天然記録 -79ページ目

プロビデンスの目
キリスト教で用いられるプロビデンスの目のデザインでは左目です。

この図章のルーツはエジプト神話にあるホルスの目にあるといいます。
中世からルネサンスにかけては三位一体の象徴としてデザインが用いられました。

ホルスの目は古代エジプトのシンボルで

エジプト神話のホルス神はハヤブサの頭部を持つ太陽と天空の神で

その右目は太陽を、その左目は月を象徴していました。

 

これは古事記に通じる所がある

 

そして左の御目を洗った時、成った神の名は

天照大御神《あまてらすおほみかみ》

次に、右の御目を洗った時に成った神の名は

月読命《つくよみのみこと》

 

そもそも世界中の神話は名前を変えた同じような物語らしいし

世界の神話の神様は自分本位で嫌いだ

プロビデンスの目は左目なら

日本で言う清い存在のはずのアマテラス?

ABEちゃんもアマテラス信仰だったらしい

 

 

過去参照

 

 

 

 

↑より抜粋

 

さて、日本には「消された文明」が他にもあると言ったら

読者は驚かれるだろうか?

実はその存在は遺跡や遺物ではなく

歴史学者が信奉してやまない文献によって証明出来るのである。

その文献とは日本民族の古典「古事記」

そしてキリスト教の聖典「新約聖書」である。

 

レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」といえば

世界の名画だが、この最後の晩餐のメニューは何かご存知だろうか?

実はこの点でダ・ヴィンチの絵は正確ではない。

この絵にあるような豪華なものではなかった。

メニューはパンと赤ワインなのである。

(血にたとえているから白ワインではない)

しかしイエスは、この「パンと赤ワイン」を

「自分の体(肉体)と血」にたとえているのである。

つまり「肉と血」はキリスト教において、きわめて神聖なものなのだ。

要するに、イエスを生み出したユダヤ民族は

もともと遊牧の民であったからだろう。

遊牧民族は日常的に動物を殺し、その肉を喰らい皮を身にまとう。

もっとも根本的な食糧である肉も

その肉を得るとき必ず流される血も

不浄なものであってはならない。

それが不浄なものであるとか

そもそも動物を殺すのは罪であるなどと考えていたら

遊牧民族は一日たりとも生きていけないからだ。

だからこそ彼らは、動物を

「神が与えてくれた食料」と考えるようになったのだろう。

 

そして、その考えは、ユダヤ民族のように遊牧を捨てて

農耕に励むようになってからも続いた。

考えてみれば、パンは小麦で、ワインはブドウで作られている。

これは両方とも農作物だ。

農業で得られる食料であって牧畜で得られる食料ではない。

にもかかわらずそれをあえて

「肉と血」にたとえるのが、彼らの文明なのだろう。

 

そして、この「肉と血」を尊重するという点では基本的にイスラム教も同じだ。

「豚肉はケガレている」というアッラーの言葉に基づくタブーはあるが

それ以外の肉は「神からの贈り物」として罪悪感なしに食べている。

また、インダス文明というよりもヒンズー教の世界と言ったほうがいいが

ここでは逆に「牛は神聖なものである」から

人間はそれを食べてはならないというタブーが存在する。

しかし、他の肉なら問題ない。

中国文明は肉食に関してはタブーはまったく無いと言ってよく

場合によってはライバルを殺してその肉、つまり人肉も食べたりする。

孔子の弟子の子路(しろ)が「肉の塩漬け(もちろん食べ物)」

にされたのは有名な話である。

では、日本はどうか?

 

日本にもじつは「新約聖書」

いやそれよりはるかに古く天地の成り立ちなどを記した

「旧約聖書」に比すべき古典がある。

「古事記」である。

 

そこに語られているのは

現在我々日本人が神道と呼んでいるもののもっとも古い形だが

その神道の最高神である天照大神

(アマテラスオオミカミ、太陽の女神)

がいかにして生まれたか、日本人は意外に知らない。

アマテラスの父親はイザナギノミコトであり、

その妻はイザナミノミコトであることは割と知られているが

多くの日本人はイザナギとイザナミが

「まぐわい」をした結果アマテラスがこの世に誕生したと思っている。

実はそうではないのだ、それは「古事記」に明記してある。

 

イザナギとイザナミが「まぐわい」をして

多くの神をこの世に誕生させたのは事実である。

しかしイザナミはアマテラス誕生以前にこの世を去ってしまった。

イザナギと「まぐわい」で火の神カグツチを孕んだのだが

分娩の時にカグツチの炎で陰部に大ヤケドを負って死んでしまったのだ。

死んだといっても肉体が消滅するわけではない。

古代信仰では死者はそのまま地下の黄泉国(よみこく)に行く。

そこで、愛妻イザナミのことが忘れられないイザナギは

彼女を連れ帰るために地下へ降りていった。

しかしイザナミは黄泉国で暮らすうちに

肉代にはウジがわき二目と見られぬ姿であった。

愛情がいっぺんに冷めたイザナギは

執拗なイザナミの追跡をかわし

やっとの思いで明るい地上に逃げて来る。

 

そこでイザナギはまず何をしたか?

 

「私は、なんとも醜い醜い、穢れた国に行っていたものだ。

だから、私は禊《みそぎ》をして、体を洗い清めよう」
 

ミソギをしたのである。

ミソギとは神道のもっとも重要な宗教儀礼の一つであり

具体的には清らかな水の中に身を浸(ひた)して

ケガレを「水に流す」ことである。

そしてその最中に重大な事件が起こった。

 

「そして左の御目を洗った時、成った神の名は

天照大御神《あまてらすおほみかみ》

次に、右の御目を洗った時に成った神の名は

月読命《つくよみのみこと》

御鼻(みはな)を洗った時に成った神の名は

建速須佐之男命《たけはやすさのおのみこと》」

 

おわかりだろう、神道の最高神アマテラスは

「もっともケガレのない清浄な状態」

からこの世に誕生したのである。

 

お気付きだろうか?

この「神道文化」は「遊牧(牧畜)文明」の対極にあるということを。

「動物食料文明」の常識を念頭に置いて

アマテラスの誕生を考えると

まずアマテラスは「まぐわい」とは

まったく無縁の隔絶された存在であることがわかる。

イエス・キリストも処女マリアから生まれたとされているから

「まぐわい」とは隔絶された存在であると思う向きもあるかもしれないが

それでもイエスはマリアという人間つまり

「動物の一種」の胎内から生まれていることをお忘れなく。

当然、イエスは母親の血にまみれてこの世に生まれて来たはずだが

そのこと自体はまったく問題にされていない。

一方、アマテラスはイザナギがミソギで

すべてのケガレを水に流したところで生まれている。

 

古代において日本ほど頻繁に首都(天皇の宮殿)を移転した民族はいない。

逆に、天皇一代ごとに首都を移転することは

経済的に見ても非効率きわまりないはずである。

では、その理由は何か?

