【2025年NO306|日本教育100年の歴史シリーズ第21回】

おはようございます。けんいちです。
本日のテーマは「教育における『志』は、なぜ必要なのか」です。


前回は、これからの教育が「答えを教える」から「問いを引き出す」ものへと変化していくことを見てきました。


そして、どのように問いを育てるのかという方法についても整理してきました。
しかし、ここで一つ大切な問いが残ります。


それは、「そもそも、何のために学ぶのか」という問いです。


どれだけ優れた方法があっても、その根本にある目的が曖昧であれば、学びは続きません。


現代の教育現場では、この「目的の不在」が一つの課題となっています。


なぜ勉強するのか。
なぜ努力するのか。

 


それが分からないまま、ただ何となく学んでいるという方がほとんどではないでしょうか。
 

 

 

では、この問題をどう考えればよいのでしょうか。


ここで重要になるのが「志」という考え方です。
志とは、単なる目標ではありません。


何のために学ぶのか。
どのように生きるのか。
誰のために価値を生みたいのか。

そうした、生き方の軸となるものです。



日本の教育を振り返ると、この「目的」は時代ごとに変化してきました。


戦前は、国家を支える人材を育てることが中心でした。

戦後は、民主主義を支える市民を育てることへと変わりました。

高度経済成長期には、経済発展を担う人材の育成が求められました。
このように、教育は常に社会の目的と結びついてきました。


しかし現代はどうでしょうか。
社会が多様化し、価値観も一つではなくなった今、「これが正解」という生き方は存在しません。


だからこそ、その中心に求められるものは、外から与えられる目的ではなく、自分自身で見出す「志」です。


ここに、教育の本質的な転換があります。


知識を学ぶだけではなく、考える力を育てるだけでもなく、その先にある「志」を持つこと。


この三つがそろったとき、学びは初めて「生き方」と結びつきます。


志がある人は、困難に直面しても学び続けます。


なぜなら、その学びが自分の人生とつながっているからです。


一方で、志が曖昧なままでは、学びは「やらされるもの」になりやすくなります。



だからこそ、これからの教育においては、「何を教えるか」だけでなく、「なぜ学ぶのか」を問い続けることが重要になります。


最後に、本日の問いです。




あなたは、何のために学んでいますか。




その学びは、誰のためにつながっていますか。

一度立ち止まり、自分自身の志について考えてみてください。

次回は、この「志」をどのように育てていくのか、具体的な方法について見ていきます。

【NO305|火曜日シリーズ『新釈古事記伝』第28回】
おはようございます。けんいちです。
本日のテーマは「衝突とは何か」です。


前回は、衝突は悪ではなく、それが「なきいさち」か「かちさび」かを見極めることが重要であるとお伝えしました。
今回は、その前提として、「衝突とは何か」を整理します。


■衝突とは何か
衝突とは、異なる役割・立場による判断の違いが同時に現れることです。


組織では、関係が深くなるほど衝突は増えます。

・経営者と幹部
・事業責任者同士
・現場と本部

立場や役割が異なるほど、判断の違いは大きくなります。


衝突は避けたいものですが、意思決定の現場では必ず発生します。



■衝突は悪なのか
結論として、衝突そのものは悪ではありません。


古事記では、この構造が明確に描かれています。
須佐之男命は、高天原に上がり、既存の秩序に揺さぶりをかける行為をします。
一見すると問題行動に見えますが、本質はそこではありません。

ここに現れているのは、「かちさび(=前へ進もうとする働き)」です。
具体的には以下の働きです。

 

・既存のやり方を問い直す
・停滞しているものを動かす
・新しい流れを生み出す


組織で言えば、現状に切り込む提案や変革の動きです。


一方、天照大御神は、「秩序を維持する役割」を担います。

・全体の安定を守る
・仕組みを維持する
・全体最適を整える

■衝突が起きる構造

衝突は、次の2つが同時に存在したときに発生します。

・変化を起こす働き(かちさび)
・安定を維持する働き


この2つの働きがぶつかることで、摩擦=衝突が生まれます。
これは自然な現象です。



■問題は「衝突の後」
重要なのは、衝突そのものではなく、その後の扱い方です。
天照大御神は、感情的に対抗したのではありません。
須佐之男命の働きが自らの受け持ちに及び、本来行うべき「うけひ」が成立しない状態になりました。


