↑こちらより抜粋

 

ここで、江戸時代の政治史を理解するために

最も重要なポイントを申し上げよう。

それは

「江戸幕府の米本位制という誤った貨幣制度を採用していた」

ということなのだ

江戸時代、幕府すなわち「官」においては米が貨幣であった。

給料も「五百石」「千石」といった米で支払われる。

にもかかわらず「民」の世界では既に貨幣経済になっている。

日本に来た朝鮮通信使の一人が

「日本では乞食でも銭を欲しがる」と驚いて書き残しているくらいだ。

なぜ「乞食」というかといえば「食物を乞う」からだ。

貧しくて自分の食べ物が無いので、そうする。

ところが日本では銭を欲しがるということは

「銭で何でも買える」ということなのだ。

これが「貨幣経済が発達している」ということである。

 

逆に言えば朝鮮は「官民ともに米本位制」だということでもある。

日本は朝鮮と違って室町時代から貨幣経済の発達した国である。

つまり江戸時代は「官」は「米本位制」なのに

「民」は「銭あるいは金銀本位制」だったということなのだ。

そして、この体制は農民にとってはまさに地獄なのである。

米を「お上」である「官」は「貨幣」として扱っている。

しかし、実際には金貨・銀貨・銅貨を発行しており

「民」は米本位制ではなく銭本位制だ。

米は商品の一つなのである。

「官」はそれを認めず、「貨幣」が増えれば財政は豊かになると信じ

農民に米を増産させ一粒でも多くしぼり取ろうとする。

米はあくまで商品だから、実際には増産すればするほど価格は下がり

米は蔵に山と積まれても、かえって財政は悪化することになる。

それは当然、米で給料をもらっている武士の収入が減ることもある。

武士はその米を売って(銭に替えて)生活しているのだから

米の価格が下がれば下がるほど困窮するわけだ。

 

その上に、幕府はせっかく貨幣(金・銀・銅貨)の発行権を持っているのに

貨幣改鋳(かいちゅう)

すなわち品位を落として発行量を増やすということを、しない。

それをしなければ、貨幣の数が少ないことによって

その価格は上昇し、逆にそれによって評価される商品の価格は下がる。

すなわちデフレになる。

これを、農民の立場から見ると、「官」が増産しろと命令するので

死に物狂いで働いたにもかかわらず、収入はどんどん目減りするということになる。

「官」も財政が苦しくなるから、ますます農民からしぼり上げようとし

農民はさらに苦しむことになる。

 

もう、おわかりだろうが、吉宗の「米将軍」という敬称(?)は

武士の目から見た「米問題に尽力した将軍」という意味なのだが

それを現代の視点で見れば「バカ将軍」いや「暴君」ということなのである。

米本位制に固執する限り、農民は絶対に救われないからだ。

「ゴマの油と百姓はしぼればしぼるほどー」と豪語し

実際に最大の実績をあげた、言葉を換えていえば

江戸時代の中で最も百姓をしぼり上げた「悪代官中の悪代官」

神尾春英(かんおはるひで)が、吉宗の忠実な部下だったということも

極めて納得がいくはずである。

逆に、この江戸政治史のキーポイントを理解しないで

小石川養生所(ようじょうじょ)を開設した

「名君吉宗」の側面ばかり強調されると

吉宗と神尾が結びつかなくなってしまう。

多くの日本人はそうであり、あなたもそうであったのではないか?

 

実際は「暴君吉宗と悪代官神尾」は

最大の実績をあげた「名コンビ」なのである。

では、この「農民地獄」はどのように政治を変えれば救済できるのか?

実に簡単なことで、とりあえず銭本位制にすればいいのである。

農民が苦しめられる最大の理由はここにあるのだから。

そして、そこまで思い切った策はとれないにしても

せめて貨幣改鋳をして供給量を増やせばいい。

そうすれば、米を増産すればするほど

収入は目減りするという苦労からは解放される。

 

