめさせられてきた」。
戦後、占領軍が進駐し、九十九里に再び砲声がとどろき始めると、漁獲高が激減した。その被害は千葉県下の太平洋岸ほぼ全域に及び、多くの網本や加工業が転業・廃業した。
たとえば九十九里のイワシ漁は、戦前1936年には千葉県の総水産高の70%を占めるほどあった(6800万貫=25万5000トン)が、米軍が駐留するようになった1948年には1/34(200万貫=7500トン)に激減した。


漁民は、布団すらも売り払うほどに困窮し、単身で他に職を求めたり、親や子を奉公に出したりもした。そのような悲惨な状態を打破すべく、地元の共産党は、損害の国家補償を求めて具体的な要求を掲げて闘った。同党の片貝細胞が、1950年2月21日の「国際反植民地闘争デー」を主催するにあたって、片貝・豊海の町じゅうの電信柱に、次のような川柳ポスターを貼って、宣伝活動としたという。


「ドカンでは、ジャミ(小イワシ)もよらない九十九里」
「ひかれても泣き寝入りする軍事基地」
「戦争はもうたくさんと耳ふさぐ」
「鶏も卵を生まぬ軍事基地」


◆基地の町の空気

そして「国際反植民地闘争デー」の翌日から、官憲の取り調べが始まった。続いて呼び出しが来た。「網元、町有力者等は、それ以来、堅く口をとざして、漁獲減の主原因がなんであるかということを口に出さなくなった。ブルジョア新聞さえが、演習による不漁をデカデカとのせても、潮流異変であるとしか言わなくなった」のである。
日本共産党が国家補償要求の署名運動を呼びかけると、「党地区委員会の申入れを受けた山武郡市町村会は、損害の国家補償を決議した」。しかし、地元の網元は先手を打ち、自由党代議士や県議を動かして、地挽、小型漁および加工業者の転換資金7億3400万円の融資を請願させて対抗した。


◆支援の拡がりと党の内外における評価


1950年2月21日、共産党「片貝細胞主催の国際反植民地闘争デーを闘ったことが、直接の原因となり、県・地区・細胞の働き手9名が軍事裁判に起訴され」た。その報が伝わると、「全国の人民大衆は、この事件の成行きを、異常な関心をもって注目した」。「無罪請願署名運動」が始まり、被告家族や現地党機関に対する激励文」が集まった。「労働者、農民・漁民、学者・クリスチャン・宗教家までが、九十九里漁民の窮乏状態に憤慨して立ち上がった」という。


「6回にわたって開かれた公判の結果、5名は無罪、4名は1年の刑を受けたが」、起訴以来、地方政治新聞、大衆団体機関紙等で大々的に報道された。
日本共産党本部の一人からも、「軍事基地反対の闘争を大衆生活と結びつけて闘ったのは、こんどが初めて」と評価された。
また「片貝細胞が、全員失業者でありながら、協力して行商によって生活を支えながらよく活動し」「幾多の欠陥や不十分さはあった」ものの、「町権力やボス、社会党の悪質分裂主義者との闘争を発展させていく中に、半カ年にわたる大衆との結合をふかめていくための日常闘争が地道におこなわれていた」ことなども、意義をみとめられた。

 

 

 

「九十九里浜の‟フカ”」

ー「ドカンの基地」豊海射場―

段木 正視

『社会主義』(通号52)1955年11月 p60-71 

 


◆7年後の被害実態

 

この記事は、1948(昭和23)年4月9日「事前に何の通達もなく、突如として米軍が大挙駐留してからもう7年あまりになる」という時期に、書かれた。米軍高射砲の射撃場ができて以来、「安隠の中に眠っていた九十九里の一角は、米軍車輌のごうごうたる地響きと、間断なく炸裂する高射砲弾の肺腑を衝く音響、米軍の不逞な蛮行によって、一瞬にしてその様相を一変してしまった」という。

「ここの漁業形態は資本主義の嵐から一応隔離された無風地帯の中にあって、船主と船方(漁夫)と海産加工業者の三者が相互に支え合い、前近代的な近海、沿岸漁業を維持している」のだが、「終戦後、ここの漁師たちの意識は急速に高まりつつある」。

「米軍基地に抹消面からぶつかっていった共産党が軍事裁判、投獄という結末に追いやられて、一敗地にまみれてから、空虚な沈潜の谷間は今日まで続かなければならなかった」。

「海流異変によって、打ち続いた不漁に加えて、米軍の厖大な射場設定は名物”九十九里の鰯”に終止符をうつものであった」。「片貝・豊海を中心にして200万貫以上のイワシの漁獲を示したものが、25万貫以下に激減した」のである。

 

基地被害は浜辺と海上の問題だけではなかった。

「米軍の発射する砲弾の生みだす音響と振動が、日常生活に及ぼす被害の甚大さは、実際この土地に足を踏み入れ、自らの身体で経験した人でないと恐らく想像することも難しい」。

この記事では、基地から700メートルほどの至近距離にある豊海中学校やそれよりは少し離れている小学校などで、授業が妨害されるほどの騒音・振動被害が発生していることなども、詳細に記されている。200~300万円程度の補償金で防音対策が施されても、さして効果はなく、密閉した換気の悪い環境での授業は困難である。

さらに「基地にまつわりつくパンパンの悪影響」「高射砲弾の破片の落下」の不安、「米兵の乱暴な運転による自動車事故」など、枚挙にいとまがない。しかも「怯える地上の人たちを嘲笑するように、無人機は甲高い飛行音を響かせながら、朝から上空をぐるぐる飛翔」するのである。

しかも「最近、米軍に加えて自衛隊の訓練が熾烈を極めている」という。「真亀川をはさんで北側が米軍基地、南側数百メートルが自衛隊の訓練射場である」が、「この自衛隊の使用地は、旧白里町北今泉部落であって岡崎・ラスクの話し合いの中に含まれていない地域である」。

