NO267火曜日シリーズ『新釈古事記伝』第15回
おはようございます。けんいちです。
本日のテーマは「触れない優しさと、触れる覚悟」です。
しらみ取りの話を、もう一歩だけ深めてみたいと思います。
前回は、「任される距離」そのものが試験である、というところまで見てきました。
今回は、その先です。
人は、優しくあろうとするほど、触れない選択をすることがあります。
踏み込みすぎない。
傷つけないようにする。
相手の領域を尊重する。
それは、とても大切な姿勢です。
実際、多くの場面では、「触れない優しさ」が人を救います。
けれども、しらみ取りの場面で問われているのは、それだけではありません。
ここでは、あえて触れる覚悟が求められています。
頭に手を伸ばす。
相手の無防備な場所に関わる。
しかも、それを嫌がられず、恐れられず、自然に受け取ってもらう。
これは、親切心だけでは到達できません。
「良かれと思って」
「助けてあげたいから」
その気持ちが前に出すぎると、手は止まります。
なぜなら、そこにはまだ自分の判断が残っているからです。
触れる覚悟とは、相手の人生に介入する覚悟ではありません。
自分の正しさを通す覚悟でもありません。
むしろ逆で、自分を消す覚悟に近いものです。
評価しない。
指示しない。
結果を急がない。
ただ、任された役割を引き受ける。
だからこそ、沈黙が必要になるのです。
言葉を足せば足すほど、距離は不自然になります。
説明を重ねるほど、信頼は薄れていきます。
しらみ取りにおいて、一番邪魔になるのは、「ちゃんとやっています」という態度です。
本当に任されている人は、自分がやっていることを語る必要がありません。
そして、ここでもう一つ、見落としてはいけない条件があります。
自分のしらみを取っていない人は、人のしらみを取れない、という点です。
これは、技術や知識の話ではありません。
自分の未整理な感情。
自分の承認欲求。
自分の不安や焦り。
それらを抱えたままでは、手はどこか震えます。
相手は、その揺れを敏感に感じ取ります。
だから、触れる覚悟とは、まず自分に向けられるものなのです。
どこまでなら、自分は静かでいられるか。
どこまでなら、相手を操作せずにいられるか。
それが整って、はじめて、人の頭に手を伸ばす資格が生まれます。
古事記の「心に愛しく思ひて寝ましき」という一句は、この地点を示しているように思います。
何も言わない。
何も確認しない。
それでも、安心して眠れる。
触れない優しさを越えて、触れる覚悟を引き受けた人だけが、たどり着ける境地です。
優しさは、距離を保つことでも示せます。
けれども、覚悟は、距離を越えたときにしか試されません。
いま、あなたが関わっている誰かに対して、触れない優しさで留まっている場面はないでしょうか。
次回予告(第16回)
次回は、「生太刀・生弓矢」 を手がかりに、大国主命がスサノオノミコトから受け取った〈技〉と〈心得〉、そして免許皆伝とは何か を味わいます。
生太刀・生弓矢は、人を斬るため、射るためのものではなく、あらゆるものを生かし、それぞれにふさわしい位置を与えるための象徴。
技を持つことよりも、その技を どんな心で使うのか が問われている——古事記は、静かにそう語りかけてきます。
殺気を手放し、自分の中の「生太刀・生弓矢」を磨くとは、どういうことなのか。
来週は、学び・仕事・生き方のすべてにつながる〈免許皆伝の条件〉 を、一緒に見つめていきたいと思います。
そして同時に、自分のしらみを取らないまま、手を伸ばそうとしていないでしょうか。
古事記は、こう問いかけているように思うのです。
あなたは、触れないままで守っているのか。
それとも、静かに触れる覚悟を、すでに引き受けているのか。