うけひとは、自らの受け持ち(役割)を明確にし、それが果たせているかを確かめる行為です。
つまり、「自分の役割が果たせない状態」になったということです。



このとき天照大御神は、天岩屋戸に籠られます。
これは逃避ではありません。


自らの役割を立て直し、本来の働きを回復するための行動です。
外に原因を求めるのではなく、自分の内に立ち返る。

これが「みかしこみ」です。

みかしこみとは、出来事の原因を他者ではなく自分の内に引き受け、見方とあり方を整える姿勢です。



■衝突で起きやすい誤り
衝突が起きたとき、人はすぐに「正しい/間違い」で判断しがちです。
しかし、この見方では本質を見誤ります。


人は「部分」だけを見て判断してしまうためです。
本来は、次の観点で捉える必要があります。


・その人の受け持ち(役割)
・成長の段階
・全体の流れ



■必要なのは「見極め」
衝突に対しては、次の判断が必要です。

・止めるべきものか
・見守るべきものか


つまり、
・秩序を壊す「なきいさち」なのか
・成長過程である「かちさび」なのか


この見極めを誤ると、
・伸ばすべきものを止める
・止めるべきものを見逃す
という逆転が起こります。



■衝突の扱い方(結論)
衝突に対して重要な行動は2つです。


①「正しさ」で裁かない
誰が正しいかではなく、それぞれがどの役割に立っているかを見る。


②自分の受け持ちに立ち返る
・自分はいま何を担っているのか
・その役割を果たせているか



■まとめ
衝突は、相手を変えるためのものではありません。
自分のあり方と役割を問い直す機会です。


いま起きている衝突は、単なる対立でしょうか。
それとも、新しい働きが生まれる兆しでしょうか。


衝突は排除するものではなく、見極めて活かすものです。


今日も辿り着きたい未来に向かって、一歩ずつ進んでいきましょう。

【NO304|日本教育100年の歴史シリーズ第20回】
おはようございます。けんいちです。
本日のテーマは「これからの教育は、どのように実現されるのか」です。


前回は、これからの教育において重要なのは「答えを導く力」ではなく「問いを立てる力」であることを見てきました。



では、その教育は実際にどのように実現されていくのでしょうか。


ここで重要になるのが、学びの「形」の変化です。


これまでの教育は、教室の中で行われるものでした。
教師が教え、生徒が学ぶ。
時間も場所も決まっている。
これが基本の形でした。



しかし現在、その前提が大きく変わり始めています。
オンライン学習の普及。
動画教材の拡大。
AIによる個別最適化。


学びは、学校の中だけで完結するものではなくなりました。
いつでも、どこでも、誰もが学べる環境が整いつつあります。
これは、生涯学習の考え方が現実になり始めているとも言えます。


さらに大きな変化は、「一斉授業」からの転換です。
これまでの教育は、同じ内容を同じペースで学ぶことが前提でした。


しかしこれからは、理解の速さも、興味の方向も、目指す未来も異なる中で、一人ひとりに合った学びが求められるようになります。


ここで重要になるのが、「個別最適化された学び」と「協働的な学び」です。
一人で深く考える時間と、他者と対話する時間。
この両方が必要になります。


また、教師の役割も変わります。
これまでの教師は、知識を伝える存在でした。


しかしこれからは、


問いを引き出す存在。
思考を深める伴走者。
学びの環境をデザインする存在へと変わります。


つまり、教える人から、支える人へ。


ここに大きな転換があります。


そしてもう一つ重要なのは、評価のあり方です。
これまでの教育では、テストの点数が中心でした。

しかしこれからは、


どのように考えたか。
どのように問いを立てたか。
どのように学び続けているか。


こうしたプロセスがより重視されていきます。


では、この変化は簡単に実現できるのでしょうか。



答えは、簡単ではない、です。


なぜなら、教育は制度であり、文化であり、社会そのものだからです。
だからこそ、変化には時間がかかります。


しかし一方で、すでに変化は始まっています。
学校現場でも、企業研修でも、個人の学びでも、少しずつ、新しい教育の形が生まれています。


では最後に問いです。
あなたの現場では、「教えること」が中心になっていますか。
それとも、「問いを引き出すこと」が中心になっていますか。


もし可能であれば、明日一つだけでも「答えを教える前に、問いを返す」という関わりを試してみてください。
そこから、これからの教育は現実のものになっていくのだと思います。


