↑こちらより抜粋

 

琉球王国の安全保障

つまり侵略に対する防衛政策というのは

一に軍事大国である明に依存している。

東アジア最大最強の国家である明が安泰である限り

琉球は常に安全である。

しかし、その力が衰えるか

あるいは明に軍事力で対抗出来るような国家が出現すれば

琉球王国の独立性は危機にさらされることになる。

つまり、秀吉だ。

豊臣秀吉という男の存在が琉球王国を根本から変えることになったのである。

既に述べたように、秀吉の対外戦争を「朝鮮出兵」と呼ぶのは正確ではない。

なぜなら彼自身は、このことを「唐入り」つまり「明国進出(侵攻)計画」

と呼んでいたのであり、計画が成功すれば天皇を北京に移し

自らは寧波(にんぽー)に「大本営」を置き移転する予定だった。

有史以来初めて、北の遊牧民以外で

漢民族の帝国である「中国」に挑戦する者が現れたのである。

 

 

しかし、ここで邪魔が入った。

薩摩の島津家が抗議してきたのだ。

薩摩国は琉球国の北方にあり、日本の諸国の中では琉球に一番近い。

そのこともあって、島津は自己の「縄張り」が

侵される危機を感じたのかもしれない。

秀吉も、まず朝鮮経由で明本土を攻撃する意図があった。

大名同士の対立も避けたい。

そこで、水軍勢力の一つでもある亀井家を活用するために

「琉球守」は取り上げ、代わりに「台州守」を与えた。

ちなみに台州とはどこかといえば

浙江省台州(せっこうしょうだいしゅう)

まさに明本土なのである。

そして、琉球は島津の「与力(配下)」とされた。

つまり、秀吉政権は薩摩の島津氏に

琉球を形式上「与えた」のである。

 

ところでこの時点で、琉球は「外国」である。

明の冊封(さくほう)下にはあるから

純然たる「独立国」とはいえないまでも

少なくとも「日本の領土」ではない。

したがって琉球王は島津義久に対し

「そのような要求には応じられない」と拒否することも出来た。

だが、なぜか当時の国王尚寧(しょうねい)は

義久の要求に応じ、米を提供した。

なぜか、ということは史料が無いので推測するしかない。

とりあえず日本の戦国時代を戦い抜いた島津氏の強力な軍事力を恐れ

食糧提供で済むなら、と応じたのかもしれない。

しかし、この「太陽政策」は結果的に大失敗だった。

なぜなら、このことによって島津氏に

「琉球は我が領土」という「自信」を深めさせ

また軍事的な抵抗も大したことは無いだろうという

「確信」を抱かせてしまったからだ。

それが結果的に島津氏の侵略を招いた。

後に、琉球では重臣の一人が明に対して救援要請を出すのだが

それは完全に手遅れの段階だった。

その時に至って救援要請を出すぐらいなら

この最初の要求の時点で

「要求には応じられない。攻めてくるなら明国に救援を要請するぞ」と

島津氏の要求をはねつけておく手はあった。

もっとも、それをしたからといって

琉球王国の独立が保たれたかといえば

そんな保証はどこにも無い。

秀吉はあくまで明と闘うつもりだったから

そう言っても島津が引き下がったとは限らない。

むしろ、侵略が早まったかもしれない。

また、秀吉は明を倒すことはできなかったが

明はこの戦いで戦力を消耗したことが清に敗れて滅亡する原因となった。

だから明からの救援は結局あてにならなかった可能性も高い。

 

一般的には侵略的国家の無理難題に

目先の平和を求めて応じるようなことは

あまり良い結果を生まない。

それは世界史ではナチス・ドイツに対する

ヨーロッパ各国の対応が示している事実だ。

だが、秀吉の「唐入り」は失敗した。

またその豊臣家の政権を奪った徳川家康は

東アジア各方面との善隣友好外交を展開しようとした。

全編で取り上げた朝鮮国との国交回復が、その一つのモデルケースである。

ならば、当然、秀吉の時代に始まった琉球王国への圧迫は

家康の時代にはゆるんでしかるべきだ。

ところが、そうならずに、家康の時代になってから

「島津の琉球入り」は行われたのである。

 

朝鮮国とも国交回復は成功した。

問題は、明との国交回復である。

国交回復すれば貿易の利が得られる。

その利益は膨大だ。

ところが、ここに一つ大きな問題があって

明と貿易をする一番の早道「冊封」を

徳川家はまったくするつもりがなかったということだ。

 

 