しかし、江戸幕府はその当初から

この貨幣改鋳を「悪」ととらえており

最初にそれを大々的に行なった勘定奉行、荻原重秀は

儒教者、新井白石によって極悪人扱いにされた。

なぜ「悪」かといえば、善悪の判断基準が儒教だからである。

「貴穀賤金(きこくせんきん)」、政府たるもの

「賤しい金」など扱ってはいけない。

止むを得ず扱うならば、それを水増しして「悪貨」を作ってはならない。

前にも述べたが、果汁100%のジュースを売っていた業者が

それを水で薄めて同じ価格で売り出したら

今でも人は「サギだ」とか「インチキだ」と言うだろう。

江戸の為政者の多くはそれと同じ感覚で

「金の品位を落としながら前と同じ一両小判として発行する」

ことは「悪」と考えていたのである。

 

吉宗は止むを得ず貨幣改鋳に踏み切ったが

やはり「悪」だととらえていた。

しかし、「貨幣」と「商品」はまったく別物で

当然性質も違うのだが、この近代経済学では初歩の感覚が

幕府の政治家にはほとんど無かった。

だが、中にはほんの少数派だが貨幣改鋳あるいは商業重視の政策は

「悪」ではなく、社会情勢に応じてやるべきだと考えていた為政者もいた。

それが荻原重秀であり、尾張宗春であり、これから書く老中田沼意次なのである。

そして、萩原や宗春や田沼を「極悪人」として非難、糾弾した人々

それが新井白石であり徳川吉宗であり、吉宗の孫の老中松平定信であるのだ。

 

テレビ時代劇では、今でも白石、吉宗、定信は「善」で

萩原、宗春、田沼は「極悪人」である。

だが、本当にそうか?答えはもうおわかりだろう。

 

 

田沼意次といえば判で押したように必ず出される図像があった。

 

 

「まいない鳥」あるいは「まいないつぶれ」と呼ばれるもので

賄賂を取りまくった鳥がその重みで落ちた形を書いている。

江戸の頃「かたつむり」のことを「まいまいつぶり」と呼んだ。

それにかけて「まいない(賄賂)で潰れた」ということで

「まいないつぶれ」としたのである。

うまいシャレだ。

注釈には

「此虫常は丸之内にはい廻る

皆人銭だせ、金だせ まいないつぶれといふ」とある。

これが意次だというのである。

だから、戦前には弓削道鏡(ゆげのどうきょう)

足利尊氏と並んで日本史上の三大悪人とまで言われた。

 

しかし、道鏡や尊氏が本当の意味で悪人でないように

意次も実は悪人ではないのだ。

まず「まいないつぶれ」のイラストをよく見て頂きたい。

その鳥の背中にある家紋は「丸に十の字」である。

ところが田沼家の家紋は七曜星(しちようせい)なのだ。

これは大変おかしな話である。

そこに注目した歴史学者大石慎三郎は

「これは意次のことを指したのではない」と断言している。

 

その理由だが、まずこの原図が載せられている

「古今百代草叢書」は田沼失脚後50年以上たった後の作であり

ちょうど11代将軍家斉(いえなり)の治世下で

その岳父(将軍正室の父)である島津重豪(しげひで)が

権勢をふるっており、それを風刺した図であるというのだ。

言うまでもなく「丸に十の字」は島津家の家紋で

他の家はこの紋を使わない。

しかもこの「古今百代草叢書」には

「此鳥(の)駕籠(かご)は腰黒なり」

と注記があるが、腰黒という極めて格式の高い駕籠に乗れるのも

将軍岳父であった島津重豪以外は考えられないというのだ。

 

まさに、大石慎三郎の言う通りであって

特に「丸に十の字」という明確な判断部分があるのに

大石慎三郎以前の学者はなぜ揃いも揃って

こんな単純なことに気が付かなかったのだろう?

実はこれも筆者がたびたび指摘し

またこの「逆説の」存在理由にもなっている

「日本歴史学の三大欠陥」の一つ

「史料絶対主義」によるものなのだ。

それは「田沼は賄賂大好きの悪徳政治家」という偏見があるからだ。

その先入観をもって見てるから

冷静に見れば気付くべきところに気付かなくなるのだ。

しかも、私は今これを「偏見」と言ったが、彼等はそうは呼ばない。

彼等はこれを「学界の定説」と呼ぶ。

ではなぜ明らかにおかしなことが「定説」になってしまうかといえば

その理由こそ、まさに史料絶対主義なのである。

 