次回は、この流れをさらに深め、「教育における“志”の役割」について考えていきます。

【NO303|火曜日シリーズ『新釈古事記伝』第27回】
おはようございます。けんいちです。
本日のテーマは「なぜ人は見誤るのか」です。


前回は、衝突は悪ではなく、役割を果たそうとする中で自然に生まれるものであり、それを「なきいさち」か「かちさび」か見極めることが重要であるとお伝えしました。


では、もう一歩進めます。


なぜ私たちは、その見極めを誤ってしまうのでしょうか。
結論から言うと、


人は「部分」で判断してしまうからです。



私たちは日常の中で、目に見える一部の情報だけで判断しています。


・目の前の行動
・その場の結果
・自分にとっての都合


こうした「部分」を見て、良い・悪いを決めてしまう。



しかし本来、行為というものは、


・その人の背景
・成長の段階
・全体の流れ


の中で現れているものです。
部分だけを切り取ってしまうと、本質を見失います。


たとえば、ある人の言動が乱れているように見えたとします。


それをすぐに「なきいさち」と判断してしまうと、本来は成長の途中にある「かちさび」を
止めてしまうことになります。


逆に、本当に秩序を壊している行為を「個性」や「自由」として見逃してしまえば、全体は崩れていきます。


つまり、見誤りとは、知識不足ではありません。
視点の持ち方の問題 なのです。



では、どうすれば見誤らなくなるのか。

ここで大切になるのが、「全体で捉える」という姿勢です。


全体とは、


・時間の流れ
・人の成長過程
・周囲との関係性


これらを含めて見るということです。


そしてもう一つ、さらに重要なことがあります。
それは、自分の内面が判断に影響しているという事実です。


同じ出来事でも、余裕があるときは受け入れられるのに、余裕がないときは否定したくなる。


この経験は、誰にでもあると思います。
つまり私たちは、出来事そのものではなく、
自分の状態を通して世界を見ているのです。


だからこそ古事記は、外の出来事だけでなく、内側に向き合う姿勢を重視します。
それが「みかしこみ」です。


みかしこみとは、外に原因を求めるのではなく、自分の内に引き受けること。
相手の行動を正そうとする前に、自分の見方を整えることです。


この姿勢に立つと、見え方が変わります。
これまで「問題」に見えていたものが、「成長の過程」に見えてくる。
これまで「敵」に見えていたものが、「役割の違い」に見えてくる。


そして結果として、判断の精度が上がっていきます。



古事記が示しているのは、正しい答えを持つことではなく、正しく見る力を育てることです。


これは、教育においても、組織においても同じです。

 

 

指導とは、正解を教えることではありません。
見方を整えることです。


見方が整えば、人は自分で判断できるようになります。
そして、その積み重ねが、主体性を生み出していきます。


今日一日、何かを判断するとき、その場の「部分」だけで決めていないか、一度立ち止まってみてください。
そして、これは本当に
「なきいさち」なのか、それとも「かちさび」なのか。

その問いを持つことから、見誤らない力が育っていきます。

【2025年NO301|日本教育100年の歴史シリーズ第19回】
おはようございます。けんいちです。
本日のテーマは「これからの教育は、どこへ向かうのか」です。


前回は、ゆとり教育が批判されながらも、「考える力を育てる」という問いを現代に残したことを確認しました。


では、その問いの先にあるものは何でしょうか。


現在、教育を取り巻く環境は大きく変化しています。
AIの進化、デジタル技術の発展、働き方の変化、人生100年時代。


こうした変化により、「何を知っているか」ではなく、「知識をどう活用するか」が問われる社会へと移行しています。


これまでの教育では、知識を正確に習得することに価値が置かれてきました。
正解を早く導くこと、同一の問題を正確に解くこと。
これらが主な評価対象でした。


しかし現在は、検索により即座に情報へアクセスでき、AIが文章生成や分析を担う時代です。


この状況において、知識そのものの価値は相対的に低下しています。

 

 

