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靖国神社参拝




春の例大祭の時は、駐車場が一杯で入れなかった靖国神社ですが、昨日はすきすき。



ゆっくり参拝できました。


$愛すべき家具たちに囲まれて




もちろん遊就館にも行ってきました。



$愛すべき家具たちに囲まれて



零戦すげえ、、、






ということで、




先の大東亜戦争について、再び深く考える機会がありましたが、




しかしまあ、その資料を見れば見るほど、不可解なことが多すぎるんですよね。




例えば、戦争っていうのは、目的があって、終わり方まで全部戦略があって始めるものだと思うのだけど、




大東亜戦争は、ハルノート突きつけれたんで、とりあえず真珠湾行って見る??的な、非常に曖昧な戦争の始め方で、



目的も当初は「自存自衛」だったのが、「大東亜共栄圏」に変わったり、「国体維持」に変わったりと、ふらふらすぐ変わる。




そもそも自存自衛で始めるのならば、真珠湾なんか行かずに、資源のあるフィリピン(アメリカ領)とインドネシア(オランダ領)で終わりにしておけば良かったし、そこでアメリカを待ち構えていれば良かったと思うんだけど。。。。




まあ、百歩譲って真珠湾に行くのならば、なぜあれだけ圧勝してるのに、すんなり帰って来てるの??と言う話なんですよ。



僕なら確実にハワイ穫ってます。


で、そこを起点に、アメリカ本土攻撃してます。







しかし、当時の政府、軍は、それをせずに、訳の分からない島を沢山取って(島は取るのは楽だが守るのは大変)



結果、国際法を完全無視するアメリカに補給船や病院船を狙われて、、、と戦力を分散させたことで、敗北して行くわけです。





いくら日本軍がむちゃくちゃ強いからと言って、これだけ広範囲(世界の4分1)に戦線を広げれば、勝てる戦争も勝てるわけがないでしょう。(むしろ、勝てた戦争をあえて負け戦争にしたとも言えるのだが)




ちなみにその中でも、最大な疑問は、ミットウェイ。


対戦前には、圧倒的に日本海軍の方が戦力が上なのに、追い込み方が中途半端で逆転され、事実上の敗北と、まあ、分けわからないんです、ほんと。


そしてガナルカナルとかアッツでしょ。。。。はぁ、、、、



ここまで行くとね、倉山満氏も言うように、当時の軍部と政府は、本当に馬鹿かスパイかのどちらかだったとしか思えなんですよね。




じゃあ、いつからこんな馬鹿かスパイがトップに立つようになったのか?と考えると、やっぱり元老院が弱まり、衆議院が強くなった、いわゆる大正デモクラシー後というところに行きつくと思うんですよ。



それまでは元老院がある程度の権限と良識と戦略を持って政治、外交をしていたのが、予算を持つ衆議院議会及び大蔵省が、それを楯に権力を握って、どんどん政治、外交がおかしくなっていたように見えるんですよね。



まあ、その衆議院議員を選んだのは当然国民であって、その国民を煽動したのがメディアという、まあ、いつの時代の話をしてるんですかね?(笑)という話ですわ。



そして、その結果、外交のがの字も知らないような、原アホ総理になって、昭和に繋がる馬鹿政治(スパイ政治かもしれないが)が始まったわけで、、、、、




結局、教科書では、軍国主義で軍部が強すぎて暴走したと言うけれど、実態はそうじゃなくて、むしろ議会が強すぎて(いわゆる国民世論)、そこに軍部、政治家が踊らされていたと言った方が、しっくりくるんですよ。




