天然記録 -94ページ目

https://twitter.com/DaiFit4

 

↑こちらより

縄文時代も
シュメール時代も
江戸時代も
戦国時代も
地球も宇宙も無い
DSもホワイトハットも
銀河連合もレプテリアンも無い
2025年あなたが滅亡する事は無い

 全て私(神)がこの地球ゲームが飽きないためにハラハラドキドキ

ロマンを味わえるように架空の歴史や人物が存在すると言う(てい)で

自分が創った創作物、仮想世界です。

あなた以外は何も存在して無い。

あらゆる全てが作り物。

ホログラムで周りの人達はエキストラであり

家や街並みや空や山や景色はドラマのセット(張りぼて)であり

24時間365日、あなたを中心に撮影しているあなたが主人公のドラマです。

それを見えない世界からあなたを映画鑑賞して(ガイド神)は楽しんでいるんです。

過去の歴史も歴史上の人物ナポレオンも坂本龍馬も

イエスキリストも仏陀も全て存在していた(てい)で存在して無いです。

この世界は仮想現実世界マトリックスだから

あらゆる全て100%存在して無いホログラム

シュミレーションの中だけの設定された映像です。

この真実、マトリックスから抜け出せれば

あらゆる全てのあなたに起こる様々な出来事が

滑稽で深刻に悩む必要が無いと理解出来るのです。

本当に自由になり解放されます。

全てあなた(神)が創った世界だったのです。

他は全て有ると言う(てい)の仕組みカラクリなのです。

まだこの話しをしてるのは誰もいません。

これから僕の話しをパクったり(笑)真似して

セミナーやYouTubeや本にして発売する方々が出て来るでしょう。

今はぶっ飛んだ内容で反発したり理解出来なかったり

受け入れるのが難しいかも知れませんが

多くの有名なインフルエンサーたちが発信していけば

この視点の概念が普通に受け入れられていきます。

それでいいです。

沢山の方々が目覚めて生きることが軽くなって

深刻になる事が消え去るのですから✨

 2024年5月2日(水)

 

新しい説ではない
2600年前に紐解いたのがお釈迦様

Xがブログに何日か貼れなかったけど

アドレスがtwitter.comからx.comになったからかな?

Xに登録したくないので最新は観れなくなったり

X内検索ができなくなったけど

↓は他のブログからキーワードで検索して貼りました

そもそもX=悪魔の記号らしい

疾病Xに備えるとか救世主のふりして

またパンデミック騒ぎを計画して

未知のウイルスなのに薬を今から用意してて

今度は体内に仕込み完了なので、何度でも騙される

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「生殖能力に関する研究の結果
 

イベルメクチン療法が生殖能力に悪影響を及ぼし

対照群と比較してビタミンCのみを投与した5番目のグループを除く

すべての治療グループで妊娠が阻止されることが明らかになりました

...結論として:イベルメクチンは女性の生殖効率に悪影響を及ぼします。」

「イベルメクチン治療後には

異常な形態を持つ精子も増加していることが判明しました。

これは、イベルメクチン投与前 (x 軸) と投与後 (y 軸) で

「異常」とみなされた精子の割合の散布図です。

線より上の点は、イベルメクチン投与後の異常精子の割合が高いことを示し

線より下の点は、イベルメクチン投与後の異常精子の割合が低いことを示します。」

「TanyildiziとBozkurtによるオスの羊に対する

イベルメクチンの生殖能力に関するトルコの研究でも

イベルメクチン (0.2mg/kg) を皮下注射した後

精子の運動性と濃度が大幅に低下することがわかりました。」

スモーキングガン: アフリカ/中米での大量虐殺に使用

「1974年、キッシンジャーは

ニクソン大統領の下で「世界人口行動計画」を発表した。

NSSM200は、世界人口の上限を80億人にする

という政府の残忍な秘密文書にほかなりません。

この脅威的な大量虐殺宣言は米国政府の公式政策であり

一部機密解除されました。」

イベルメクチンの大量投与

「メルク社の記事によると

メルク社はイベルメクチンの一種であるメクチザンを40億回分

貧しい国の人々に出荷したとのことです。

このプログラムは年間4億人以上の人々に提供されています。

1987年のMDP創設以来、40億個以上のメクチザン

[イベルメクチン]3mg錠剤がメルクによって流行国に出荷されてきました。」


「寄付されたイベルメクチンの総投与量は44億回を超え

メルクからイベルメクチンの寄付を受け取っている

または受け取ったことのあるすべての国のリストは次のとおりです。」

アメリカ領サモア、アンゴラ、ベナン、ブラジル、ブルキナ、ファソ、ブルンジ、カンボジア、カメルーン、中央アフリカ共和国、チャド、コロンビア、コンゴ、クック諸島、コートジボワール、コンゴ民主共和国、エクアドル、エジプト、エチオピア、フィジー、ガーナ、グアテマラ、ギニア、ガイアナ、ハイチ、インド、インドネシア、ケニア、キリバス、リベリア、マラウイ、マレーシア、マリ、マーシャル諸島、メキシコ、モザンビーク、ニジェール、ナイジェリア、ニウエ、パラオ、パプアニューギニア、セネガル、シエラレオネ、南スーダン、スリランカ、スーダン、サントメ・プリンシペ、タンザニア、タイ、東ティモール、トーゴ、ツバル、ウガンダ、バヌアツ、ベネズエラ、ベトナム、ウォリス・フツナ、イエメン

「イベルメクチン」と呼ばれる

人口削減剤によって毒殺されているこのグループと

キッシンジャーの標的国リストとの間に明らかな関連性があることがわかりますか。

(ここまで)