では、今後求められる力は何でしょうか。




それは「問いを立てる力」です。


何が課題なのか。
何を検討すべきなのか。
どのように解決へ向かうのか。


正解が一つではない課題に対しては、問いの質が思考の質、ひいては成果を左右します。


ここで、教育の役割も変化します。


「何を教えるか」から、「どのように考えさせるか」へ。


さらに、「どのように生きるか」を問い続ける力の育成へと広がります。


主体的・対話的で深い学び、探究学習、アクティブラーニングは、いずれもこの方向性を示す実践です。


そしてこれは新しい概念ではありません。


ゆとり教育が提起した「考える力の重視」という考え方が、現在の教育実践へと接続されています。

 

 

では、知識は不要になるのでしょうか。



結論として、知識は引き続き重要です。


今後必要なのは、「知識か思考か」という二項対立ではなく、「知識を基盤として思考する力」です。


基礎的な知識を土台とし、それをもとに問いを立て、検討し続ける。
この両立が不可欠です。


教育はこれまで、国家形成、民主主義の定着、経済成長といった社会的要請に応じて変化してきました。
そして現在、教育は再び根本から問い直されています。


 

 

それは、「人はどのように生きるのか」という問いです。

 

 

 

この問いに唯一の正解はありません。

だからこそ教育は、答えを提示するものではなく、問いを持ち続ける力を育成するものへと転換しつつあります。

最後に、本日の問いです。

あなたの現場では、
「答えを導く学び」と「問いを立てる学び」のどちらが中心になっていますか。

また、今後どちらを強化する必要があると考えますか。

一度、立ち止まって考えてみてください。

【NO300|火曜日シリーズ『新釈古事記伝』第26回】
おはようございます。けんいちです。
本日のテーマは「なぜ衝突は起こるのか」です。



前回は、「人を動かすのは言葉や命令ではなく、自分が引き受けた行為である」とお伝えしました。


人が自分の受け持ち(役割・責任範囲)に立ち、動き始めると、必ず起こるものがあります。
それが「衝突」です。



■なぜ衝突は起こるのか
衝突は、人それぞれに受け持ちがあるために起こります。


人はそれぞれ、
・異なる役割を持ち
・異なる立場に立ち
・異なる方向から物事を見ています


その状態で、それぞれが自分の受け持ちを果たそうとすると、考えや判断の違いが必ず生まれます。



つまり衝突は、誰かの間違いによって起こるものではありません。
それぞれが自分の役割を果たそうとした結果として生まれるものです。



■衝突の2種類
すべての衝突が同じではありません。次の2つに分けて考えます。


①なきいさち(咎めるべき衝突)
・秩序を壊すもの
・他者を傷つけるもの
・全体を崩すもの

→これは止める必要があります。



②かちさび(見守るべき衝突)
・新しい働きを生み出そうとするもの
・試行錯誤の中で起こる摩擦
・成長の過程で避けられないズレ


→これは本来、咎めるものではありません。

この見極めができないと、
・伸ばすべきものを止める
・止めるべきものを見逃す
という逆転が起こります。



■衝突は「内の問題」でもある
衝突は外側の問題だけではありません。
受け取り方によって意味が変わります。



同じ出来事でも、


・怒りになるのか
・理解になるのか

 

は、自分の内面の状態に左右されます。



■みかしこみ(向き合い方)
ここで重要なのが「みかしこみ」という姿勢です。
これは「責任を外に求めず、自分の内に引き受ける姿勢」を指します。


・相手を変えようとする前に、自分のあり方を見直す
・出来事を自分ごととして受け取る


この姿勢に立つと、衝突は単なる対立ではなく、関係を深めるきっかけに変わります。



■まとめ
衝突は、社会を壊すものではなく、社会を形づくる働きでもあります。
重要なのは、衝突をなくすことではありません。

 

 

「どう扱うか」です。

・これは「なきいさち」か
・それとも「かちさび」か
・自分は何を引き受けるのか

この視点で捉えることで、衝突は成長の入り口になります。


■本日の実践
今日、衝突が起きたときは、次の順で考えてください。

 


