武器商人がちらつく戊辰戦争の結末 | 天然記録

この本では

日本人だけでやりとげた明治維新になっている

海外勢力が糸を引いていたとは思っていない

すでに気づかれないように日本は乗っ取られているので

昔のように戦争で守るような日本はどこにもないけど

2016年時点でも改憲派の著者

今出ている28巻までには考えは変わってるだろうか?

この本で25年目の節目なので

過去の考えの修正の補遺編も初めてあった

 

↑より抜粋

 

明治という元号は、中国に「易経」の「聖人南面而聴天下、嚮明而治」

(聖人が北極星のように顔を南を向けて

とどまることを知れば、天下は明るい方向に向かって治まる)

という意味で、「夜明け前」を暗示し、「聖天子(天皇)が公明正大

(公平で、良心に恥じるところがなく正しいこと)に政治を行う」

という意味である。

 

これまでに何度か候補に上がった元号であったというが

同じような元号候補(公表されていない)数点の中から

明治天皇が「くじ」で引き当てたので選ばれたという。

これと同時に「一世一元の詔(みことのり」が発せられた。

これまでの慣例を改め元号は天皇一代につき一つと定める

ということである。

 

この制度は現代も踏襲(とうしゅう)されているが

この時の改元が今と違うのは、改元の日となった

慶応4年9月8日(和暦)からではなく

その年の1月1日にさかのぼって明治元年にしたことである。

すなわち、慶応4年1月1日から9月7日までは存在していたのに

「消された」ということになる。

しかし、西洋暦(グレゴリオ暦)の採用はこれから4年後だから

この時点では和暦が続いていることにも留意して頂きたい。

 

また、この時点で江戸は東京と改称されていたが

まだ遷都は行われていない。

江戸を東京と呼ぶべきだと初めて主張した人は

経世家、佐藤信淵(のぶひろ)である。

薩摩蕃の財政再建にも貢献した人物だが

早くから日本近代化のための「列島改造計画」を立案しており

その中で「江戸は東京と改称すべし」と主張していたのだ。

 

この主張に大久保利通は賛成していた。

だが、それは首都を東京にするという意味ではなかった。

元号を変えたように、旧幕府の臭いがある江戸から

心機一転のために東京とすべきだと考えていたので

首都については大坂(のちの大阪)を考えていた。

港も大きく瀬戸内海にも太平洋にも出られる

開かれた都市だからである。

 

一方、京は盆地で古い建物も多く

新時代の首都にはふさわしくないと考えたのだ。

ところが、当時京に住んでいた大久保の仮宅に投書をした者がいた。

前島来輔(まえじまらいすけ)という署名のある投書は

「首都を大坂ではなく東京にすべきだ」という意見が述べらていた。

 

第一に、大坂は経済の中心地で首都に定めなくても繁栄は続くが

東京は政治的な都市だから首都にしないと

さびれてしまうということであり

第二に、蝦夷地(北海道)を開拓するためにも

東の大都市である東京を首都にしたほうが

国土全体のバランスから見ても適切であるということ

第三に、新政府のために官庁や官舎を多数建設せねばならないが

大坂だとゼロから作らねばならず費用がかかる。

 

しかし東京なら旧幕府の施設を流用すればタダで済む

というものだった。

大久保が一番納得したのは

ひょっとしたら三番目の理由だったかもしれない。

新政府にはカネがなかった。

ここにおいて現実主義者である大久保はただちに考えを改め

東京を首都とすべしと新政府の方針を決定した。

 

大久保の考えを180度転換させた前島来輔なる人物は

後に「日本郵政制度の父」となる前島密(ひそか)であった。

「POST」という言葉の正式な訳語を「郵便」と定めたのも前島だ。

ただ幕末の時点では前島は幕臣で

「敵の大将」である大久保には伝手(つて)がなく

やむを得ず「投書」したのだと言われている。

後に新政府に仕えた前島が投書の主だと知った大久保は

大変驚いたと伝えられる。

 

