6巻269ページより
歴史は、順序の固定された出来事ではない。
それは、時間の環の全体が、時間の環の中の
どこからでも変えることができ
認識された「未来」が過去を変えることができる
ことと大いに関係している。
時間の環は、不変ではない。
意識は、時間の環を変えることができる。
略
ここで強調したいのは
こと仮想現実に関しては
何でもありうるということだ。
本書の前の部分で示した歴史は
現在の出来事をもたらした時間の環の中の一つの
「時間軸」タイムラインの順序である。
だが、それは途中のどの段階でも変更することが可能であり
それによって現在の出来事に変化が発生することもある。
全体の時間の環の中には、さまざまな際限のない時間が存在し
そのことを科学者たちは「並行宇宙」と呼んでいる。
略
これは、全体の時間の環の映画の範囲内にある
さまざまな時間軸、認識、選択肢であるが
いずれも全て同じ「今」起きている。
時間の環の中で物語は常に変化しているかもしれないが
時間の環に属している人々が
本当に何を経験しているのか自覚していれば
もっと大きく変化するはずである。
人間の遺伝子が操作される前は、誕生も死もなかった。
人々は、自分が何をしているのか自覚しており
ただ単に自らの選択でやってきては立ち去っていた。
ゲームの何たるかをずっと深く知っていたということである。
爬虫類人が介入し、時間の環に入る手段として
出産を導入して以来、「人間」は
電磁的な光の領域の向こうにある意識や記憶とは
ほとんど完全に切り離された状態で
産道を通ってやってくるようになった。
自分が何者なのか
どこにいるのか、どこから来たのかを把握することなく
「現実の世界」にやってくるようになったのである。
全てゼロからの出発となり
爬虫類人の目的に都合のいい自己認識・現実認識を
押し付けようと待ち受けているプログラミングの犠牲になった。
それが今でも続いている。
我々は複数の密度で活動している無限の意識であるが
どの密度も根源への回帰にはつながっておらず
爬虫類人は、肉体コンピュータとマインドを
高次の意識から孤立させることで
錯覚の物質に我々を閉じ込めようとしている。
その手段が、物質世界に由来する恐怖、分離、混乱である。
ここで、もう一つの要因がある。
大半の人の場合、現実界の錯覚は
人生と人生の狭間の「インチキ天国」あるいは
「インチキ地獄」という領域にまで、延長されている。
この領域は、この現実界に近接した振動次元(レベル)であり
そこでは死と再生のサイクルの中で
「進化」するためにはこうしなければならないという
思い込みに意識が囚われることになる。
「再生」という言葉は、再び肉を持つという意味である。
こうした人生と人生の間の現実界は
支配システムにとって必要不可欠な部分であるが
この現実界よりも
少しだけ広がりのある認識・思い込みを持つことができる。
「死」を乗り越えたこと
複数の現実界(世界)が存在することには気付く。
これはテレビ番組に出る
霊能者のような人々が接続する次元(レベル)である。
彼らは、他界した父親から「その仕事に就職しなさい」とか
亡くなった母親から「猫の面倒を見てくれ」
といったメッセージを人々に伝える。
略
こうしたテレビ番組だけでなく
世界中のさまざまな事例を合わせて考えると
「あの世」から通信された情報は
全て「この世」的な現実認識に基づいていることが分かる。
あの世からやってきた者が
「これは全部、錯覚なんだ。宗教なんかクソだ!」
と言うのを私は聞いたことがない。
テレビで霊能者が、亡くなったイスラム教徒の父親の
メッセージを息子に伝えているのを見たことがあるが
それには「信仰を大切にしなさい」という忠告が含まれていた。
ということは、人生と人生の間の領域には
イスラム教の天国、キリスト教の天国、ユダヤ教の天国などが
それぞれ存在していると考えなければ、理解できないことになる。
それは、肉体を離れつつも
依然として高次な意識から隔絶されたままの
集合的なマインドが創造した世界であり
依然として宗教的な思い込みが認識を大きく左右し
ひいては経験として現れることも大きく左右しているのである。
つまり、依然としてマインドという形態に囚われているのだ。
バカは死んでも治らないと言われる通りである。