それは宗教に基づく行為であることが多い。

この謎に対する答えを言えば

「日本の神道には、死穢(しえ)が諸悪の根源であるという

信仰があったからだ」ということになる。

これがまさに典型であるが、現代の専門の歴史学者の書く歴史は

宗教というものをほとんど無視しているので日本史の特徴が目に入らず

そもそも「なぜ首都を頻繁に移転したのか」という

謎の「抽出」が出来ない。

 

そもそもなぜ部落民たちは差別されたのか、その根源の理由である。

ここであえて近代以前に彼らは何と呼ばれたか

日本史の真理を追究するために述べておく。

「穢多(えた)」である。

大和言葉で言えば「ケガレ多し」

つまりこれが差別の理由であろう。

では、現実的に彼らはどういう仕事をしていたかと言えば

典型的なのは皮革(ひかく)業で

「動物を殺し血に触れる」職業である。

だから彼らの居住区は

差別する側の人々の居住区の「川向こう」にあった。

間に「流れる水」があればミソギ作用が働きケガレは伝染しない。

ただし橋をかけてしまってはその効果がなくなるから

一般的に見て「部落」は「橋のない川」の

向こうにあるということになるわけだ。

 

しかしここで改めて考えてみると

彼らの職業は「動物食料文明」圏においては

当たり前どころか必要不可欠なものであって

まったく差別されるいわれはないということに気が付くはずだ。

しかも日本史いや日本列島史を考えてみると

この地で最初に文明を築き上げた縄文人は

「動物食料文化」に所属する狩猟民族だということにも気が付く。

つまり部落差別とは、ちょうどインダス文明において

アーリア人が先住民族のドラビダ族を征服し被差別民としたように

先住民縄文人のいる日本列島に後から侵入した

「動物食料文明」とは対極の文明を持つ人々が

縄文人に対して行なった差別ではないかという解答が推定出来るわけである。

 

動物を殺すこと、その肉を食べることをタブーとしない

先住民の縄文人がいるところに肉など食べていかなくても

生きていける稲作民族である弥生人が

優秀な武器(青銅器や鉄器)を持って侵入し

縄文人を征服支配し、隷従させたために生じた差別と考えれば

この差別の根深さも納得がいく。

 

世界においてもっとも根深い差別のひとつであるユダヤ人差別も

キリスト教に基づいているから始末が悪い。

宗教に根を持つ差別はなかなか無くならないのである。

だからこそ、その弥生文明の頂点に立つ天皇家の宗教儀礼に

大嘗祭(だいしょうさい)など稲作に関するものはあっても

「血と肉」に関するものはまるでないのだろう。

 

また、部落差別は一般的に東へ行けば行くほどゆるくなる。

関西地方の人には信じられないかもしれないが

東北地方、とくに岩手県あたりでは

「部落」という言葉は差別語ではない。

それどころか一般的に山間部の集落のことをその住人が部落と呼ぶ。

これは本当の話である。

 

その理由は、弥生人は天皇家の神話に語られているように

九州あたりから縄文人のテリトリーに侵入し

西日本一帯をとりあえず征服したからだろう。

それゆえ、これらの地方では差別は厳しく実行された。

そうした「異教徒」たちを征服支配するために

平安京を建都した桓武(かんむ)天皇が創設したのが

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)なのだろう。

 

遷都を繰り返したのがようやく収まったのが

桓武天皇による平安京建都である。

その頃には大和朝廷の支配は一応確立し

蘇我氏などのライバルと血で血を洗う抗争は無くなった。

中大兄皇子:なかのおおえのおうじ(天智(てんじ)天皇)

のように、自ら剣をとって

蘇我入鹿の首を斬り飛ばさなくてもよくなったのである。

桓武天皇が征夷大将軍坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)

に軍事の指揮官を委託したのがその始まりと言うべきだが

天皇や平安貴族は時代が下がるに従って軍事警察から一切手を引いた。

 

この時代の国家の仕組みを形成する律令(りつりょう)制度は

もともと中国から輸入したものだから

軍事部門も警察部門もある。

この時代世界中どこの国でも国家反逆罪は死刑だが

その罪に問われた伴善男(とものよしお)も

菅原道真も死刑にはならなかった。

菅原道真は無罪の罪だが、一度は国家反逆罪の判決が下ったのだから

中国ならば一族郎党皆殺しにされていただろう。

だが平安時代には実質的に死刑は廃止されていた。

人権思想があったからではない。

国家に担当者が死の穢れに触れたくなかっただけの話である。

罪とケガレを「水に流す(流罪)」という形で処理したのだ。

 

だが、軍隊も警察も無いのでは治安は大いに乱れる。

京では食っていくためには「ケガレ仕事」でも引き受けるという

中級貴族を検非違使(けびいし)という特別警察に任じて

なんとかしのいだのだが、地方の乱れはいかんともし難い。

そこで、とくに関東にいた縄文人の末裔たちが

京から関東へ土着した元貴族たちを頭に頂き

自分の生命財産は自分の手で守るという集団を形成した。

これが武士団つまりサムライである。

彼らは元々「肉食系」だからケガレを恐れない。

戦争は得意中の得意だ。

そういうことで「手を汚したくない」天皇や貴族たちが

彼らを最初はガードマンとして

そして次第に国家の治安を担当する者として

政治の実権を委ねるようになった。

 

こうした中、最初に武士として殿上人(てんじょうびと)

つまり貴族の仲間入りをした平忠盛(たいらのただもり)

(清盛の父)に与えられた役職はどんなものかもうおわかりだろう。

そう刑部卿(ぎょうぶきょう)である。

 

現在と違って昔は

軍事権を掌握していなければどんな権力も没落する。

それが世界の常識だ。

日本の天皇家及び朝廷もこの例外ではなく「ケガレ忌避」

という宗教によって日本の統治者の座から転落した。

だが、ただひとつ世界のあらゆる権力と違うのは

政治の実権は武士の集団である幕府に奪われたが

天皇家の権威は保持され滅ぼされることなく続いたということである。

それは天皇家は神の子孫であり

どんな家系も取って代わることは許されないということの他に

やはり日本人にとってもっとも神聖なものは

「ケガレ」からもっとも遠い天皇家である

という信仰が確立していたからである。

 

日本には米を尊ぶという信仰がある。

子供の頃、父親や母親に

「お米はお百姓さんが丹精込めて作ってくれたものだから

一粒もおろそかにしてはいけないよ」と言われた人も

年配者の中には少なからずいるだろう。

しかし、そういう日本人も

お肉はそれを処理する人が丹精込めてしてくれたのだから

おろそかにしてはいけないよ」とは決して言わない。

新鮮な肉とは、「殺し立て」ですぐに「血抜き」をしたものである。

そういう処理をしなければ美味しい肉にはならない。

そういうことをしてくれる人の努力があってこそ

美味しい肉が頂けるのだが

日本人は食肉処理の担当者にはまったく感謝しない。

これが差別ということなのだが、食肉処理には必ず「動物の死」

という死穢(しえ)に触れる過程があるからである。

 

日本を一歩出ればキリスト教圏もイスラム教圏も

中国文明圏も、すべて肉食OKの世界である。

人口比で言うならば世界の5分の4がそうだ。

ところが世界の大文明圏で肉食がまったくダメなところが一つだけある。

言うまでもなく仏教圏で、肉食はダメだという理由は全然違うのだが

(仏教は生物に対する慈悲のため、神道は死穢に触れるのを避けるため)

禁止されているものが同じため、相性がよかった。

逆に仏教が生まれたインドでまったく滅んでしまったのは

肉食否定があの気候風土では

受け入れるのが難しかったことも理由の一つかもしれない。

仏教の教えを完全に実行するのは

弥生文化のように肉を食べなくても

生きていける豊かな農業社会がなければならないからだ。

 