​巷では、VAX後遺症やガンに効く等
流布されているが、要注意

イベルメクチンの致命的な代償

神経毒性、遺伝毒性のある毒によって
引き起こされる失明、昏睡、死亡
2024/5/4・Tim Truth​​​

​+オオコウモリ イベルメクチン中毒:突然の失明、麻痺、死亡

+DNCの数百人の昏睡患者がイベルメクチンの受動報告システムに報告​
イベルメクチン治療後に報告された重篤な副作用

594件の昏睡状態
235件の重度の頭痛
13件の麻痺
476件の神経系統のダメージ

+イベルメクチンの重篤な有害事象の分析
年齢層別の報告数の分布で、ピークは15-30歳と30-45歳です。
症状の上位10位は、起立または歩行の困難または不能、発熱、頭痛
全身性筋肉痛または関節痛、疲労/無力症、下痢、めまい、呼吸困難
そう痒症、吐き気または嘔吐でした。

+疥癬のイベルメクチン治療を受けた高齢者の32%が死亡
老人ホームは恐怖

事例が多すぎるので以下略

 

 

 

 

 

 

 

 

 

翻訳

ビデオの中で、この女性はこう言っている。

"連邦最高裁判所は、ワクチンを接種された人間はトランスヒューマンとなり

特許法上の『製品』となる(つまり、特許権者の所有物となる)と判断した"。

しかし、もちろんこれは誤りである。

彼女が引用した連邦最高裁の判例は

特許法における "製品 "の定義(解釈)を決定するものであり

"ヒト "を定義するものではない。

そもそも特許法は「人間」を法的に定義する法律ではなく、手続き法である。

トランスヒューマン」が従来の「ヒト」の定義に該当するか否かは別問題であり

「トランスヒューマン」は別の法律で法的に定義されるべきである。

特許法上の「製品」として認められるためには

自然法則(物理学)を利用した発明でなければならない。

この最高裁判例は、天然由来のDNAは天然物であるため

特許法上の「製品」には該当せず、特許を取得することはできないと判断している。

一方、人為的に操作されたmRNAやcDNAは天然物とは言えず

特許法上の「製品」に該当するため特許を受けることができると判断している。

例えば、ダイヤモンドのような新しい天然鉱石を発見したとしても

それは天然物であるため特許を取得することはできない。

今回の裁判では、遺伝子についてもこのような解釈がなされている。

ビデオの女性は悪意を持って

米国では、「人間」に関する特許権を主張する特許出願は101条により拒絶される。

日本でも同様に、公序良俗を害するおそれがあるとして拒絶される。

遺伝子操作によって得られたヒトに関する発明(トランスヒューマン)は

倫理的な問題から、どの国でも特許を取得することはできない。

WEFがこの特許を利用して人類をコントロールしようとしているという陰謀説がある。

しかし、特許権の存続期間は出願から20年しかない。

WEFがこのような限られた権利を使って人類支配を試みるのは非論理的である。

法律や条約によれば、特許出願は出願日から約1年半後に世間に公開される。

なぜ支配者は、わざわざ自分の発明を世界に公開するのだろうか?

もし私が人類を支配できるような発明を成し遂げたのであれば

その発明をひそかに利用して人類を支配するために

秘密暴露につながる特許出願をするようなミスは犯さない。

特許明細書は、書類等と異なり、無体動産として財産権の一部を構成するものであり

法律的解釈を要する複雑で難解な記載を含む性質上

一般人が正しく解釈することは困難である。

そのため、特許を利用した陰謀論や誤った解釈が世間に広まる可能性が高い。

Twitterで特許明細書を引用しているアカウントを見かけたら

一旦立ち止まって、そのアカウントが特許に精通しているかどうかを確認し

特許の開示内容が正しいかどうかを慎重に見極めましょう。

ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

↑こちらより抜粋

 

ここで、江戸時代の政治史を理解するために

最も重要なポイントを申し上げよう。

それは

「江戸幕府の米本位制という誤った貨幣制度を採用していた」

ということなのだ

江戸時代、幕府すなわち「官」においては米が貨幣であった。

給料も「五百石」「千石」といった米で支払われる。

にもかかわらず「民」の世界では既に貨幣経済になっている。

日本に来た朝鮮通信使の一人が

「日本では乞食でも銭を欲しがる」と驚いて書き残しているくらいだ。

なぜ「乞食」というかといえば「食物を乞う」からだ。

貧しくて自分の食べ物が無いので、そうする。

ところが日本では銭を欲しがるということは

「銭で何でも買える」ということなのだ。

これが「貨幣経済が発達している」ということである。

 

逆に言えば朝鮮は「官民ともに米本位制」だということでもある。

日本は朝鮮と違って室町時代から貨幣経済の発達した国である。

つまり江戸時代は「官」は「米本位制」なのに

「民」は「銭あるいは金銀本位制」だったということなのだ。

そして、この体制は農民にとってはまさに地獄なのである。

米を「お上」である「官」は「貨幣」として扱っている。

しかし、実際には金貨・銀貨・銅貨を発行しており

「民」は米本位制ではなく銭本位制だ。

米は商品の一つなのである。

「官」はそれを認めず、「貨幣」が増えれば財政は豊かになると信じ

農民に米を増産させ一粒でも多くしぼり取ろうとする。

米はあくまで商品だから、実際には増産すればするほど価格は下がり

米は蔵に山と積まれても、かえって財政は悪化することになる。

それは当然、米で給料をもらっている武士の収入が減ることもある。

武士はその米を売って(銭に替えて)生活しているのだから

米の価格が下がれば下がるほど困窮するわけだ。

 

その上に、幕府はせっかく貨幣(金・銀・銅貨)の発行権を持っているのに

貨幣改鋳(かいちゅう)

すなわち品位を落として発行量を増やすということを、しない。

それをしなければ、貨幣の数が少ないことによって

その価格は上昇し、逆にそれによって評価される商品の価格は下がる。

すなわちデフレになる。

これを、農民の立場から見ると、「官」が増産しろと命令するので

死に物狂いで働いたにもかかわらず、収入はどんどん目減りするということになる。

「官」も財政が苦しくなるから、ますます農民からしぼり上げようとし

農民はさらに苦しむことになる。

 

もう、おわかりだろうが、吉宗の「米将軍」という敬称(?)は

武士の目から見た「米問題に尽力した将軍」という意味なのだが

それを現代の視点で見れば「バカ将軍」いや「暴君」ということなのである。

米本位制に固執する限り、農民は絶対に救われないからだ。

「ゴマの油と百姓はしぼればしぼるほどー」と豪語し

実際に最大の実績をあげた、言葉を換えていえば

江戸時代の中で最も百姓をしぼり上げた「悪代官中の悪代官」

神尾春英(かんおはるひで)が、吉宗の忠実な部下だったということも

極めて納得がいくはずである。

逆に、この江戸政治史のキーポイントを理解しないで

小石川養生所(ようじょうじょ)を開設した

「名君吉宗」の側面ばかり強調されると

吉宗と神尾が結びつかなくなってしまう。

多くの日本人はそうであり、あなたもそうであったのではないか?

