消された文明の痕跡 | 天然記録

こちらの本では農耕民族の渡来人が

狩猟民族の原住民の縄文人を支配した

というニュアンスだったけど疑問に思う

普通に考えれば狩猟民族の方が支配に有利

縄文人は優しく渡来人を受け入れ

徐々に農耕が発展して融合したのかも

支配の道具の稲作が浸透した後

干ばつなどで雨を降らせたりする支配者が登場

そもそも支配者は人間ではないのかもしれない

その支配者もその後、別の渡来人に乗っ取られ

敗者の女王が卑弥呼と変な名前を付けられ

歴史の謎となった邪馬台国と妄想

失われたイスラエル10支族は

歴史から本当に消されているという事

乗っ取り偽ユダヤに大昔から支配されている日本

ユダヤの痕跡が大昔から日本に沢山あるからといって

日本人のルーツはユダヤと誇ってはいけない

単に偽ユダヤに支配されているだけかもしれない

天皇も大昔2度入れ替わっているらしい

ユダヤ人は聖書によると

神(と名乗る悪魔)の奴隷らしいので

あまり誇れることではない

 

 

↑より抜粋

 

銅鐸(どうたく)とは謎の考古学的遺物である。

 

銅鐸最大の謎は何なのか?

それは多くの人が言うように

「宗教の祭器だとしても詳しい用途がわからない」

あるいは「なぜ、ある程度まとまって発掘されるのか」

ということではない。

「名前がわからない」ということなのである。

 

銅鏡は「かがみ」、銅剣は「つるぎ」であり銅矛は「ほこ」だ。

つまり、考古学用語以前に大和言葉としての呼び名が存在し

当然日本最古の古典とも言われる「古事記」にも

これらはすべて登場する。

にもかかわらず銅鐸は一切登場しない。

だから大和言葉でこれを何と言ったか

いまだにわからないのである。

近代になって日本の考古学者は

中国の比較的よく似た遺物「鐸(鐘)」にちなんで

銅製の鐸すなわち銅鐸と呼ぶようになったのである。

 

ご存知だろうか?

銅鐸というのは現在の鋳造(ちゅうぞう)技術を超える

「超ハイテク古代技術」で造られているのだ。

 

現在までに発見されている銅鐸は約500点でほとんどが

西日本から出土しているが、そのうち最大のものは

滋賀県野洲市の大岩山遺跡で発掘された大岩山一号銅鐸で

高さ134センチメートル、重量45キログラムに達する。

ところが、この銅鐸の厚さは約3ミリメートルから5ミリメートル

という、まさにとんでもないサイズなのだ。

現代の鋳造技術でもこれは復元出来ないという。

今なら旋盤(せんばん)で削ることが出来るから

同じようなものを造れないことはないが

昔はそんな便利なものはない。

ドロドロに溶かした銅を型に流し込むだけ

たったそれだけで厚さ5ミリメートル以下を再現しようとすると

必ず気泡などのいたずらで穴が開いてしまう。

それを完璧に防ぐ方法は今のところない。

 

そんなことを可能にするには、その背後に

相当な力量のある文明があったと考えるのが至当(しとう)だ。

では、それだけ大きなスケールを持つ文明の遺物が

なぜ人里離れた山の中や谷間でまとまって

廃棄処分になったような形で見つかるのだろう。

それは、この銅鐸をまさに宗教の祭器として使っていた文明が

別の宗教を持つ文明に圧倒され征服され

その宗教を否定されたと考えるのが一番合理的な考え方である。

 

銅鐸の中に吊り下げ音を鳴らすための棒を舌(ぜつ)というが

2015年(平成27)4月

兵庫県南あわじ市(淡路島)の南端で全国初めて

舌が銅鐸の内部に入った状態で発見された。

そして追加調査で舌が紐(ひも)で吊されていたこともわかったのである。

こう述べると多くの人は驚くだろう。

「えっ、今まで舌が吊された状態で見つかったことは一度もないのか!」

そうなのである。

これまで約500点も出土しているにもかかわらず

そういう状態のものが今まで一つもなかったのだ。

 

しかしこれは、考えれば考えるほど不思議な話である。

銅鐸とは要するに鐘である。

カウベルがそうであるように、鐘には舌が欠かせない。

そうしなければ鳴らすことが出来ないからだ。

これは一体どういうことか?

