6巻228ページより
「肉体」の形が「死ぬ」とき
肉体は分解・消失し、「無いもの」
(「全てのもの」でもある)へと融合する。
あらゆる可能性とは、無限なる一つが全てであり
無であることを意味する。
あらゆる場所が、どこでもないことを意味する。
あると同時に無いこと、すると同時にしないこと
できると同時にできないことを意味する。
これは一見して矛盾しているようだが、矛盾ではない。
あらゆる可能性が異なる表現をしているだけである。
この表に現れていないあらゆる可能性こそが
我々の本来の状態であり、全ての存在にも充満している。
従って、無限なる一つの表れである我々も全ての存在に充満している。
「神」とか「天国」について考えるとき
空を見上げてしまいがちであるが、そんなものではない。
創造は、階層を積み上げていく高層ビルや
整理ダンズのように築かれてはいない。
それは同じ空間を共有する異なるエネルギー密度
(あるいは周波数)であり
テレビ局やラジオ局が互いに干渉することなく
同じ空間を共有しているのと同じである。
あまりにも周波数が近接していると干渉することがあるが
爬虫類人が我々の現実に干渉できるのも
彼らの周波数が我々の周波数に近接しているからである。
表に出たものも出ていないものも
あらゆる可能性は、我々が今まさに
立ったり座ったりしているところに存在している。
ただし、無限なる意識の基本的な状態は
表に出ない状態で、静寂にして不動のあらゆる可能性である。
それはいつもそこに存在し、全てに浸透しているが
「もの」と形態の世界では、大半の人々が
「あるもの全て」の静寂の根源を聴いてはいない。
表に出た錯覚も騒音にばかり耳を傾け
無限の可能性ではなく、有限の可能性の人生を生きている。
表に出ていない「一つ」の状態こそが
我々が本当の意味での愛を見出すところであり
だからこそ、真実は無限なる愛のみであり
他は何もかも錯覚なのである。
静寂にして不動の「空」(あらゆる可能性)だけが真実である。
他は全て、潜在的な可能性の中から表に出されたものであり
錯覚の「もの」の世界である。
覚醒の状態には主に2つある。
1つは、静寂にして不動の「あるもの全て」の自覚であり
もう1つは、いわゆる「創造」(音と振動の領域)である。
このため、ブラジルでの声の主は
「振動するものは錯覚である」と言ったのである。
振動の領域(表に出たものは)、「あるもの全て」が
自らを経験するための手段であり
まさに無限なる意識である我々は
そうすることで経験をしているのである。
略
創造物は、「あらゆる可能性」の
無限なる意識から生じ、そして、持続している。
創造されたものが、次には創造者となり
創造物そのものの性質に作用するようになった。
全ては一つであるから、その創造者もまた
本当は同じ「あるもの全て」である。
もちろん、爬虫類人もだ。
だが、静寂・不動にして「全てを知る」
「あらゆる可能性」の状態としての
「一つ」と、より限定された覚醒状態にある
被創造物の形態としての「一つ」には、違いがある。
いずれも同じ「一つ」の現れであるが
まったく異なるレベルの意識・理解・知恵で
現実を見ている可能性がある。
全ては、源である「あるもの全て」の自覚へと
進歩して「回帰」していくが
その経路は無数にあり、経験もさまざまである。
これは聖書の「ドラ息子」の話に比喩的に記述されている。
父親は、家に留まっていた「良い息子」に対する態度と
同じ情愛でドラ息子を家に迎え入れた。
これがブラジルの声の主が言った
「全ては集められる。一頭たりとて
野原に孤独に放置される羊はいない」の意味である。
1990年に霊能者から聞いた話も似たような内容だった。
あなたがたの誰一人として、あなたがたを包み込む神
(あるもの全て)の愛の大きさに気付くことはない。
神は心配し、導いている
どんな存在であっても、孤独に放置されることはなく
気にかけられないこともない。
終わりのとき、全ては集められ、一頭たりとて
野原に孤独に放置される羊はいない。
創造物とは、それぞれの密度で形成された
さまざまな世界が一連につながったものである。
あるいは、それぞれの周波数帯域で振動する
さまざまな「次元」の現実が集まったものである。
こうした全ての世界(次元)は、同じ「空間」を共有しており
静寂・不動の「空」そのものも同じ「空間」にある。
略
「あるもの全て」のさまざまな側面が、こうした密度
(世界)を経験することで
「あるもの全て」は自らを経験することができる。
我々が知っているような意味での
形がない純粋な意識の領域もあれば
我々が「物質」と思っているような密度の高い次元もある。
私は、この我々の世界のことを「第三密度」と呼んでいる。
それと近接する世界で、別の共振に合わせて振動しているのが
「第四密度」と呼ばれる領域であり
「アストラル界」と呼ぶ人もいる。
大事なのはこうした名称ではなく
爬虫類人の陰謀は、可視光線の範囲外
(極めて近接しているが)の密度から画策され
実施されていることである。
我々が進歩して根源へと回帰するほど
密度の振動的な共鳴は増し
最後には静寂と不動の状態へと変容していく。
そこで我々は「あるもの全て」を自覚する
「故郷」に帰るのである。
この道理のことを
「天国への階段」のようなものにたとえることもできるだろう。
略
自らの覚醒を拡大していくと
自らを、錯覚である「部分」ではなく
全体と同一視するようになる。
すると当然の成り行きとして、錯覚である個
(自己への奉仕)から生じる利己ではなく
全体に役立つこと(他者への奉仕)へと関心は移っていく。
第四密度というところは、依然として自己に奉仕する
という状態がある世界の範囲内では
最も高度に進歩したところのようである。
そして、そこに爬虫類人はいる(第三密度でも活動している)。
爬虫類人は、その知的覚醒レベルを利用し
技術とエネルギー操作を通じて
その段階まで到達したわけであるが
それは彼らが他者への奉仕状態に移行するようになる前の
段階として行き着くことができた限界である。
実を言えば、彼らは自分たちの現実感覚、恐怖、支配欲
(支配しなければならないという思い込み)に行き詰っており
それ以上、振動的に進歩したいという願望がない。
爬虫類人は、ただ単に
絶えずつきまとう恐怖をやわらげるためだけに
より支配を強化したいと思っているのである。
他の人間を支配したいという欲望
何かを支配したいという欲望は
全て恐怖と不安の現れであるが
彼らは恐怖と不安で疲れ切っている。
だからこそ、支配することに夢中になっているのである。
意識に目覚めた人は、他者を支配しようとは思わない。
他者が自分自身であることを知っているからだ。