 

実際は「暴君吉宗と悪代官神尾」は

最大の実績をあげた「名コンビ」なのである。

では、この「農民地獄」はどのように政治を変えれば救済できるのか?

実に簡単なことで、とりあえず銭本位制にすればいいのである。

農民が苦しめられる最大の理由はここにあるのだから。

そして、そこまで思い切った策はとれないにしても

せめて貨幣改鋳をして供給量を増やせばいい。

そうすれば、米を増産すればするほど

収入は目減りするという苦労からは解放される。

 

しかし、江戸幕府はその当初から

この貨幣改鋳を「悪」ととらえており

最初にそれを大々的に行なった勘定奉行、荻原重秀は

儒教者、新井白石によって極悪人扱いにされた。

なぜ「悪」かといえば、善悪の判断基準が儒教だからである。

「貴穀賤金(きこくせんきん)」、政府たるもの

「賤しい金」など扱ってはいけない。

止むを得ず扱うならば、それを水増しして「悪貨」を作ってはならない。

前にも述べたが、果汁100%のジュースを売っていた業者が

それを水で薄めて同じ価格で売り出したら

今でも人は「サギだ」とか「インチキだ」と言うだろう。

江戸の為政者の多くはそれと同じ感覚で

「金の品位を落としながら前と同じ一両小判として発行する」

ことは「悪」と考えていたのである。

 

吉宗は止むを得ず貨幣改鋳に踏み切ったが

やはり「悪」だととらえていた。

しかし、「貨幣」と「商品」はまったく別物で

当然性質も違うのだが、この近代経済学では初歩の感覚が

幕府の政治家にはほとんど無かった。

だが、中にはほんの少数派だが貨幣改鋳あるいは商業重視の政策は

「悪」ではなく、社会情勢に応じてやるべきだと考えていた為政者もいた。

それが荻原重秀であり、尾張宗春であり、これから書く老中田沼意次なのである。

そして、萩原や宗春や田沼を「極悪人」として非難、糾弾した人々

それが新井白石であり徳川吉宗であり、吉宗の孫の老中松平定信であるのだ。

 

テレビ時代劇では、今でも白石、吉宗、定信は「善」で

萩原、宗春、田沼は「極悪人」である。

だが、本当にそうか?答えはもうおわかりだろう。

 

 

田沼意次といえば判で押したように必ず出される図像があった。

 

 

「まいない鳥」あるいは「まいないつぶれ」と呼ばれるもので

賄賂を取りまくった鳥がその重みで落ちた形を書いている。

江戸の頃「かたつむり」のことを「まいまいつぶり」と呼んだ。

それにかけて「まいない(賄賂)で潰れた」ということで

「まいないつぶれ」としたのである。

うまいシャレだ。

注釈には

「此虫常は丸之内にはい廻る

皆人銭だせ、金だせ まいないつぶれといふ」とある。

これが意次だというのである。

だから、戦前には弓削道鏡(ゆげのどうきょう)

足利尊氏と並んで日本史上の三大悪人とまで言われた。

 

しかし、道鏡や尊氏が本当の意味で悪人でないように

意次も実は悪人ではないのだ。

まず「まいないつぶれ」のイラストをよく見て頂きたい。

その鳥の背中にある家紋は「丸に十の字」である。

ところが田沼家の家紋は七曜星(しちようせい)なのだ。

これは大変おかしな話である。

そこに注目した歴史学者大石慎三郎は

「これは意次のことを指したのではない」と断言している。

 

その理由だが、まずこの原図が載せられている

「古今百代草叢書」は田沼失脚後50年以上たった後の作であり

ちょうど11代将軍家斉(いえなり)の治世下で

その岳父(将軍正室の父)である島津重豪(しげひで)が

権勢をふるっており、それを風刺した図であるというのだ。

言うまでもなく「丸に十の字」は島津家の家紋で

他の家はこの紋を使わない。

しかもこの「古今百代草叢書」には

「此鳥(の)駕籠(かご)は腰黒なり」

と注記があるが、腰黒という極めて格式の高い駕籠に乗れるのも

将軍岳父であった島津重豪以外は考えられないというのだ。

 

まさに、大石慎三郎の言う通りであって

特に「丸に十の字」という明確な判断部分があるのに

大石慎三郎以前の学者はなぜ揃いも揃って

こんな単純なことに気が付かなかったのだろう?

実はこれも筆者がたびたび指摘し

またこの「逆説の」存在理由にもなっている

「日本歴史学の三大欠陥」の一つ

「史料絶対主義」によるものなのだ。

それは「田沼は賄賂大好きの悪徳政治家」という偏見があるからだ。

その先入観をもって見てるから

冷静に見れば気付くべきところに気付かなくなるのだ。

しかも、私は今これを「偏見」と言ったが、彼等はそうは呼ばない。

彼等はこれを「学界の定説」と呼ぶ。

ではなぜ明らかにおかしなことが「定説」になってしまうかといえば

その理由こそ、まさに史料絶対主義なのである。

 

意次のライバルで、実際にも意次を失脚させることに成功した

後の老中松平定信は大変長生きをした人でもある。

30歳で老中に就任し「寛政の改革」を6年間行ない

36歳の時に退任した。

しかし、そこまでで人生の半分であった。

彼は72歳まで生きたからだ。

文章は得意で、名文家と呼ぶ人もいる。

一方、定信に追い落された意次は、退任後わずか2年で死んでいる。

定信は日記に「意次を殺してやりたい」と書くほどの意次嫌いだった。

 