西日本ではすでにこの年の正月頃から

中国路では福山城、四国路では伊予松山城、九州では唐津城など

旧幕府方の城が次々に無血開城し、新政府側に降伏していた。

問題は、東北地方の奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱん)である。

明治天皇も崇徳(すとく)院への宣命(せんみょう)の中で

「奥羽の賊徒(ぞくと)をなんとかしてください」と訴えており

東日本はまだまだ戦火が続いていた。

 

とにかく確実なのは

列藩同盟は本気で新政府軍と対抗するつもりだった。

その最大の理由は、会津藩に対する

松平容保(まつだいらかたもり)死罪を含む

理不尽な処分に対する義憤があったからだろう。

しかし足並みは乱れていた。

一口に東北と言っても広い。

北部においては秋田地区が激闘を繰り返し

新潟地区ではまさに血で血を洗う戦いを続けていた。

だが、これらの戦いも7月末頃までには決着がつき

庄内藩を除く列藩同盟の各藩は新政府に降伏した。

最後まで戦いが続いたのが、福島・宮城地区である。

 

土佐藩の板垣退助を将とする新政府軍は

海路常陸(ひたち)国(茨城県)平潟(ひらかた)に上陸した。

そして陸戦で仙台藩を中心とする列藩同盟軍を破り

主力を仙台ではなく会津に向けた。

列藩同盟の盟主格は大藩の仙台藩だが、精神的な支柱は会津藩である。

どちらを先に叩くか議論は分かれたが、板垣は会津攻撃を主張した。

結局、この方針が採用され、新政府軍は二本松城を陥落させ会津にせまった。

後の記録では明治元年とされているが

実際は慶応4年(1868)8月のことである。

会津藩は、まさか新政府軍が仙台を攻めず

いきなり攻めて来るとは予測しなかったようだ。

兵力を分散しており、城下の防衛体制も不完全であったため

たちまち会津若松城は新政府軍によって厳重に包囲されてしまった。

 

最大の問題は会津藩自体の近代化が著しく遅れていたことだ。

大河ドラマ「八重の桜」でも見られたように

この期に及んでも会津兵の多くは旧式のヨロイを身につけていた。

新政府軍がミニエー銃を採用して以降は

旧式のヨロイを身につけることは何の役にも立たない。

敵弾は貫通するばかりかケガが重くなる。

破壊されたヨロイの一部が体に食い込むという

とんでもない副作用があったから

目先のきく武士はヨロイを脱ぎ捨てた。

元新撰組の土方歳三がそうだったし

会津藩でも留学経験のある山川大蔵(のち浩)もそうしていた。

 

だが、鳥羽・伏見の戦いで痛い目にあったはずなのに

会津においては残りの武士たちは戦国時代と同じ武装をしていた。

いや、正確に言えば同じではない。

信長も秀吉も前田利家も、鉄砲を有効な武器として認め

自ら用いることもあったが、会津武士たちは

「鉄砲は足軽の持つもの」という

江戸時代朱子学が導入されて以降の因循(いんじゅん)

な考え方から抜け出すことができなかった。

 

 

会津藩は薩摩との太いパイプがあった公用人

秋月悌次郎(あきづきていじろう)を

信長が秀吉を使ったようには活用出来ず

もっとも重要な時期に、蝦夷地代官に左遷するという愚を犯す。

「もっとも重要な時期」というのは

これ以後良好だった薩摩・会津両藩の関係が完全に崩壊し

薩長同盟が成立したからである。

確かに秋月が京で公用人として活動していても

この流れを押し止めることはできなかったかもしれないが

少なくとも情報として早目にキャッチし

対応策を取ることは不可能ではなかったはずだ。

だから、おそらく「秋月は本来公用人をつとめられる家柄ではない」

という理由で蝦夷地に左遷したのは、会津藩首脳部の大失態なのである。

 

