6巻257ページより

 

 

古代の中でも知恵のある人々は

この現実は循環しており

直線状に進んでいるわけではないことを知っていた。

それで、さまざまな時代、大いなるサイクル

さまざまな太陽、さまざまな世界、ユガ

(ヒンドゥー教における時代概念)のことを語った。

蛇の神の宗教を持つ中米のマヤ人は

一種の永遠に反復するサイクルで、歴史は繰り返すと信じていた。

プラトンは、この「環」のことを「グレート・イヤー」と呼んだ。

 

地球が太陽を周回しているだけでなく

太陽系も他の基点で周回しており

そのまた次もやはり周回しており、と延々と続く。

我々がこうした「環」の中を動いていくと

我々は地球の電磁場に作用する

さまざまなエネルギー環境を経験することになり

それが人間の意識や覚醒に影響を及ぼす。

そのために、現在の我々よりも遥かに進んだ文明が

ずっと昔に存在したなどということがありうる。

時間の環のサイクルは、盛衰する。

 

我々は時間の環の中にいるということに私が気付いて何年か後に

「因果関係のループ」という科学上の概念に関する記事に遭遇した。

これは、「時間」あるいは出来事の順序が

一巡して元に戻る(終点が始点につながる)まで

ループするところだと科学者たちは言っている。

「時間の環(ループ)」ではなく「因果関係のループ」

という表現がされているのは

時間は観察者(解読者)によって相対的なためであるが

その点さえ理解すれば、科学者たちは、私が何年も前から

「時間の環」と言ってきたものを説明していることになる。

私が目にしたある定義ではこうなっている。

 

因果関係のループは

それ自身に回帰して閉じる原因の連鎖である。

AがBを起こし、BがCを起こしと続き、最後にXを起こす。

さらにXがAを起こし、AがBを起こしと延々と無限に続く。

 

言わば、時間の環である。

だが、ここで改めて強調しておくが

因果関係のループは、符号化された振動情報が

ホログラムとして現れたものに過ぎない。

 

 

延々と回転を続ける世界線のループは

至るところに存在しており、我々は

「時間の環」と私が呼んでいるものの「中」に住んでいる。

無限を表すシンボルに、自らの尾を呑み込む蛇

(ウロボロスの蛇)があるが、これは本当のところ

永遠に繰り返す「時間の環」という

錯覚の無限を表すシンボルになっている。

いつも出発点に向けて戻っているだけなのに

どこか別のところに向かっていると

人々に信じ込ませる罠として機能する閉鎖回路である。

人間の人生の長さでは、全行程を経験するには

遥かに及ばないため、我々は一回の人生では

そのごく一部しか認識することができない。

このため、我々はAからBに行くとか

未来へ進んでいるような気がしているのである。

いずれも錯覚である。

 

そして、ここで、本当に重要なポイントになる。

全てのものには、時空を通る独自の経路(世界線)がある。

人間も例外ではない。

人間の世界線は、誕生時に始まり、この現実界を去るまで続く。

子供の世界線は

両親の世界線から分岐して、独自の道を進む。

 

アインシュタインの一般理論では

ブラック・ホールや恒星のような

巨大な物体は、時空を歪め、世界線を捻じ曲げる。

この歪曲が強力な場合、世界線はそれ自身にぶつかるまで曲がり

閉鎖ループを形成して、その中で世界はぐるぐると周り続ける。

 

私は強い確信をもって述べておきたいが、こうした働きは

巨大な物体だけでなく、全ての物体にある。

もちろん、全て物体に強力な作用があるわけではないが

人間という形態を含め、あらゆるものは

ここに存在するだけでそれなりに時空の編み物を歪めている。

 

忘れてはならないのは、時空とはエネルギー構造物であり

その基本状態は振動するエネルギーである。

肉体も振動するエネルギーであり

互いに影響しないはずがないのである。

さらに言えば、マインドは、思考と感情を通じ

時空を歪めることができる。

 

私には、明らかに大半の人々は、集合的な時間の環の中で

個人的な時間の環の中に囚われていると思える。

それは、全てのものは全体の縮小版であるという

「上のごとく、下も然り」のホログラム法則である。

もしも、高い次元のホログラムを「修正」することができれば

その範囲内の全てのホログラムは、その原版(マスター)ホログラム

(スーパー・ホログラム)の影響を受けるはずである。

 

人々がオーラを「閉鎖」してしまっているのは

各人の時空の世界線が、延々と独りでに回転を繰り返すCTC

(閉鎖した時間のカーブ)を形成してしまったからである。

その結果、人々は、常に同じ行動、認識、反応を繰り返している。

人間は、同じ場所でスピードを上げながら踏み車を回し続ける

ネズミにたとえられることがある。

いつも出発点に戻ってばかりだ。

 

そして、それこそが、個人的・集合的な時間の環の中に

我々を閉じ込めることこそが、この現実の操作と

マインド・プログラミングの狙いである。

それにいったん囚われてしまうと、我々には何を変えることもできず

過去にしたことを何度も繰り返し続けるだけである。

まさにクルクル・パーだ。

 

大勢の人々の現実認識を集団的にプログラムできるのは

原版のホログラムさえ変更すれば

その範囲内の全てのホログラムが即座に新しい情報

(プログラム)で符号化されるからである。

ここで熟考してみてほしい。

全ての関心を、時空の中に符号化された「場所」

つまり、五感の現実に集中させることこそが

人間の世界線をそれ自体へと捻じ曲げ

(まるでランニング・マシンに乗っているように同じ場所を走り続け)

小さな時間の環を形成しているのだ。

 

根源意識に目覚めた人は

時空の構造物を超越したところへと観点が移動する。

そして、もはや

認識・感覚は、時空の構造物という歪曲に従属することはなくなる。

錯覚である時空の領域で稼働しているマインドは

その歪曲に従属している。

だが、根源意識はそうではない。

だからこそ、マインドから脱却し、根源意識に入っていった人は

それまで見えなかったことが見えるようになり

それまで可能とは思えなかった明晰さでこの現実界を認識できるようになる。

 

私は、話を簡単にするために、時間の環のことを

円にたとえてきたが、実際にはメビウスの環(メビウス帯)

のような形をしている。