意次の死後、幕府は田沼家の城である相良城(さがら)を取り壊した。

「藩の取りつぶし」はよくある話だが、城の取り壊しなど聞いたこともない。

江戸時代の大名は、移封されれば城を明け渡すのが常識だったから

城は公共財産でもある。

では、なぜ取り壊したかといえば、これは元からあった城ではなく

意次が城持ち大名の格式になるまで出世したからこそ作られた城なのだ。

つまり、築城者は意次自身であった。

そしてそれを焼却させたのは、新たに老中になった松平定信その人であった。

定信は意次がこの世に築いた城を残すことが許せなかったのだ。

このあたり、祖父で、尾張宗春の墓に

金網をかぶせて封じ込めた吉宗をほうふつとさせる。

まさに「粘着質」だ。

とにかく、意次は自分の政治に対して主張も弁明も不可能だった。

一方、定信は有り余る時間があり、意次のシンパを権力で潰すことも可能だった。

 

それにしても「定信一派」の情報操作は見事なものである。

「一人で書く日本通史」の大先達の明治の史家

徳富蘇峰(とくとみそほう)もまんまとダマされている。

田沼意次の実像はどのようなものだったのか?

それを語るには、まず吉宗以降の政治状況を語らねばなるまい。

前章では、将軍吉宗の政治は、特に経済政策はまるでダメであったと書いた。

なぜ、ダメであったかといえば「儒教の徒」である吉宗には

「経済とは生き物である」という真理がわからなかったからだ。

経済は、たとえてみれば動物のようなものであって

それを扱うには独自のルールやシステムを必要とする。

ところが「儒教の徒」である吉宗はそれが理解できず

人間に対するルールである法律によってコントロールできると考えた。

それは道徳の延長でもある。

 

つまり、貨幣改鋳のような経済的政策ではなく

倹約令のような人間の道徳に訴えるような法律で

経済をも支配できると考えたのだ。

経済は「動物」とたとえるのはそこのところで

ライオンを飼うにはそれなりのシステムが必要であって

人間の法律をライオンに理解させようと思っても

ハナから無理というものだ。

だが吉宗はそれをやった。

ただ、貨幣改鋳をして元文小判(げんぶん)を作るなど

一部現実的な政策に歩み寄った部分もあった。

これは吉宗が少年期に家臣の子として育てられたために

現実社会を知っていたからだろう。

 

その孫の松平定信となると、完全に「若様」として育てられ

実社会のことはまるでわからない。

その上に、吉宗以上の学問はした。

つまり、子供の頃から朱子学を叩き込まれたわけで

これでは吉宗以上の「バカ殿」になるのも当然というわけだ。

「昔の人間はバカだなあ」と笑ってはいけない。

今でも、日本の経済をコントロールしようとしている財務省は

東大法学部の出身者によって牛耳られている。

経済は経済学部の出身者が仕切るべきなのに

なぜそういうことになっているかといえば

これも儒教の悪しき名残なのである。

だが吉宗自身は、自分の政治は総じてうまく行ったと思っていたかもしれない。

この根拠は、幕府財政の黒字化には成功したからである。

この点、「ライバル」の尾張宗春が尾張藩の財政を破綻させたのとは対照的だ。

だから幕府であれ尾張藩であれ「政治の財政再建」という視点で見るならば

吉宗の方が上だったという評価もできる。

しかし、庶民の視点、特に農民の視点で見るならば

吉宗ほど民をしぼった「悪代官」はいない。

一方、宗春は逆に常に「金を落としてくれる」福の神のような殿様であった。

 

徳川将軍というのは、初代家康の意図により

2代秀忠以降は「バカでも務まる」という形を取っている。

老中(原則として5人)が合議した結果を将軍に上奏し

将軍はこれを決裁するだけでいい。

こうした形の方が、「和の民族」である日本人は落ち着くし

「後継ぎがバカ息子」の場合も幕府の機能は影響されないからだ。

つまり「将軍は何もしなくていいですよ。

ゾウキンがけ(実際の政治)は

老中以下が汗をかきますから」というのが

徳川幕閣(ばっかく)の基本方針なのだ。

 

だからこそ、「何事も慣例に従う」という政治になる。

しかし、それに飽き足らず、自分の政治をやりたいと思った場合

どうやってこの老中合議制に対抗するか?

それを考え出したのが綱吉であった。

綱吉は側用人(そばようにん)というワンクッションを

将軍と老中の間に置くことによって

結果的に老中合議の内容をコントロールすることに成功した。

ここが「知恵」の部分だが、側用人というものは

将軍が独自の政治をしたいという意欲を持っている時に

初めて必要とされるものなのだ。

「吉宗は側用人を置かなかったではないか」

という反論があるかもしれないが

実は側近の加納久通、有馬氏倫らを

「御側御用取次(おそばごようとりつぎ)」に任じて

同様の働きをさせている。

名称を変えただけなのである。

 

 

「大政奉還」とは

これまで徳川将軍家が天皇家から委任され預かっていた

「大政(日本の統治権)を

天皇家に「奉還(謹んでお返しする)というものだが

15代将軍徳川慶喜がこれを実行したのは

薩長連合が朝廷に工作して

「倒幕の密勅(みっちょく):幕府を倒せという天皇の秘密命令書)を

出させようとしていたのに対し、先手を打ったものだった。

先に政権を返上してしまえば、倒幕の根拠は無くなる。

しかし、朝廷の側でも突然政権を返されても準備は何も出来ていない。

 

そこで内大臣(朝廷の臣)でもある慶喜が

「朝廷政治」の主導権を握れるという計算があった。

それに対して、「大政奉還」後に

「倒幕の密勅」を手にした薩長連合は

あくまで武力による倒幕を目指し

「王政復古」の名の下にクーデターを起こした。

「王政(天皇親政)」に「復古(戻る)」という形をとって実は

(古い昔にはそんなものは無かったという理屈で)

関白や大臣をすべて廃止し

新しい政体(維新政府)を作るというものであった。

 