しかし、会津側には

「そもそも将軍徳川慶喜(よしのぶ)が悪いのだ」という反論があろう。

それは確かに正しい。

本来なら国政に関与する立場になかった会津藩を

無理矢理引きずり込んだのは幕府であるし

散々手を汚させておきながら、その経緯を熟知していた慶喜は

最後の最後で自分は逃げを打ち会津藩を見捨てた。

 

前に、慶喜は武士道に照らすなら切腹すべきだと言った。

その時に「会津には寛典:かんてん(寛大な恩典)を」

と遺言すべきだったと思う。

しかし、慶喜はそれどころか列藩同盟が

会津を許すよう嘆願(たんがん)した時も知らん顔をして

何の救いの手も差し出さず会津を放ったらかしにした。

そして新政府軍の猛攻で力尽きた会津藩はついに

明治元年(1868)9月22日開城降伏した。

 

会津人にしてみれば、孝明天皇の時代には

天皇から絶対の信頼を受けており

将軍家も会津藩を頼りにしていた。

それなのに、という思いは痛切にあった。

 

白虎隊の悲劇もあった。

元服したばかりの、あるいは元服前の

戦士としてはきわめて未熟な少年たちが戦場に出され

19名が切腹自殺した事件だが

この事件の最大の問題点は彼らは戦死したのではなく

ベテランの指導者とはぐれてしまったために

落城していない城が落ちたと誤認して自殺してしまったことである。

死ななくても済んだのに死んだ、ということだ。

また、これは白虎隊に限らないが

会津藩のもう一つの悲劇は戦場に倒れた彼らの遺体を

新政府側が葬ることを許さなかったことだ。

朝敵・賊軍だからである。

彼らの遺体はすべて野ざらしのままだった。

だから、会津の無念はよくわかる。

 

だが、明治は薩長全盛の世の中で

「賊軍」会津の言い分は聞いてもらえない。

そんな中、若松城籠城(ろうじょう)戦にも参加した山川浩は

明治政府に軍人として仕え功績を上げることによって発言権を得

人生の最後に「京都守護職始末」を書き

主君松平容保(かたもり)が

真の意味での朝敵ではなかったことを後世に証言した。

(本を完成させたのは弟の健次郎らしい)

容保が孝明天皇の深い信頼を得ていたことなど

この証言が無ければ闇に葬られていたかもしれない。

山川浩こそ、もっとも忠義を尽くした会津武士と言えるだろう。

 

さて、明治元年(1868)に起こった旧幕府の抵抗だから

これをその年のエトで戊辰(ぼしん)戦争と呼んでいるわけだが

実際に旧幕府勢力の抵抗は翌明治2年まで続いた。

その意味でこの呼び方は正確ではないかもしれない。

その最後の抵抗とは、旧幕府海軍副総裁

榎本武揚(えのもとたけあき)を将とする

「蝦夷共和国」によるものである。

 

新政府軍が会津若松城を包囲したのが

明治改元直前の慶応4年8月23日のことだったが

その4日前の19日、榎本はかねてから自分の指揮下で

保持していた「開陽(かいよう)」ら

旧幕府海軍の主力艦を含む八隻の艦艇ごと、北へ逃亡した。

すでに述べたように、蝦夷地を占領し

旧幕府の「領土」としようとしたのだ。

その時点で、榎本は天下の新政府の非を訴えた檄文(げきぶん)を出した。

 

「天皇の下に政治が一新されること自体は

民衆の幸福につながるものだから我々も望んでいる。

しかし、現在行われている政治は

公明正大をうたいながらも内実はそうではない。

新政府軍が関東に現れるや、わが主君(徳川慶喜)は

朝敵の汚名を着せられてしまった。

これだけでも問題なのに

新政府は我々の領地、財産をすべて没収したばかりか

先祖の墳墓(ふんぼ)にさえ手を出した。

 