一方、日本列島の先住民である縄文人にとっては

この神道+仏教の強力タッグは

ますます彼らに対する差別を助長させたと言える。

そもそも「肉食する人間は死穢にまみれている」という

弥生人からの強力な差別があるところに

「動物を殺すことは悪である」という教えが入って来たのだから。

 

 

それを縄文人の末裔に対しても適用するよう日本化したのが

鎌倉仏教の祖師たち、とくに親鸞(しんらん)であろう。

仏教はあくまでエスタブリッシュである弥生人のもので

非差別階級である縄文人のものではなかった。

そこで、縄文人の文化を引き継ぐ存在である武士が天下を取った鎌倉時代に

祖師たちは仏教を彼ら向きのものに変えたのである。

とくに親鸞は動物や魚介を日常的に殺している猟師や漁師たち

人間を日常的に殺している武士たち

これら縄文文化の末裔たちも救済の対象とした。

それまでは神道においても仏教においても

彼らは救われぬ人々であった。

しかし、彼らは社会の多数派でもある。

だからこそ彼らを救済の対象とした本願寺は

強大な力を持つことが出来たのだ。

 

ものすごく略

 

医療と葬儀は僧侶の担当なのである。

医者は出家した「ガイジン」だから

ケガレを超越しているのである。

これは僧侶も同じで、だからこそ彼らは

天皇や公家のいる宮中に参内(さんだい)

することが出来るのである。

なぜ仏教は日本に定着したのか、それどころか神道と合体して

神仏混淆(しんぶつこんこう)までしたのか?

ひと事で言えば、神道と相性がよかったからである。

 

つづく

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

こちらの本では農耕民族の渡来人が

狩猟民族の原住民の縄文人を支配した

というニュアンスだったけど疑問に思う

普通に考えれば狩猟民族の方が支配に有利

縄文人は優しく渡来人を受け入れ

徐々に農耕が発展して融合したのかも

支配の道具の稲作が浸透した後

干ばつなどで雨を降らせたりする支配者が登場

そもそも支配者は人間ではないのかもしれない

その支配者もその後、別の渡来人に乗っ取られ

敗者の女王が卑弥呼と変な名前を付けられ

歴史の謎となった邪馬台国と妄想

失われたイスラエル10支族は

歴史から本当に消されているという事

乗っ取り偽ユダヤに大昔から支配されている日本

ユダヤの痕跡が大昔から日本に沢山あるからといって

日本人のルーツはユダヤと誇ってはいけない

単に偽ユダヤに支配されているだけかもしれない

天皇も大昔2度入れ替わっているらしい

ユダヤ人は聖書によると

神(と名乗る悪魔)の奴隷らしいので

あまり誇れることではない

 

 

↑より抜粋

 

銅鐸(どうたく)とは謎の考古学的遺物である。

 

銅鐸最大の謎は何なのか?

それは多くの人が言うように

「宗教の祭器だとしても詳しい用途がわからない」

あるいは「なぜ、ある程度まとまって発掘されるのか」

ということではない。

「名前がわからない」ということなのである。

 

銅鏡は「かがみ」、銅剣は「つるぎ」であり銅矛は「ほこ」だ。

つまり、考古学用語以前に大和言葉としての呼び名が存在し

当然日本最古の古典とも言われる「古事記」にも

これらはすべて登場する。

にもかかわらず銅鐸は一切登場しない。

だから大和言葉でこれを何と言ったか

いまだにわからないのである。

近代になって日本の考古学者は

中国の比較的よく似た遺物「鐸(鐘)」にちなんで

銅製の鐸すなわち銅鐸と呼ぶようになったのである。

 

ご存知だろうか?

銅鐸というのは現在の鋳造(ちゅうぞう)技術を超える

「超ハイテク古代技術」で造られているのだ。

 

現在までに発見されている銅鐸は約500点でほとんどが

西日本から出土しているが、そのうち最大のものは

滋賀県野洲市の大岩山遺跡で発掘された大岩山一号銅鐸で

高さ134センチメートル、重量45キログラムに達する。

ところが、この銅鐸の厚さは約3ミリメートルから5ミリメートル

という、まさにとんでもないサイズなのだ。

現代の鋳造技術でもこれは復元出来ないという。

今なら旋盤(せんばん)で削ることが出来るから

同じようなものを造れないことはないが

昔はそんな便利なものはない。

ドロドロに溶かした銅を型に流し込むだけ

たったそれだけで厚さ5ミリメートル以下を再現しようとすると

必ず気泡などのいたずらで穴が開いてしまう。

それを完璧に防ぐ方法は今のところない。

 

そんなことを可能にするには、その背後に

相当な力量のある文明があったと考えるのが至当(しとう)だ。

では、それだけ大きなスケールを持つ文明の遺物が

なぜ人里離れた山の中や谷間でまとまって

廃棄処分になったような形で見つかるのだろう。

それは、この銅鐸をまさに宗教の祭器として使っていた文明が

別の宗教を持つ文明に圧倒され征服され

その宗教を否定されたと考えるのが一番合理的な考え方である。

 

銅鐸の中に吊り下げ音を鳴らすための棒を舌(ぜつ)というが

2015年(平成27)4月

兵庫県南あわじ市(淡路島)の南端で全国初めて

舌が銅鐸の内部に入った状態で発見された。

そして追加調査で舌が紐(ひも)で吊されていたこともわかったのである。

こう述べると多くの人は驚くだろう。

「えっ、今まで舌が吊された状態で見つかったことは一度もないのか!」

そうなのである。

これまで約500点も出土しているにもかかわらず

そういう状態のものが今まで一つもなかったのだ。

 

しかしこれは、考えれば考えるほど不思議な話である。

銅鐸とは要するに鐘である。

カウベルがそうであるように、鐘には舌が欠かせない。

そうしなければ鳴らすことが出来ないからだ。

これは一体どういうことか?

要するに銅鐸は「舌を抜かれた」のである。

人間と同じように、銅鐸も「舌を抜かれ」れば「死ぬ」。

そのようにして銅鐸を「殺して」おいて「死体」は山の中に埋めたのだろう。

ところが淡路島の南端のような中央から離れた地においては

征服者の追及も徹底されず、かろうじて舌を抜かれずに隠されたのであろう。

大和朝廷が覇権を確立する以前に、先行する文明を破壊消去した痕跡が

「舌を抜かれた銅鐸」ということである。

日本古代史において「消された文明」などと言うと

いまだにいわゆる「トンデモ学説」のように

捉えるという偏見がまだまだある。

 

ところで、最近は世界四大文明という言い方はあまりしない。

ラテンアメリカなど他の文明圏もあることがわかったからだ。

しかし人類を代表する文明であることは間違いない。

ご存知のように西から

エジプト、メソポタミア、インダス(インド)、黄河(中国)であり

これらの文明はすべて固有の文字を持っている。

エジプトはヒエログリフ、メソポタミアは楔形(くさびがた)文字

中国は甲骨(こうこつ)文字でこれらはすべて解読されている。

ところが、インダス文明の文字だけは

いまだに解読されていないという事実をご存知だろうか?