この後の展開は「幕末編」に譲るとして

ここで気が付いて頂きたいのは

幕末においては将軍も公家も下級武士も

もちろん天皇も

「かつて日本の統治権は天皇が保持していたが

それを将軍家(幕府)に委任した」と信じていることだ。

しかし、実際には、そんな事実は無い。

「何年の何月何日の〇〇天皇が××将軍に日本の統治を委任した」

などという項目は年表のどこを探しても無いのである。

 

あえて言うなら、平安時代末期から鎌倉初期にかけて

武士の代表者である「鎌倉殿」源頼朝(この時点でまだ将軍ではない)が

後白河法皇から「東国の支配権」や「守護・地頭の任命権」を獲得したこと

特に「守護(追捕使:ついぶし)」の職務権限について

「大犯(だいぼん)三箇条」を認めさせたことは、かろうじて

「朝廷から幕府への権限委譲」と言いうるかもしれない。

ちなみに「大犯三箇条」とは実質的な「警察権」と

「軍事指揮権」の委譲にあたる。

だが、日本の統治権まで委任したなどという歴史的事実は無い。

武士を警戒し死ぬまで頼朝を征夷大将軍にしなかった

後白河法皇が、なぜ「警察権」などはあっさり武家側に渡したかといえば

「ケガレ」「忌避(きひ)」という信仰が彼等にはあるからだ。

それが日本独特の「朝幕併存」という形につながっていく。

しかし、統治権については認めていない。

 

私は第5巻で、幕府政治というのは「暴力団がこの町を仕切っている」

というのと同じ感覚だと述べた。

下品なたとえで申し訳ないが「暴力団」が

「暴力」で法的根拠もないのに町を「仕切っている」のと

幕府(武家政権)が「武力」で法的根拠無しに

日本を「実質的に支配している」のとは極めてよく似ているのである。

重要なのは「法的根拠」というところで

「法的根拠」が無いものに、人は「権威」を認めない。

正当な支配者とは認められないからだ。

 

そこで、幕府の政治が700年も続く中で

思想的潮流として深く静かに続いていたのは

「幕府の支配の正当性をいかにして確立するか」

という課題の解決なのである。

この流れの大きな節目の一つが

徳川家康が朱子学を江戸幕府の公式な学問として認めたことだろう。

家康が朱子学を導入したのは

将軍家の権威を高め、諸大名が幕府に忠誠を誓い

「明智光秀」が出現しない体制を作るためだった。

 

しかし、これは何度も述べたが逆効果になった。

朱子学によれば覇者(武力によって天下を取った者)は

正当な王者ではないからだ。

それが尊王論(そんのうろん)となり

一方で天皇こそ日本人の「信仰の対象」

であるべきだと考えた儒学者でもあり神道家でもある

山崎闇斎(あんさい)が始めた垂加神道(すいか)によって

「日本的尊皇論」に変化していく。

「日本的」と言ったのは、あくまで本場中国の朱子学からみれば

日本の天皇家はまさに佐藤直方(なおかた)が主張したように

「王者」とは言えないからだ。

それが垂加神道の影響もあって

「天皇こそ日本の正統な王者」という

「日本的尊皇論」に変化していったのである。

 

だが、こういう傾向が進めば進むほど

幕府の権威は失墜してしまう。

ますます「暴力団と同じ」になってしまう。

では、こうした理念先行の尊王論に対し

現実に立脚し幕府の立場を正当化するような尊王論はなかったのか?

実はあった。それが国学による尊王論である。

将軍は、本来の主権者である天皇から

日本の統治権を委任されているに過ぎない。

この「大政奉還」の大前提にある考え方

これは「大政委任論」と呼ぶべきものだが

これを初めて明確な形で世に問うたのは

私の知る限り、国学者の本居宣長(もとおりのりなが)である。

本居宣長は「古事記」や「源氏物語」の研究で有名だが

実は「大政委任論」の理論構築という重大な業績をも成しているのである。

日本の統治権のことを「天下の御政」と表現し

それが天皇から将軍に「御任(委任)」されている。

そして、将軍は大名に地方政治を「御任」している

という考え方が「秘本玉くしげ」によって展開されている。

この「秘本」は宣長が仕えていた

紀伊徳川家の藩主徳川治貞に献上されたものである。

 

宣長がこれを献上したのが1787年(天明7)だが

その2年前の天明5年

江戸時代を代表する名君上杉治憲(はるのり)は

隠居に際し次期藩主治広(はるひろ)に

「伝国の辞」を与えている。

三か条からなる「辞(心得)」には

「国家も人民も大名家の私物ではなく預かり物である」

という思想が貫かれている。

ここには「誰から預かったか」は明確にされていない。

むしろ国家より人民を主体に考えていると解釈もできるが

いずれにせよ江戸時代の大名には

こうした「公」の概念が深く浸透していたのである。

皮肉なことに「公」という字を生み出した中国や

その影響を強く受けた朝鮮半島では

「民は労わるべきもの」という思想こそあったものの

人民と官は別物であって基本的には

「煮て食おうが焼いて食おうが勝手」という世界であった。

 

日本が東アジアの中で中国

朝鮮に先駆けて近代化できたのは

いちはやく開国したからではない。

中国はアヘン戦争などによって日本より早く開国させられている。

近代化というのは、ただ西洋の文物だけを移入すれば

達成されるというものではないのだ。

そういう意味では「明治維新」はもうこのあたりから

いや儒教が「日本的変容」を遂げた江戸時代初期から

既に始まっているのである。

 

ちなみに、上杉の師でブレーンとも呼べる人物が

儒学者細井平洲(へいしゅう)だが

平洲は徳川治貞の師でもあった。

また、前節で紹介した高山彦九郎の平洲の教えを受けたことがある。

儒学・国学そして神道が一体化して

いわば「天皇教」が形成されていた。

松平定信はこうした風潮の中では、むしろ保守主義者であり

幕府絶対主義なのだが、その定信にしても

天皇を軽視することはできなくなっているのである。

幕府は天皇を尊べばよい

そうすれば天皇から政治を委任された将軍を

大名は尊ぶようになり、すべて丸く収まるというのだ。

他ならぬ松平定信までこの意見を取った。

 

そして、こうした尊王論の隆盛に

決定的な役割を果たしたのが

定信の時代から将軍家斉の時代まで長く天皇そして

上皇として朝廷に君臨した光格天皇(こうかく)であった。

光格天皇はまさにそれまでの朝廷史を大きく変えた人物であった。

その理由を「幕末の天皇」の著者藤田覚氏は

光格天皇が閑院宮家という傍系から入って

皇位を継いだ人であったからと推測している。

つまり迎える側に、光格天皇を

その出自によって軽んじるような空気があり

それに反発したがゆえに、天皇としての自覚を強く持ち

天皇の権威の復活に力を注いだというのだ。

この推測はおそらく当たっているだろう。

そして、その光格天皇が為した最大の復活とは何か?