要するに銅鐸は「舌を抜かれた」のである。

人間と同じように、銅鐸も「舌を抜かれ」れば「死ぬ」。

そのようにして銅鐸を「殺して」おいて「死体」は山の中に埋めたのだろう。

ところが淡路島の南端のような中央から離れた地においては

征服者の追及も徹底されず、かろうじて舌を抜かれずに隠されたのであろう。

大和朝廷が覇権を確立する以前に、先行する文明を破壊消去した痕跡が

「舌を抜かれた銅鐸」ということである。

日本古代史において「消された文明」などと言うと

いまだにいわゆる「トンデモ学説」のように

捉えるという偏見がまだまだある。

 

ところで、最近は世界四大文明という言い方はあまりしない。

ラテンアメリカなど他の文明圏もあることがわかったからだ。

しかし人類を代表する文明であることは間違いない。

ご存知のように西から

エジプト、メソポタミア、インダス(インド)、黄河(中国)であり

これらの文明はすべて固有の文字を持っている。

エジプトはヒエログリフ、メソポタミアは楔形(くさびがた)文字

中国は甲骨(こうこつ)文字でこれらはすべて解読されている。

ところが、インダス文明の文字だけは

いまだに解読されていないという事実をご存知だろうか?

 

その理由は諸説あるが

もっとも有力な説はインダス文明を築いた人々が

後に侵入して来たアーリア人に征服され奴隷化され

彼らの文明は「消された」からだというものだ。

つまり、現在も存在するインドのカースト制度の中で

最下級とされ厳しく差別されている人々こそ

栄光あるインダス文明の築き手だったというのだ。

逆に征服者アーリア人は「奴隷の文化」などすべて消去したかったのだろう。

現在でもインダス文字を読めないのだから

その目論見はある程度成功している。

ただし遺跡や遺物などすべて消し去るわけにはいかなかったから

考古学はインダス文明の存在を証明することが出来たのである。

つまり、銅鐸は消された文明の痕跡ではないか、ということである。

 

実は先行する文明の宗教が弾圧されたという記録は

その弾圧の主体である大和朝廷が成立した以後の記録にも残っている。

大和朝廷の神聖なる祭器が「三種の神器」であることは

多くの人にとって常識であろう。

八咫(やたの)鏡、八坂瓊勾玉(やさかにのまがたま)

草薙剣(くさなぎのつるぎ)であるが

「国譲りの神話」にも触れられているとおり

かつては大和朝廷の対抗勢力であった出雲国の出雲族が

保存していた神宝を天皇に「没収された」ということが

「日本書紀」に明記されている。

 

「日本書記」崇神(すじん)天皇紀によれば

当時の出雲族の代表「出雲臣(おみ)」は出雲振根(ふるね)と言った。

ところが天皇は

この振根が旅に出て留守の間に振根の弟に命令を下し

「出雲大神の宮」に大切に保管されていた神宝を没収した。

旅から帰った振根は怒って弟を斬り殺したが

それを聞いた天皇は吉備津彦(きびつひこ)らを派して

振根を殺させたというものである。

私の知る限りでは、この時に没収された神宝はその後

歴史に登場しないし名前もわからない。

つまり、歴史から完全に「消された」のである。

 

日本人は言霊を信仰している。

言霊の世界では実体がなくても名前さえ残れば実体も残されたことになる。

だから抹殺しようとするならば

その言葉も「言葉狩り」して消さねばならない。

没収された神宝は銅鐸だったかもしれないが

ここが肝心だが、大和朝廷がそれを完全に抹殺するつもりならば

名前を記録してはいけないのである。

 

いや、ひょっとしたら大和朝廷の人々も

銅鐸を本当は何と呼ぶのか知らなかったのかもしれない。

卑弥呼とは名前ではなく称号である。

現代人の我々も外国人から

「あなたの国の一番偉い人は何と言うのだ?」

と聞かれれば、「天皇です」と答えても

「アキヒトです」とは言わないだろう。

ましてや古代の話である。

邪馬台国の外交官クラスの家臣でも女王の本名を知らなかった可能性は高い。

民俗学の泰斗(たいと)ジェームズ・フレーザーも言っているように

「古代において帝王の実名は固く秘密にされた」のである。

 