 

その理由は諸説あるが

もっとも有力な説はインダス文明を築いた人々が

後に侵入して来たアーリア人に征服され奴隷化され

彼らの文明は「消された」からだというものだ。

つまり、現在も存在するインドのカースト制度の中で

最下級とされ厳しく差別されている人々こそ

栄光あるインダス文明の築き手だったというのだ。

逆に征服者アーリア人は「奴隷の文化」などすべて消去したかったのだろう。

現在でもインダス文字を読めないのだから

その目論見はある程度成功している。

ただし遺跡や遺物などすべて消し去るわけにはいかなかったから

考古学はインダス文明の存在を証明することが出来たのである。

つまり、銅鐸は消された文明の痕跡ではないか、ということである。

 

実は先行する文明の宗教が弾圧されたという記録は

その弾圧の主体である大和朝廷が成立した以後の記録にも残っている。

大和朝廷の神聖なる祭器が「三種の神器」であることは

多くの人にとって常識であろう。

八咫(やたの)鏡、八坂瓊勾玉(やさかにのまがたま)

草薙剣(くさなぎのつるぎ)であるが

「国譲りの神話」にも触れられているとおり

かつては大和朝廷の対抗勢力であった出雲国の出雲族が

保存していた神宝を天皇に「没収された」ということが

「日本書紀」に明記されている。

 

「日本書記」崇神(すじん)天皇紀によれば

当時の出雲族の代表「出雲臣(おみ)」は出雲振根(ふるね)と言った。

ところが天皇は

この振根が旅に出て留守の間に振根の弟に命令を下し

「出雲大神の宮」に大切に保管されていた神宝を没収した。

旅から帰った振根は怒って弟を斬り殺したが

それを聞いた天皇は吉備津彦(きびつひこ)らを派して

振根を殺させたというものである。

私の知る限りでは、この時に没収された神宝はその後

歴史に登場しないし名前もわからない。

つまり、歴史から完全に「消された」のである。

 

日本人は言霊を信仰している。

言霊の世界では実体がなくても名前さえ残れば実体も残されたことになる。

だから抹殺しようとするならば

その言葉も「言葉狩り」して消さねばならない。

没収された神宝は銅鐸だったかもしれないが

ここが肝心だが、大和朝廷がそれを完全に抹殺するつもりならば

名前を記録してはいけないのである。

 

いや、ひょっとしたら大和朝廷の人々も

銅鐸を本当は何と呼ぶのか知らなかったのかもしれない。

卑弥呼とは名前ではなく称号である。

現代人の我々も外国人から

「あなたの国の一番偉い人は何と言うのだ?」

と聞かれれば、「天皇です」と答えても

「アキヒトです」とは言わないだろう。

ましてや古代の話である。

邪馬台国の外交官クラスの家臣でも女王の本名を知らなかった可能性は高い。

民俗学の泰斗(たいと)ジェームズ・フレーザーも言っているように

「古代において帝王の実名は固く秘密にされた」のである。

 

しかし銅鐸を完全に抹殺しようとしても

もし名前は何と言うのかが大和朝廷に露見していなかったら

言霊として銅鐸を残す方法はある。

それを出雲族の最高権力者の名前にするのである。

名前にして最高権力者が世襲すれば、言霊としての銅鐸は永遠に残る。

つまり、銅鐸とは「ふるね」と呼ばれていたのではなかったのか。

「ふるね」は「振根」ではなく「振音」である。

言うまでもなく「振って音を出す」ものだからだ。

 

念のためだがシャレを言っているわけでも

ふざけているわけでもない。

日本語の感覚として銅鐸のようなものを「ふるね」と呼ぶのは

決して違和感のある話ではないはずだ。

ただし、同じ言語を使っているからこそ

大和朝廷も薄々は気付いたかもしれない。

だから「ふるね」の「ね」表記を「音」から「根」にした。

こうすれば「音」は消せ、「舌を抜いた銅鐸」と同じものになる。

「出雲臣ふるね」という実体も殺した。

これで抹殺完了である。

 

それにしても、この「銅鐸文明」には

固有の文字はなかったのだろうか?

これほど力量を持つ文明が

固有の文字をまったく持たなかったというのは

実は世界の常識から見ればきわめて納得のいかない話なのである。

この点に注目し、銅鐸に鋳(い)込まれた「絵」が

実は絵文字ではないかという説を発表したのが

オリエント歴史学者の大場弘道氏であった。

だが、日本考古学界はこれを完全に無視した。

「隋書倭国伝(ずいしょわこくでん)」に

弥生時代の日本にやってきた中国人の見聞として

「無文字、唯刻木結縄(文字は無く、ただ木を刻み縄を結ぶのみ)

とあるから、日本には漢字(中国文字)伝来以前に

固有文字が存在しなかったというのが、通説になっていたらしい。

 

きわめて愚かな話だ。

これは中国人の書いた文章である。

何度も述べたように、中国人は自分の文化だけを文化と考え

それ以外のものは「野蛮人の所行」としか考えない。

だから「邪(よこしま)」馬台国とか

「卑(いやしい)」弥呼とか

「蒙古:無知蒙昧(むちもうまい)で古くさい」

などという漢字を当て字に使う。

 

ここでも中国人が言っている「文字」というのは

自分たちの文化だけが使用している「漢字」のことであり

彼らの感覚では

「他に文字というものはこの世に存在しない」のである。

もっとわかりやすく言えば、中国人にとっては

エジプトの文字もメソポタミアの文字も

「文字」ではないのだ。

それが、世界史をやると身に付く常識である。

 

「木を刻む」とは、粘土板に刻みつける

メソポタミアの楔形文字と形は同じかどうかわからないが

それと同じようなやり方で「書く」文字があった。

そして世界四大文明以外に、古代文明の栄えた土地として

最近加えられたラテンアメリカのインカ帝国には

キープという文字があった。

これはまさに縄を結んで文字を表すものである。

 

今でこそ紙という便利なものがあるが昔はそういうものがなかった。

だから粘土板に刻んだり、石に彫ったり、縄を結んだりしたのである。

ちなみに琉球王国ではワラザンという藁の結び目を

近代に至るまで帳簿に使っていた。

また子供の遊びだが、起源はわからないほど古いものに

「あやとり」がある。

ひもの張り方で様々な「絵」を描くことの出来るものだが

ではなぜ「ひもとり」ではなく「あやとり」と呼ぶのか?

 

それは「あや」が「文」であるからではないのか。

つまりコミュニケーションの手段だったからでは無いのか。

そういうことを言うと、いやそれは「文」ではなく

布の模様を表す「綾」のことだと茶々を入れる人もいるが

それならなぜ「言葉の綾」という言葉があるのか。

つまり、あやとりは、昔は文字や文章は「綾」

すなわち模様や絵で表現された時代があったという

証拠ではないのか。

 

つづく

 

 

 

 

 

 

 

 

銅鐸は天文観測カレンダー説

この本では

日本人だけでやりとげた明治維新になっている

海外勢力が糸を引いていたとは思っていない

すでに気づかれないように日本は乗っ取られているので

昔のように戦争で守るような日本はどこにもないけど

2016年時点でも改憲派の著者

今出ている28巻までには考えは変わってるだろうか?