それは「天皇」という称号の復活なのである。

 

「天皇」とは日本の最も伝統的な君主の称号であり

その意味については諸説ある。

最も有力なのはそもそも「天皇」は中国の道教で

「北極星」を意味する言葉であって

それが転じて「天の中心(の王)であると考えられたというものだ。

また日本国内で「てんおう(天王)」と呼ばれていた君主の号に

「天皇」という字を当てたという説もある。

また成立の時期については

推古天皇つまり聖徳太子の時期であるという説と

壬申(じんしん)の乱に勝ち始めて「君主」として

絶対的な権力を確立した天武天皇の時代であるという説もある。

 

「天皇」という称号は「皇」という字に深い意味がある。

中華思想によれば、世界の中心が「中国」という国であり

それを治めるのが「皇帝」だ。

そして「中国」以外は基本的には

(中国文明以外に文明は存在しないから)

野蛮人の住む「地域」に過ぎない。

しかしこの「地域」の「首長」が

中国皇帝に使者を送り臣従を誓うと

「国王」に任ぜられ

その「国」は「中国皇帝の臣下としての王」

という位置付けが成されることになる。

逆に「周辺地域」がこれ以外の対応をすると

「無礼」ということで「征伐(せいばつ)」の対象にすらなる。

 

日本は地政学的に幸運であった。

日本と中国大陸の間には深い海があるからだ。

日本人も初めは中国皇帝に使者を送り

「国王」にしてもらって喜んでいた。

金印で有名な「委奴(わのな)国王」

あるいはそれ自体は発見されていないが

邪馬台国の女王卑弥呼も

「親魏:しんぎ(魏王朝の家臣である)倭王(わおう)」

という金印をもらったという記録がある。

 

だが民族意識の高まりの中で

「われわれは中国の臣下ではない」という誇りが生まれた。

それを端的に示すのが中国側の記録

「隋書東夷伝(ずいしょとういでん)」で

そこには「倭王が無礼にも「日出づる処の天子」と名乗り

皇帝を「日没する処の天子」と呼んだ国書を送ってきた」とある。

この倭王とは年代的に見て明らかに聖徳太子で

この使者は小野妹子だ。

つまり聖徳太子の時代(推古朝)に

既に中国との対等意識があったことがわかる。

この意識がなければ「向こうが皇帝なら、こちらは天皇だ」

ということにはならない。

ちなみに、それまで対外的には「倭国」であり

国内的には「大和」であった国が

「日本」と称するようになったのも

この対等意識が生まれたからだ。

これも「そちらが中国(世界の中心)なら

こちらは日本(日出づる処)だ」という対等意識がある。

 

天皇は、ある時から、天皇と呼ばれなくなっている。

鎌倉時代の天皇は亡くなった後では

後鳥羽天皇のように呼ばれたと思っているが

実は天皇ではなく「院」と呼ばれていた。

では、それは武家政権が出来て

相対的に天皇家の権威が低下してからのことなのか?

実はそれよりはるか昔の、冷泉天皇(れいぜい)

(在位967~969)の時代からなのである。

平安中期であり、武士はまだ出現していない。

 

なぜ、ここで突然「天皇」から「院」への

称号変更が行われたか定かではない。

ひょっとしたら、この時、実質的に天皇家を「支配」する形になった

藤原摂関家(せっかんけ)の意向が反映されているのかもしれないが

「冷泉院から後桃園院(ごももぞの)」まで

「57代約900年」も中絶していた天王号が

光格天皇によって「復活」されたのである。

松平定信VS光格天皇の政治抗争は

「尊号一件(そんごういっけん)」だけは定信がかろうじて

「一本」取ったものの、後は負け続けであった。

そして、この「負け」は天皇家の権威興隆、将軍家の権威失墜という

「ツケ」になって幕末という時代に強い影響を与えることになる。

 

 

↑こちらより抜粋

 

琉球王国の安全保障

つまり侵略に対する防衛政策というのは

一に軍事大国である明に依存している。

東アジア最大最強の国家である明が安泰である限り

琉球は常に安全である。

しかし、その力が衰えるか

あるいは明に軍事力で対抗出来るような国家が出現すれば

琉球王国の独立性は危機にさらされることになる。

つまり、秀吉だ。

豊臣秀吉という男の存在が琉球王国を根本から変えることになったのである。

既に述べたように、秀吉の対外戦争を「朝鮮出兵」と呼ぶのは正確ではない。

なぜなら彼自身は、このことを「唐入り」つまり「明国進出(侵攻)計画」

と呼んでいたのであり、計画が成功すれば天皇を北京に移し

自らは寧波(にんぽー)に「大本営」を置き移転する予定だった。

有史以来初めて、北の遊牧民以外で

漢民族の帝国である「中国」に挑戦する者が現れたのである。

 

 

しかし、ここで邪魔が入った。

薩摩の島津家が抗議してきたのだ。

薩摩国は琉球国の北方にあり、日本の諸国の中では琉球に一番近い。

そのこともあって、島津は自己の「縄張り」が

侵される危機を感じたのかもしれない。

秀吉も、まず朝鮮経由で明本土を攻撃する意図があった。

大名同士の対立も避けたい。

そこで、水軍勢力の一つでもある亀井家を活用するために

「琉球守」は取り上げ、代わりに「台州守」を与えた。

ちなみに台州とはどこかといえば

浙江省台州(せっこうしょうだいしゅう)