こんな不公平があろうか。

これは数少ない一部の大名が

己の欲望のままに行なっている政治であり

真の天皇の政治ではない。

我らがこのことを帝に訴えようとしても

その道は閉ざされており、何も通じない。

そこで我々は皇国の真の団結のために

この地を脱出することにした。

それは皇国をして真に列強と肩を並べる国家にするためである。

志を持つ各界の人々よ、我が言を聞け!」

 

こうして榎本は艦隊を率いて箱館(のちの函館)へ向かった。

ただし、全艦すんなり蝦夷地まで行けたわけではない。

榎本艦隊に加わっていた、日本初の太平洋横断を成し遂げた

「咸臨丸(かんりんまる)」は、銚子沖で暴風雨にあって

反対の駿河湾沖まで流されてしまった。

実は、すでに老朽化した蒸気エンジンをはずしており

帆走能力しかなかったのでこんな破目に陥ったのだ。

そこで同じ艦隊の「蟠竜(ばんりゅう)」が救援に向かい

曳航(えいこう)して目的地に向かおうとしたが

新政府海軍に発見されたため曳綱を切って

「蟠竜」だけが脱出した。

 

残された咸臨丸は包囲され新政府海軍の集中砲火を浴び

沈没はしなかったものの乗組員の多くが死に

その遺体は清水の浜に打ち上げられた。

9月11日のことだ。

彼らは戦死したとはいえ

8月23日に死んだ会津白虎隊の面々より

幸福だったかもしれない。

白虎隊士も他の会津藩士も「朝敵、逆賊」として埋葬が許されず

遺体が野ざらしにされたのに対し

「咸臨丸」の乗組員は砂浜に丁重に埋葬されたからである。

地元の侠客(きょうかく)「清水の次郎長」こと

山本長五郎が、新政府軍の制止を振り切ってそうしたのだ。

新政府軍の役人も次郎長の貫禄に一目置いたということなのだろう。

 

一方、榎本は圧倒的な海軍力を駆使し無防備同然の箱館を占領した。

明治元年10月25日のことである。

海軍とはいえ、十隻に満たない一艦隊だけで

新政府と対抗するのは夢物語だと考えている人がいたら

それは違うと申し上げよう。

肝心なのは津軽海峡の距離、つまり本土と蝦夷地は

どれくらい離れているか、である。

関門海峡なら、小舟を何十隻も用意しておいて

海を押し渡ることも不可能ではないが

津軽海峡はそうはいかない。

大型の輸送船はむろんのこと、小舟でも距離があるから

すぐには渡れず戦艦の艦砲射撃のエジキになる。

つまり箱館を占領地として維持していくことは

決して夢想ではなく実現性のあることだった。

 

しかし、当然新政府海軍は津軽海峡の制海権を奪おうと

戦いを挑んでくるだろうから、占領地が維持出来るかどうかは

海軍力の優位を保てるかどうかにかかってくる。

実は旧幕府は1868年の時点で最強とも言える戦艦を

アメリカに発注し、その船がすでに日本に回航されていた。

英名「ストーンウォール」直訳すれば「石の壁」だが

日本ではこれを「甲鉄艦(こうてつかん)」と呼んだ。

つまり、この最強の戦艦がどちらの陣営のものになるかは

この「箱館戦争」の行方を決めるほどの重大事であった。

 

当時、国際法では交戦団体という概念があった。

内戦が激しい状態の国家において

他国は自国民の権益を守るためには

必ずしも政府側に味方するわけにはいかない状況になることがある。

たとえば

反乱軍が自国民が多く居留している都市を占領した場合などである。

そこで、このような場合、政府も反乱軍も

一つの「政権」として認めて中立を保つという便法があった。

これが交戦団体としての承認ということである。

そして、これが成立すると、中立を厳正に保たねばならないので

たとえば代金支払い済みの兵器でも、内乱の片がつくまで

一方に渡してはいけないことになる。

「ストーンウォール」は、幕府が買い付け代金を支払ったものだったが

新政府は「政権交替」したのだから自分たちに引き渡すよう

アメリカに要求した。

だが、もし「箱館政府」が交戦団体として各国に認められるなら

アメリカは新政府に「ストーンウォール」を

引き渡してはならないことになる。

 