しかし銅鐸を完全に抹殺しようとしても

もし名前は何と言うのかが大和朝廷に露見していなかったら

言霊として銅鐸を残す方法はある。

それを出雲族の最高権力者の名前にするのである。

名前にして最高権力者が世襲すれば、言霊としての銅鐸は永遠に残る。

つまり、銅鐸とは「ふるね」と呼ばれていたのではなかったのか。

「ふるね」は「振根」ではなく「振音」である。

言うまでもなく「振って音を出す」ものだからだ。

 

念のためだがシャレを言っているわけでも

ふざけているわけでもない。

日本語の感覚として銅鐸のようなものを「ふるね」と呼ぶのは

決して違和感のある話ではないはずだ。

ただし、同じ言語を使っているからこそ

大和朝廷も薄々は気付いたかもしれない。

だから「ふるね」の「ね」表記を「音」から「根」にした。

こうすれば「音」は消せ、「舌を抜いた銅鐸」と同じものになる。

「出雲臣ふるね」という実体も殺した。

これで抹殺完了である。

 

それにしても、この「銅鐸文明」には

固有の文字はなかったのだろうか?

これほど力量を持つ文明が

固有の文字をまったく持たなかったというのは

実は世界の常識から見ればきわめて納得のいかない話なのである。

この点に注目し、銅鐸に鋳(い)込まれた「絵」が

実は絵文字ではないかという説を発表したのが

オリエント歴史学者の大場弘道氏であった。

だが、日本考古学界はこれを完全に無視した。

「隋書倭国伝(ずいしょわこくでん)」に

弥生時代の日本にやってきた中国人の見聞として

「無文字、唯刻木結縄(文字は無く、ただ木を刻み縄を結ぶのみ)

とあるから、日本には漢字(中国文字)伝来以前に

固有文字が存在しなかったというのが、通説になっていたらしい。

 

きわめて愚かな話だ。

これは中国人の書いた文章である。

何度も述べたように、中国人は自分の文化だけを文化と考え

それ以外のものは「野蛮人の所行」としか考えない。

だから「邪(よこしま)」馬台国とか

「卑(いやしい)」弥呼とか

「蒙古:無知蒙昧(むちもうまい)で古くさい」

などという漢字を当て字に使う。

 

ここでも中国人が言っている「文字」というのは

自分たちの文化だけが使用している「漢字」のことであり

彼らの感覚では

「他に文字というものはこの世に存在しない」のである。

もっとわかりやすく言えば、中国人にとっては

エジプトの文字もメソポタミアの文字も

「文字」ではないのだ。

それが、世界史をやると身に付く常識である。

 

「木を刻む」とは、粘土板に刻みつける

メソポタミアの楔形文字と形は同じかどうかわからないが

それと同じようなやり方で「書く」文字があった。

そして世界四大文明以外に、古代文明の栄えた土地として

最近加えられたラテンアメリカのインカ帝国には

キープという文字があった。

これはまさに縄を結んで文字を表すものである。

 

今でこそ紙という便利なものがあるが昔はそういうものがなかった。

だから粘土板に刻んだり、石に彫ったり、縄を結んだりしたのである。

ちなみに琉球王国ではワラザンという藁の結び目を

近代に至るまで帳簿に使っていた。

また子供の遊びだが、起源はわからないほど古いものに

「あやとり」がある。

ひもの張り方で様々な「絵」を描くことの出来るものだが

ではなぜ「ひもとり」ではなく「あやとり」と呼ぶのか?

 

それは「あや」が「文」であるからではないのか。

つまりコミュニケーションの手段だったからでは無いのか。

そういうことを言うと、いやそれは「文」ではなく

布の模様を表す「綾」のことだと茶々を入れる人もいるが

それならなぜ「言葉の綾」という言葉があるのか。

つまり、あやとりは、昔は文字や文章は「綾」

すなわち模様や絵で表現された時代があったという

証拠ではないのか。

 

つづく

 

 

 

 

 

 

 

 

銅鐸は天文観測カレンダー説