意次のライバルで、実際にも意次を失脚させることに成功した

後の老中松平定信は大変長生きをした人でもある。

30歳で老中に就任し「寛政の改革」を6年間行ない

36歳の時に退任した。

しかし、そこまでで人生の半分であった。

彼は72歳まで生きたからだ。

文章は得意で、名文家と呼ぶ人もいる。

一方、定信に追い落された意次は、退任後わずか2年で死んでいる。

定信は日記に「意次を殺してやりたい」と書くほどの意次嫌いだった。

 

意次の死後、幕府は田沼家の城である相良城(さがら)を取り壊した。

「藩の取りつぶし」はよくある話だが、城の取り壊しなど聞いたこともない。

江戸時代の大名は、移封されれば城を明け渡すのが常識だったから

城は公共財産でもある。

では、なぜ取り壊したかといえば、これは元からあった城ではなく

意次が城持ち大名の格式になるまで出世したからこそ作られた城なのだ。

つまり、築城者は意次自身であった。

そしてそれを焼却させたのは、新たに老中になった松平定信その人であった。

定信は意次がこの世に築いた城を残すことが許せなかったのだ。

このあたり、祖父で、尾張宗春の墓に

金網をかぶせて封じ込めた吉宗をほうふつとさせる。

まさに「粘着質」だ。

とにかく、意次は自分の政治に対して主張も弁明も不可能だった。

一方、定信は有り余る時間があり、意次のシンパを権力で潰すことも可能だった。

 

それにしても「定信一派」の情報操作は見事なものである。

「一人で書く日本通史」の大先達の明治の史家

徳富蘇峰(とくとみそほう)もまんまとダマされている。

田沼意次の実像はどのようなものだったのか?

それを語るには、まず吉宗以降の政治状況を語らねばなるまい。

前章では、将軍吉宗の政治は、特に経済政策はまるでダメであったと書いた。

なぜ、ダメであったかといえば「儒教の徒」である吉宗には

「経済とは生き物である」という真理がわからなかったからだ。

経済は、たとえてみれば動物のようなものであって

それを扱うには独自のルールやシステムを必要とする。

ところが「儒教の徒」である吉宗はそれが理解できず

人間に対するルールである法律によってコントロールできると考えた。

それは道徳の延長でもある。

 

つまり、貨幣改鋳のような経済的政策ではなく

倹約令のような人間の道徳に訴えるような法律で

経済をも支配できると考えたのだ。

経済は「動物」とたとえるのはそこのところで

ライオンを飼うにはそれなりのシステムが必要であって

人間の法律をライオンに理解させようと思っても

ハナから無理というものだ。

だが吉宗はそれをやった。

ただ、貨幣改鋳をして元文小判(げんぶん)を作るなど

一部現実的な政策に歩み寄った部分もあった。

これは吉宗が少年期に家臣の子として育てられたために

現実社会を知っていたからだろう。

 

その孫の松平定信となると、完全に「若様」として育てられ

実社会のことはまるでわからない。

その上に、吉宗以上の学問はした。

つまり、子供の頃から朱子学を叩き込まれたわけで

これでは吉宗以上の「バカ殿」になるのも当然というわけだ。

「昔の人間はバカだなあ」と笑ってはいけない。

今でも、日本の経済をコントロールしようとしている財務省は

東大法学部の出身者によって牛耳られている。

経済は経済学部の出身者が仕切るべきなのに

なぜそういうことになっているかといえば

これも儒教の悪しき名残なのである。

だが吉宗自身は、自分の政治は総じてうまく行ったと思っていたかもしれない。

この根拠は、幕府財政の黒字化には成功したからである。

この点、「ライバル」の尾張宗春が尾張藩の財政を破綻させたのとは対照的だ。

だから幕府であれ尾張藩であれ「政治の財政再建」という視点で見るならば

吉宗の方が上だったという評価もできる。

しかし、庶民の視点、特に農民の視点で見るならば

吉宗ほど民をしぼった「悪代官」はいない。

一方、宗春は逆に常に「金を落としてくれる」福の神のような殿様であった。

 

徳川将軍というのは、初代家康の意図により

2代秀忠以降は「バカでも務まる」という形を取っている。

老中(原則として5人)が合議した結果を将軍に上奏し

将軍はこれを決裁するだけでいい。

こうした形の方が、「和の民族」である日本人は落ち着くし

「後継ぎがバカ息子」の場合も幕府の機能は影響されないからだ。

つまり「将軍は何もしなくていいですよ。

ゾウキンがけ(実際の政治)は

老中以下が汗をかきますから」というのが

徳川幕閣(ばっかく)の基本方針なのだ。

 

だからこそ、「何事も慣例に従う」という政治になる。

しかし、それに飽き足らず、自分の政治をやりたいと思った場合

どうやってこの老中合議制に対抗するか?