それが榎本の目論見だったのだが、失敗に終わった。

各国は「榎本反乱軍」を政権とは認めなかった。

総計数千人の軍のみでは政権の資格はないという判断だったのだろう。

この政権は後世「蝦夷共和国」と外国人に呼ばれたが

実は榎本はそうは名乗ってないし「共和国」とも言っていない。

では、なんと自称していたのかと言えば、諸説あって確定していない。

ただし、新政府とは違う「団体」であることを示さねばならないから

船や占領した箱館奉行所には日の丸を掲げていた。

皮肉なことに新政府のほうはこれと区別するために

菊の紋章の旗を掲げていたようだ。

 

 

だが、榎本軍にも「開陽」がある。

これがある以上、まだ対抗できる。

「開陽」は当時は世界最大級の戦艦で、もちろん日本最大だった。

ライバルの「甲鉄艦」(ストーンウォール)にも大きさでは勝っていた。

ただこの船は鉄の装甲で全面をカバーしており

砲撃に対してきわめて強い。

日本最強というならこちらかもしれない。

しかし、「開陽」は「甲鉄艦」と戦うことはついになかった。

戦闘ではなく、事故で沈没してしまったからだ。

11月15日、江差(えさし)沖で暴風雨にあって座礁し沈没してしまった。

燃料の石炭の積み込みが足りなかったのである。

エンジンが動いている間は何とか風雨に耐えていたが

燃料が切れた途端に「タダの帆船」になり座礁してしまったのだ。

この江差出撃は実は必要なものではなかった。

陸戦において榎本軍は勝ち続けており

応援が必要な状況ではなかったのに、榎本があえて派遣したという。

士気を高めるためにわざわざ派遣したという説もある。

とにかく「開陽」は、実戦でほとんど戦うこともなく

無用の航海の末に事故で沈没した。

 

 

「甲鉄艦」は敵のものとなり「開陽」は失った。

まさに「泣きっ面にハチ」で、これでは勝てない。

そこで「箱館政府」は窮余(きゅうよ) の一策として

「甲鉄艦」を分捕ってしまおう、という作戦を立てた。

その幹部から陸軍奉行並に推された元新撰組の

土方歳三らを中心にして「甲鉄艦分捕り作戦」は実行に移された。

明けて明治2年(1869)2月25日

ついに新政府は箱館追討の命を発し

3月9日江戸湾を新政府海軍の艦隊が出撃した。

もちろん「甲鉄艦」も参加している。

「分捕り作戦」の実行地点は、宮古湾(岩手県)と決まった。

当時、補給地となっており、新政府艦隊が寄港することが確実視されていた。

 

敵はまさか攻めて来るとは思っていないだろうから

この奇襲はその意味では成功の確率は高かった。

ところが、榎本軍はあくまで不運だった。

この作戦には「蟠竜」「高雄」「回天(かいてん)」

の三隻が参加する予定だったのだが、「蟠竜」は暴風で離脱し

「高雄」は機関が故障してしまい、現地にたどりついたのは

「回天」だけだったのだ。

 

しかし、作戦は決行された。

「甲鉄艦」を奪わない限り、榎本軍の勝利はないからである。

「回天」は「甲鉄艦」の横腹に突っ込み

「T」字形となって先端部分から乗り移ろうとした。

ここで第二の不運があった。

両艦の高低の差である。

「回天」の方が甲板が高い位置にあった。

ということは乗り移るためには飛び降りなければいけない。

高低差は約3メートルもあったという。

これでは戦う前にケガをする公算が大きい。

そればかりではない。この頃になると新政府軍も

新兵器のガトリング砲を装備しており

「回天」の先端部分から一人ずつのような形で

「甲鉄艦」に飛び移ろうとした榎本軍の兵士は

片っ端から狙い撃ちにされた。

こうなっては仕方がない。

「回天」は撤退したが、敵のガトリング砲は艦橋に向けられ

指揮を執っていた艦長、甲賀源吾(こうがげんご)を即死させた。

 