肉体の感覚から脱却すると
魂と神秘体(仮想現実を経験する主体)は
その関心を「人生と人生の間」の領域に移す。
臨死体験として
「トンネル」をくぐり抜けたといった人々が
経験しているのはそれである。
魂の振動・共振が、人生と人生の間の現実を決めるが
マトリックスにおける
人間の経験の作用はあまりにも強いため
魂の覚醒の振動状態を低下させ
死と再生のサイクル(という認識)の罠に閉じ込めてしまう。
物質的な肉体・マインドを通じて
物質的な現実を直接に経験してきた神秘体は
さまざまな生まれ変わりを通じて
その役割を繰り返しているため
そうした経験の結果が振動的に刻み込まれている。
これは、神秘体・魂が別の人生の肉体に反映されたものであり
肉体に説明のつかない印を持つ人がいる理由でもある。
こうした生まれ変わりや経験は
再生サイクルから脱却できるところまで共振を速くするか
あるいは、共振を遅くし、神秘体・魂を再生サイクルの
振動の範囲に囚われたままにするかの
いずれかの振動的な影響をもたらす。
多くの人々が、時間の環に戻ったとき
プログラムへとあっさり引き込まれてしまう理由はここにある。
マトリックスの中にいる意識は、「再生」を通じて
時間の環を出入りするサイクルに捕獲されているため
一回きりの「肉体」の生涯という
思い込みに条件付けられているだけではない。
時間の環の中で延々と続く経験による条件付けもあり
「肉体」の旅の合間にも別の形態の錯覚に陥っているという。
つまり、時間の環の現実界に戻り
いっそうの条件付けにさらされることになる時点ですでに
条件付けされているのである。
そのために、人類は条件付けされた隷属状態に簡単に陥ることになる。
人類は何度も同じ状態を経験しているのだ。
略
この現実界から引き揚げるときには
本当の自己に目覚めておくことが実に重要である。
そうでなければ、あらゆるレベルの錯覚から解放されることはなく
錯覚の振動の「壁」の向こうにある本当の自己
人生と人生の間の領域の錯覚の向こうにある
本当の自己との再接続もできなくなってしまう。
生まれ変わりは、カルマ
(業)とも言われるが、因果と関係している。
自分がしたことが自分に返ってくるという
カルマの法則は、仮想現実および人生と人生の間の
領域の振動・数学的構造物の中でのみ成立する。
意識に目覚め
高次の意識で動くようになれば、何の法則もない。
カルマも一つの可能性に過ぎず、「あらゆる可能性」の中で
固定的な「法則」として存在することはできない。
我々自身の行動の結果に直面することなくして
どうやって我々は「学ぶ」ことができるのかと
疑問に思う人もいるだろう。
だが、あらゆる可能性、無限なる意識は
「我々」ではなく、「私」である。
このレベルの認識になると、全ては一つであり
因果(カルマ)という対極性も存在しない。
いずれにしても、「あるもの全て」には学ぶべきことはない。
全て知っており、全ての可能性を持つ。
因果(カルマ)は、仮想現実の宇宙のゲームの一部であり
基本的には、魂の神秘体に刻印された濃厚な密度の振動
(これが再生サイクルの密度に魂を閉じ込めるわけである)
を消し去ることに関連している。
この刻印が、魂の状態を反映しており
我々は一つであるという自己認識
(気付き)をもたらす「自分のしたことが自分に返る」
を基本とした経験のサイクルがカルマである。
ブラジルの声の主が
「全ては一ヵ所に集められ、一頭たりとして
孤独に野原に置き去りにされる羊はいない」と述べたのは
この生まれ変わり・カルマのサイクルのことを話していた面もある。
操作をしている爬虫類人も
当然ながら、同じサイクルに囚われているが
彼らはそれから脱却したいという願望がないようである。
彼らは、あまりにも利己主義と支配に夢中になり
恐怖に囚われているため、それ以外は何の関心がなく
精神的成長など眼中にない。
彼らは、そうした低次元の密度領域で生きる術を心得ており
彼らが極めて短い「肉体」人生へと追いやった人間よりも
遥かに長生きできる化身(具現化した姿)で生きている。
彼らの基本的な関心は、なるべく多くの魂を
生まれ変わりのサイクルに閉じ込めておくことであり
それによってエネルギー的なエサを得ることにある。
では、「物質」的現実が錯覚であるという