この本で25年目の節目なので

過去の考えの修正の補遺編も初めてあった

 

↑より抜粋

 

明治という元号は、中国に「易経」の「聖人南面而聴天下、嚮明而治」

(聖人が北極星のように顔を南を向けて

とどまることを知れば、天下は明るい方向に向かって治まる)

という意味で、「夜明け前」を暗示し、「聖天子(天皇)が公明正大

(公平で、良心に恥じるところがなく正しいこと)に政治を行う」

という意味である。

 

これまでに何度か候補に上がった元号であったというが

同じような元号候補(公表されていない)数点の中から

明治天皇が「くじ」で引き当てたので選ばれたという。

これと同時に「一世一元の詔(みことのり」が発せられた。

これまでの慣例を改め元号は天皇一代につき一つと定める

ということである。

 

この制度は現代も踏襲(とうしゅう)されているが

この時の改元が今と違うのは、改元の日となった

慶応4年9月8日(和暦)からではなく

その年の1月1日にさかのぼって明治元年にしたことである。

すなわち、慶応4年1月1日から9月7日までは存在していたのに

「消された」ということになる。

しかし、西洋暦(グレゴリオ暦)の採用はこれから4年後だから

この時点では和暦が続いていることにも留意して頂きたい。

 

また、この時点で江戸は東京と改称されていたが

まだ遷都は行われていない。

江戸を東京と呼ぶべきだと初めて主張した人は

経世家、佐藤信淵(のぶひろ)である。

薩摩蕃の財政再建にも貢献した人物だが

早くから日本近代化のための「列島改造計画」を立案しており

その中で「江戸は東京と改称すべし」と主張していたのだ。

 

この主張に大久保利通は賛成していた。

だが、それは首都を東京にするという意味ではなかった。

元号を変えたように、旧幕府の臭いがある江戸から

心機一転のために東京とすべきだと考えていたので

首都については大坂(のちの大阪)を考えていた。

港も大きく瀬戸内海にも太平洋にも出られる

開かれた都市だからである。

 

一方、京は盆地で古い建物も多く

新時代の首都にはふさわしくないと考えたのだ。

ところが、当時京に住んでいた大久保の仮宅に投書をした者がいた。

前島来輔(まえじまらいすけ)という署名のある投書は

「首都を大坂ではなく東京にすべきだ」という意見が述べらていた。

 

第一に、大坂は経済の中心地で首都に定めなくても繁栄は続くが

東京は政治的な都市だから首都にしないと

さびれてしまうということであり

第二に、蝦夷地(北海道)を開拓するためにも

東の大都市である東京を首都にしたほうが

国土全体のバランスから見ても適切であるということ

第三に、新政府のために官庁や官舎を多数建設せねばならないが

大坂だとゼロから作らねばならず費用がかかる。

 

しかし東京なら旧幕府の施設を流用すればタダで済む

というものだった。

大久保が一番納得したのは

ひょっとしたら三番目の理由だったかもしれない。

新政府にはカネがなかった。

ここにおいて現実主義者である大久保はただちに考えを改め

東京を首都とすべしと新政府の方針を決定した。

 

大久保の考えを180度転換させた前島来輔なる人物は

後に「日本郵政制度の父」となる前島密(ひそか)であった。

「POST」という言葉の正式な訳語を「郵便」と定めたのも前島だ。

ただ幕末の時点では前島は幕臣で

「敵の大将」である大久保には伝手(つて)がなく

やむを得ず「投書」したのだと言われている。

後に新政府に仕えた前島が投書の主だと知った大久保は

大変驚いたと伝えられる。

 

西日本ではすでにこの年の正月頃から

中国路では福山城、四国路では伊予松山城、九州では唐津城など

旧幕府方の城が次々に無血開城し、新政府側に降伏していた。

問題は、東北地方の奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱん)である。

明治天皇も崇徳(すとく)院への宣命(せんみょう)の中で

「奥羽の賊徒(ぞくと)をなんとかしてください」と訴えており

東日本はまだまだ戦火が続いていた。

 

とにかく確実なのは

列藩同盟は本気で新政府軍と対抗するつもりだった。

その最大の理由は、会津藩に対する

松平容保(まつだいらかたもり)死罪を含む

理不尽な処分に対する義憤があったからだろう。

しかし足並みは乱れていた。

一口に東北と言っても広い。

北部においては秋田地区が激闘を繰り返し

新潟地区ではまさに血で血を洗う戦いを続けていた。

だが、これらの戦いも7月末頃までには決着がつき

庄内藩を除く列藩同盟の各藩は新政府に降伏した。

最後まで戦いが続いたのが、福島・宮城地区である。

 

土佐藩の板垣退助を将とする新政府軍は

海路常陸(ひたち)国(茨城県)平潟(ひらかた)に上陸した。

そして陸戦で仙台藩を中心とする列藩同盟軍を破り

主力を仙台ではなく会津に向けた。

列藩同盟の盟主格は大藩の仙台藩だが、精神的な支柱は会津藩である。

どちらを先に叩くか議論は分かれたが、板垣は会津攻撃を主張した。

結局、この方針が採用され、新政府軍は二本松城を陥落させ会津にせまった。

後の記録では明治元年とされているが

実際は慶応4年(1868)8月のことである。

会津藩は、まさか新政府軍が仙台を攻めず

いきなり攻めて来るとは予測しなかったようだ。

兵力を分散しており、城下の防衛体制も不完全であったため

たちまち会津若松城は新政府軍によって厳重に包囲されてしまった。

 

最大の問題は会津藩自体の近代化が著しく遅れていたことだ。

大河ドラマ「八重の桜」でも見られたように

この期に及んでも会津兵の多くは旧式のヨロイを身につけていた。

新政府軍がミニエー銃を採用して以降は

旧式のヨロイを身につけることは何の役にも立たない。

敵弾は貫通するばかりかケガが重くなる。

破壊されたヨロイの一部が体に食い込むという

とんでもない副作用があったから

目先のきく武士はヨロイを脱ぎ捨てた。

元新撰組の土方歳三がそうだったし

会津藩でも留学経験のある山川大蔵(のち浩)もそうしていた。

 

だが、鳥羽・伏見の戦いで痛い目にあったはずなのに

会津においては残りの武士たちは戦国時代と同じ武装をしていた。

いや、正確に言えば同じではない。

信長も秀吉も前田利家も、鉄砲を有効な武器として認め

自ら用いることもあったが、会津武士たちは

「鉄砲は足軽の持つもの」という

江戸時代朱子学が導入されて以降の因循(いんじゅん)

な考え方から抜け出すことができなかった。

 

 

会津藩は薩摩との太いパイプがあった公用人

秋月悌次郎(あきづきていじろう)を

信長が秀吉を使ったようには活用出来ず

もっとも重要な時期に、蝦夷地代官に左遷するという愚を犯す。

「もっとも重要な時期」というのは

これ以後良好だった薩摩・会津両藩の関係が完全に崩壊し

薩長同盟が成立したからである。

確かに秋月が京で公用人として活動していても

この流れを押し止めることはできなかったかもしれないが

少なくとも情報として早目にキャッチし

対応策を取ることは不可能ではなかったはずだ。

だから、おそらく「秋月は本来公用人をつとめられる家柄ではない」

という理由で蝦夷地に左遷したのは、会津藩首脳部の大失態なのである。

 

しかし、会津側には

「そもそも将軍徳川慶喜(よしのぶ)が悪いのだ」という反論があろう。

それは確かに正しい。

本来なら国政に関与する立場になかった会津藩を

無理矢理引きずり込んだのは幕府であるし

散々手を汚させておきながら、その経緯を熟知していた慶喜は

最後の最後で自分は逃げを打ち会津藩を見捨てた。

 

前に、慶喜は武士道に照らすなら切腹すべきだと言った。

その時に「会津には寛典:かんてん(寛大な恩典)を」

と遺言すべきだったと思う。

しかし、慶喜はそれどころか列藩同盟が

会津を許すよう嘆願(たんがん)した時も知らん顔をして

何の救いの手も差し出さず会津を放ったらかしにした。

そして新政府軍の猛攻で力尽きた会津藩はついに

明治元年(1868)9月22日開城降伏した。

 