この海戦の一部始終を見届けていたのが

後に大日本帝国海軍連合艦隊司令長官となる

東郷平八郎であった。

東郷は新政府艦隊の「春日」に若手士官として

乗り込んでいたのだ。

後に、東郷はこの海戦を回想しているが、それによると

「回天」はアメリカ国旗を掲げて宮古湾に進入して来たようだ。

そして攻撃直前、星条旗を下ろし日の丸を掲げ一気に攻め込んで来たと言う。

また東郷は甲賀源吾を「勇士」として褒め讃えている。

 

また、この作戦を司馬遼太郎は小説「燃えよ剣」において

土方歳三の発案であったように書いているが

確かにそうだと言う証拠はない。

確かに土方は天才的な「喧嘩師」であり

この後陸戦において散々新政府軍を悩ませたのは事実だから

そういうことがあっても不思議はない。

ただ、この作戦が「アボルダージュ(移乗攻撃)」という

フランス語名で伝えられていることから見ても

榎本軍に同行していた軍事顧問の

ジュール・ブリュネ大尉らが考えたことだとするのが自然だ。

正確には「元大尉(たいい)」である。

 

彼らは徳川幕府と懇意であったナポレオン三世の命令によって

幕府に軍事顧問として派遣されていたのだが

幕府崩壊後に出た帰国命令を拒否し

自分の意志で榎本軍に参加したからだ。

これは厳しく見れば「脱走」であり重罪に問われても文句は言えない。

(実際、帰国後問題とされた)

しかし、そのリスクを冒してまで

榎本軍に義勇兵として参加していたのだから

彼らの侠気(きょうき)はもっと評価されるべきだろう。

「開陽」が

「将来を有望視されながら戦場に出た途端に事故死した若手士官」なら

「回天」は「古参中の古参(こさん)でありながら

老兵となっても死ぬまで戦い続けた兵士」であろうか。

 

明治2年(1869)の3月26日、新政府艦隊は青森湾に入った。

榎本軍は「開陽」を失い「甲鉄艦」の奪取(だっしゅ) には失敗した。

これで新政府軍が津軽海峡を安全に渡る目途がついたわけだ。

こうなっては万事休すだ。

すでに述べたように、榎本が「蝦夷共和国」を維持するためには

津軽海峡も制海権を確保し続けなければならなかった。

兵士の数は新政府軍が圧倒的に多いのである。

彼らを渡海させてしまっては多勢に無勢で勝ち目はない。

数が少ない榎本軍(総勢3500人)は守りようがない。

 

こうした中、新政府軍は兵士を次々と増派し

箱館総攻撃の態勢を整えた。

5月初頭のことである。

そして5月2日、それまで義勇兵として榎本軍に参加していた

ジュール・ブリュネ元大尉らフランス兵士は

ついに榎本軍本営の五稜郭(ごりょうかく)を脱出した。

これは逃亡したというより榎本が敗色濃厚とみて脱出させたようだ。

榎本軍は敵艦が箱館湾に侵入出来ないようにケーブルを張ったが

これも発見され切断されてしまった。

 

榎本海軍は「回天」と「蟠竜」の二隻だけになっていた。

もう一隻「千代田形(ちよだがた)」というのがあったのだが

この戦争の最中に座礁し艦長が艦を放棄した後に

満潮で船が離礁し漂流しているところを新政府軍に奪われるという

世界海戦史でも稀な(マヌケな)形で失ってしまったのである。

新政府軍はこの二隻を沈めてしまえば、津軽海峡も箱館湾も

完全に勢力下に置くことができる。

制海権の確立だ。

 