琉球の島津の「命令」に基づいて米を供出したことは

現代の感覚で言えば、厳しい言い方かもしれないが

「脅迫に屈し侵略の口実を与えた」ことであり

外交的には愚策と評価されてもやむを得ない。

ところが、朱子学的見地では

「野蛮人に米を与えて我が国の徳を示してやったのだ」という感覚になる。

「そんなバカな、なぜ現実を見ない」というのが

大方の読者の反応だろうが、それが朱子学なのだ。

朱子学とは現実を見ずに観念の中に逃避する傾向がある。

「歴史」についても現実より観念を重視するのが朱子学だ。

そして中華体制における「国教」はまさに朱子学なのである。

 

冊封使が来る前でも琉球王国はあくまで「王国」であって

先祖代々中国皇帝の家臣なのである。

その分を守ることは何よりも大切だ。

お手元に二千円札があったらご覧になるといい。

沖縄(琉球)を象徴するものとして描かれているのは

獅子(シーサー)でも「美ら海」でもない。

「守礼(しゅれい)の門」である。

守礼の門をなぜそう呼ぶかと言えば

そこには「守礼之邦(礼教体制に忠実な国)」

という額が掲げられているからだ。

日本の戦国時代には

毛利元就も織田信長も、頭を下げて和平を結び

油断したら討つというのが「常識」であった。

「頭は下げるが米を出さない国」日本と

「米は出すが頭を下げない守礼之邦」琉球

その対立はやがて頂点に達する。


 

この時代の琉球は、戦乱の時代はとうの昔に終わり

中国(明)という大国の「安全保障」の「傘」の下で

ほぼ、非武装状態で太平の夢に酔い痴れていた。

平たく言えば、王も人民も戦争経験など無いのだ。

そんな「平和ボケ」の国に血で洗う戦国時代を生き抜いてきた

島津軍が怒涛の如く攻め込んで来たのだ。

 

 

この時代の明が、薩摩の実質的な属領となった琉球王国に

なぜ

「お前の国は日本の領土ではないか。今度、来ることは許さん」

と言わずに

「十年に一度なら来てもよい」と言ったかといえば

それも中華思想だろう。

やはり朝貢国は多ければ多いほどいいのであって

一応は「独立王国」の形をとっている国から

「臣下としてお認め下さい」と言ってくれば断るのはもったいない。

それに

「お前の国は征服されたんじゃないか」と言い切ってしまえば

逆に

「子分の国琉球」への侵攻を許してしまった明の

「親分」としてのプライドが傷付いてしまう。

そこで

「朝貢自体は今後も認める。

ただしお前のところも大変だろうから十年に一回とする」という

皮肉な言い方の「半絶縁宣言」になったわけだ。

結局

琉球王国も、貿易の利を求めていた家康も薩摩藩も骨折り損に終わったのである。

徳川幕府が薩摩の琉球侵攻をやらせたのも

琉球を仲介者として日本と明との貿易を復活させるのが目的だった。

しかし、琉球と明の「パイプ」がこんなに細くなってしまっては

使者を出すことすらままならない。

それでも幕府は貿易再開をあきらめなかった。

1614年(慶長19)、家康の最晩年であり

大坂冬の陣が始まった年に、幕府は島津家久に対して

琉球王国を通じて明に対して貿易再開を求める書簡を出させた。

結果は、幕府の要求を明がまったく受けつけず

琉球を利用した幕府の対明講和交渉は失敗に終わった。

 

