【NO290】火曜日シリーズ『新釈古事記伝』第22回
おはようございます。
けんいちです。本日のテーマ「荒ぶる力は、敵なのか」です。
前回は、大国主命の歩みを通して、「命の喜びに立つ」という在り方を見つめました。
自分という存在を肯定し、そのまま前へ進もうとする姿勢です。
では、その地点に立ったとき、私たちは何に出会うのでしょうか。
整えられた世界でしょうか。
穏やかで、何も起きない安定でしょうか。
神話は、そうは語りません。
ここで姿を現すのが、須佐之男命です。
泣き叫び、天を騒がせ、秩序を乱し、ついには追放される。
『古事記』の中で、彼は「荒ぶる神」として描かれます。
一見すれば、問題を起こす存在です。
しかし、この姿をただの「悪」として片づけてしまうと、物語の核心を見失います。
荒ぶる力とは、何を象徴しているのでしょうか。
それは、人の内にある衝動です。
抑えきれない感情。
理屈では割り切れない生命のうねり。
社会には秩序が必要です。
集団には調和が求められます。
けれど、その前に問われているのは、
荒ぶる力をどう扱うのか、ということです。
抑え込むのか。
切り捨てるのか。
排除するのか。
神話の答えは、そのどれでもありません。
須佐之男命は追放されます。
けれど、物語から消えるわけではありません。
彼はやがて八岐大蛇を退け、新しい秩序を生み出します。
ここに、大きな転換があります。
荒ぶる力は、否定すべきものではなく、創造へと転じうる力として描かれているのです。
私たちの中にも、須佐之男命はいます。
怒り。
焦り。
嫉妬。
衝動。
それらを「なかったこと」にすると、形を変えて噴き出します。
しかし、野放しにすれば、自分や周囲を傷つけます。
大切なのは、その奥にあるエネルギーを見つめ、
どの方向に使うかを選ぶことです。
破壊の奥に、再生の芽がある。
壊れるからこそ、新しい形が生まれる。
荒ぶる力を恐れず、しかし振り回されもせず、創造へと転じていく。
そこに、神話の静かな知恵があります。
国づくりも、人生も、
調和だけでは成り立ちません。
秩序と衝動。
静と動。
破壊と再生。
両方を抱えたとき、はじめて統合が起こります。
あなたの中の荒ぶる力は、いまどこに向かっていますか。
今日はほんの少し、自分の感情の奥にある「エネルギー」を見つめてみてください。
それは敵ではなく、まだ使われていない力かもしれません。
次回は、八岐大蛇の物語を通して、「恐れ」とどう向き合うかを考えていきます。