それを考え出したのが綱吉であった。

綱吉は側用人(そばようにん)というワンクッションを

将軍と老中の間に置くことによって

結果的に老中合議の内容をコントロールすることに成功した。

ここが「知恵」の部分だが、側用人というものは

将軍が独自の政治をしたいという意欲を持っている時に

初めて必要とされるものなのだ。

「吉宗は側用人を置かなかったではないか」

という反論があるかもしれないが

実は側近の加納久通、有馬氏倫らを

「御側御用取次(おそばごようとりつぎ)」に任じて

同様の働きをさせている。

名称を変えただけなのである。

 

 

「大政奉還」とは

これまで徳川将軍家が天皇家から委任され預かっていた

「大政(日本の統治権)を

天皇家に「奉還(謹んでお返しする)というものだが

15代将軍徳川慶喜がこれを実行したのは

薩長連合が朝廷に工作して

「倒幕の密勅(みっちょく):幕府を倒せという天皇の秘密命令書)を

出させようとしていたのに対し、先手を打ったものだった。

先に政権を返上してしまえば、倒幕の根拠は無くなる。

しかし、朝廷の側でも突然政権を返されても準備は何も出来ていない。

 

そこで内大臣(朝廷の臣)でもある慶喜が

「朝廷政治」の主導権を握れるという計算があった。

それに対して、「大政奉還」後に

「倒幕の密勅」を手にした薩長連合は

あくまで武力による倒幕を目指し

「王政復古」の名の下にクーデターを起こした。

「王政(天皇親政)」に「復古(戻る)」という形をとって実は

(古い昔にはそんなものは無かったという理屈で)

関白や大臣をすべて廃止し

新しい政体(維新政府)を作るというものであった。

 

この後の展開は「幕末編」に譲るとして

ここで気が付いて頂きたいのは

幕末においては将軍も公家も下級武士も

もちろん天皇も

「かつて日本の統治権は天皇が保持していたが

それを将軍家(幕府)に委任した」と信じていることだ。

しかし、実際には、そんな事実は無い。

「何年の何月何日の〇〇天皇が××将軍に日本の統治を委任した」

などという項目は年表のどこを探しても無いのである。

 

あえて言うなら、平安時代末期から鎌倉初期にかけて

武士の代表者である「鎌倉殿」源頼朝(この時点でまだ将軍ではない)が

後白河法皇から「東国の支配権」や「守護・地頭の任命権」を獲得したこと

特に「守護(追捕使:ついぶし)」の職務権限について

「大犯(だいぼん)三箇条」を認めさせたことは、かろうじて

「朝廷から幕府への権限委譲」と言いうるかもしれない。

ちなみに「大犯三箇条」とは実質的な「警察権」と

「軍事指揮権」の委譲にあたる。

だが、日本の統治権まで委任したなどという歴史的事実は無い。

武士を警戒し死ぬまで頼朝を征夷大将軍にしなかった

後白河法皇が、なぜ「警察権」などはあっさり武家側に渡したかといえば

「ケガレ」「忌避(きひ)」という信仰が彼等にはあるからだ。

それが日本独特の「朝幕併存」という形につながっていく。

しかし、統治権については認めていない。

 

私は第5巻で、幕府政治というのは「暴力団がこの町を仕切っている」

というのと同じ感覚だと述べた。

下品なたとえで申し訳ないが「暴力団」が

「暴力」で法的根拠もないのに町を「仕切っている」のと

幕府(武家政権)が「武力」で法的根拠無しに

日本を「実質的に支配している」のとは極めてよく似ているのである。

重要なのは「法的根拠」というところで

「法的根拠」が無いものに、人は「権威」を認めない。

正当な支配者とは認められないからだ。

 

そこで、幕府の政治が700年も続く中で

思想的潮流として深く静かに続いていたのは

「幕府の支配の正当性をいかにして確立するか」

という課題の解決なのである。

この流れの大きな節目の一つが

徳川家康が朱子学を江戸幕府の公式な学問として認めたことだろう。

家康が朱子学を導入したのは

将軍家の権威を高め、諸大名が幕府に忠誠を誓い

「明智光秀」が出現しない体制を作るためだった。

 