1. この衝突はどちらか(なきいさち/かちさび)
2. 自分は何を引き受けるのか


ここから、新しい関係が始まります。


・その衝突は「指導が必要な行動」か「成長過程の摩擦」か
・生徒/教員の試行錯誤を止めていないか
・守るべき秩序は保たれているか


上記3点を基準に判断してください。

【2025年NO299|日本教育100年の歴史シリーズ第18回】
おはようございます。けんいちです。
本日のテーマは「ゆとり教育は、なぜ批判されたのか」です。
 
 
前回は、ゆとり教育が「知識を減らす教育」ではなく、「考える力を育てる教育」として始まったことを見てきました。
ではなぜ、この教育は強い批判を受けるようになったのでしょうか。
 
 
一つ目の理由は、「学力低下への不安」です。
 
 
2000年代に入り、国際学力調査(PISAなど)の結果が注目されるようになります。
その中で、日本の順位が以前より下がったことが報じられました。
 
 
これをきっかけに、「ゆとり教育のせいで学力が下がったのではないか」という見方が広がっていきます。
 
 
実際には、単純にゆとり教育だけが原因とは言えません。
 
 
しかし、社会全体に「学力が落ちているのではないか」という不安が広がったことは確かでした。
 
 
 
二つ目の理由は、「教育のばらつき」です。
 
 
ゆとり教育では、総合的な学習の時間など、自由度の高い学びが導入されました。
しかしその一方で、学校や教師によって内容や質に大きな差が生まれました。
 
 
ある学校では主体的な学びが深まる一方で、別の学校では何をしているのか分かりにくい時間になってしまう。
 
 
このばらつきが、保護者や社会の不信感につながっていきました。
 
 
 
三つ目の理由は、「競争との関係」です。
 
 
社会は依然として受験や就職といった競争の構造を持っています。
その中で、学習内容が減ったことに対して「このままで大丈夫なのか」という不安が強まりました。
 
 
特に保護者にとっては、子どもの将来に直結する問題です。
 
 
自由な学びよりも、確実な学力を求める声が強くなるのは自然な流れとも言えます。
 
 
こうして、
ゆとり教育は次第に見直されていきます。
 
2008年には学習指導要領が改訂され、
授業時間や学習内容が再び増加します。
 
いわゆる「脱ゆとり教育」と呼ばれる流れです。
 
 
 
ここで重要なのは、ゆとり教育が「失敗だった」と単純に言い切れない点です。
 
 
ゆとり教育は、教育に一つの問いを投げかけました。
 
それは、「知識を覚えること」と「考える力を育てること」どちらを重視するのか、という問いです。
 
 
この問いは、今もなお続いています。
現在の教育でも、主体的・対話的で深い学び。
 
探究学習。
アクティブラーニング。
 
こうした言葉が使われています。
 
 
これはまさに、ゆとり教育が目指していた方向とつながっています。
つまり、ゆとり教育は終わったのではなく、形を変えて今の教育の中に残り続けているのです。
 
 
 