ついに5月11日、海陸双方による箱館総攻撃が始まった。

新政府軍の旗艦は「甲鉄艦」でこの他に

「春日丸」「朝陽丸(ちょうようまる)」他三隻がいた。

ちなみに「朝陽丸」とは、幕末長州藩における朝陽丸事件の船である。

この「朝陽丸」が海戦冒頭に榎本軍の「蟠竜」の砲撃を受けて撃沈させられた。

これは「蟠竜」の大手柄だったが、不運にも「蟠竜」はこの後座礁してしまう。

残った「回天」は両艦隊の中でもっとも古い船(外輪式)だったが大奮戦した。

見事な操船で縦横無尽(じゅうおうむじん)に動き回り敵を散々悩ませたが

「甲鉄艦」のアームストロング砲にトドメを刺された。

「回天」は自ら座礁し、乗組員は艦を脱出して

「蟠竜」の生き残りと共に弁天台場の守備兵と合流した。

座礁した船は使用可能な部分を引きはがし

新しい船に利用するのがこの時代の常だったが

新政府軍は「蟠竜」にも「回天」にも放火し焼き尽くした。

よほどこの二隻が憎かったのだろう。

「回天」は三昼夜燃え続けたという。

 

以上のようなことを頭に入れておけば

なぜこの日に土方歳三が弁天台場を応援するために

五稜郭を出撃したかわかるだろう。

単純に死に場所を求めたのではない。

五稜郭に籠城できない以上、拠点の弁天台場を死守しなければ

明日はないからだ。

しかし、500名ほどの兵を率いて弁天台場に向かった土方は

途中の一本木関門(いっぽんぎかんもん)で敵と激しく交戦し

前線の兵を叱咤していたが戦死した。享年35。

ついに弁天台場も陥落し、新政府軍は箱館湾突入の態勢を完全に整えた。

 

翌12日、箱館湾を制圧した「甲鉄艦」から五稜郭へ艦砲射撃が加えられた。

しかし、これは威嚇的なもので総攻撃ではなかった。

というのはその日の夜に、新政府軍参謀の

黒田清隆(きよたか)の意を受けた「軍使」が

榎本を訪ねて来て降伏を勧告したからである。

つまり、艦砲射撃でいつでも五稜郭は破壊出来る。

だから無用の戦いはやめようということだろう。

しかし、榎本はこれを拒否した。

ただ、自分がオランダから持ち帰った

当時日本には一冊しかなかった貴重本、国際法の専門書

「海律全書(かいりつぜんしょ)」を黒田に贈った。

新政府のために役立てて欲しいということだ。

また、傷病兵の後送を申し入れ認められた。

そうこうするうち15日には、孤軍奮闘していた弁天台場が降伏した。

海軍からの逃亡兵も守備兵に加わっていたため糧食が尽きたのだ。

 

黒田は「海律全書」への返礼として

酒五樽と酒肴(しゅこう)を五稜郭へ贈った。

夕刻榎本は新政府軍へ数時間の停戦を申し入れ

それが了承されると最後の酒宴を張った。

そして協議の上で降伏を決定、この後榎本は責任を取って

自刃(じじん)しようとしたが、部下に発見され止められた。

 

翌17日、榎本は黒田に会い正式に降伏を申し入れた。

そして18日、榎本軍は全軍武装解除され

兵士は捕虜となってここに戊辰戦争は終了した。

(正確には戊辰(つちのえたつ)から

己巳(つちのとみ)の2年間に及んだ内戦)

翌年、兵士のほとんどは釈放され

生き残った幹部の榎本武揚、松平太郎、大島圭介ら7名は

東京で投獄されることになった。

 

ちなみに、大阪は旧幕時代は大坂と表記したが

「坂」は「土に反(かえ)る」で縁起が悪いということもあり

(大坂城も鳥羽・伏見の戦い直後に失火で焼失している)

また御一新という風潮でもあり「大阪」と改名表記するようになった。

同じように「箱館」も戊辰戦争終了後は「函館」と表記するようになった。