しかし、これは何度も述べたが逆効果になった。

朱子学によれば覇者(武力によって天下を取った者)は

正当な王者ではないからだ。

それが尊王論(そんのうろん)となり

一方で天皇こそ日本人の「信仰の対象」

であるべきだと考えた儒学者でもあり神道家でもある

山崎闇斎(あんさい)が始めた垂加神道(すいか)によって

「日本的尊皇論」に変化していく。

「日本的」と言ったのは、あくまで本場中国の朱子学からみれば

日本の天皇家はまさに佐藤直方(なおかた)が主張したように

「王者」とは言えないからだ。

それが垂加神道の影響もあって

「天皇こそ日本の正統な王者」という

「日本的尊皇論」に変化していったのである。

 

だが、こういう傾向が進めば進むほど

幕府の権威は失墜してしまう。

ますます「暴力団と同じ」になってしまう。

では、こうした理念先行の尊王論に対し

現実に立脚し幕府の立場を正当化するような尊王論はなかったのか?

実はあった。それが国学による尊王論である。

将軍は、本来の主権者である天皇から

日本の統治権を委任されているに過ぎない。

この「大政奉還」の大前提にある考え方

これは「大政委任論」と呼ぶべきものだが

これを初めて明確な形で世に問うたのは

私の知る限り、国学者の本居宣長(もとおりのりなが)である。

本居宣長は「古事記」や「源氏物語」の研究で有名だが

実は「大政委任論」の理論構築という重大な業績をも成しているのである。

日本の統治権のことを「天下の御政」と表現し

それが天皇から将軍に「御任(委任)」されている。

そして、将軍は大名に地方政治を「御任」している

という考え方が「秘本玉くしげ」によって展開されている。

この「秘本」は宣長が仕えていた

紀伊徳川家の藩主徳川治貞に献上されたものである。

 

宣長がこれを献上したのが1787年(天明7)だが

その2年前の天明5年

江戸時代を代表する名君上杉治憲(はるのり)は

隠居に際し次期藩主治広(はるひろ)に

「伝国の辞」を与えている。

三か条からなる「辞(心得)」には

「国家も人民も大名家の私物ではなく預かり物である」

という思想が貫かれている。

ここには「誰から預かったか」は明確にされていない。

むしろ国家より人民を主体に考えていると解釈もできるが

いずれにせよ江戸時代の大名には

こうした「公」の概念が深く浸透していたのである。

皮肉なことに「公」という字を生み出した中国や

その影響を強く受けた朝鮮半島では

「民は労わるべきもの」という思想こそあったものの

人民と官は別物であって基本的には

「煮て食おうが焼いて食おうが勝手」という世界であった。

 

日本が東アジアの中で中国

朝鮮に先駆けて近代化できたのは

いちはやく開国したからではない。

中国はアヘン戦争などによって日本より早く開国させられている。

近代化というのは、ただ西洋の文物だけを移入すれば

達成されるというものではないのだ。

そういう意味では「明治維新」はもうこのあたりから

いや儒教が「日本的変容」を遂げた江戸時代初期から

既に始まっているのである。

 

ちなみに、上杉の師でブレーンとも呼べる人物が

儒学者細井平洲(へいしゅう)だが

平洲は徳川治貞の師でもあった。

また、前節で紹介した高山彦九郎の平洲の教えを受けたことがある。

儒学・国学そして神道が一体化して

いわば「天皇教」が形成されていた。

松平定信はこうした風潮の中では、むしろ保守主義者であり

幕府絶対主義なのだが、その定信にしても

天皇を軽視することはできなくなっているのである。

幕府は天皇を尊べばよい

そうすれば天皇から政治を委任された将軍を

大名は尊ぶようになり、すべて丸く収まるというのだ。

他ならぬ松平定信までこの意見を取った。

 

そして、こうした尊王論の隆盛に

決定的な役割を果たしたのが

定信の時代から将軍家斉の時代まで長く天皇そして

上皇として朝廷に君臨した光格天皇(こうかく)であった。

光格天皇はまさにそれまでの朝廷史を大きく変えた人物であった。

その理由を「幕末の天皇」の著者藤田覚氏は

光格天皇が閑院宮家という傍系から入って

皇位を継いだ人であったからと推測している。

つまり迎える側に、光格天皇を

その出自によって軽んじるような空気があり

それに反発したがゆえに、天皇としての自覚を強く持ち

天皇の権威の復活に力を注いだというのだ。

この推測はおそらく当たっているだろう。

そして、その光格天皇が為した最大の復活とは何か?