会津人にしてみれば、孝明天皇の時代には

天皇から絶対の信頼を受けており

将軍家も会津藩を頼りにしていた。

それなのに、という思いは痛切にあった。

 

白虎隊の悲劇もあった。

元服したばかりの、あるいは元服前の

戦士としてはきわめて未熟な少年たちが戦場に出され

19名が切腹自殺した事件だが

この事件の最大の問題点は彼らは戦死したのではなく

ベテランの指導者とはぐれてしまったために

落城していない城が落ちたと誤認して自殺してしまったことである。

死ななくても済んだのに死んだ、ということだ。

また、これは白虎隊に限らないが

会津藩のもう一つの悲劇は戦場に倒れた彼らの遺体を

新政府側が葬ることを許さなかったことだ。

朝敵・賊軍だからである。

彼らの遺体はすべて野ざらしのままだった。

だから、会津の無念はよくわかる。

 

だが、明治は薩長全盛の世の中で

「賊軍」会津の言い分は聞いてもらえない。

そんな中、若松城籠城(ろうじょう)戦にも参加した山川浩は

明治政府に軍人として仕え功績を上げることによって発言権を得

人生の最後に「京都守護職始末」を書き

主君松平容保(かたもり)が

真の意味での朝敵ではなかったことを後世に証言した。

(本を完成させたのは弟の健次郎らしい)

容保が孝明天皇の深い信頼を得ていたことなど

この証言が無ければ闇に葬られていたかもしれない。

山川浩こそ、もっとも忠義を尽くした会津武士と言えるだろう。

 

さて、明治元年(1868)に起こった旧幕府の抵抗だから

これをその年のエトで戊辰(ぼしん)戦争と呼んでいるわけだが

実際に旧幕府勢力の抵抗は翌明治2年まで続いた。

その意味でこの呼び方は正確ではないかもしれない。

その最後の抵抗とは、旧幕府海軍副総裁

榎本武揚(えのもとたけあき)を将とする

「蝦夷共和国」によるものである。

 

新政府軍が会津若松城を包囲したのが

明治改元直前の慶応4年8月23日のことだったが

その4日前の19日、榎本はかねてから自分の指揮下で

保持していた「開陽(かいよう)」ら

旧幕府海軍の主力艦を含む八隻の艦艇ごと、北へ逃亡した。

すでに述べたように、蝦夷地を占領し

旧幕府の「領土」としようとしたのだ。

その時点で、榎本は天下の新政府の非を訴えた檄文(げきぶん)を出した。

 

「天皇の下に政治が一新されること自体は

民衆の幸福につながるものだから我々も望んでいる。

しかし、現在行われている政治は

公明正大をうたいながらも内実はそうではない。

新政府軍が関東に現れるや、わが主君(徳川慶喜)は

朝敵の汚名を着せられてしまった。

これだけでも問題なのに

新政府は我々の領地、財産をすべて没収したばかりか

先祖の墳墓(ふんぼ)にさえ手を出した。

 

こんな不公平があろうか。

これは数少ない一部の大名が

己の欲望のままに行なっている政治であり

真の天皇の政治ではない。

我らがこのことを帝に訴えようとしても

その道は閉ざされており、何も通じない。

そこで我々は皇国の真の団結のために

この地を脱出することにした。

それは皇国をして真に列強と肩を並べる国家にするためである。

志を持つ各界の人々よ、我が言を聞け!」

 

こうして榎本は艦隊を率いて箱館(のちの函館)へ向かった。

ただし、全艦すんなり蝦夷地まで行けたわけではない。

榎本艦隊に加わっていた、日本初の太平洋横断を成し遂げた

「咸臨丸(かんりんまる)」は、銚子沖で暴風雨にあって

反対の駿河湾沖まで流されてしまった。

実は、すでに老朽化した蒸気エンジンをはずしており

帆走能力しかなかったのでこんな破目に陥ったのだ。

そこで同じ艦隊の「蟠竜(ばんりゅう)」が救援に向かい

曳航(えいこう)して目的地に向かおうとしたが

新政府海軍に発見されたため曳綱を切って

「蟠竜」だけが脱出した。

 

残された咸臨丸は包囲され新政府海軍の集中砲火を浴び

沈没はしなかったものの乗組員の多くが死に

その遺体は清水の浜に打ち上げられた。

9月11日のことだ。

彼らは戦死したとはいえ

8月23日に死んだ会津白虎隊の面々より

幸福だったかもしれない。

白虎隊士も他の会津藩士も「朝敵、逆賊」として埋葬が許されず

遺体が野ざらしにされたのに対し

「咸臨丸」の乗組員は砂浜に丁重に埋葬されたからである。

地元の侠客(きょうかく)「清水の次郎長」こと

山本長五郎が、新政府軍の制止を振り切ってそうしたのだ。

新政府軍の役人も次郎長の貫禄に一目置いたということなのだろう。

 

一方、榎本は圧倒的な海軍力を駆使し無防備同然の箱館を占領した。

明治元年10月25日のことである。

海軍とはいえ、十隻に満たない一艦隊だけで

新政府と対抗するのは夢物語だと考えている人がいたら

それは違うと申し上げよう。

肝心なのは津軽海峡の距離、つまり本土と蝦夷地は

どれくらい離れているか、である。

関門海峡なら、小舟を何十隻も用意しておいて

海を押し渡ることも不可能ではないが

津軽海峡はそうはいかない。

大型の輸送船はむろんのこと、小舟でも距離があるから

すぐには渡れず戦艦の艦砲射撃のエジキになる。

つまり箱館を占領地として維持していくことは

決して夢想ではなく実現性のあることだった。

 

しかし、当然新政府海軍は津軽海峡の制海権を奪おうと

戦いを挑んでくるだろうから、占領地が維持出来るかどうかは

海軍力の優位を保てるかどうかにかかってくる。

実は旧幕府は1868年の時点で最強とも言える戦艦を

アメリカに発注し、その船がすでに日本に回航されていた。

英名「ストーンウォール」直訳すれば「石の壁」だが

日本ではこれを「甲鉄艦(こうてつかん)」と呼んだ。

つまり、この最強の戦艦がどちらの陣営のものになるかは

この「箱館戦争」の行方を決めるほどの重大事であった。

 

当時、国際法では交戦団体という概念があった。

内戦が激しい状態の国家において

他国は自国民の権益を守るためには

必ずしも政府側に味方するわけにはいかない状況になることがある。

たとえば

反乱軍が自国民が多く居留している都市を占領した場合などである。

そこで、このような場合、政府も反乱軍も

一つの「政権」として認めて中立を保つという便法があった。

これが交戦団体としての承認ということである。

そして、これが成立すると、中立を厳正に保たねばならないので

たとえば代金支払い済みの兵器でも、内乱の片がつくまで

一方に渡してはいけないことになる。

「ストーンウォール」は、幕府が買い付け代金を支払ったものだったが

新政府は「政権交替」したのだから自分たちに引き渡すよう

アメリカに要求した。

だが、もし「箱館政府」が交戦団体として各国に認められるなら

アメリカは新政府に「ストーンウォール」を

引き渡してはならないことになる。

 