では私たちは、どのような教育を選ぶべきなのでしょうか。
 
 
知識をしっかり身につけることか。
それとも、自ら考え続ける力を育てることか。
 
 
もしかすると、本当に必要なのは「知識を使って考える力」なのかもしれません。
次回は、この流れを受けて「これからの教育はどこへ向かうのか」を見ていきます。

【NO298|火曜日シリーズ『新釈古事記伝』第25回】
おはようございます。けんいちです。
本日のテーマは「人は、なぜ動き出すのか」です。


前回、私たちは 「かちさび(勝佐備)」 という言葉を見てきました。


現代では「勝つ」と言えば、誰かに勝つこと、相手を打ち負かすことを意味します。
しかし、古事記で語られる「勝つ」は、その意味ではありません。



古事記でいう「勝つ」とは、

・行き詰まりを越えること
・新しい働きを生み出すこと
・命の働きが前へ進み始めること

を指します。


そして、その働きを表す言葉がかちさび(勝佐備) です。



では、人は いつ そのように動き出すのでしょうか。


古事記は、その答えを須佐之男命の姿 を通して示しています。



受け持ちが見えたとき


須佐之男命は、受け日を通して、自分の受け持ちが何であるかを知ります。
それは、天上の世界の働きではありませんでした。


須佐之男命の受け持ちは、現し国の生活を支える働き でした。


現し国とは、人が実際に生きている世界のことです。

人が
・食べ
・働き
・暮らしている世界です。

その生活を支えるのは、

・生活の知恵
・技術
・日々の工夫

です。

須佐之男命は、その働きこそが自分の受け持ちであると悟ります。



人は、自分の受け持ちが見えたとき、はじめて動き出します。
なぜなら、そのとき初めて「自分は何をすればよいのか」が分かるからです。


女性の尊さに気づく
須佐之男命は、もう一つ大切なことに気づきます。
それは、女性の存在の尊さ です。

女性は

・命を宿し
・家をつくり
・命を次の世代へつないでいく存在

です。


その意味で、女性は生活の中心に立つ存在 です。


一方で、生活を守るための技術や外の働きの分野では、女性だけでは担いきれない場面もあります。


だからこそ男性は、女性の足らないところを補い、女性がその使命を果たせるよう支える。
須佐之男命は、その関係に気づいていきます。


ここに、人が共に生きる社会の基本の姿 があります。


「我れ勝ちぬ」の意味
須佐之男命は、こう語ります。

「我が心清きゆえに、我れ勝ちぬ」

この言葉は、誰かを打ち負かした勝利を意味する言葉ではありません。
それは、自分の受け持ちを知り、その働きを悟ったときの 喜びの言葉 です。



つまり古事記は、自分の使命が見えたとき、人は勝つと語っているのです。



それは、外の世界で勝つという意味ではありません。
自分の命の働きが、前へ進み始めたという意味です。


これこそが、古事記の語る「勝つ」ということです。



勝佐備は、人生の始まり
ここまで見てくると、かちさび(勝佐備) は、戦いの言葉ではありません。

それは、自分の受け持ちを知り、その働きを実現するために前へ進むこと。

つまり、人生が本当に始まる瞬間 を表す言葉です。

多くの人は、自分が何をすればよいのか分からないまま生きています。

しかし、受け持ちが見えたとき、人は迷わなくなります。

前へ進む力が生まれます。


古事記が語る 勝佐備 とは、まさにその瞬間のことなのです。



次に起こること
しかし、人が前へ進み始めると、必ず 新しい問題 が生まれます。

それは 衝突 です。

人それぞれに受け持ちがあり、それぞれが前へ進もうとするとき、そこには必ず ぶつかり合い が生まれます。


古事記は、この衝突を

天津罪(あまつつみ)
国津罪(くにつつみ)

という形で語ります。

次回は、この問題を通して、人が社会をつくるとはどういうことか を考えていきます。

【NO297|日本教育100年の歴史シリーズ第17回】
おはようございます。けんいちです。
本日のテーマは「ゆとり教育は、なぜ始まったのか」です。


前回は、1980年代の臨時教育審議会(臨教審)が「個性重視」の教育を掲げたことを見ました。


すべての子どもを同じ型にはめるのではなく、一人ひとりの個性や能力を大切にする教育へ。


この考え方は、1990年代以降の教育改革へとつながっていきます。
その象徴となったのが
「ゆとり教育」です。


ゆとり教育という言葉を聞くと、学力低下という議論とともに語られることが多いかもしれません。
しかし、もともとの目的は学力を下げることではありませんでした。


むしろ逆でした。


知識を詰め込む教育から、考える力を育てる教育へ。
これが大きな狙いだったのです。


1990年代、日本の学校教育にはある問題が指摘されていました。




それは「詰め込み教育」です。

 