本質に関わる知識を詳しく述べ終えたので
いよいよ月に話題を戻そう。
7巻へつづく
神曲が脳に受信されるなら、どこかから送信されている
↓のブログの中のこの一文に「は!」とした
(それから、「X」という曲名も、私にはどうも引っかかる。
それはサタニスト達が好むある種の符合ではないのか。)
6巻257ページより
古代の中でも知恵のある人々は
この現実は循環しており
直線状に進んでいるわけではないことを知っていた。
それで、さまざまな時代、大いなるサイクル
さまざまな太陽、さまざまな世界、ユガ
(ヒンドゥー教における時代概念)のことを語った。
蛇の神の宗教を持つ中米のマヤ人は
一種の永遠に反復するサイクルで、歴史は繰り返すと信じていた。
プラトンは、この「環」のことを「グレート・イヤー」と呼んだ。
地球が太陽を周回しているだけでなく
太陽系も他の基点で周回しており
そのまた次もやはり周回しており、と延々と続く。
我々がこうした「環」の中を動いていくと
我々は地球の電磁場に作用する
さまざまなエネルギー環境を経験することになり
それが人間の意識や覚醒に影響を及ぼす。
そのために、現在の我々よりも遥かに進んだ文明が
ずっと昔に存在したなどということがありうる。
時間の環のサイクルは、盛衰する。
我々は時間の環の中にいるということに私が気付いて何年か後に
「因果関係のループ」という科学上の概念に関する記事に遭遇した。
これは、「時間」あるいは出来事の順序が
一巡して元に戻る(終点が始点につながる)まで
ループするところだと科学者たちは言っている。
「時間の環(ループ)」ではなく「因果関係のループ」
という表現がされているのは
時間は観察者(解読者)によって相対的なためであるが
その点さえ理解すれば、科学者たちは、私が何年も前から
「時間の環」と言ってきたものを説明していることになる。
私が目にしたある定義ではこうなっている。
因果関係のループは
それ自身に回帰して閉じる原因の連鎖である。
AがBを起こし、BがCを起こしと続き、最後にXを起こす。
さらにXがAを起こし、AがBを起こしと延々と無限に続く。
言わば、時間の環である。
だが、ここで改めて強調しておくが
因果関係のループは、符号化された振動情報が
ホログラムとして現れたものに過ぎない。
略
延々と回転を続ける世界線のループは
至るところに存在しており、我々は
「時間の環」と私が呼んでいるものの「中」に住んでいる。
無限を表すシンボルに、自らの尾を呑み込む蛇
(ウロボロスの蛇)があるが、これは本当のところ
永遠に繰り返す「時間の環」という
錯覚の無限を表すシンボルになっている。
いつも出発点に向けて戻っているだけなのに
どこか別のところに向かっていると
人々に信じ込ませる罠として機能する閉鎖回路である。
人間の人生の長さでは、全行程を経験するには
遥かに及ばないため、我々は一回の人生では
そのごく一部しか認識することができない。
このため、我々はAからBに行くとか
未来へ進んでいるような気がしているのである。
いずれも錯覚である。
そして、ここで、本当に重要なポイントになる。
全てのものには、時空を通る独自の経路(世界線)がある。
人間も例外ではない。
人間の世界線は、誕生時に始まり、この現実界を去るまで続く。
子供の世界線は
両親の世界線から分岐して、独自の道を進む。
アインシュタインの一般理論では
ブラック・ホールや恒星のような
巨大な物体は、時空を歪め、世界線を捻じ曲げる。
この歪曲が強力な場合、世界線はそれ自身にぶつかるまで曲がり
閉鎖ループを形成して、その中で世界はぐるぐると周り続ける。
私は強い確信をもって述べておきたいが、こうした働きは
巨大な物体だけでなく、全ての物体にある。
もちろん、全て物体に強力な作用があるわけではないが
人間という形態を含め、あらゆるものは
ここに存在するだけでそれなりに時空の編み物を歪めている。
忘れてはならないのは、時空とはエネルギー構造物であり
その基本状態は振動するエネルギーである。
肉体も振動するエネルギーであり
互いに影響しないはずがないのである。
さらに言えば、マインドは、思考と感情を通じ
時空を歪めることができる。
私には、明らかに大半の人々は、集合的な時間の環の中で