それが榎本の目論見だったのだが、失敗に終わった。

各国は「榎本反乱軍」を政権とは認めなかった。

総計数千人の軍のみでは政権の資格はないという判断だったのだろう。

この政権は後世「蝦夷共和国」と外国人に呼ばれたが

実は榎本はそうは名乗ってないし「共和国」とも言っていない。

では、なんと自称していたのかと言えば、諸説あって確定していない。

ただし、新政府とは違う「団体」であることを示さねばならないから

船や占領した箱館奉行所には日の丸を掲げていた。

皮肉なことに新政府のほうはこれと区別するために

菊の紋章の旗を掲げていたようだ。

 

 

だが、榎本軍にも「開陽」がある。

これがある以上、まだ対抗できる。

「開陽」は当時は世界最大級の戦艦で、もちろん日本最大だった。

ライバルの「甲鉄艦」(ストーンウォール)にも大きさでは勝っていた。

ただこの船は鉄の装甲で全面をカバーしており

砲撃に対してきわめて強い。

日本最強というならこちらかもしれない。

しかし、「開陽」は「甲鉄艦」と戦うことはついになかった。

戦闘ではなく、事故で沈没してしまったからだ。

11月15日、江差(えさし)沖で暴風雨にあって座礁し沈没してしまった。

燃料の石炭の積み込みが足りなかったのである。

エンジンが動いている間は何とか風雨に耐えていたが

燃料が切れた途端に「タダの帆船」になり座礁してしまったのだ。

この江差出撃は実は必要なものではなかった。

陸戦において榎本軍は勝ち続けており

応援が必要な状況ではなかったのに、榎本があえて派遣したという。

士気を高めるためにわざわざ派遣したという説もある。

とにかく「開陽」は、実戦でほとんど戦うこともなく

無用の航海の末に事故で沈没した。

 

 

「甲鉄艦」は敵のものとなり「開陽」は失った。

まさに「泣きっ面にハチ」で、これでは勝てない。

そこで「箱館政府」は窮余(きゅうよ) の一策として

「甲鉄艦」を分捕ってしまおう、という作戦を立てた。

その幹部から陸軍奉行並に推された元新撰組の

土方歳三らを中心にして「甲鉄艦分捕り作戦」は実行に移された。

明けて明治2年(1869)2月25日

ついに新政府は箱館追討の命を発し

3月9日江戸湾を新政府海軍の艦隊が出撃した。

もちろん「甲鉄艦」も参加している。

「分捕り作戦」の実行地点は、宮古湾(岩手県)と決まった。

当時、補給地となっており、新政府艦隊が寄港することが確実視されていた。

 

敵はまさか攻めて来るとは思っていないだろうから

この奇襲はその意味では成功の確率は高かった。

ところが、榎本軍はあくまで不運だった。

この作戦には「蟠竜」「高雄」「回天(かいてん)」

の三隻が参加する予定だったのだが、「蟠竜」は暴風で離脱し

「高雄」は機関が故障してしまい、現地にたどりついたのは

「回天」だけだったのだ。

 

しかし、作戦は決行された。

「甲鉄艦」を奪わない限り、榎本軍の勝利はないからである。

「回天」は「甲鉄艦」の横腹に突っ込み

「T」字形となって先端部分から乗り移ろうとした。

ここで第二の不運があった。

両艦の高低の差である。

「回天」の方が甲板が高い位置にあった。

ということは乗り移るためには飛び降りなければいけない。

高低差は約3メートルもあったという。

これでは戦う前にケガをする公算が大きい。

そればかりではない。この頃になると新政府軍も

新兵器のガトリング砲を装備しており

「回天」の先端部分から一人ずつのような形で

「甲鉄艦」に飛び移ろうとした榎本軍の兵士は

片っ端から狙い撃ちにされた。

こうなっては仕方がない。

「回天」は撤退したが、敵のガトリング砲は艦橋に向けられ

指揮を執っていた艦長、甲賀源吾(こうがげんご)を即死させた。

 

この海戦の一部始終を見届けていたのが

後に大日本帝国海軍連合艦隊司令長官となる

東郷平八郎であった。

東郷は新政府艦隊の「春日」に若手士官として

乗り込んでいたのだ。

後に、東郷はこの海戦を回想しているが、それによると

「回天」はアメリカ国旗を掲げて宮古湾に進入して来たようだ。

そして攻撃直前、星条旗を下ろし日の丸を掲げ一気に攻め込んで来たと言う。

また東郷は甲賀源吾を「勇士」として褒め讃えている。

 

また、この作戦を司馬遼太郎は小説「燃えよ剣」において

土方歳三の発案であったように書いているが

確かにそうだと言う証拠はない。

確かに土方は天才的な「喧嘩師」であり

この後陸戦において散々新政府軍を悩ませたのは事実だから

そういうことがあっても不思議はない。

ただ、この作戦が「アボルダージュ(移乗攻撃)」という

フランス語名で伝えられていることから見ても

榎本軍に同行していた軍事顧問の

ジュール・ブリュネ大尉らが考えたことだとするのが自然だ。

正確には「元大尉(たいい)」である。

 

彼らは徳川幕府と懇意であったナポレオン三世の命令によって

幕府に軍事顧問として派遣されていたのだが

幕府崩壊後に出た帰国命令を拒否し

自分の意志で榎本軍に参加したからだ。

これは厳しく見れば「脱走」であり重罪に問われても文句は言えない。

(実際、帰国後問題とされた)

しかし、そのリスクを冒してまで

榎本軍に義勇兵として参加していたのだから

彼らの侠気(きょうき)はもっと評価されるべきだろう。

「開陽」が

「将来を有望視されながら戦場に出た途端に事故死した若手士官」なら

「回天」は「古参中の古参(こさん)でありながら

老兵となっても死ぬまで戦い続けた兵士」であろうか。

 

明治2年(1869)の3月26日、新政府艦隊は青森湾に入った。

榎本軍は「開陽」を失い「甲鉄艦」の奪取(だっしゅ) には失敗した。

これで新政府軍が津軽海峡を安全に渡る目途がついたわけだ。

こうなっては万事休すだ。

すでに述べたように、榎本が「蝦夷共和国」を維持するためには

津軽海峡も制海権を確保し続けなければならなかった。

兵士の数は新政府軍が圧倒的に多いのである。

彼らを渡海させてしまっては多勢に無勢で勝ち目はない。

数が少ない榎本軍(総勢3500人)は守りようがない。

 

こうした中、新政府軍は兵士を次々と増派し

箱館総攻撃の態勢を整えた。

5月初頭のことである。

そして5月2日、それまで義勇兵として榎本軍に参加していた

ジュール・ブリュネ元大尉らフランス兵士は

ついに榎本軍本営の五稜郭(ごりょうかく)を脱出した。

これは逃亡したというより榎本が敗色濃厚とみて脱出させたようだ。

榎本軍は敵艦が箱館湾に侵入出来ないようにケーブルを張ったが

これも発見され切断されてしまった。

 

榎本海軍は「回天」と「蟠竜」の二隻だけになっていた。

もう一隻「千代田形(ちよだがた)」というのがあったのだが

この戦争の最中に座礁し艦長が艦を放棄した後に

満潮で船が離礁し漂流しているところを新政府軍に奪われるという

世界海戦史でも稀な(マヌケな)形で失ってしまったのである。

新政府軍はこの二隻を沈めてしまえば、津軽海峡も箱館湾も

完全に勢力下に置くことができる。

制海権の確立だ。

 