授業時間は多く、覚える内容も多い。
受験競争の中で、知識を効率よく覚える力は鍛えられていました。



しかしその一方で、別の疑問も生まれていました。
知識は増えている。しかし、自分で考える力は育っているのだろうか。

子どもたちは、学ぶことを楽しめているのだろうか。



こうした問題意識のもと、教育の方向は少しずつ変わっていきます。



学習内容を減らし、授業時間にも余裕を持たせる。



その時間を使って、子どもが自分で考えたり、体験的に学んだりする。



こうして導入されたのが「総合的な学習の時間」です。


地域を調べる。
環境問題を考える。
自分の興味のあるテーマを探究する。


教科書の知識だけではなく、自分で問いを立て、調べ、考える。



そのような学びが学校の中に取り入れられていきました。



つまり、ゆとり教育とは「授業を減らす教育」ではなく、「学び方を変える教育」だったのです。



ただし、この改革には難しさもありました。


自由な学びは、教師の力量に大きく左右されます。



また、学習内容を減らしたことが学力低下につながったのではないかという批判も強まりました。


こうして2000年代に入ると、ゆとり教育は大きな議論の対象になります。


教育は常に、二つの価値の間で揺れます。



共通の知識をしっかり学ぶこと。



そして、一人ひとりの個性を伸ばすこと。



どちらも大切ですが、そのバランスは簡単ではありません。

では、私たちはどちらを重視するべきなのでしょうか。



知識をしっかり学ぶ教育か。
自由に考える教育か。



もしかすると、本当に必要なのはそのどちらかを選ぶことではなく、両方をどう組み合わせるかなのかもしれません。

次回は、このゆとり教育がなぜ強い批判を受けるようになったのか。

そして、その後の教育改革がどのように方向を変えていくのかを見ていきます。

【NO296|火曜日シリーズ『新釈古事記伝』第24回】
おはようございます。けんいちです。

本日のテーマは「かちさび(勝佐備)とは何か」です。



前回、私たちは  「やさかのまがたまのいほつのみすまるのたま」という言葉を通して、


無限の働きが、有限の形として現れてくる構えを見てきました。


命とは、ただ存在しているものではありません。  
そこには必ず、「前へ進もうとする力」があります。



古事記は、その働きをかちさび(勝佐備)という言葉で表しています。
けれども、この言葉は、現代の感覚のまま読むと、意味を取り違えてしまいます。


今の私たちは、「勝つ」と聞くと、誰かに勝つこと、相手を打ち負かすことを思い浮かべます。


しかし、大和言葉としての「かつ」は、それだけの意味ではありません。
この言葉には、「生」「産」「創」「克 」「堪」といった意味が重なっています。



つまり本来の「勝つ」とは、  相手を負かすことではなく、行き詰まりを越えて、新しい働きを生み出すこと。


古事記の言葉でいえば、それは「むすび」の働きです。
命が、新しく結ばれ、新しい道が生まれてくる。


その働きが現れるとき、人は「勝つ」のです。



では、「佐備(さび)」とは何でしょうか。



佐備(さび)という言葉のもともとの意味は、「進む」ということです。



そこから意味が広がり、



進みすぎること  
行き過ぎること  
衰えに向かうこと



といった意味も生まれていきました。



けれども、ここで古事記が使っているのは、その一番はじめの意味、前へ進むという意味です。
つまり、かちさび(勝佐備)とは、自分の受け持ちを知り、その働きを実現するために
前へ進み続けること。
その姿を表す言葉なのです。



これは、乱暴さでも、思い上がりでもありません。



むしろ、自分の使命に気づき、その使命を生きようとする姿です。



古事記の中で、この「かちさび(勝佐備)」の姿をはっきりと示しているのが、須佐之男命です。



須佐之男命は、受け日を通して、自分の受け持ちが現し国の生活を支える働きにあることに気づきます。



生活を支える知恵や技術。  
暮らしを成り立たせる力。



そうしたものを生み出していくところに、自分の使命があることを知るのです。


さらに須佐之男命は、女性という存在の尊さにも目を開いていきます。


女性は命を宿し、家をつくり、命をつないでいく存在です。
だからこそ、男性は、女性の足らざるところを補い、女性がその使命を果たせるように助ける。


その役目を担うのだということにも気づいていきます。


須佐之男命が語った「我が心清きゆえに、我れ勝ちぬ」という言葉は、誰かを打ち負かした勝利ではありません。


それは、自分の受け持ちを知った喜び。
自分の使命に目覚めた喜びです。



こうして見てくると、かちさび(勝佐備)とは、戦いの言葉ではありません。




命を確かめ、自分の受け持ちを知り、その働きを実現するために前へ進むこと。
それが、古事記の語る 「勝つ」ということなのです。




そして、ここから物語は、さらに次の段階へ進みます。



人が前へ進もうとするとき、必ずどこかで「ぶつかり」が生まれます。



受け持ちと受け持ちが出会うとき、そこにはどんな出来事が起こるのでしょうか。
次回は、その問いを見つめながら、古事記の物語をもう一歩進めていきたいと思います。