個人的な時間の環の中に囚われていると思える。
それは、全てのものは全体の縮小版であるという
「上のごとく、下も然り」のホログラム法則である。
もしも、高い次元のホログラムを「修正」することができれば
その範囲内の全てのホログラムは、その原版(マスター)ホログラム
(スーパー・ホログラム)の影響を受けるはずである。
人々がオーラを「閉鎖」してしまっているのは
各人の時空の世界線が、延々と独りでに回転を繰り返すCTC
(閉鎖した時間のカーブ)を形成してしまったからである。
その結果、人々は、常に同じ行動、認識、反応を繰り返している。
人間は、同じ場所でスピードを上げながら踏み車を回し続ける
ネズミにたとえられることがある。
いつも出発点に戻ってばかりだ。
そして、それこそが、個人的・集合的な時間の環の中に
我々を閉じ込めることこそが、この現実の操作と
マインド・プログラミングの狙いである。
それにいったん囚われてしまうと、我々には何を変えることもできず
過去にしたことを何度も繰り返し続けるだけである。
まさにクルクル・パーだ。
大勢の人々の現実認識を集団的にプログラムできるのは
原版のホログラムさえ変更すれば
その範囲内の全てのホログラムが即座に新しい情報
(プログラム)で符号化されるからである。
ここで熟考してみてほしい。
全ての関心を、時空の中に符号化された「場所」
つまり、五感の現実に集中させることこそが
人間の世界線をそれ自体へと捻じ曲げ
(まるでランニング・マシンに乗っているように同じ場所を走り続け)
小さな時間の環を形成しているのだ。
根源意識に目覚めた人は
時空の構造物を超越したところへと観点が移動する。
そして、もはや
認識・感覚は、時空の構造物という歪曲に従属することはなくなる。
錯覚である時空の領域で稼働しているマインドは
その歪曲に従属している。
だが、根源意識はそうではない。
だからこそ、マインドから脱却し、根源意識に入っていった人は
それまで見えなかったことが見えるようになり
それまで可能とは思えなかった明晰さでこの現実界を認識できるようになる。
私は、話を簡単にするために、時間の環のことを
円にたとえてきたが、実際にはメビウスの環(メビウス帯)
のような形をしている。
6巻240ページより
我々は
さまざまな覚醒レベルで活動している多次元的な存在である。
いわゆる「顕在意識」はその一つに過ぎず
覚醒しているとは言いがたい状態である。
こうした諸々の覚醒レベルが通信できなくなると
低次のレベルが
高次の意識・知識・認識から切り離され孤立するようになる。
人類の窮状の原因は、この一文に尽きる。
肉体コンピュータは
「オーラ」がホログラムとして現れたものであり
オーラにはさまざまなレベルはあるが、肉体・心
(自我エゴという人もいる)という同じエネルギー
(情報)場に他ならない。
高次の意識と「物質」世界をつなぐインターフェイスである。
「魂」と言われるものは、望遠鏡(肉体・心のレンズ)を通じて
覗いている我々の一部であり、臨死体験をした人が気付くのがそれである。
臨死体験をした人は、身体から離脱した状態で
とてつもなく意識が膨張し、覚醒したことを語るが
これは彼らの観点が
五感レベルの現実から魂レベルの現実へと移行したためである。
魂は、オーラ場のレベルで肉体コンピュータとつながっており
神秘体とも言われるエネルギー場を介し
自我(肉体・心)を通じて仮想現実を経験している。
これらはまったく異質なレベルの覚醒であるが
互いに強力な作用を及ぼすことができる。
オーラが開いていると(開かれたマインド、開かれたハート)
我々は、魂・神秘体・心・物質の肉体というエネルギー的な接続を通じて
魂の意識に自らを表現させることが可能になる。
魂は、肉体・心よりもずっと高い周波数で活動しており
接続を確立するためにはエネルギー的な「踏み石」が必要なため
こうしたさまざまな存在のレベルが必要になる。
マインドとハートが開かれていると、オーラ・肉体・心と
接続する魂は、絶え間なく流れる覚醒状態になる。
我々は、この世界の中にいるが、この世界の一部ではない。
多くの人は、肉体・心(自我)と五感こそが
自分自身の大半(あるいは全部)であると認識しており
自分の名前、職業、鏡に映った姿が自分であると認識している。