ついに5月11日、海陸双方による箱館総攻撃が始まった。

新政府軍の旗艦は「甲鉄艦」でこの他に

「春日丸」「朝陽丸(ちょうようまる)」他三隻がいた。

ちなみに「朝陽丸」とは、幕末長州藩における朝陽丸事件の船である。

この「朝陽丸」が海戦冒頭に榎本軍の「蟠竜」の砲撃を受けて撃沈させられた。

これは「蟠竜」の大手柄だったが、不運にも「蟠竜」はこの後座礁してしまう。

残った「回天」は両艦隊の中でもっとも古い船(外輪式)だったが大奮戦した。

見事な操船で縦横無尽(じゅうおうむじん)に動き回り敵を散々悩ませたが

「甲鉄艦」のアームストロング砲にトドメを刺された。

「回天」は自ら座礁し、乗組員は艦を脱出して

「蟠竜」の生き残りと共に弁天台場の守備兵と合流した。

座礁した船は使用可能な部分を引きはがし

新しい船に利用するのがこの時代の常だったが

新政府軍は「蟠竜」にも「回天」にも放火し焼き尽くした。

よほどこの二隻が憎かったのだろう。

「回天」は三昼夜燃え続けたという。

 

以上のようなことを頭に入れておけば

なぜこの日に土方歳三が弁天台場を応援するために

五稜郭を出撃したかわかるだろう。

単純に死に場所を求めたのではない。

五稜郭に籠城できない以上、拠点の弁天台場を死守しなければ

明日はないからだ。

しかし、500名ほどの兵を率いて弁天台場に向かった土方は

途中の一本木関門(いっぽんぎかんもん)で敵と激しく交戦し

前線の兵を叱咤していたが戦死した。享年35。

ついに弁天台場も陥落し、新政府軍は箱館湾突入の態勢を完全に整えた。

 

翌12日、箱館湾を制圧した「甲鉄艦」から五稜郭へ艦砲射撃が加えられた。

しかし、これは威嚇的なもので総攻撃ではなかった。

というのはその日の夜に、新政府軍参謀の

黒田清隆(きよたか)の意を受けた「軍使」が

榎本を訪ねて来て降伏を勧告したからである。

つまり、艦砲射撃でいつでも五稜郭は破壊出来る。

だから無用の戦いはやめようということだろう。

しかし、榎本はこれを拒否した。

ただ、自分がオランダから持ち帰った

当時日本には一冊しかなかった貴重本、国際法の専門書

「海律全書(かいりつぜんしょ)」を黒田に贈った。

新政府のために役立てて欲しいということだ。

また、傷病兵の後送を申し入れ認められた。

そうこうするうち15日には、孤軍奮闘していた弁天台場が降伏した。

海軍からの逃亡兵も守備兵に加わっていたため糧食が尽きたのだ。

 

黒田は「海律全書」への返礼として

酒五樽と酒肴(しゅこう)を五稜郭へ贈った。

夕刻榎本は新政府軍へ数時間の停戦を申し入れ

それが了承されると最後の酒宴を張った。

そして協議の上で降伏を決定、この後榎本は責任を取って

自刃(じじん)しようとしたが、部下に発見され止められた。

 

翌17日、榎本は黒田に会い正式に降伏を申し入れた。

そして18日、榎本軍は全軍武装解除され

兵士は捕虜となってここに戊辰戦争は終了した。

(正確には戊辰(つちのえたつ)から

己巳(つちのとみ)の2年間に及んだ内戦)

翌年、兵士のほとんどは釈放され

生き残った幹部の榎本武揚、松平太郎、大島圭介ら7名は

東京で投獄されることになった。

 

ちなみに、大阪は旧幕時代は大坂と表記したが

「坂」は「土に反(かえ)る」で縁起が悪いということもあり

(大坂城も鳥羽・伏見の戦い直後に失火で焼失している)

また御一新という風潮でもあり「大阪」と改名表記するようになった。

同じように「箱館」も戊辰戦争終了後は「函館」と表記するようになった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

レプは5⃣を隠すための罠だと思うけど

病気はますます増えるので、また外出禁止になる前に

いろいろ9月のうちに買っておいた方がいい

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今度の枠のタイミングよい暴露本で思ったのは

結局両建て、お金儲けかも…と

災害を煽って防災グッズも売れる

不健康な人にはこのサプリとか

サプリより食べ物の栄養の役割を教えてくれる方が信用できる

サプリも添加物まみれと聞いて買う気はしないので

食べ物の栄養素はネットで情報はあふれているので自分で調べられる

でも、農薬とか遺伝子組み換え野菜とかあるからそれも鵜呑みにはできない

イベルメクチンも反枠は救世主扱いだけど劇薬指定

即行で治るような薬は信用しない方がいい

陰謀暴露系YouTubeも話の続きは課金に誘導

ネットにお金情報は入れたくないので

ファンだとしても私はそこまでの話で充分

無料だとしても政府が無料で提供するものすべては裏があり

税金で大企業や医者は潤うので結局癒着

ホンモノは地道に地味に活動しているという事

 

気づいた人への誘導

仮想通貨も既存の通貨システムに対抗する救世主ではない

今ではお金儲けのツールに成り下がっている

デジタル管理を抵抗なく受け入れる完全支配の為の罠としか思えない

デジタル誘導は、これからは悪魔の代理の人間ではなく

彼らの支配の偽科学が人間を通して進歩した今

悪魔儀式をしなくても、異次元の悪魔が

直接支配できる世界にしたいからではないかと妄想

だから支配層、その手下もいらなくなるため

裕福層から自主的になるよう大金を強奪して

その層を消滅させるための罠なのかも

 

新しい通貨システムは、完全人間管理には理想的

紙幣を持ち歩かない人はシステムが故障すると、買えないという不便を起こし

それを懸念して最終的には人体にチップを埋め込んで(それか何度も枠で注入)

個人情報丸わかりで、信用スコアを付けられるディストピアの世界

その悪魔の計画は最後は失敗すると聖書も日月神示も

世界中のスピ系も同じ事を言っているので

その世界になる心配はなさそうだけど

その前に人類に地球規模の大災害か戦争があるらしいので

それで良くなる前に死んだら

その結末を見ないで死ぬのは終末ゲームとしてはもったいないと思う

そもそも今考えている事はすでにあの世に筒抜けで

スコアみたいなものは付けられているらしい

 

感情があるのは、恐ろしい事が起こるこの地球だけというし

それを体験したいから、死んでもまた生まれたいと思うのかなぁ

私は、子供の頃からこの世界は怖くて仕方なくいつも泣いていたし

何でまたこんな世界に来ちゃったんだろうとうんざりしてたけど

いろいろ体験しないともったいないとも潜在意識では思っていた

家で好きな事をしてた方がいいので、思っていてもしてないけどね

 

お金を絶滅させるのが支配からの脱出

 

↓1年前くらいからたまに観ているYouTubeに「ん?」

この方が過去にハマったフラットアーサー批判もそう

自分も陰謀追ってたのにどうしてこのタイトル?

怪しい陰謀論にハマる人は沢山いるけど

アカラサマに小ばかにするのは

幼稚園児に大人が幼稚な事やってんなぁと

マジ説教してるのと同じような感じで変なマウント

陰謀通りに世界は動いているのは事実なので

すべてを否定してしまうのは論点がずれてると思う

コーヒー大好きから一変、コーヒー批判

カフェインが悪いとの事だけどそれだけではない

その農薬が悪いと思う

小麦アレルギーも小麦が悪いのではなく、その農薬が原因