そして、この2年後

豊臣氏を滅ぼすという大仕事を成し遂げた徳川家康は、74歳の生涯を閉じる。

明との正式な講和

それはとりも直さず貿易再会という意味だが

戦国時代の生き残りで

貿易というものがいかに利を生むか知っていた家康は

ついに念願の日明貿易を再開することが出来ずに亡くなったわけだ。

しかし、琉球侵攻は幕府、薩摩藩、琉球王国の三者にとって

何の利益にもならなかったかといえば違う。

長い目で見ると、薩摩藩島津家だけは、この侵攻で大いにトクをしたのである。

それは領土が増えたという単純なことではない。

確かに侵攻そして占領によって

薩摩藩は幕府から琉球の支配権を認められ

新たに数万石の領土を得たことになる。

特産品も手に入れた。

だが、それよりも重大なことは

貿易の一大拠点である琉球を「植民地」として

将来にわたって密貿易の窓口として得たことだ。

確かにこの時点では「二年一貢」だったものが

「十年一貢」に減らされ、大打撃を受けた。

それは事実だ。

しかし、「禍い転じて福となす」というのは

まさにこのことで、幕府はこの失敗に失望し

また貿易積極論者の大御所家康が死に

名実ともに何事にも消極的な二代将軍秀忠の天下になったこともあり

次第に琉球の存在を活用しようという意欲を無くしていったのである。

さらに、その後、三代将軍家光の代に

キリシタン一揆島原の乱が起こったこともあり

幕府はいわゆる「鎖国」のカラに閉じこもっていくことになる。

ますます琉球の統治に関心を示さなくなっていくのだ。

これを薩摩藩側に立ってみれば

琉球は「植民地」そして「密貿易の基地」として

自由に使えるということであり

まさに長い目で見ると、薩摩藩は琉球を持っていたからこそ

財政を立て直すことも出来たし

明治維新つまり倒幕も出来たということである。

 

昔、初めて琉球史に関心を持った頃は、このことが一番不思議だった。

それは端的に言えば

幕府はなぜ薩摩藩に琉球を任せ切ってしまったのか

ということだ。

言うまでもなく薩摩藩は関ケ原の敗者である。

そうした外大名からは金山・銀山を取り上げ

逆に海外貿易を許さない、というのが幕府の基本政策だったはずだ。

つまり外様大名の財力を弱め

幕府に反乱を起こさせないようにするのが目的である。

であるならば、なぜ「宝の島」である琉球をみすみす薩摩に与え

「反乱力」をつけさせるようなバカなマネをしたのかといえば

これまで書いてきたことが答えである。

まず、琉球を薩摩によって征服させたことだ。

その命令に従って成功した以上は

薩摩にそれを褒美として与えねばならない。

「後知恵」で言うならば

家康はこれに旗本をあたらせればよかったのだ。

あるいは司令官を老中にして

兵を現地に詳しい薩摩藩から供出させようという手もあった。

こうすれば琉球は「幕府直轄(ちょっかつ)地」となる。

佐渡奉行や日光奉行のように琉球奉行を置けばよい。

なぜ、そうしなかったといえば

やはり私は家康の「老化」が最大の原因だと思っている。

歴史学者は個人の役割を大きく評価することはしないが

私は「徳川幕府」という「ワンマン会社」における

「独裁者家康」の役割は、他の時代よりもずっと大きかったと思う。

家康があと20年、せめて10年若ければ

徳川家による琉球征服を考えたであろう。

しかし70歳を超し

一方で豊臣氏という大敵を滅ぼさなければいけなかった家康は

ついつい最果ての国の征服はそれに最も近く

既得権を主張する島津家に任せてしまった。

後継者の秀忠が父親以上に積極的ならいいが

秀忠という男は律儀だけが取柄で父を超える能力はない。

そうした経緯で、琉球はいわば薩摩の「丸取り」になった。

極端なことを言えば、幕府は他の大名を取りつぶしたように

薩摩に難癖をつけて琉球を取り上げてしまう

という手も考えられないわけではなかったが

それを言うならそもそも関ケ原の戦いの折に

西軍に参加した島津家を、家康が取り潰しておくべきだった。

実際には、まだ豊臣氏の健在であったため

島津の徹底的な反抗にあって天下を取り落とす破目にならないかと

家康が恐れたために、島津家は生き残ったのだが。

 

琉球王国にとってはまさに

踏んだり蹴ったりだったが「利点」もあった。

琉球王国としての風俗や文化はそのまま保つことが許されたからだ。

理由は言うまでもなく、少なくとも外見上琉球は

「外国」でなければならないからである。

当然、明との交流すなわち朝貢も続けられた。

これは中国側から見れた「琉球は属国」という認識になり

このことが近代になって両国の対立を生み

日本側が強引な併合

「琉球処分(沖縄県への転換=1879年(明治12)

を生む背景となる。

 

それは近代になってからの話だが

薩摩藩はこの琉球を己の保身のために100%活用した。

たとえば、島津家第21代当主吉貴は

1710年(宝永7)官位昇進を幕府に認めさせた。

江戸時代の武家の官位は家格によって決まっており

新たな昇進というのはほとんど例がない。

それなのに、なぜ島津吉貴の要求が通ったかといえば

琉球は中国においては朝鮮国に次ぐ朝貢国であるのに

それを支配する薩摩の当主の官位が低くては

琉球に対して示しがつかないという言い分を認めたからだ。

いわば琉球は「ダシ」に使われたのである。

幕末において、琉球は薩摩藩の「ダミー」として

外交や貿易に様々に「活用」されるわけだが

それは「幕末編」に譲ろう。