そうなると、オーラは「閉鎖」してしまう。
特に恐怖、そして利己主義(私にどんな得がある?私、私…)
という罠にひっかかったときはそうである。
これは、物質だけに注目する観点、自己と認識した
「肉体」のみに関心を持つことに起因している。
「エネルギーは、関心が向かうところに流れる」
と言われのはこのためである。
実際のところ
こうした状況においても、オーラが閉じているわけではない。
実際には、密度の高い物質世界、自分への奉仕に夢中になったために
オーラの振動状態があまりにも高密度になり
高次の意識レベルとの強い接続が維持できなくなっているのである。
これにより、高次の意識領域から観察する視点が切り離され
エネルギー場も、それを反映して振動的に反応することになる。
そうなると、肉体・心・神秘体は実質的に閉鎖システムとなり
魂のひらめきや答えを求めるのではなく
五感の物質世界、教育機関・科学者・医者・政治家・マスコミなどが
提供する情報を必死になって調べるようになる。
こうした情報は、爬虫類人とハイブリッド血筋が支配・掌握している。
その狙いは、人類の覚醒・認識を肉体・心に閉じ込めて孤立させ
その上で、肉体・心(自我)をプログラムすることにある。
人類支配とエネルギー(爬虫類人の食糧)の安定確保につながるように
人類に現実を解読・認識させるプログラムである。
我々がエネルギー的に閉じこもってしまうほど
我々は非物質宇宙の爬虫類人の設計図と波長が合うようになり
逆に、我々が高次の自己認識へと目覚めるほど
爬虫類人の設計図からは疎遠になり
それとは別のことを読み込んで
ホログラムの現実に映していくことになる。
これからこの世界と我々の生活が変容し
支配システムが崩壊していく過程で
我々はこのことを実体験していくはずだ。
6巻228ページより
「肉体」の形が「死ぬ」とき
肉体は分解・消失し、「無いもの」
(「全てのもの」でもある)へと融合する。
あらゆる可能性とは、無限なる一つが全てであり
無であることを意味する。
あらゆる場所が、どこでもないことを意味する。
あると同時に無いこと、すると同時にしないこと
できると同時にできないことを意味する。
これは一見して矛盾しているようだが、矛盾ではない。
あらゆる可能性が異なる表現をしているだけである。
この表に現れていないあらゆる可能性こそが
我々の本来の状態であり、全ての存在にも充満している。
従って、無限なる一つの表れである我々も全ての存在に充満している。
「神」とか「天国」について考えるとき
空を見上げてしまいがちであるが、そんなものではない。
創造は、階層を積み上げていく高層ビルや
整理ダンズのように築かれてはいない。
それは同じ空間を共有する異なるエネルギー密度
(あるいは周波数)であり
テレビ局やラジオ局が互いに干渉することなく
同じ空間を共有しているのと同じである。
あまりにも周波数が近接していると干渉することがあるが
爬虫類人が我々の現実に干渉できるのも
彼らの周波数が我々の周波数に近接しているからである。
表に出たものも出ていないものも
あらゆる可能性は、我々が今まさに
立ったり座ったりしているところに存在している。
ただし、無限なる意識の基本的な状態は
表に出ない状態で、静寂にして不動のあらゆる可能性である。
それはいつもそこに存在し、全てに浸透しているが
「もの」と形態の世界では、大半の人々が
「あるもの全て」の静寂の根源を聴いてはいない。
表に出た錯覚も騒音にばかり耳を傾け
無限の可能性ではなく、有限の可能性の人生を生きている。
表に出ていない「一つ」の状態こそが
我々が本当の意味での愛を見出すところであり
だからこそ、真実は無限なる愛のみであり
他は何もかも錯覚なのである。
静寂にして不動の「空」(あらゆる可能性)だけが真実である。
他は全て、潜在的な可能性の中から表に出されたものであり
錯覚の「もの」の世界である。
覚醒の状態には主に2つある。
1つは、静寂にして不動の「あるもの全て」の自覚であり
もう1つは、いわゆる「創造」(音と振動の領域)である。
このため、ブラジルでの声の主は
「振動するものは錯覚である」と言ったのである。
振動の領域(表に出たものは)、「あるもの全て」が
自らを経験するための手段であり