それは「天皇」という称号の復活なのである。

 

「天皇」とは日本の最も伝統的な君主の称号であり

その意味については諸説ある。

最も有力なのはそもそも「天皇」は中国の道教で

「北極星」を意味する言葉であって

それが転じて「天の中心(の王)であると考えられたというものだ。

また日本国内で「てんおう(天王)」と呼ばれていた君主の号に

「天皇」という字を当てたという説もある。

また成立の時期については

推古天皇つまり聖徳太子の時期であるという説と

壬申(じんしん)の乱に勝ち始めて「君主」として

絶対的な権力を確立した天武天皇の時代であるという説もある。

 

「天皇」という称号は「皇」という字に深い意味がある。

中華思想によれば、世界の中心が「中国」という国であり

それを治めるのが「皇帝」だ。

そして「中国」以外は基本的には

(中国文明以外に文明は存在しないから)

野蛮人の住む「地域」に過ぎない。

しかしこの「地域」の「首長」が

中国皇帝に使者を送り臣従を誓うと

「国王」に任ぜられ

その「国」は「中国皇帝の臣下としての王」

という位置付けが成されることになる。

逆に「周辺地域」がこれ以外の対応をすると

「無礼」ということで「征伐(せいばつ)」の対象にすらなる。

 

日本は地政学的に幸運であった。

日本と中国大陸の間には深い海があるからだ。

日本人も初めは中国皇帝に使者を送り

「国王」にしてもらって喜んでいた。

金印で有名な「委奴(わのな)国王」

あるいはそれ自体は発見されていないが

邪馬台国の女王卑弥呼も

「親魏:しんぎ(魏王朝の家臣である)倭王(わおう)」

という金印をもらったという記録がある。

 

だが民族意識の高まりの中で

「われわれは中国の臣下ではない」という誇りが生まれた。

それを端的に示すのが中国側の記録

「隋書東夷伝(ずいしょとういでん)」で

そこには「倭王が無礼にも「日出づる処の天子」と名乗り

皇帝を「日没する処の天子」と呼んだ国書を送ってきた」とある。

この倭王とは年代的に見て明らかに聖徳太子で

この使者は小野妹子だ。

つまり聖徳太子の時代(推古朝)に

既に中国との対等意識があったことがわかる。

この意識がなければ「向こうが皇帝なら、こちらは天皇だ」

ということにはならない。

ちなみに、それまで対外的には「倭国」であり

国内的には「大和」であった国が

「日本」と称するようになったのも

この対等意識が生まれたからだ。

これも「そちらが中国(世界の中心)なら

こちらは日本(日出づる処)だ」という対等意識がある。

 

天皇は、ある時から、天皇と呼ばれなくなっている。

鎌倉時代の天皇は亡くなった後では

後鳥羽天皇のように呼ばれたと思っているが

実は天皇ではなく「院」と呼ばれていた。

では、それは武家政権が出来て

相対的に天皇家の権威が低下してからのことなのか?

実はそれよりはるか昔の、冷泉天皇(れいぜい)

(在位967~969)の時代からなのである。

平安中期であり、武士はまだ出現していない。

 

なぜ、ここで突然「天皇」から「院」への

称号変更が行われたか定かではない。

ひょっとしたら、この時、実質的に天皇家を「支配」する形になった

藤原摂関家(せっかんけ)の意向が反映されているのかもしれないが

「冷泉院から後桃園院(ごももぞの)」まで

「57代約900年」も中絶していた天王号が

光格天皇によって「復活」されたのである。

松平定信VS光格天皇の政治抗争は

「尊号一件(そんごういっけん)」だけは定信がかろうじて

「一本」取ったものの、後は負け続けであった。

そして、この「負け」は天皇家の権威興隆、将軍家の権威失墜という

「ツケ」になって幕末という時代に強い影響を与えることになる。