さらに言うとね、日本という小さな小国が、アメリカと言う大国に無謀にも挑んだ戦争、といったニュアンスで教科書には書いてあるけどね、




むしろ当時の日本とアメリカじゃ、どう考えてもアメリカ様の方が弱いっすよ。





ただ資源、工業生産力が負けていただけで、その他は圧倒。ようは、長引かせず一点集中させておけば、確実に勝てたわけです。






それをやれずに大敗北ですから、民主主義政治ってどうなんでしょう?って本当に思いますね。。。。






僕はね、もちろん独裁や共産主義を肯定するつもりはないですよ。




でもね、支持率だったり、メディア受けや、国民受けだったり、そういったことを意識しすぎたポピュリズム政治の行く末は、いつの時代も悲劇であることは確かだと思うんです。





そういう意味では、歴史は非常に重要ですが、今に当てはめると、、、、、






はぁ。。。。。






ちょっと哀しくもなります。







安倍さん、どうか国民世論に惑わされず、良識ある決断をお願いしますww









最後にね、現場(戦争)で戦った方々に罪はもちろんなく、むしろ、こんな馬鹿な上層部にも関わらず、これだけ頑張ったことには、本当に頭が上がりません。




そして亡くなられた英霊の方々への、尊敬と感謝の想いは、子供達へと受け継がせたいと思っています。





























馬鹿の定義は難しい


馬鹿!


バカ!


ばか!




日本語は面白い。かなかカタカナか漢字かでもバカの意味が変わってくる。




さらに良い馬鹿もあれば悪い馬鹿もあると思う。


例えば嫁さんのスカートをめくるのは良い馬鹿かもしれないが、他人のスカートをめくるのは悪い馬鹿。でもそれが小学生だったら良い馬鹿に分類されるかもしれない。



結局は笑って誤摩化せる(許される)か否かという問題もあるが、それが社会的にとなると話はややこしくなったりもする。



たとえばSNS。これは一見身内の間だけのバカのように思えて、公共(社会)全体に発信してしまっている。


冷凍庫の中に寝そべる行為も、身内の中では、笑って誤摩化せる馬鹿だったかもしれない、しかしそれがひとたび公共性を持ってしまえば、許されない馬鹿に形を変えてしまう。



著者も若かりし頃、それなりに悪い事をしてきたし、バカもしてきた。もちろん、今思えばそれらの行為は社会的に容認されるべきものではなかったと認識している。



しかしながら、それらを経験していることが、今現在、自分の糧になっていることもまた否めない事実なのである。


バカが出来ない大人にはなってはいけない、そう思うわけだ。



と同時に、先ほどの社会性、公共性というものも無視できない。大人になればなるほど、それは大きな問題になるからだ。


そういった意味では、今の子供達は非常に不幸であると思う。バカをやらなきゃいけない時期に、それが社会性(許されない場)と直接リンクしてしまうから。



もしも、それをやったら、まだ成熟していない未熟で小さな精神に巨大な波(社会)が襲いかかってしまうから。



その結果、彼らは極端に萎縮してしまうか、安全運転ばかりを心がけるようになるはずだ。



そして子供達は良い馬鹿ができない大人になってしまう。



そうなると世の中は、本物の馬鹿と、萎縮した、頭でっかちの大人を大量に産むことになってしまうだろう。


それが今後の成熟した社会のあり方として健全な方向なのか、という点において、私は非常に疑念を抱いている。



インターネットという社会と個人を直接繋げてしまう恐ろしい文明の利器の、「真の弊害」が、きっと、これからはっきりとわかる時代がくるだろう。








母国語の重要性



国とは何か?それは母国語だと言う人がいた。以前から母国語の重要性を解いていただけに、私はその答えに「なるほど!」と目から鱗だった。


まさに国とは母国語なのだ。



それは母国語にこそ、その国の文化、歴史、民族性が詰まっているからに他ならない。




例えば英語はアルファベットのみで単語が構成されている。いわゆる単純構造だ。また、それ故に世界共通語となり得たわけだが、その生みの親であるイギリス、それを大陸に伝えたアメリカ。彼らの民族性、歴史、文化は極めて単純だ。