まさに無限なる意識である我々は
そうすることで経験をしているのである。
略
創造物は、「あらゆる可能性」の
無限なる意識から生じ、そして、持続している。
創造されたものが、次には創造者となり
創造物そのものの性質に作用するようになった。
全ては一つであるから、その創造者もまた
本当は同じ「あるもの全て」である。
もちろん、爬虫類人もだ。
だが、静寂・不動にして「全てを知る」
「あらゆる可能性」の状態としての
「一つ」と、より限定された覚醒状態にある
被創造物の形態としての「一つ」には、違いがある。
いずれも同じ「一つ」の現れであるが
まったく異なるレベルの意識・理解・知恵で
現実を見ている可能性がある。
全ては、源である「あるもの全て」の自覚へと
進歩して「回帰」していくが
その経路は無数にあり、経験もさまざまである。
これは聖書の「ドラ息子」の話に比喩的に記述されている。
父親は、家に留まっていた「良い息子」に対する態度と
同じ情愛でドラ息子を家に迎え入れた。
これがブラジルの声の主が言った
「全ては集められる。一頭たりとて
野原に孤独に放置される羊はいない」の意味である。
1990年に霊能者から聞いた話も似たような内容だった。
あなたがたの誰一人として、あなたがたを包み込む神
(あるもの全て)の愛の大きさに気付くことはない。
神は心配し、導いている
どんな存在であっても、孤独に放置されることはなく
気にかけられないこともない。
終わりのとき、全ては集められ、一頭たりとて
野原に孤独に放置される羊はいない。
創造物とは、それぞれの密度で形成された
さまざまな世界が一連につながったものである。
あるいは、それぞれの周波数帯域で振動する
さまざまな「次元」の現実が集まったものである。
こうした全ての世界(次元)は、同じ「空間」を共有しており
静寂・不動の「空」そのものも同じ「空間」にある。
略
「あるもの全て」のさまざまな側面が、こうした密度
(世界)を経験することで
「あるもの全て」は自らを経験することができる。
我々が知っているような意味での
形がない純粋な意識の領域もあれば
我々が「物質」と思っているような密度の高い次元もある。
私は、この我々の世界のことを「第三密度」と呼んでいる。
それと近接する世界で、別の共振に合わせて振動しているのが
「第四密度」と呼ばれる領域であり
「アストラル界」と呼ぶ人もいる。
大事なのはこうした名称ではなく
爬虫類人の陰謀は、可視光線の範囲外
(極めて近接しているが)の密度から画策され
実施されていることである。
我々が進歩して根源へと回帰するほど
密度の振動的な共鳴は増し
最後には静寂と不動の状態へと変容していく。
そこで我々は「あるもの全て」を自覚する
「故郷」に帰るのである。
この道理のことを
「天国への階段」のようなものにたとえることもできるだろう。
略
自らの覚醒を拡大していくと
自らを、錯覚である「部分」ではなく
全体と同一視するようになる。
すると当然の成り行きとして、錯覚である個
(自己への奉仕)から生じる利己ではなく
全体に役立つこと(他者への奉仕)へと関心は移っていく。
第四密度というところは、依然として自己に奉仕する
という状態がある世界の範囲内では
最も高度に進歩したところのようである。
そして、そこに爬虫類人はいる(第三密度でも活動している)。
爬虫類人は、その知的覚醒レベルを利用し
技術とエネルギー操作を通じて
その段階まで到達したわけであるが
それは彼らが他者への奉仕状態に移行するようになる前の
段階として行き着くことができた限界である。
実を言えば、彼らは自分たちの現実感覚、恐怖、支配欲
(支配しなければならないという思い込み)に行き詰っており
それ以上、振動的に進歩したいという願望がない。
爬虫類人は、ただ単に
絶えずつきまとう恐怖をやわらげるためだけに
より支配を強化したいと思っているのである。
他の人間を支配したいという欲望
何かを支配したいという欲望は
全て恐怖と不安の現れであるが
彼らは恐怖と不安で疲れ切っている。
だからこそ、支配することに夢中になっているのである。
意識に目覚めた人は、他者を支配しようとは思わない。
他者が自分自身であることを知っているからだ。