「砂浜に数十輌の自衛隊車輛が延々と一列に並び、米軍の直接指導のもとに対空射撃訓練をしているのだが、不発弾を旧川の跡や砂浜へ投棄したまま立ち去ったり、訓練だけこの土地を使って地元に何一つプラスになっていない」。

 

 

◆闘争の展開と限界

 

やがて海流が変って、多少なりとも漁獲が回復し始め「曲がりなりにも生計の見通しがつきはじめてくると、米軍射撃が大きな障害として立ちはだかっている現実に、眼を向けないわけにはいかなかった」。
地元民は、「屈辱的な講和、独立にたいしてすら」無言の期待を寄せていたが、多少縮小されても今なお残る2万2千ヤードの禁止海域は、漁業にとって大きな障害だった。「米軍は仰角70度を限度として海上に砲弾を発射しているが、禁止海域以外でも度々砲弾の破片が落下する危険があるのだ」。「禁止海域周辺で胸部に機関砲弾を受けて負傷した老機関士の例も」あったが、米軍は禁止海域内の事故であるという線を一歩もゆずらず」「保証金はもちろん、見舞金すら全く支払ってはいない」という。

 

これまでの闘争の経過や補償の実状に対しては、厳しい見方が明らかである。

「占領下における時期の闘争は、共産党の独走に終った。過激な基地闘争には因習的な空気になじんできた地元の人たちは、到底追従してゆけなかったのである。かえって闘争の先頭に立った人々に対する米軍の激しい弾圧は、その後の闘争を完全に去勢してしまったと言える」のだ。

しかし、「〔1951年のサンフランシスコ〕講和発効とともに過去の損害補償の実施要求となって爆発した」。また「講和発効に伴って、射場が移転されるものと地元の人たちはひそかに期待をよせていたが、若干条件が緩和されただけで、継続使用と決定した。

 

演習被害の最も甚大な地元豊海の町民が、「不誠実極まる外務当局の態度に激昂して、独自の立場から」町民大会を開いた。1953(昭和28)年9月27日のことだった。「今までの微温的な補償要求の態度をかなぐりすてて、はじめて基地の即時撤退をスローガンとして採択する」に至り、大会決定によって、ただちに対策委員会が組織された。

「撤退運動に狼狽した外務当局は」、ひそかに町当局を説得し「補償の線を示して撤退運動を懐柔する手段に出た」。これに対して豊海町民の対策委員会は「完全補償要求の線にきりかえて一応撤退運動を中止し被害調査資料を整え、調達庁に対して精力的な継続折衝に入った」。

 

ところがその結果「名目だけの補償金に過ぎない」ことが明らかとなり、補償の実態に憤る漁夫たちは「スズメの涙ほどの補償金など一文もいらぬ。制限のない自由な海を俺たちにかえせ」と叫ぶに至る。陸上の災害に対する補償は、もっと劣悪だった。

こうした展開に対して、この記事の筆者は、以下のように論じる。

「ここ豊海での闘いは、補償金つり上げの条件闘争であって、砂川のように土地を愛するがための闘争ではない。現在、その力点は陸上補償におかれているが、この闘いをめぐって海上陸上の間に、利害的微妙な動きがあることを見逃すことはできない」。

 

軍用車輛の往来が激しくなって道路の修復が必要になった問題について、「諸工事をめぐる不正」が指摘されていたが、海上補償についても、「船主を中心とした比較的富裕な階層」の「この辺で我慢する他ない」という態度と、「補償金はいらぬ。自由な海を返せ」と叫ぶ人々との間の乖離は大きかった。

東大生産技研の教授の調査などによって科学的資料が整い、完全補償要求の闘争は再燃したが、「補償金つり上げの条件闘争が、法律の厚い壁にぶつかって行きづまるであろう可能性は容易に想像できること」だった。

 

筆者は最後に、現在の闘争を自然発生的に放置すれば、「闘争は行政協定や、特損法の固い壁をつき破れずに終焉するであろう」との危機感を抱きながらも、「ここ豊海の闘争が、基地撤退運動の飛躍台に自らを立たせるには、他の基地闘争の偉大な教訓と、この土地の条件に合致した同志的連係をもつ革進勢力、平和勢力の働きかけが力強く、かつ精力的に積み重ねられたときにのみ約束されるであろう」と、結んでいる。

 

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その後の「九十九里浜闘争」について、先述のWikipediaには、以下のように書かれている。

 

1952年7月には千葉県議会は「射撃場撤廃に関する決議」を採択したが、1957年の段階に至っても日本政府は九十九里海岸6万坪を米軍に提供することを閣議決定した。しかし、反対運動の激しさと高射砲という戦術が時代とともに古くなったこともあり、同年5月に米軍は千葉県に「永久に射撃演習を中止する」と千葉県に通告。10月には九十九里浜は千葉県に全面的に返還された。この運動は日本で最も早い米軍基地反対運動であり、この運動がのちの内灘闘争や砂川闘争に影響を与え、運動を広げた側面もある。

返還後も九十九里浜では1960年代終わり頃まで、訓練に使われた無人機の破片や海中に投棄された軍用車両などによって、地曳き網が破損することが度々起こった。

 

九十九里浜闘争 - Wikipedia

 

上記サイトには、地元の数え歌やかるたなども紹介されているが

その「九十九里いろは かるた」の中に、次のような句がある。

ふ フカの腹より慾深い

 

本稿でとりあげた『社会主義』1955年11月の記事「九十九里浜の〝フカ”」のフカとは、条件闘争などで翌深さを露わにした既得権者への皮肉をこめたものであろうか。詳細は不明である。