まさに明本土なのである。

そして、琉球は島津の「与力(配下)」とされた。

つまり、秀吉政権は薩摩の島津氏に

琉球を形式上「与えた」のである。

 

ところでこの時点で、琉球は「外国」である。

明の冊封(さくほう)下にはあるから

純然たる「独立国」とはいえないまでも

少なくとも「日本の領土」ではない。

したがって琉球王は島津義久に対し

「そのような要求には応じられない」と拒否することも出来た。

だが、なぜか当時の国王尚寧(しょうねい)は

義久の要求に応じ、米を提供した。

なぜか、ということは史料が無いので推測するしかない。

とりあえず日本の戦国時代を戦い抜いた島津氏の強力な軍事力を恐れ

食糧提供で済むなら、と応じたのかもしれない。

しかし、この「太陽政策」は結果的に大失敗だった。

なぜなら、このことによって島津氏に

「琉球は我が領土」という「自信」を深めさせ

また軍事的な抵抗も大したことは無いだろうという

「確信」を抱かせてしまったからだ。

それが結果的に島津氏の侵略を招いた。

後に、琉球では重臣の一人が明に対して救援要請を出すのだが

それは完全に手遅れの段階だった。

その時に至って救援要請を出すぐらいなら

この最初の要求の時点で

「要求には応じられない。攻めてくるなら明国に救援を要請するぞ」と

島津氏の要求をはねつけておく手はあった。

もっとも、それをしたからといって

琉球王国の独立が保たれたかといえば

そんな保証はどこにも無い。

秀吉はあくまで明と闘うつもりだったから

そう言っても島津が引き下がったとは限らない。

むしろ、侵略が早まったかもしれない。

また、秀吉は明を倒すことはできなかったが

明はこの戦いで戦力を消耗したことが清に敗れて滅亡する原因となった。

だから明からの救援は結局あてにならなかった可能性も高い。

 

一般的には侵略的国家の無理難題に

目先の平和を求めて応じるようなことは

あまり良い結果を生まない。

それは世界史ではナチス・ドイツに対する

ヨーロッパ各国の対応が示している事実だ。

だが、秀吉の「唐入り」は失敗した。

またその豊臣家の政権を奪った徳川家康は

東アジア各方面との善隣友好外交を展開しようとした。

全編で取り上げた朝鮮国との国交回復が、その一つのモデルケースである。

ならば、当然、秀吉の時代に始まった琉球王国への圧迫は

家康の時代にはゆるんでしかるべきだ。

ところが、そうならずに、家康の時代になってから

「島津の琉球入り」は行われたのである。

 

朝鮮国とも国交回復は成功した。

問題は、明との国交回復である。

国交回復すれば貿易の利が得られる。

その利益は膨大だ。

ところが、ここに一つ大きな問題があって

明と貿易をする一番の早道「冊封」を

徳川家はまったくするつもりがなかったということだ。

 

 

琉球の島津の「命令」に基づいて米を供出したことは

現代の感覚で言えば、厳しい言い方かもしれないが

「脅迫に屈し侵略の口実を与えた」ことであり

外交的には愚策と評価されてもやむを得ない。

ところが、朱子学的見地では

「野蛮人に米を与えて我が国の徳を示してやったのだ」という感覚になる。

「そんなバカな、なぜ現実を見ない」というのが

大方の読者の反応だろうが、それが朱子学なのだ。

朱子学とは現実を見ずに観念の中に逃避する傾向がある。

「歴史」についても現実より観念を重視するのが朱子学だ。

そして中華体制における「国教」はまさに朱子学なのである。

 

冊封使が来る前でも琉球王国はあくまで「王国」であって

先祖代々中国皇帝の家臣なのである。

その分を守ることは何よりも大切だ。

お手元に二千円札があったらご覧になるといい。

沖縄(琉球)を象徴するものとして描かれているのは

獅子(シーサー)でも「美ら海」でもない。

「守礼(しゅれい)の門」である。

守礼の門をなぜそう呼ぶかと言えば

そこには「守礼之邦(礼教体制に忠実な国)」

という額が掲げられているからだ。

日本の戦国時代には

毛利元就も織田信長も、頭を下げて和平を結び

油断したら討つというのが「常識」であった。

「頭は下げるが米を出さない国」日本と

「米は出すが頭を下げない守礼之邦」琉球

その対立はやがて頂点に達する。


 

この時代の琉球は、戦乱の時代はとうの昔に終わり

中国(明)という大国の「安全保障」の「傘」の下で

ほぼ、非武装状態で太平の夢に酔い痴れていた。

平たく言えば、王も人民も戦争経験など無いのだ。

そんな「平和ボケ」の国に血で洗う戦国時代を生き抜いてきた

島津軍が怒涛の如く攻め込んで来たのだ。

 

 

この時代の明が、薩摩の実質的な属領となった琉球王国に

なぜ

「お前の国は日本の領土ではないか。今度、来ることは許さん」

と言わずに

「十年に一度なら来てもよい」と言ったかといえば

それも中華思想だろう。

やはり朝貢国は多ければ多いほどいいのであって

一応は「独立王国」の形をとっている国から

「臣下としてお認め下さい」と言ってくれば断るのはもったいない。

それに

「お前の国は征服されたんじゃないか」と言い切ってしまえば

逆に

「子分の国琉球」への侵攻を許してしまった明の

「親分」としてのプライドが傷付いてしまう。

そこで

「朝貢自体は今後も認める。

ただしお前のところも大変だろうから十年に一回とする」という

皮肉な言い方の「半絶縁宣言」になったわけだ。

結局

琉球王国も、貿易の利を求めていた家康も薩摩藩も骨折り損に終わったのである。

徳川幕府が薩摩の琉球侵攻をやらせたのも

琉球を仲介者として日本と明との貿易を復活させるのが目的だった。

しかし、琉球と明の「パイプ」がこんなに細くなってしまっては

使者を出すことすらままならない。

それでも幕府は貿易再開をあきらめなかった。

1614年(慶長19)、家康の最晩年であり

大坂冬の陣が始まった年に、幕府は島津家久に対して

琉球王国を通じて明に対して貿易再開を求める書簡を出させた。

結果は、幕府の要求を明がまったく受けつけず

琉球を利用した幕府の対明講和交渉は失敗に終わった。

 