例えば彼らの言う正義と悪は完全なる二新法であるし、母国料理に複雑性もない。歴史を見ても原住民の侵略から始まり今に至るまで、まったく変化していない(アメリカ)。これこそ彼らの母国語(英語)と国の根幹が同じである証拠である。



そして我が国、日本はどうだろうか。


カタカナ、ひらがな、漢字を組み合わせて単語や文章が構成されている。漢字に関しては、相当数あるだろう(おそらく全ての漢字を知っている日本人はいない)



このように複雑で難解かつ表現方法が豊富な母国語を、我々は幼少期から学んで行くわけだから、思考構造も複雑化に耐えられ、また表現の幅が広がるようにできているわけだ。



もちろん、言語の難解度が上がると、グローバルには適していないだとか、また個人差が出やすいという問題点もある。



しかしながら、私たちはそういった世界でも類希な表現の幅を持ち合わせており、それが今日の日本経済、日本国の世界に置ける立ち位置を確保してると言っても過言ではないのではないか。



にも関わらず、近年はグローバル社会(世界)への対応と銘打って、幼少期からの英語教育に力を入れて行こうという流れがある。



しかし本当に幼少期からの英語教育がグローバル社会に適応かつ勝負出来る水準にまで到達できるのだろうか?私は甚だ疑問である。



その根拠の一つは英語が母国語の国には、その国の文化、歴史、民族性を産まれたときから継承しているわけで、それらを全く受け継いでいない日本人が英語をしゃべれるようになったところで、彼らには勝ち目が無いのである(よほどの知性の持ち主なら別だろうが)


例えば、アメリカ人全てが日本語教育を始めたとしたらどうだろうか、それこそ私たち日本人が有利になることは目に見えている。



これと逆のことを日本人は公共の教育の中で取り入れようとしているわけだから、なんとも下愚な行為にしか見えないわけだ。


ある人が真の国際人とは何か?という問いに対し、「自国の歴史、文化を正しく世界に伝えるだけの力がある人だ」と答えていた。



まさに冒頭で書いた「国とは母国語である」に繋がる話である。



そういった意味でも、私たちが今後、子孫に伝え、また学ばせるべき教育の根幹は、母国語(国語)であるのは明白である。



そしてその母国語をベースに、フェアーな歴史、文化、風土、道徳を学んでこそ、世界と戦える人材が多く誕生していくのではないのか。




当たり前の話であるが、国語力の無い人間は数学も物理も出来なければ、正しく自分の意志を相手に伝える事も出来ない。


またそういった人間は伝えたいことすらも思い浮かばないだろう。




あくまで英語教育は附則的に「自分の考えを伝えるための道具(手段)」として考えるべき問題で、根本的には母国語がベースにあっての話だということを決して忘れてはならないだろう。



さらにこの辺りを脳科学的にも説明してみたいと思う。



脳の中で言語に携わる器官は、大脳皮質にある言語野である。丁度頭頂部付近の脳だ。この言語野の脳波を言語別に調べてみると、英語も国語も、その他の言語もすべて同じ場所が使われていたのだ。



これは何が言いたいかと言えば、個人差はあるものの、その容量が覚える言語の種類が多ければ多いほど、一カ国語あたりで割られてしまうということだ。



仮に言語野の容量が1Lだとしよう。そうすると、英語と国語が500mLずつに割れれて使われてしまうことになる。言い換えると、英語を学ぶ事で、母国語(日本語)の理解度も下がってしまうというわけだ(結果、どちらも中途半端になってしまう)



せっかく我々日本人は、このような複雑な言語を受け継ぎ、それによって文化、歴史、経済などを育んできたにも関わらず、このような英語教育によって、その根幹を揺るがしてしまうというのは非常に残念なことである。



国とは母国語である。今一度私たちはその原点に立ち返って、子孫の教育に生かさなければならないと私は思うのである。




最後に、母国語が強い(母国語でほとんどの国民が生きていける)国は、国家としても強いということは、今の世界をみれば明白なる事実であるとだけ言っておく。