そして、この2年後

豊臣氏を滅ぼすという大仕事を成し遂げた徳川家康は、74歳の生涯を閉じる。

明との正式な講和

それはとりも直さず貿易再会という意味だが

戦国時代の生き残りで

貿易というものがいかに利を生むか知っていた家康は

ついに念願の日明貿易を再開することが出来ずに亡くなったわけだ。

しかし、琉球侵攻は幕府、薩摩藩、琉球王国の三者にとって

何の利益にもならなかったかといえば違う。

長い目で見ると、薩摩藩島津家だけは、この侵攻で大いにトクをしたのである。

それは領土が増えたという単純なことではない。

確かに侵攻そして占領によって

薩摩藩は幕府から琉球の支配権を認められ

新たに数万石の領土を得たことになる。

特産品も手に入れた。

だが、それよりも重大なことは

貿易の一大拠点である琉球を「植民地」として

将来にわたって密貿易の窓口として得たことだ。

確かにこの時点では「二年一貢」だったものが

「十年一貢」に減らされ、大打撃を受けた。

それは事実だ。

しかし、「禍い転じて福となす」というのは

まさにこのことで、幕府はこの失敗に失望し

また貿易積極論者の大御所家康が死に

名実ともに何事にも消極的な二代将軍秀忠の天下になったこともあり

次第に琉球の存在を活用しようという意欲を無くしていったのである。

さらに、その後、三代将軍家光の代に

キリシタン一揆島原の乱が起こったこともあり

幕府はいわゆる「鎖国」のカラに閉じこもっていくことになる。

ますます琉球の統治に関心を示さなくなっていくのだ。

これを薩摩藩側に立ってみれば

琉球は「植民地」そして「密貿易の基地」として

自由に使えるということであり

まさに長い目で見ると、薩摩藩は琉球を持っていたからこそ

財政を立て直すことも出来たし

明治維新つまり倒幕も出来たということである。

 

昔、初めて琉球史に関心を持った頃は、このことが一番不思議だった。

それは端的に言えば

幕府はなぜ薩摩藩に琉球を任せ切ってしまったのか

ということだ。

言うまでもなく薩摩藩は関ケ原の敗者である。

そうした外大名からは金山・銀山を取り上げ

逆に海外貿易を許さない、というのが幕府の基本政策だったはずだ。

つまり外様大名の財力を弱め

幕府に反乱を起こさせないようにするのが目的である。

であるならば、なぜ「宝の島」である琉球をみすみす薩摩に与え

「反乱力」をつけさせるようなバカなマネをしたのかといえば

これまで書いてきたことが答えである。

まず、琉球を薩摩によって征服させたことだ。

その命令に従って成功した以上は

薩摩にそれを褒美として与えねばならない。

「後知恵」で言うならば

家康はこれに旗本をあたらせればよかったのだ。

あるいは司令官を老中にして

兵を現地に詳しい薩摩藩から供出させようという手もあった。

こうすれば琉球は「幕府直轄(ちょっかつ)地」となる。

佐渡奉行や日光奉行のように琉球奉行を置けばよい。

なぜ、そうしなかったといえば

やはり私は家康の「老化」が最大の原因だと思っている。

歴史学者は個人の役割を大きく評価することはしないが

私は「徳川幕府」という「ワンマン会社」における

「独裁者家康」の役割は、他の時代よりもずっと大きかったと思う。

家康があと20年、せめて10年若ければ

徳川家による琉球征服を考えたであろう。

しかし70歳を超し

一方で豊臣氏という大敵を滅ぼさなければいけなかった家康は

ついつい最果ての国の征服はそれに最も近く

既得権を主張する島津家に任せてしまった。

後継者の秀忠が父親以上に積極的ならいいが

秀忠という男は律儀だけが取柄で父を超える能力はない。

そうした経緯で、琉球はいわば薩摩の「丸取り」になった。

極端なことを言えば、幕府は他の大名を取りつぶしたように

薩摩に難癖をつけて琉球を取り上げてしまう

という手も考えられないわけではなかったが

それを言うならそもそも関ケ原の戦いの折に

西軍に参加した島津家を、家康が取り潰しておくべきだった。

実際には、まだ豊臣氏の健在であったため

島津の徹底的な反抗にあって天下を取り落とす破目にならないかと

家康が恐れたために、島津家は生き残ったのだが。

 

琉球王国にとってはまさに

踏んだり蹴ったりだったが「利点」もあった。

琉球王国としての風俗や文化はそのまま保つことが許されたからだ。

理由は言うまでもなく、少なくとも外見上琉球は

「外国」でなければならないからである。

当然、明との交流すなわち朝貢も続けられた。

これは中国側から見れた「琉球は属国」という認識になり

このことが近代になって両国の対立を生み

日本側が強引な併合

「琉球処分(沖縄県への転換=1879年(明治12)

を生む背景となる。

 

それは近代になってからの話だが

薩摩藩はこの琉球を己の保身のために100%活用した。

たとえば、島津家第21代当主吉貴は

1710年(宝永7)官位昇進を幕府に認めさせた。

江戸時代の武家の官位は家格によって決まっており

新たな昇進というのはほとんど例がない。

それなのに、なぜ島津吉貴の要求が通ったかといえば

琉球は中国においては朝鮮国に次ぐ朝貢国であるのに

それを支配する薩摩の当主の官位が低くては

琉球に対して示しがつかないという言い分を認めたからだ。

いわば琉球は「ダシ」に使われたのである。

幕末において、琉球は薩摩藩の「ダミー」として

外交や貿易に様々に「活用」されるわけだが

それは「幕末編」に譲ろう。